〔歩道賞 一覧(S36~H14) 一覧(H15以降) 作品 S36~49 S50~59 S60~63 H元~14年  

2023(令和5)年度 歩道賞受賞作    

   田植の季節      樫井 礼子
         
雪雲のおほふ山麓秋耕の済みたる田にて虫が鳴きゐる
いよいよに雪積む白馬の山々がとほくに光り一日の清し
午後の日に雲のひらけて新雪の積む常念岳白き嶺顕つ
この冬はラ二ー二ヤ現象起こるとぞ明け方吹雪きわが窓白し
遭難者の捜索するとふ白馬の雪嶺けふは晴れてかがやく
遭難者見つからぬまま話題より消ゆバツクカントリー遭難つづけば
真冬日のマイナス五度の夕つ方堅き音して電車の過ぐる
氷点下のひと日が過ぎん雪おほふ夕べの田畑に鳥の見えざる
灰撒きて凍れる道をととのふる家の脇道感謝し通る
常念の雪嶺の白翳るころ金星木星ひかり増しくる
わが庭に二月の満月照りわたり桜の冬木の布く影あらは
雪の消え春一番の吹く庭に山鳩ひよどり頻りついばむ
三月の田に群れ啄む鴉らの無心のかたちいたいたしけれ
わがかって住みたる町に影なして発電風車の増えて回れる
春凪の犬吠の海沖をゆく貨物船より音わたり来る
十二年前に津波の押し寄せし外川漁港にやはき波音
ここに住み被災せし日の戦慄を友の語ればつつしみて聞く
底ごもる音に覚むれば出港を待つ漁船団まばゆき光
午前九時つぎつぎ漁港に帰り来る白き船体日に光りつつ
対岸に灯の華やかに瞬くは諏訪湖のうへに蒸気立つらん
対岸の色ある街の灯映えてゐる諏訪湖に月の光しづけし
中空の月の照りゐるみづうみに光は長し神渡のごと
わが窓に近く桜の満ちて咲く影ものものし満月の下
をりをりに桜の花びら落ち来るはひよどりのゐて蜜吸ひ移る
夜の更けの庭に風の音聞こえ咲きゐる桜を案じて眠る
快晴にそびゆる白馬の雪嶺は黄砂におほはれその白おぼろ
山峡に音なく風の過ぐるときたまゆら湖を吹く痕が見ゆ
この春は常念坊の雪形のはやばや消えて田植始まる
安曇野は田植の季節犀川より引かるる水路ゆたかに流る
長雨にしとどに濡れて稔る穂の朱のあざやかに麦畑続く



歩道賞候補作


   卓袱台        青木伊都子

入りて来し古書店の香に亡き父と本を探しし日々よみがへる
こころざし半ばなれども国敗れ引き揚げし父無念なりけん
父母若く我ら幼く荒川の土手に蓬を摘みし日ゆかし
ウクライナの惨状知れば幼連れ引き揚げて来し父母を重ぬる
いつの世も一生を狂はす戦争ぞ未だロシアの侵攻つづく
亡き父母を悼みて繰りしアルバムの逢ひたき人はなべて逝きたり
コロナゆゑ帰郷かなはず三年過ぐ墓は今ごろ藤の咲くらん
わが庭に亭々と立つ泰山木この花好みし父の忌近し
父逝きて四半世紀か墓にゆく花梨の並木幹太くなる
十年前兄建て替へしわが生家ふるさと遠し父母こひし

   田園日々       伊藤 淑子

種籾を水に浸しし夜の雪を語りをりしがいつしか眠る
手術経て出稼ぎやめし夫の日々今日はハウスの草を引きゐる
乾きたる風に吹かれて聞こえ来るうねりのごとき春耕の音
午後の日に照り返る水動かして苗を補ふ植田のにほひ
雲間より暑き日のさす菊畑植ゑて十日の苗健やけし
疫病に感染したる子の電話思ひつつゆく花市場まで
長雨に軟弱なりしわが稲のやうやく稔る穂波のひかり
作業場のつづきに納屋を建つるとふ夫は図面を楽しみて書く
角材をきざむ槌音響きをり心足らひてその音を聞く
木のにほひ清しき納屋に神酒を振る夫のあとにわれも従ふ

   小樽の町       上野 千里

をちこちの厩舎かがやき草光り馬を飼ひゐる日高のあたり
通り来る道のかたはらいづこにも蕗と虎杖勢ひしげる
海ちかき丘に風力発電のプロペラ廻る霧にかすみて
まなしたの波のうねりに海豹の黒き体がときをり浮かぶ
遠く来て襟裳岬の突端にたてば目のまへ海鳥の飛ぶ
おぼろなる過去をたどりて詰草の咲く道のぼる夫とともに
下りつつふり返り見る家の跡青き芝生に夕光およぶ
夕暮の小樽の町にバスを待つ海のしづけさ心にしむる
日に光り紅きはだつ橡の花余市の町のいづこにも咲く
こころ満ち夫とわれは空港に搭乗を待つ麦酒飲みつつ

