二〇二五(令和七)年十二月号
天皇の御製歌 土肥義治
『万葉集』の作者層は、皇族・貴族・官人から農民•遊行女婦に至るまでの多様な階層に及ぶ。今回は律令国家への歩みを開始し「天皇」号を用い始めた飛鳥・藤原時代の天皇の御製歌を取り上げる。中国では天子は天命を受けた為政者であり、暗君は交代すべきと言う易姓革命の思想がある。しかし日本では天皇は天孫降臨の現人神であり、万世一系との思想がある。
最初に、百済滅亡、白村江での大敗、国土防衛、近江遷都と国難の続く時代を率いた天智天皇の歌を紹介する。
香久山と耳成山と会ひしとき立ちて見に来し
印南国原 (一四)
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜あき
らけくこそ (一五)
香久山と耳成山が相争ったときに、出雲の大神が播磨の印南国原まで争いを見に来たという伝説を歌にした。また海辺の雄大な夕雲の光景と明月への期待を詠じている。二首ともに播磨の地祇を祝ぐ気宇壮大な御製歌である。
天智の崩御後に天智の皇子大友と弟大海人との間に後継者争い(壬申の乱)が起こり、大海人が勝利し即位した。天武天皇は「神」とあがめられた。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よ
く見よ良き人よく見
吉野行幸に同行した六皇子に相助け合うことを誓わせたときの天武の御製(二七)である。しかし天武亡き後に盟約は破られ、大津皇子は謀反者となり自害した。皇太子の草壁も早世し、そのため皇后の持統が天皇に即位した。
持統天皇の御製歌二首を紹介する。
春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香
久山 (二八)
北山にたなびく雲の青雲の星離れゆき月を離
れて (一六一)
後歌は天武崩御の悲しみを詠じており、青雲に天皇を、星に皇子たち、そして月に皇后を暗喩したのであろう。
最後に奈良への遷都を成し遂げた元明天皇(草壁の妻)の歌二首を記す。
ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣槍立
つらしも (七六)
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があた
りは見えずかもあらむ
前歌は矢を射る厳粛な大嘗祭での緊張感を、後歌(七八)は明日香の故地に眠る天武•草壁・持統•文武などを置きて去る哀愁を詠じた御製であろう。
二〇二五(令和七)年十一月号
澤本長清郎への佐太郎先生の礼状 八重嶋勳
元歩道会員澤本長清郎氏が逝去、遺族から蔵書等の処分について相談され、八月三十一日、菊澤研一•山本豊氏と共に訪問、長男長女孫が迎えてくれた。歌集歌書等蔵書約三千冊、額、軸、書簡、資料等多数。菊澤氏が、調査の際、菊澤研一•澤本長清郎宛ての先生の書簡がある筈是非見付けて欲しいとのこと、注意して三時間余調べた。中々見つからなかったが、遺族が出してきた軸に、遂に見付ける事が出来た。澤本氏はこの書簡を表装して大切に保存。
昭和五十一年五月二十四〜二十五日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、岩手の正法寺・猊鼻渓に遊んだ。片山新一郎氏等宮城県金成町の会員、岩手から森山耕平・菊澤•板宮清治•澤本•八重嶋等総勢二十名程が参加。曹洞宗古刹正法寺を見、猊鼻渓の舟下りをした。断崖絶壁の中を静かに流れる砂鉄川二キロ程を大型の平田舟に客を三、四十名を乗せ、船頭が棹一本で操り往復。所々で名所のガイド・猊鼻追分を歌ったりした。鯉や鮠等が舟を取り巻くようにしてついて来る。切り立つ岩の所々に丁度見頃の藤の花が美しく垂れて咲いていた。最も奥に着いて下船。徒歩で五百米程行ったところが終点で獅子の鼻の様な巌があることからの命名。
