佐藤佐太郎の著作などから、作歌に大切な歌論を抜粋しました。出典は各項目の末尾に次の略語で示してゐます。
「純粋短歌」……………〔純〕
「短歌指導」……………〔指〕
「短歌作者への助言」…〔助〕
「作歌の足跡」…………〔跡〕
「及辰園往来」…………〔往〕
「茂吉秀歌」……………〔秀〕
◇作歌真
□眼に見えるものを見て、輝と響をとらへ、
◇作歌新後語
□歌は意図ある如く、意図なき如くにして成る。而して作者の影あるを要す。
□言葉に境涯の影あり、影に境涯の声ある如くせよ。歌は単純にして貫徹するを要す。
□歌は瞬間と断片とをとらへその声を長くすべし。
□作歌日々に読者あり、読者の声の聞こゆるは作歌者の幸也。
□歌人は言葉を求めて火を切る如くすべし。
□確かに見る時眼開き、ゆるやかに言ふ時確かになる。
□歌は詠歎の声としてまづ聞こえ、作歌中その声やまず。
□言葉はおのづから続くやうにして続くべし。意識して音楽的効果などなし。
□言葉にひびきあるは作歌の第一条件なり。
□盗名不如盗貨といふ。実なく名あらはるるは恥づべし。自ら信ずる所を以て貫くべし。
□言葉ながく言ふは意識になし。只真実を言ひあてんのみ。
□散歩毎日、同じものを見、同じ音を聞いて心にひびくものは十日に一つほどなり。頭衰へてかくの如し。見るは難きかな。
□詩の感受はひらめきなり。然れども見るには修錬が必要也。
□故を以て新をなすのが詩である。二つの間に関係づけるのは詩の手法である。
□多くを言はないのが短歌の表現である。
□表現は巧みを弄さずに巧みなのがいい。
□表現において力をこめれば言葉は充実する。
□人情が表面に出ては歌は通俗になる。
□物を見るにこれで終といふ極致はない。
□どういふ実際を表現しても人に不快を感じさせてはならない。
□何故であるかといふ所まで思ふのも見る働きである。
□絶対の創意などは有り得ない。敬虔でなければならぬ。
□偶然の素材だが、その意味をとらへるのは力である。
□作歌は見ることだといふこと、言葉のひびきに更に遠韻が添はなければならぬ。
歌 論 抄
◇内 容
□短歌の内容は如何にも短簡で一瞬一断片に過ぎないけれども、この一瞬一断片はそのまま事物の根底を把握し、永遠につながるものであるところの重量に充ちたものである事である〔純〕。
□雲の影のやうに胸中に去来し、過ぎてしまへば何の跡形もないやうな感情といふものは、はかないといへばはかないものである。そして詩はかういふはかないものを表現の対象とするのである〔純〕。
□詩は現象的な事件的な複雑さを追ふものではない。さういふものをどんどん捨てて、単純に無くてはならぬものだけを感動の本体とするものである〔純〕。
□感動・情緒は空に馮つて動くものではなく必ず対象に応じて動くものであり、それであるから対象を観るといふことの中に感動があるので、観る事なくして感動は成立たない〔純〕。
□詩の感動は証明されないもの、詩の重量といふものは計量されないものである事を忘れてはならない〔純〕。
□個に即していふのが思想を生かす抒情詩の機微である〔秀〕。
□蘇東坡はある人の詩を批評して「美あつて
◇見 方
□詩はどこまで進んでも耳から絶縁することはないやうに思へる。聞くやうに見るといふ働きは作歌時における真実ではないだらうか〔純〕。
□私は形あるものを執拗に観ることによつて、形のない対象をも見る事が出来るものだと思つてゐる〔純〕。
□私たちは聞くやうに観、見るやうに聞いてゐる〔純〕。
□たとひ一首のどこかに欠点があつても、光つたところのあるのがいい。その一つは自身の眼で発見した実質といふ事である〔純〕。
□真実といふものは顕れてゐるものだが而も観難いものである〔純〕。
□これは空想によつて、予定された構図によつて出来た歌ではない。ものを見る眼が敬虔に透徹してゐるために見えたものである〔秀〕。
□「春の雲かたよりゆきし」も「雁しづまりぬ」も事実だが、二つのものを結合せしめたのは作者の直観である。かういふのが秩序の発見といふものだらう〔秀〕。
