斎藤茂吉    佐藤佐太郎    佐藤志満 

    佐藤志満百首



 草の上


負ひゆかん悲しみゆゑに乱るれど幼子はかく吾にまつはる


愁ひなきいまのうつつか遠くまで水底見えてうみに降る雨


幕開きし舞台のごとくにはかなる空の夕映雨やみしかば


嘗てわが苦しみ飼ひし雛のこゑ幻聴としてよひきこゆる



 
水 辺


ためらひのなきさまにして葦の間にみちしほどきなわながるる


こもりたる光のごとくすがしくて水芭蕉さく流のほとり


つづけざまに立つ稲妻にいくたびもひとつの山のかたちあらはる


人間にかかはらぬゆゑ単純の楽しみとして花の種をまく


物語などのつづきを聞くごとく娘の家にをりをりに行く


あからさまにめぐりの砂の明るくて頂上湖あり青きかざなみ


さながらに海はとどろきの中にありおりのひろき浜の海音



 
渚 花


られしと思ひ帰りし金入が家にありかかる安けさあはれ


十日あまり娘と住めばその夫の帰りをぞ待つ娘とともに


ひろびろとつづく丘畑のうへ朱し朝やけてゐる雲の反映


湖の方より移る風のおと樹海に入りてその音長し


砂のいろおぼろとなりてくれぐれの砂漠は寂し遠き夕映


デパ―トに来るたびに見る食堂にひとり飯くふ老人多し


朝々に来る幼子を待つごとくめざめてをれば幼子きたる


蜜柑畑めぐれる道をのぼりゆく山の匂は蜜柑の匂


飛行機にみゆる雲のなか虹たちてその下の海雨ふりそそぐ


さしあたり憂なければ底ごもる常の悲しみよみがへるらし


くもりよりさせる光にペンギンは胸かがやきて水より上がる


とびあがり魚を喰ひし大きいるか自らの重みにしばらく沈む


疾風はやち吹く空夕映えて磯波のしづまりがたき浜に出で来つ



 
白 夜


あらはなる生活のさま見つつゆく富むも貧しきも水につながる


砂糖黍売る少年もこの水にまぬがれがたき一生ひとよ送らん


夜もすがら山の林にただよひし霧あかつきとなりて雫す


うちつづく砂漠のなかにひとところ木立あるらしその上の雲


北極海を見下す台地風さむし石をひろへば石に霜あり


霧に濡るる岬の土に淡紅の苔の花咲く白夜明るく


当然のことわりにして寂びしけれ人の老醜は貌のみならず


わが老と共に身辺の人老ゆる慰むごとく悲しきごとく


雷鳴のとどろくときにわが躰軽くなりつつ夜半にめざむる


いちめんに海をとざしてしづかなる流氷の上ふぶき立つ見ゆ


貧しさにしひたげられし人の顔母に抱かるる幼児さへもつ


道のべによすがなく立つ老いし驢馬用なくなりて捨てられしもの



 
花 影


包みゐし勢はじくといふ形辛夷ひらくは或る日ひととき


入りてゆく山明るきはゴムの木の幹高きため並ぶゴムの木


淡き影さくら花さく道にありしばらくこの世楽しといはめ


夜の床に疲れしからだ眠らんに眠らんとして更に疲るる


肉眼に見ゆべき星はことごとく見ゆるか小木の海の星空


一夜にて疲れのとるる年ならずからだ冷たく暁に覚む



 
立 秋


いくたびも返花咲く木蓮のすぎてやうやく秋日となりつ


夕畑にゐる鶴のむれ首立ててしづかにゐるは腹満ちしもの


満月の光をくだきてもの悲し夜も波立つ長江の水


いたましき病人として八ヶ月死にたかりけん生きたかりけん


夜すがらにまなこ見開きゐしといふ死の前なにを思ひをりけん


死顔にかわきて残る涙のあと拭きつつわれの涙とどまらず


まばたきさへなし得ぬ夫がひたすらにわれを見つめき耐へがたかりし


帰らんとするわが顔をまなこみはりただに見てゐき死の前日に


いま暫し居よといふがに見つめゐき次の日行きてその命なし


明日はなき命としらず帰りしを一生の罪として負ひゆかん


使ふこと無けんと言ひて持ちゆきし夫の財布死の床にあり


街なかに蝉鳴く聞こえ暑き道命果てたる夫と帰る
   (「蝉」は原作では正字体)


