短歌の作り方  作歌上の注意  佐太郎歌論抄  作歌Q&A  仮名づかひ

 ◇短歌の約束   
 短歌は五七五七七といふ五句三十一音から出来てゐる詩です。
○ガレ―ジへトラツクひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり(斎藤茂吉)
といふ短歌では、「ガレ―ジへ」が五音で第一句、「トラツクひとつ」が七音で第二句、「入らむとす」が五音で第三句、「少しためらひ」が七音で第四句、「入りて行きたり」が七音で第五句、第五句は終りの句ですから結句ともいひます。またこの一つの作品を一首(俳句の場合は一句)といひます。
 短歌はこの形式にしたがつて作るべきものであります。このほかに難しい約束といふものはありません。言葉も自分の自由になる言葉でいいし、俳句のやうに季語を入れなければならないといふこともありません。
 短歌が日本古来からある詩形で、形式の約束があるといふことについて、古くさいやうに思ふ人もあるでせう。
 しかし、今日の日本の詩としていくらでも新しい内容を盛りこむ事が出来るばかりでなく、定形には定形の長所といふものがたくさんあります。
 短かい定形であることによつて作りたいと思ふ人であれば、青年壮年老年を問はず、誰でも作れるし、また日本語の詩としてすぐれた作品を産むことの出来る詩形であります。


 ◇何を歌に作るか
 短歌の形式がわかれば、指を折つて字数を数へながらでも、短歌を作ることが出来ます。しかし、ただ漫然と短歌を作らうとしても出来るものではありません。自分の見たこと、感じたことが短歌の内容でありますから、一首の短歌に表現してみたいといふものが先づなければなりません。それには植物でも動物でも風景でも、実際を見なければなりません。そして見たままを正直に素直に三十一字にすれば一首の短歌が出来るわけであります。
○いでて来し屋上に赤き旗たちて空のとほくに鳥がたゆたふ
 これは私の初期の作品ですが、かういふ状景は職場とかデパ―トのやうなところなどで、誰もが見てゐるでせう。屋上に赤い旗が立つてゐたから「屋上に赤き旗たちて」と言つたのですが、これが五七で第二句第三句に当ります。五音の第一句が無ければなりませんが、屋上のやうなところは何時も居るといふ場所とは違ひますから、「出でて来し」と言つて、これで一句から三句まで出来たことになります。その時街空の遠くに鳥が飛んでゐたので「空の遠くに鳥がたゆたふ」と言つて、これが七七で、第四句第五句に当り、これで一首の歌が完成したわけであります。「たゆたふ」は、ただよふと同じで、ゆらゆらと動いてゐることですが、かういふ古語は使つてもいいし、使はなくてもいいし、要するに自分の言葉で状態を現はせばいいのです。このやうに実際をありのままに、見たままを言ふことによつて一首の歌が出来ます。


 ◇自分の目で見る 
 物を見るには、固定した観念にとらはれず、先入見を持たずに、ありのままに見ることが大切です。自分だけの目で見るといふことが作歌の出発点であり、同時に到達点であります。しかし、自分だけの目で見るといふことは易しいやうで、実はなかなか難しいのです。常に注意して、ありのままに、直接に見るといふことを追求してゆくのが作歌の道であります。
○春彼岸の寒き一日ひとひをとほく行く者のごとくにちまたを徒歩す(斎藤茂吉)
 たとへばこの歌で「春彼岸の寒き一日」と言つてゐますが、春彼岸は即ち春分の日で、俗に暑い寒いも彼岸までといふやうに、春の彼岸といへば日光も豊かになり、暖いといふのが常識です。ところが実際は彼岸になつても寒い日があることもあります。常識にとらはれずに寒ければ寒いと素直に感じるのが、自分の目で見るといふことであります。
 この歌は、彼岸になつてなんとなく心も軽くなつたやうな気持で、元気よく街を歩いてゐるといふので、季節の移り替りに敏感に反応する作者の生活といふものが出てゐますが、それは「春彼岸の寒き一日を」といふ、常識とはくひちがふやうな実際を言ふことによつて、かへつて実感が出たといふ結果になつてゐます。
 自分の目で物を見ることの意義がどんなに重要だかといふことがわかるでせう。


