今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2025(令和7)年一覧


  二〇二六(令和八)二月号


       
作歌力の向上         大塚 秀行


 短歌を実作し始めた頃、師事していた秋葉四郎先生の添削指導の中で「茂吉ヤ佐太郎ヲ読マズシテ作ルト平凡ニナル。」と朱書にて指導されたことがある。その頃はこの言葉の持つ真の意味が分からなかった。そこで、ともかくも茂吉や佐太郎の歌や歌論等を読んで平凡な歌について考えてみた。
 やがて、佐太郎の次のような歌に出会って秋葉先生の朱書の意図が徐々に分かってきたのである。
  冬の日といへど一日は長からん刈田に降りていこふ鴉ら
                       『冬木』
 「冬の日」は、冬のある一日刈田に降りている数羽の鴉を見た一首である。この鴉の様子を「冬の日は短いが朝早い鴉にとっては一日は長いだろう」と感受したところが誠に非凡である。さらに、降りている様を「憩ふ」と作者の影を添わせ、鴉への慈しみまで感じさせる味わい深い歌となっている。
 これは一例だが、「平凡な歌」と「非凡な歌」というのは、何をどのように見たのか、見えたものをどのように詠うかで決まる。これを意識して短歌の実作を続けることにより「作歌力の向上」に繋がると実感したのである。
 また、佐太郎の『短歌作者への助言』に、「作歌力の向上」のための示唆に富んだ次の文章に出会ったのである。


 私が初学のころ斎藤茂吉先生からいただいたハガキがある。

 「少々気が利過ぎてゐる○細かすぎる○しかし、歌つくりもいろいろの処を通過するゆゑ、気長にやり玉へ。○観方、もつと本物を観玉へ」

 こういうのだが、私には「本物を観たまへ」という意味がわからなかった。「本物」にも「ウソ」にも、私は実際のことを歌につくっているのだから、あらためて「本物を観たまへ」といわれても困るのであった。
 その程度の幼稚さであったが、とにかく物の見方を何とかしなければならぬということはわかった。そのうち、「本物」を見ろということは、根幹を見ろということがわかった。枝葉末節に興味をもたないで、真髄とか中心とかいうものを見なければならぬというのである。また、ほしいままに主観的な解釈や修飾を加えないで、ありのままに見なければならぬというのである。(「本物」より)




  二〇二六(令和八)年一月号


       
  ドナウ源流行         波 克彦


 二〇二五年は、上山市とドイツのドナウエッシンゲン市友好都市盟約締結三十周年にあたり、六月二十五日から七月三日まで、上山市民訪独団(団長・山本幸靖市長)がドナウエッシンゲン市などを訪れ、斎藤茂吉記念館館長の筆者も訪独団の一員として参加した。盟約締結のきっかけは、斎藤茂吉がドイツに留学中にドナウ川の源流を求めて同市を訪れたことにある。
 茂吉は、三十九歳の大正十年十月に日本を出てオーストリアとドイツに留学し、大正十三年四月十八日から十九日にミュンヘンからドナウ川の源流を求めて同市を訪問している。同市にあるブレク川とブリガッハ川が合流するところがドナウ川の源であり、そこから下流がドナウ川と称される。
 同市内にはドナウの泉と称される源泉があり、両市の友好都市盟約締結五周年を記念して、ドナウの泉の側に斎藤茂吉の歌碑が建立された。歌は「大き河ドナウの遠きみなもとを()めつつぞ来て谷のゆふぐれ」で、茂吉がドナウ川の源流を求めてドナウェッシンゲン市に来て詠んだ一首であり、歌集『遍歴』に収載されている。
 その歌碑は、茂吉が同市を訪れたときに投宿したホテル「シュッツェン」(現在はレストラン)向いのブリガッハ川沿いに移設され、歌碑から川に沿って、茂吉がドナウ川源流まで歩いた約一•五㎞の自然豊かな森林の小道が「斎藤茂吉の道」と命名されている。
 斎藤茂吉が終生、ふるさとの山形を愛し、その中心を流れる最上川の自然・四季を愛したことは、茂吉が詠んだ多くの歌からも知ることができる。十四歳の若さで上山を離れ上京し、三十九歳で遠い欧州に留学した茂吉がオーストリアやドイツで生活しながら、遠い日本、ふるさとでの生活を思い起こし、また、オーストリアで見たドナウ川の情景がふるさとの最上川等の情景と重なり深い郷愁を覚え、いつかそのドナウ川の上流、更には源流を訪ねて見たいと考えたであろうことが容易に推察できる。茂吉の境涯•思いとドナウ源流行との関係を考えるとき、この度、筆者も茂吉のドナウ源流行を追い求める旅として訪独団に参加できたことは貴重な体験であった。