一日だに怒らぬことのなかりしが五尺ばかり腸の長かりしとぞ


やうやくに判読し得し夫の文字「お母さんは大変だらうな」



 
身 辺


屈託なく子の出でゆけば悲しみを育むごとくひとり籠れる


惜しけれど夫の日記焼かんとすわれに托しし心思ひて


近づけば枝垂桜は動く枝動かぬ枝のありてしづけし


おのおのの雲の形の崩れつつ夕べの光遠ざかりゆく


病院のために費やす一日惜し老を癒さん薬もなけん


ひとつ雲抜け終りたる夕つ日が暑さ送り来蛇崩道に


「窓外に咲く草花に夕日さす」死の前年に日記終れる


弱き躰もて余しつつ生き来しが生きて寂しき齢となりつ


夫の詠みし花つぎつぎに咲く見れば蛇崩悲し三月四月


幼き日父の歌ひし明治唱歌未だに意味のわからず歌ふ


ひとつ過誤発端として今われは悔まんために生きゐるごとし


身辺を片づくるなく日々逝けばつねに債務を負ふごとくゐる


ウイルスがコンピュ―タ―を汚染するなど理解を超えし犯罪


海のうへ吹く疾風と思へども山の方より潮騒きこゆ


夜の道に光る雨踏み帰らんよ待つ人なしといへどわが家


いくたびも映像に見る湾岸の戦あめのふる場面なし


さしあたり平和たもてば宇宙より日本人の声届きくる


碑にかすけき雲の映るまで高原の空晴れわたりたり



 
小 庭


台風の来れるか否かあいまいに位置移り吹く日すがらの風


野牡丹の花のむらさきこよなきに確実に散る一日の夕べ


自らに温まる力なきからだ春の夜寒に覚めて眠れず


ひたすらに乾きて固き都市の土茎なきごとく蒲公英が咲く


一日に一度は必ずもの探す探す時間も残年のうち


たは易く宇宙より人帰り来てこころ安けくゐたり数日


なじみなき地名を今日も聞くものか小国あまた独立しつつ


海の空かたくなに形保ちゐし白雲ひとつ夕映えんとす


朝顔の支柱立つるを怠れば咲くべき花は地を這ひて咲く


この庭にまぶしかりにし海光がいま篁のうへにしづけし


入りつ日を追ふがごとくに岬山の夕映に入る鳶も鴉も


 
雨 水


死の準備せねばと思ひゐたりしが今日さしあたり歯医者に行かん


今日一日曇りゐし空夕ぐれてほぐるるごとく茜ひろがる


目のくらむごとき夕日に遭ひしかど一樹の陰をゆく間に淡し


一葉一葉こよなき光かがよひて柿の若葉は風待つごとし


怠者を厭ひしわれがこの日頃何もしたくなし老いたるかなや


咲く力散る力さへなき桜寒のもどりの雨にぬれつつ


蝶にても炎暑に中ることありやわが庭に来ずこの二三日


青山より渋谷が直に見えたりき瓦礫の中にわれら貧しく


一人にて暮らす限界いつならん思ひ切なく今日もゐたりき


一木立つ杏の花は雨止みて雲の明暗さながらに照る


季遅く買ひて来りし茄子の苗植ゑんとすればあはれ実をもつ


人間に楽しき晩年などなけんその晩年にわれはなりをり



 
雨水以後


暁の一瞬なれどあはれあはれ夫亡きこと忘れてゐたり


からだ懈く籠りてをれば顧みて日を遣るのみに生きゐる如し


思ひ悩むこと身辺に未だあり耄碌せざる証のごとく