□つまりは現実のひとつの解釈だが、ゲーテが詩人は自然の最も貴い解釈者だといつた意味においてさういつてもいい。外貌は解釈だが実は鋭く深い直観である〔秀〕。
□見えるものを見るのが見るといふものだが、見えないものを見るのが、ほんたうの見るといふ働きである〔秀〕。
◇表 現
□一首の歌の形が短く、内容が単純だといふのは、短歌の弱点であるかのやうに批評家が云ひ、短歌作者自身でもさう思つてゐるものがある。しかしこれは決して短歌の欠点弱所ではない。純粋の詩はさうであるべきものであり、単純といふ事は「やせた簡単」ではない〔純〕。
□すべての表現は限定しようとする働きであり、結晶しようとする意志を持つてゐる〔純〕。
□詠歎は流露すべきものであるが、しかしこれを幾度にも堰き止めて水位を高めなければならない〔純〕。
□短歌は純粋な形においては、現実を空間的には「断片」として限定し、時間的には「瞬間」として限定する形式である、断片の中に秩序を籠め、瞬間の中に永遠を籠めて、現実を限定するのが短歌である〔純〕。
□「どのやうに作るか」といふのは、短歌を作りながら、工夫して行くことである〔指〕。
□言葉は美しく飾りすぎてゐないか、つまらぬ理屈を言つてゐないかといふことを常にかへりみて、率直な表現にむかつて努力を集中していただきたいものだ〔指〕。
□習熟することは一つの力量だが、その習熟をあへてふり捨てるだけの勇気をもつて、一回性の経験、一回性の言語として一首があるといふ方向に行くのが本当である〔助〕。
□充実して生気がみなぎりながらしかものろいもの言ひが短歌では要求される〔助〕。
□青年には青年の境地があり、壮年には壮年の境地があり、老年には老年の境地がある。境涯に即して地金を出すのが作歌である〔助〕。
□わたくしたちは、巧みである事よりも確かである事を要求する。けれどもその正確さは強調と変型とを拒否するものではない〔助〕。
□省略がゆるされるのが韻文であり、韻文だから省略するのでもあるが、定型を守るために窮屈な省略をするのではなく、のびのびといつて、おのづから言葉に規矩があるのがいい〔秀〕。
□現実はどのやうな情景でも、言葉が確かで生きてゐれば美しい〔秀〕。
□あらためて「われに」といふ一語に注意するが、「われ」といふ語の必要なのが短歌の表現である〔秀〕。
□平凡のやうだが、かく順当には平凡な歌人にはかへつていえない〔秀〕。
□堂々としてゐるのが、傑作の一つの条件である〔秀〕。
□あるときは切実に、強烈に、あるときは太く大きく、またあるときは微かに、鋭く、すべて生に即して直接に詠歎しようとしたので、これが抒情詩としての短歌だ〔秀〕。
□大晦日の夜を病院で送るなどといふことは私の一生のうちこれからもしばしばあることではあるまい。私はこれもめぐりあはせだといふ気持で窓外の闇空を見、にぶい街音を聞いてゐたのであつた。入院などといふことは幸福なことではない。しかしふだん経験することのできない経験をするのは、また不幸なことでもあるまい〔跡〕。
□詩の表現は大切なものだけを言ふのだが、言つても言はなくてもいいやうなことを言ふのも詩の表現である〔跡〕。
□感想だけでは歌にならない。言ひかたに味ひがなければ歌にならない〔跡〕。
◇写 生
□芸術にとつて「写実」は母なる大地である〔純〕。
□感動の個性・具体性といふものは実相に即く事によつてのみ表現する事が可能なので、ここに写生が立脚する〔純〕。
□作歌に際して直接の態度を徹底せしめようとするのが「写生」の立場である〔純〕。
□写生が生命の表現であるといふのは、短歌の真髄であるばかりでなく、広く芸術と言ふものがさうでなければならぬものである〔純〕。
□私達は更にこの小現実に徹底して真実を求めてよいのである〔純〕。
□短歌の作品が一つの直観像として具象的なものでありながら、意味に充ちてゐる時その作品は象徴的である〔純〕。
□実際問題として、空想で、経験もしないことを操作してみても、大切なものがひとつ欠けてゐるから生命のある作はできない〔指〕。