   姫沙羅の花      浦 靖子

いささかの不安と期待いだきつつ残生託さん施設にうつる
入居して心許なく居る部屋に見えて清やけし姫沙羅の花
遺影なる夫と息子に声かけて施設のわれのひと日始まる
紫陽花の藍は愁ひを誘ふか今日生日の息子を偲ぶ
おのおのに孤独抱ふるおいびとにコロナ禍きびし互みに避けて
五年来ぬ間にわが足の衰へて父祖の寺坂やうやく登る
長雨と残暑も浚ひゆきにしか台風すぎてにはか秋づく
高層のビル遮ぎりて狭き空蝕終へし月満ちてかがやく
コロナ禍の下火となりて入居者の集ふゲームに施設明るし
おいびとの孤独を籠めて静まれる施設を照らすきさらぎの月

   湯たんぽ       佐々木利子

黒ずみし切口に触れ在りし日に剪定しゐし夫を思ふ
亡き夫の為しゐし如く植ゑ終へし田尻に板当て水位定むる
夕間ぐれ一斉に鳴く蛙の声田植の近き峡にあふるる
亡き夫の影をもとめて啼く猫の後を追ひつつ涙あふるる
老木の椿の花を好みゐし亡夫を思ひ落花をぞ掃く
網戸透し部屋に聞こゆる鈴虫の声さへ侘し一人の部屋に
集落の空を回りて鳴き交はし白鳥七羽帰りゆくらし
病床の夫を温めし湯たんぽにわが身を寄せて眠らんとする
亡夫あらば何如に喜ぶことならんこの年の稲豊かに稔る
ふたたびは見ることのなき皆既蝕天王星の影ともに見つ

   川のほとり      故 佐保田芳訓

肺癌の検診日にて一時間冬の日の照る高速路ゆく
立春の雪降りしきる多摩川の堤をゆきて思ひはるけし
隣室にいくたび咳こむ妻の声聞こえ癒えがたき病ひと思ふ
抗癌剤飲みつづけたるみづからは頭髪うすくなりたる哀れ
桜散る川のほとりをゆくときに雪かづく富士遠くに見ゆる
五月晴の光まばゆくビル間の風に吹かれてひととき憩ふ
多摩川の対岸にある社にていくたび祭太鼓ひびき来
妻とわれ互みに癌を患ひて日々飲む薬に命をたもつ
五百本の桜の樹々が葉桜となりて重々と堤につづく
とりとめし命と思ひ今年またアカシアの咲く木下を歩む

   これから       清宮 紀子

受け入れを八回拒否されわれの乗る救急車やうやく病院に着く
病室に短歌を詠めば全身の倦怠感をしばらく忘る
五か月の内に二度目の手術受くかかる試練を諾ひて生く
階段の昇り降りなどリハビリに取り入れひたすら退院を待つ
ひと月の入院生活終へし朝薄くルージユを差して待ちをり
病癒え家に帰れば新顔の子猫のをりて身構へをする
亡き父母に背筋を伸ばし退院の報告をする涙を見せず
要介護一の認定受けしわれおどおどとして説明を受く
朝夕に飲みし薬のせゐならん罪のごとくに紫斑を眺む
これからの未来は可もあり不可もありすべて受け入れ生きてゆきたし

   世田谷にて      戸田 民子

世田谷に半世紀余を住みなれて庭木の柿とともに老いたり
隣人と茶を飲み睦みし日の遠くいくたりの友施設に暮らす
茶房より見ゆるわが街おほかたは老人にして杖つき歩む
任期終へ帰国せし子は六十となりてはやくも退職となる
笑ひ声絶ゆることなきけふの居間をみな三人の孫の訪ひ来て
久々に子らとの外食楽しめば註文の品ロボツト持ち来
まみえたることなき師をば偲びつつ黄月忌のけふ黙禱ささぐ
担ぎ手の子供少なきわが街の神輿しづかに通りゆきたり
歳晩にひとり硝子をみがきゐるこの幸ひもあと幾たびか
寺庭の三百年経しすだ椎を仰げば白き寒の月あり

   月 影        元田 裕代

三十分の面会成れば声あげて家族は笑ふ翁囲みて
表情のとぼしき媼口つぐみ面会に来し人らも黙す
強風にいたぶられつつ葉桜は五月の雨にたくましく見ゆ
近隣に物音はなし灯を消して寝床に見をり梅雨の夜の月
夜勤明けの息子と宿りし海峡の潮流速し夕べ来たれば
梅の幹ふれし瞬時に雨しづく潔きまでわが背を濡らす
梅雨雲る朝の庭に梅の実の太く厚らに色づくが見ゆ
ゆふべより強弱のなく降る雨の音にひたれるわれの現身
次々と覆ひくるごと降る雨の音猛々し夜の深まりて
早朝に芥を置きて帰る路ことさらにして響く杖音