翌朝私達が目覚める前、先生は、舟を出してもらってもう一度見て来たと言うことで皆驚いたのであった。
先生の書簡の内容を掲げて置こう。
今日出来た猊鼻渓の歌四首あり。
一報、先日は寫真忝し。
雲のごと藤さく洲あり断崖のきりたつ川をさかのぼり来て
晴れし日の水の光は石壁にありその下のさく藤にあり
石壁の下の川洲にむらさきの藤を明恵にまねび憐れむ
山なかの音なき川にまれまれに河鹿なくとき川音きこゆ 以上
七月二日 佐藤佐太郎
沢本長清郎君
投函一両日後になるべし
澤本氏が先生に写真を送った御礼の書簡である。この写真は、猊鼻渓の奥の洲で、たわわに咲く藤棚を左に見て先生が杖を携え独り歩む姿である。澤本氏の書庫の一番奥にパネルに仕立てたこの写真が掲げてあった。私がいただいてきて早速書斎に掲げた。
二〇二五(令和七)年十月号
終戦八十年 仲田紘基
臥しながら遠く花火の上がる見ゆ終戦の日の
生家の庭に 波克彦
昨年、東京歌会に出詠された一首。四句の「終戦の日」という言葉をめぐって議論などもあった。この歌は戦争が終わったその当日、すなわち昭和二十年の記憶ではないか、といった解釈が出されたりした。
この歌の「終戦の日」は、いわゆる終戦記念日、単に終戦日とも言われる八月十五日。今年は戦争終結より八十年という一つの節目の年でもある。
私たちの仲間には高齢の方が多い。それだけに、体験に基づく貴重な作品に「歩道」誌でしばしば出会う。
父母もはらからもゐて零下なる寒き樺太時代
恋しき 高野スエ
「ただいま」と軍服の叔父立つ土間に名を呼
び母は縋りて泣きぬ 畑岡ミネヨ
文字に残さなければ忘れ去られてしまう事実である。戦争体験を歌に詠むことの意義と意味を改めて思う。
私はかつて、東京歌会に「開戦後ひと月われの生れし日の新聞はあまたの戦果伝ふる」という詠草を出したことがある。昭和十七年一月七日が誕生日。戦争が始まってちょうどひと月だ。
自分の生まれた時代がどんなだったか。当時の雑誌を収集してみて驚いたことだが、ジャンルや読者対象を問わず、一様に戦意高揚を叫ぶ文章が誌面にあふれている。短歌雑誌『短歌研究』や『アララギ』の昭和十七年一月号に発表された茂吉や佐太郎の作品にしても、その例外ではなかった。
今、私の手元に『少女俱楽部』という雑誌の新年号がある。表紙の少女の絵に添えて、「この一戦、何がなんでもやり抜くぞ!」と書かれている。最後のほうに「編輯部だより」というページがあり、そこには少女に向けてなんと次のようなことが記されていた。
皇軍は連戦連勝、すばらしい戦果をあげてをります。私どもはこの大御代に生まれた幸を思ふこと切でありますが、それとともに勝つて兜の緒を引きしめることを忘れてはなりません。
二度とないだろうような時代。二度とあってはならないとだれもが思うような時代。私が生まれたのはそんな「大御代」だった。
二〇二五(令和七)年九月号
コロッケと短歌 星野 彰
ものまね界のレジェンドと言われるコロッケのインタビュー記事を読んだ。彼の言うところは短歌の世界にも通じるかと思う。彼は言う「その人を徹底的に観察して、最初は普通にまねするところから始めて、どんどんデフォルメして、その人が言わなそうなこと、やらなそうな動きを次々に足して行く」と。これはわれわれが対象を徹底的に観察し、自分の言葉で表現して、独創性を磨いて行くという事に通じるであろう。また「芸は年を重ねるごとに余計なものがそぎ落されて磨かれていくものだと思います」ともいう。私達が短歌を始めて以来、常に教えられてきた「単純化」そのものである。またインタビュアーはコロッケの芸に対し「ほどよく枯れていき、その年齢でしかみられない芸の凄みや深みの『味』や『粋』に心打たれることもあります」と言う。これは私達にとって非常に重要で励みとなる言葉である。歩道の歌には老いに因る体の不具合の嘆き、つれあいとの別れの悲しみ、施設に入居する環境の変化への戸惑い等の歌に充ちている。その為に外部からは歩道の歌は類型的であると言われることがあるがそのようなことは無いのである。