□現実はもともと深遠で美しいものだと斎藤茂吉も言つているが、この現実の前にへりくだつて立つ態度が「写生」の特色だといひたい〔指〕。
□どういふ逆境にあつてもそれを視つめる事によつて力が湧いてくるのではあるまいか。若し写生の効能のやうなものがあるなら、さういふところにあるといつてもよいだらう〔助〕。
□自然は意味なきものの意味に充ちてゐるが日常のめづらしくもない
□詩の真実は、事実そのままといふ事ではなく、事実にしばられてゐるものでもない。それにもかかはらず、吾々が事実を尊重し、実際に即くことを根本の態度とするのは、詩は体験の声を表白すべきものだからである〔純〕。
◇言 葉
□詩の言葉は血の脈動が感ぜられ、それでゐて的確なものでなければならない〔純〕。
□言葉の美醜については、美しい言葉といふのは生きた言葉である。例へば新たに鋳型を出た鉄のやうに、水のしたたる海草のやうに瑞々しく新鮮に輝いてゐるのは美しい言葉である〔純〕。
□本来符号である言葉の中から殆ど本質的に生きた言葉を感じ、言葉の感情を計るのが語感である〔純〕。
□造語のやうなものも実はむづかしくて容易にできるものではないし、造語してみても良くない造語では意味がない。けれども、造語でもしようかといふ意気ごみはあつて欲しい〔助〕。
□言葉を内部から産むやうにして苦心するならその言葉は生きてくるだらう〔助〕。
□詩の言葉にはもともと修飾性のあることを知つてゐる〔秀〕。
□詩の言葉はときに散文的合理性から逸脱する場合がある〔秀〕。
□型で行くのではなく、その都度に全力を注いでゐるから言葉が生きるのである〔秀〕。
◇調 子
□私達は純粋な詩としての短歌がどういふ声調を具備しなければならぬかといふ自身の問題を追及して「万葉調」に落ち着くのである〔純〕。
□一首の歌から感ぜられる響きは私の立場からいへば、言葉から立つ炎のやうなものだといつてもよいので、それは発音の音と同一のものではない〔純〕。
□短歌の声調は意味・内容の要素をも籠めて、一首全体として受け取られるべきものである〔純〕。
□その言葉から感ぜられる響きは聞こえるやうな見えるやうな触れうるやうなものである〔純〕。
□語気は言葉の個性であり、詩の言葉は語感を単位として語気に総和されてゐるものである〔純〕。
□吾々はどこまでも「言葉のひびき」といふものを生命とするから、「色や光や力」をも「ひびき」の中に籠めようとするのだといてつもいい〔指〕。
□どんなに新しくなつても、言葉には、「詠歎」としての語気がこもらなければ、歌としては成功したことにはならない〔指〕。
□第ニ句で切れる場合も、第三句、第四句で切れる場合もあるが、さういふ句切れによつて調子が出る。また、休止があつても、一首全体として連続の調子がある〔指〕。
□このあたりの歌にみな沁み徹るやうな哀韻があるが、この歌にしてもなぜさうなのか私にはよくわからない。たぶん計らひなく実際を写したためであらう〔秀〕。
□一語一語が収まるやうに収まつて、結句に来て全体が再び共鳴するやうな、言葉のひびきといふものはたいしたものである〔秀〕。
□短歌の魅力は、つきつめれば言葉のひびきにある〔秀〕。
□短歌において「ひびき」は、言葉のみでなく、一首の思想や形態から感じられる〔秀〕。
□短歌はその時、その人でなければならないといふ息吹きをこめねばならぬ〔指〕。
◇態 度
□私たちは間接な総てのはからひを去って直接の態度に立つて、健康に、真剣に、堂々と現実に対はなければならない〔純〕。
□直接端的の態度があつて初めて万葉調に限りない同感と共鳴とを感じ得るのである〔純〕。
□森鴎外の「杯」といふ小説に出てくる少女のやうに、小さくても、まづしくても、自身の杯で泉を汲むといふゆきかたがいい〔指〕。
□われわれは初途においては模倣を恐れずに傾倒して学ぶのがいい。その学ぶ対象は茂吉をおいて他にない〔助〕。
□「写生」といふことはつきつめれば物を正確に直接に見るといふことである。他人の借物でなしに自分の眼で現実を見るといふことである。この態度は作歌の根本であるが、私においては生活を統べる態度でもある〔助〕。