   店 跡        横山 節子

みすずかる信濃の山を恋ほしみて夫と登りき幾歳かけて
あかあかと穂高の岩を染めあぐるモルゲンロートまなうらにあり
大寒のあしたの道にせり出でて白梅ほのかに匂ふすがしさ
山茶花の花のしろたへ遠くよりみえて根方にあつく散りしく
癒ゆるなき夫の治療はわがためと今にし思ふかなしかりけり
死に近き夫の手帳は空白のなかに一行「孫誕生す」
夫の知らぬ幼もともに掌を合はせ十三回忌つつましく了ふ
あづき色の月蝕とらへいつになく今宵息子と会話のはづむ
ひさびさに友らとあゆむ山かひの空にまぎれて桐の花さく
五十年わがいそしみし店跡はひろきたひらに朝光わたる




   選考経過       波 克彦

 今年の歩道賞の応募は三十二編で、昨年より多くの応募があった。既に歩道賞を受賞している会員も七名が再受賞を目指して積極的に応募した。応募した会員諸氏の熱意をひしひしと感じており、各位の応募を称えたい。応募作の内容はいずれも純粋短歌を基本とするもので、それぞれの作風が親しく表れていて好感が持てる作品群が多かった。
 応募作の作者名を伏せた作品の写しを事務局から選考委員の香川哲三、波克彦、秋葉四郎それぞれに送り、去る八月七日の「歩道」編集会議のあと選考委員会を開催した。秋葉氏と波は会議室にてリアル参加し、香川氏はコロナ禍ゆえオンラインにて選考委員会に参加し、波克彦を選考委員長として三人が選考にあたった。めいめいが十編を選出した後、十分協議した結果、選考委員二名以上が採った作品を別表の通り、候補作(表中★印)とした。今年は十一人が該当した。
 候補作十一編を改めて検討し、三人が選出している作品を十分に吟味した結果、今年は樫井礼子氏の「田植の季節」三十首に歩道賞を贈ることにした。日々の生活の中での矚目やかって住んでいた土地を訪れたときの思いなど境涯が色濃く出ていて情感が豊かで三十首が全て採れる歌からなり纏まっていて秀逸であった。選考委員三人が迷うことなく決定した。樫井氏は平成二十三年につづき二回目の受賞である。心からお祝いを申し上げる次第である。
 今年初めての応募者も増え、三十首の中には更に推敲が必要な作品も混じっていて三十首を均質な作品群としてまとめる力を今後高めていくことが望まれる。一方で歌歴の長い会員も積極的に応募してくれていて、連作三十首をいかにまとめるか参考になる力作もあった。今後も会員は一層積極的に高いレベルで歩道賞に挑戦していただくことを期待する。


   選考に当たって   香川 哲三

 本年度の応募作は三十二篇と例年に比べて多く、内容も全体的に充実していたように思う。力をこめて成された作品は、読み手にも作者の熱意が自ずと伝わるから、随所で感銘を受けながら選を終えたというのが率直な感想である。純粋短歌を希求する者の一人として嬉しい事であった。そうした中で候補作十篇を選ぶのは困難を伴ったが、水準を超える作品の比率が高い、或いは内容の充実度などを指標として十篇を選んだのである。しかしながら、他の応募作にも注目すべき作品があり、そのことに充分言及し得ないのが心残りである。
 受賞作「田植の季節」の作者樫井礼子さんは、前回の歩道賞受賞後も毎年熱心に応募を続けてこられた。そうした地道な努力が一首一首に投影された三十首は、詠風清例であり、目を引いた。「歩道」を代表する歌人の一人として、益々の活躍を期待申し上げている。



   受賞のことば       樫井礼子

 この度は歩道賞を戴きまして感激しております。十二年前に「ダイヤモンドダスト」にて同賞を賜り、平成二十七年より毎年応募を続けて参りました。よい歌を作らんという意欲が持続するからでした。北アルプスの山々を眺め、田畑の中の道を往来する安曇野にて、日常の矚目に対して新たな発見を求めました。帰宅する毎に今見てきた情景と感慨をメモする習慣も付き、自ずと年間三十首以上は歩道誌詠草の他に作品として貯まるようにもなりました。蛇崩の道を日々往来され心に沁みる歌を多く作られた佐藤先生は「日常のめづらしくもない矚目の中にも新鮮な香気がある」と仰しゃいました。その境地に少しでも近づくべくこれからも精進致したく存じます。
 毎年審査してくださる先生方に心より御礼申し上げます。有り難うございました。



   略 歴

昭和三十年十二月生
昭和五十四年 歩道入会
平成五年 短歌現代新人賞
平成七年 歌集『川風』刊行
平成十一年 現代歌人協会会員
平成二十三年 日本歌人クラブ会員
平成二十六年 歌集『ダイヤモンドダスト』刊行
長野県安曇野市在住