それぞれの歌には作者のそれぞれの、その時その時の感動があるのである。詠うテーマが同じであれば表面的には類型的と見えることもあろう。しかし作者としては同じテーマを詠うにしても「その年齢でしか見られない芸の凄みや深みの『味』」を追求しているのである。類型的と言われる由は無いのである。そう、短歌は芸術であるから芸の凄み、深みを追求していくべきであろう。我々歩道会員は佐太郎の「作歌真」を念頭に作歌に励むのである。しかし一方、短歌には排悶という効用がある。短歌を詠むことにより心の悶えを払う、悲しみを和らげるということである。それは生きることへの励ましとなり、活きる力を与えるであろう。結社には様々な人が参加している。芸術性よりも排悶を主とする人もいるであろう。結社はそれで良いのではないかと思う。芸術性を極限まで求める人がいる、排悶によって苦しみを和らげる人がいる、この多様性こそ結社の存在意義なのではなかろうか。
二〇二五(令和七)年八月号
声調について 戸田佳子
今年の三月、千葉市短歌協会主催の短歌大会があり、その折「声調のいい歌、そうでない歌」というテーマで鼎談が行われた。
短歌に声調が大切な要素であることは言うまでもない。佐藤佐太郎も「作歌真」で「声調徹り」と述べている。御著書『短歌指導』から抜粋する。
・「声調」は浅い意味の「調子がよい」ということではなく、真実のひびき、いぶきというものがこめられるかどうか、という点において声調を理解すべきである。
・五音、七音の句を声調の単位として考え、その句単位が意味内容的にひとつの独立をしていると考える。これが声調の要素。
・句の単位がはっきり抑えられていれば、必要に応じて破調になっても、それは定型の歌を作っているといえる。
当日の鼎談で私は問題提起のつもりで「そうでない歌」として茂吉の「虚空小吟」(『たかはら』)二首を示した。そのうちの一首が
直ぐ目のしたの山嶽よりせまりくるChaos
きびしきさびしさ
である。昭和四年十一月二十八日に初めて飛行機に乗った時の歌で、作者は「工夫して新味のある歌を作った」(「作歌四十年」)という。佐藤佐太郎は自著『茂吉秀歌』でこの歌について次のように述べている。「『直ぐ目のしたの山嶽より』までが一句から三句に当たり、『せまりくるchaos』が四句に当たる。思いきった破調で(略)一首が直線的に堅固に形成されている。(略)この歌も一息に連続して読むことによって短歌のひびきを聞くことができるであろう。」、『短歌指導』でも「破調でありながら短歌の形態と声調とをたもち得ている。」と述べている。これなども前述した「句の単位がはっきり抑えられていれば(略)破調になっても、それは定型の歌を作っているといえる」ということになる。
佐大郎、茂吉がこのように述べており、決着のついた歌であるが、声調という観点からもう一度考えてみたいと思ったのである。鼎談は時間の都合で議論できずに終わってしまった。それにしても「声調」と一言でいっても一筋縄ではいかない。
二〇二五(令和七)年七月号
ランチョンの色紙 長田邦雄
東京の神田に世界的に有名な古書店街がある。私は若い時分にたびたびこの街を歩いて先生の歌集や著書を探した。特に歌集の「しろたへ」や「立房」はみつけることが困難であった。また、運よくめぐりあっても高額で買うことが出来なかった。やっとのことで入手が出来ると私は先生にお願いして署名をしていただいた。
さて、その古書店が建つ靖国通りの向い側にレストランの「ランチョン」がある。風格のある立派な店で若い私には敷居が高かった。その店に先生の色紙があることを岩手の菊澤研一氏から知らせていただいた。私は古い友人のT氏と「ランチョン」を訪ねた。彼は現在写真家として地元で活躍をしている。「歩道」の表紙にある先生の絵は彼が撮影してくれたものである。