 ◇作歌の実際
 自分の目で見れば、そこにおもしろいと感じるものを発見することが出来ます。それを単純に、しかも具体的に、短歌の形式にしたがつて言ふのが作歌であります。
一夜ひとよねて吾のめざめし朝明けに焼岳が日に照らされてゐる
 これは昭和二十九年の秋に上高地に遊んだ時の私の歌で、梓川のほとりにとまつて翌朝早く川原に出て、焼岳を見た歌であります。焼岳はいかにも火山らしい熔岩だけの山ですが、そこにいちはやく朝日があたつてゐるのは、華やかでしかも静かで、寂しいやうな気持もする状景ですが、これも自然のきびしい姿の一つだと思つて私は感動したのでした。
 私はその時「朝日に照らされた焼岳」と手帳にメモして、東京に帰つてから歌に作つたのです。私は先づ主要な部分を「焼岳が日に照らされてゐる」といふ言葉にしてみました。これは七七で、短歌の第四句第五句に当ります。単に「日」といつても昼の日か、朝日か、夕日か、いろいろですが、この場合早朝である事を言ふ必要があるので「朝明けに」と五音の第三句を上に附けて、これで、見たところを単純にそのままに言つたことになります。併し一二句がまだ無いので、五七の一二句を附け足すことにして、一首の歌が出来あがったのであります。このやうに、歌は必ずその場で作らなければならぬといふものでもなく、また第一句から作りはじめなければならぬといふものでもなく、余計な説明をする必要もなく、ただ自分の見ておもしろいと思つたところを、そのまま素直に言ふのがいいのであります。そして字数を数へながら形式にあてはめて、一首にまとめるのであります。


 ◇言葉について
 いふまでもないことですが、短歌は詩として言葉を表現の手段としますから、言葉について苦辛するところがなければなりません。私ははじめに「言葉も自分の自由になる言葉でいい」といふことを言ひましたが、短歌だからといつて殊更に飾つた言ひかたをしたり、現代人に耳遠くなつてゐる雅語を探して来てくつつけたりする必要はありません。しかし、物を確かに言ひ当てるために、また簡潔に言ふために、言葉をより分けて選ぶ努力が必要であります。一つの事を言ふのに、唯一つの言葉があるのではなく、実は幾通りにも言ふことが出来ます。幾通りもある言葉の中から最も確かな言葉をより分けて使ふのが短歌の表現であります。
 短歌は詩形のうへからも、簡潔な圧縮された表現を求めます。そのために、大体は文語によって一首が成立つ場合が多いのですが、その文語も「自分の自由になる」程度でいいので、殊更古めかしい言ひ方をする必要はありません。緊張した簡潔な表現であれば口語でもかまひません。
最上川逆白波もがみがは さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも(斎藤茂吉)
 これは茂吉晩年の傑作ですが、「けるかも」といふ感動詞は現在の私どもでは使へませんから使はなくともいいのですが、これも日本語ですから、皆さんが将来大歌人となつて使ひたければ使つてもいい言葉です。「ゆふべ」は「夕」で、「夕方」「日暮」「たそがれ」などいろいろ使ひ分けることが出来ます。「逆白波」は白い逆波を、圧縮した造語であります。短歌の言葉についてこの一首からいろいろな暗示をくみ取ることが出来ます。


◇修練
 自分の目で見たままを自分の自由になる言葉で現はせばいいのですが、その自由になる言葉といふものは、努力によつて習得されますから、おひおひに豊富になつて行きます。言葉が豊富になれば表現も自在になります。何事もさうですが、短歌でもやはり修練を積み重ねて進歩してゆくのであります。
 修練は、実際に作るといふことが第一であります。次にすぐれた作品を読んで学ぶことが必要であります。すぐれた作から学ぶことをしなかつたらいつまでたつてもひとりよがりの程度をぬけ出ることが出来ません。作歌の楽しみも低いところで終つては残念ですから、或る程度の努力をして勉強するやうにしたいものです。
すぐれた歌は、万葉集以来たくさんありますが、間口を広く読むよりも狭くともよいから深く読むのが勉強になります。例へば斎藤茂吉といふやうな人の作を何度もくりかへして読むのが有益であります。
 すぐれた作品を読むことによつて、物の見方を悟ることが出来ます。また、短歌の調子といふものを悟ることが出来ます。調子は理屈でどうかう言つてもわかるものではありません。何度も読むことによつて胸で感じとることができるでせう。さういふ努力によつて、つまり、作歌と並行してすぐれたものを読み、読んで得たものを作歌に実行するといふ努力を積み重ねて、物の状態を確実に言ひ当てた歌、輝きと響とに満ちた歌が出来るやうになります。