二〇二五(令和七)年度 歩道賞受賞作
寛 解 大塚 秀行
ほしいまま生きんと思ふ日々なれど儘にならざり老いづきてなほ
百年の夢をつなぎて甲子園その夢われも追ひたるひとり
猛暑日の途切るる午後の街並にやうやく蟬の鳴く声ひびく
電車にて席譲らるることの増え感謝のなかに寂しさきざす
駅中の移動はすべて昇降機妻も老いたりわれも老いたり
闇バイトなど言ふなかれ若きらよ卑劣極まりなき犯罪ぞ
秋彼岸過ぎたる畔に曼殊沙華いまだに咲かず酷暑つづけば
あかつきの富士の上空残月の影ゆくあはき光となりて
ゆくりなき縁にしたがひ二十年佐太郎資料室に通へりわれは
潮の引くごとくに夏は過ぎゆくか庭に萩咲き生日近し
可も不可もなきひと日にてささやかなるわれが楽しみ一合の酒
不順なる気候の続く十月となりてあぢさゐ咲きゐるあはれ
生日に吹く強風のをさまればかなしきまでに空青ふかし
ふたたびは猫を飼ふこと叶ふまじ七十二歳うつし身われは
この妻のささへなくして五十年仕事に歌に打ち込めたりや
うつし世はかくも儚きものなるか父召して兄奪はんとする
霜月に入りたる街の空の果て雪なき富士をわれは寂しむ
父植ゑし金木犀はあまき香を放ちてゐるやふるさとの家
立冬を過ぎたる街は夏日にて悲しく聞こゆ蟬の鳴くこゑ
降る雨の音を聞きつつ佐太郎の歌の聖地に過ごす安けさ
寛解後二年余妻と連れ立ちて晩秋ひと日京都にあそぶ
ともかくも生きながらへて香煙を浴びつつ寺の舞台に立てり
遠く来し心に沁みつ寺庭をおほへる苔に満つる静けさ
夕映の空をし山の稜線がするどく区切る頃となりたり
検診の無事に終はりて妻好む食材もとめ家路をいそぐ
葉ぼたんに代はりて冬の野菜増ゆわが家前の今年の畑は
越えられぬ試練を神は与へぬとふ言むなしけれ戦禍の絶えず
朝の日のわたれる中に朱帯びて雪山富士はおごそかに立つ
混迷の時代に老いて生きんとす土蛍の闇に光るごとくに
静かなる時の流れのなかに居てゆく年送りくる年迎ふ
歩道賞準賞
帰 郷 浦 靖子
単調に過ぐる施設に老いにつつふるさとしきりに思ふこの日々
八十五の生日すぎていよいよにふるさと訪はん思ひ昂る
変りなく家々あれど凡そは無人とぞ聞くふるさと侘し
病にて失語の甥が手話のごとわれが送りし本の礼する
毀たれて早二十年生家跡に立てば顕ちくる父母ありし日々
高台の生家に見たる仙台の空襲心の傷とし残る
衰へし足に上りし菩提寺に労るごとく不如帰鳴く
ふたたびは来ること無けん父母の墓かたへ清しく著莪の花咲く
高所なる寺に見放くる早苗田の涯て残雪の鳥海山見ゆ
幼名に呼び合ふ友も皆逝きてふる里さびし帰郷の寂し
賑はひし除幕式の日とほく顕ち歳月経たる歌碑をさびしむ
奥山の雪消に嵩増す荒雄川北帰かなはぬ白鳥群るる
近郷の人ら憩ひしこの温泉寂れゆかんか閑散として
農政の危さまさに見るごとし放置田をちこち草に埋もるる
みちのくも梅雨に入らんか奥羽嶺の稜線おほひ雲低くたる
歩道賞準賞
記念樹 青木伊都子
子の生れし記念樹にして幹太く黄柑あまた冬の日に照る
手立てなく痛みと痒み日々増せば検査結果を待つ時長し
寒き朝お百度踏みに夫出づ子の宮参りせし地の神社まで
マリア像見つつ祈りぬかつて子が洗礼受けし聖堂に来て
日々通る道祖神にも地蔵にもわれ手を合はす亡き父母のごと
仏壇の大日如来も神棚も身近に暮らせば心優しき
菩提寺は真言宗ゆゑ高野山に平癒のお札夫もらひ来
せめて子の好物ならばと用意せし刺身をフオークに食ふさまつらし
子の病インターネツトに調ぶれば憂ふる心とりとめもなし
寒風に庭の枇杷の木さわぐ昼聖書を開く心よわりて
エルサレムに買ひし乳香今宵焚きガザの民にも祈りを捧ぐ
通院の一年過ぎて癒ゆる日々庭の蜜柑は若葉萌えそむ
再発の憂ひおほかたなくなれば子は弁理士の試験勉強す
子には子の考へあらん未知なれど知的財産に興味を持てば
辛きことひとつひとつが神からの伏線なりき今に思へば
歩道賞候補作
廃 坑 伊藤淑子
ゆく路にみえて崩れし家の跡枝たわむまで柿の実熟るる
黒々と壁のみ残る製錬場焰の匂ひまぼろしにたつ
スラグにて造りし建屋の暗がりを出でて眩しき午前の光
川狭め傾く砂礫うづたかきスラグの岡に見おろして立つ
四十年知らざりし父おもひつつ岡に鉱石ひろひて握る
裏山の稜線しのぐ煙突を目ざして進む榛の木のなか
煙突につづく煙道山肌にそひて伸びゆくそのはて見えず
天井の煉瓦はくづれ湿りゐる煙道のなか土の香うごく
かたがはの低き平は人住みし跡の石段羊歯ふかぶかし
山を閉ぢ幾年経けん鉱山のかたちとどめて時は流るる
佐太郎のふるさと 上野千里
畦道に酢葉の朱き花穂ゆれ青田の水がときをり光る
山裾の広き庭にて本家継ぐ人おほどかにわれらを迎ふ
佐太郎の生れし家跡見てたてば茗荷の生ふる青むらがりて
庭石に坐して遠くを見詰めゐる写真の佐太郎目差やさし
やはらかき夕日照る庭惜しみつつ去らんとすればうぐひすの鳴く
歌碑のある甲子公園人のゐずいたるところに詰草の咲く
大河原の町をおほひて午後五時を知らせるサイレンたかだか響く
いち日の心のたかぶり抑へつつ眠らんとする旅の宿りに
桐の花あふるるばかり咲く道辺うつつともなきその香にひたる
夏ちかきみちのく来ればいづこにも会ふ人深きこころを持てり
庭 戸田民子
散る花を背に浴びつつ帰りゆく夕べの采を考へながら
春はやき洗足池に群るる鴨間合ひひとしく動くともなし
新任のわれを支へてくれし友施設に入りて面会こばむ
寒暖の差に慣れがたき日々にして無為にすごせるひと日の長し
これから先着ることありやと思ひつつ孫の挙式の服を購ふ
苗植ゑて採りたる茄子はうまかりき老いて培ふ気力のわかず
百年を商ひたるに売上げの減りて本屋は店を閉ざしぬ
今は亡き友と歩みし蛇崩の豆柿熟れてゐる頃ならん
晩年の母の歩みの遅きことうとみしわれもその歳となる
わが庭の百年を経る柿の木の五百余の実を採るも最後か