店主に先生の短歌の書かれた色紙の存在を確認して見せていただいた。色紙には『泪いづるまで懐しむわが若く麦酒を飲みしところはここぞ』と、そのとなりに月原橙一郎氏の『神田ハどんぐりぞランチョンぞゆめ青春今日もあり』が書かれ、昭和四十九年七月二十日の日付がある。先生と月原氏の関係は私には分からない。この色紙を撮影したのはその年の十月である。写真はすぐに菊澤氏にお届けした。
ところが、突然「ランチョン」は火災に遭遇して色紙も焼失したと思われた。それからどれ程経ったか、店は再建して復活した。
後日、私は店を訪ねた。店主にあの時の色紙の撮影をさせていただいた礼を述べて、その有無を確かめた。やはり色紙は焼失していた。残念にほかならない。
昭和の時代のなつかしい思い出のひとつである。
二〇二五(令和七)年六月号
作歌上注意すべき言葉 大塚秀行
「初孫」「初雪」など「初」は、多くの人に使われていくうちに手垢のようなものが付いて俗な言葉になっており、作歌をする上で好ましくない語と言われている。これは言語感覚の問題だが、短歌を作る上で大切にしたい感覚である。一方、「初〇〇」は絶対に使ってはならないというものでもない。秋葉四郎は『短歌入門』の中で次の様に記しているのである。
農業に転職をして初生りの茄子をしみじみ手
にいだきをり
などの場合は、手垢がついている言葉でも、杓子定規に否定してはならない。転業して今初めて生った茄子を手にしているのが特殊であり、生活感のある感慨である。 「推敲のポイント」
「初生り」は一首の中で生きているから用いてもよいというのである。
次に、「小春日和」「春一番」などについて考えてみたい。佐藤佐太郎は『作歌の足跡』に次の様に記している。
春一番といふ風ふきし日のゆふべ黒き雲あか
き桃に日がさす
「春一番」は気象台用語だが、「といふ風」と言ったら俗臭がなくなるだろうと思って、こういう表現をしたが、結果は良かったか、悪かったか、わからない。 「雑歌⑴」
俗な言葉でも工夫をすれば歌の中で使える可能性があることを教えられる。
最後に、「教へ子」について考えてみたい。この語は俗でもあるが、語の背後にある尊大さ、傲慢さの匂いが気になるのである。しかし、その点を理解した上で文字通りの「かつて教えた児童、生徒」として自然に詠まれた場合には使ってよいと思うのである。仲田紘基の歌に次の一首がある。
教へ子の名の記されし産直の大根買ひぬ懐か
しければ 『追憶岬』
この一首は、「かつて教師として指導した生徒を懐かしみ、その成長をよろこぶ」作者の率直な感慨に共感できる歌になっている。自分が教えたのだという尊大な気持ちが根底にない歌として詠まれているからだろう。
言語感覚による「通俗な言葉」を歌に詠んではいけないという基本を押さえつつ、俗な言葉でも様々な工夫や使い方により一首の中で生きている時には使ってもよいという認識を持ちたく思う。
二〇二五(令和七)年五月号
ゼロからの純粋鑑賞法 波克彦
佐藤佐太郎先生(以下「佐太郎」)は、斉藤茂吉の歌について、「先生の歌は、『万葉調』と『写生』とを根本として成りたち、語気、言葉のひびきを最も重んじた歌人であった」と自著『茂吉秀歌』(岩波書店)上巻に書いておられる。また、同著において佐太郎は、茂吉の一首「ひんがしはあけぼのならむほそほそと口笛ふきて行く童 子 あり」の解釈にあたって、「短歌は一首は一首の世界をもって独立しているものであるから、読者は田園のあけぼのとして受け取ってもかまわない」と述べている。
佐太郎は、更には、茂吉の次の一首「なげかへばものみな暗 しひんがしに出づる星さへあかからなくに」について、「大正二年作。『おひろ』と題された恋愛相聞の歌四十四首中の第一首である。この一連について、作者〈筆者注:茂吉のこと〉は『この女性は実在的のものか、或は詩的なものか、或はどう、或はかうといふモデル問題は穿鑿してももはや駄目である。…(中略)…』(作歌四十年)といっている。そういうのは作品だけを受け取ってもらいたいという要求である。一首に表現された言葉だけから、そこに流れているものを受け入れるのが正しい享受であり、その他のことは第二義的なことである。」と述べている。