□禅と短歌とは同じではないが、論理を越えて悟入するところがなければならないのは似てゐる〔助〕。
□短歌に対する問題や疑問が、波のやうに立ち寄せては収まるといふことをくりかへして、結局短歌をやめずにきた。それはなぜかといふことを考へると、理由はいろいろあるが、短歌が好きで、短歌のやうなものにむく傾向をもった人間だといふことがあるだらう〔助〕。
□短歌のやうなものは、個性の所産であるから、一人一人の覚悟と努力によつて進歩するものだが、個性を探求し、個性を成長せしめるためには、結社とか流派とかいふものが大きな役割を果たすのである〔助〕。
□作歌のやうな創作活動はどんな初歩でもすべて自分の力でやるもので、他から教へられて作るものではない。それだから、後進が先進に学ぶのも、自分の力で学ぶのである〔助〕。
□短歌のやうなものは所詮は「小芸術」であるだらう。そのことを承知しながら、さげすむことなく、またおごることなく努力を継続して行くのが私達の立場である〔助〕。
□歌を理づめでなく、ひびきに酔ふやうに気力をこめてゐる〔秀〕。
□自然の機微を見る者は敬虔になる〔跡〕。
◇新しさ
□詩は変化する事によつて、新しいのではなく、真実の「発見」によつて新しいのである〔純〕。
□真の新しさは見られる対象(素材)にあるのではなく、見る主体にあるのである。見られるものにある新しさは失はれる新しさであるが、主体を通して見られた新しさは失はれる事のない新しさである〔純〕。
□かつて証明されなかつたものを照らし、かつて聞かれなかつたものを聞くのは詩の特徴としての発見である〔純〕。
□修錬が力量を育てて行く。それゆゑ短歌の世界においては突如として多力な新人は現れ得ない〔純〕。
□素材の新しさは慨して興味的になり皮相的に陥りやすい〔純〕。
□私たちは「真実」だけを追求すべきである。アイロニ―を交へない辛辣さで真実を求めて進みたい。個性的とか独創的とか象徴的とかいふものは向うから来る〔助〕。
□この歌の感銘は新しい古いといふ境をこえてゐる。わづらはしい意味合ひがないだけに純粋に情感がしみわたつてくる。かういふものを第一等の短歌といふのだらう〔秀〕。
◇詩 性
□短歌などは所詮は「自分自身との会話」に終始すべきもののやうに思はれてならない。これはどうともしようのない事実であり、抒情詩は自分自身の声を表出するものであつて、それが孤独に終らないのは人間に共通した無くては叶はぬものがあるからであらう〔純〕。
□たとひ他に対して語る場合であつても、詩は自らのみに仕へる感情であり、自らのための言葉でなければならない〔純〕。
□詩は火における炎、空における風のごときものである〔純〕。
□赤熱された鉄から焔が立つやうに、私たちの生活が一度は火を潜つて鍛えられなければそれは「詩」といふものではない〔純〕。
□眼前にないものについてこのやうな感想を起こすのは、いはば「虚」であるが、実を見て虚を行ふのが詩の味はひである〔秀〕。
□歌が出来ると、窓に見る辛夷の莟はただ明るいだけでそこには悲しさはなかつた。作歌が解毒の作用をするのは抒情詩の原理だが、これほどはつきりした、憑き物がおちたやうな経験はさうしばしばあるものではない〔往〕。
□詩には「遊び」の要素が必ずあるものだが、それは適度でなければならない。詩に遊びがなければ味ひがなくなるし、遊びが多すぎれば第二義的になる。これは虚と実の関係として説明することも出来る。短歌などでも、言葉は最短距離をはしるのだが、そのなかにやはり「遊び」がなければ味ひがない。しかし遊びが多過ぎればまた空虚になる。虚と実とのかねあひは理屈では割切れない。割切れないところに詩の味はいがあるといつてもいい〔往〕。
□短歌もまた短歌として第一流の作品であればよい。それだから詩形によって「第一芸術」とか「第二芸術」とかいふのは議論として成り立たないものであり、第一流の芸術、第二流の芸術といふものはあるが、それは詩形によつて分かれるのではなく、個々の作品によつて価値が分かれるのである〔純〕。