かような茂吉や佐太郎の考えに従い、筆者は、短歌の鑑賞法として、ゼロからの鑑賞法、言い換えれば純粋鑑賞法を旨として、短歌を鑑賞することにしている。
筆者の八十年の生涯の生活スタイルは、かつて自然科学の分野に身を置いた一研究者のときも、野球やゴルフなどのスポーツにおいても、ピアノやフルートの演奏など音楽においても、生活全般においても、理論より実践、自分で考えて仮説を検証して実践することにあった。短歌においても、目で見、耳で聴き、体(五感、八感)で捉えて作歌する実践を中心としてきた。
歌から読み解く作者の心、ゼロからの鑑賞の勧め、これから歌に親しもうとする人、短歌に必ずしも長く親しんできてはいない一般の人には、短歌を堅苦しく考えないで、是非ゼロからの鑑賞で良いのだと伝えたい。そして、どんな歌・作品の鑑賞においても、ゼロからの純粋鑑賞法を一義的鑑賞法として重視して参りたい。
二〇二五(令和七)年四月号
女官歌人の額田王 土肥義治
額田王は鏡王の娘として六百三十年頃に生まれ、十代前半に皇極天皇の宮廷に出仕した。皇極の次男である大海人皇子の寵愛を受け十市皇女を生む。才智に富む王は出産後も宮廷女官として天智までの歴代天皇に三十年近く仕えた。万葉第一期を代表する歌人であり、長歌三首、短歌九首を残した。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治のみやこ
の仮廬し思ほゆ (七)
皇極上皇が近江に行幸した折に、夫の舒明天皇と宇治の地にて旅宿りした女帝の回想を聞き、その心情を詠んだ額田王の出世作である。女帝は格調の高い歌に満足し、王を傍から離さず女官歌人としての位を与えたのであろう。
上皇は弟の孝徳天皇が崩御したのち重祚した。六六〇年に唐・新羅の連合軍により滅ぼされた百済救援のために出陣し、伊予の熟田津にて天皇に代り額田王は船団出発を予祝し詠った。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ
今は漕ぎ出でな (八)
天皇は筑紫の朝倉宮にて崩御し、百済に送った大軍は白村江にて唐・新羅の連合軍と戦い大敗した。中大兄皇子は六六七年に外敵の襲来に備えて大和の地を離れ近江に都を移した。額田王は近江遷都にあたり惜別の歌を詠んだ。
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠
さふべしや (一八)
皇子は近江にて天智天皇に即位した。額田王は後宮女官として詩宴や宴会の場に侍り作歌した。蒲生野に遊猟した宴会において額田王と大海人皇子との間にて交した有名な贈答歌を紹介する。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君
が袖振る (二〇)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわ
れ恋ひめやも (二一)
娘の十市皇女は、天皇の長男の大友皇子の正妻となり葛野王を儲けていた。これらの二首は余興の恋歌であろう。
天皇は六七一年に崩御し、大友皇子と叔父大海人皇子との間に皇位継承をめぐり大戦「壬申の乱」が起きた。敗者の大友皇子は自害し、勝者の大海人皇子は天武天皇となった。額田王は天武宮廷を離れて静かに余生を過ごしたことと思う。六九〇年頃に王が詠んだつぎの贈答歌が万葉集に残っている。
古に恋ふらむ鳥は杜鵑けだしや鳴きしわが思
へるごと (一一二)
二〇二五(令和七)年三月号
龍泉洞歌碑建立余話 八重嶋勲
令和六年十月二十二日、佐藤佐太郎先生の龍泉洞の「地底湖」歌碑建立二十五年目、菊澤研一、山本豊、八重嶋勲が訪れ歌碑の状態を見分した。岩泉町の龍泉洞管理事務所がとても良い管理をされ歌碑は黒光りして文字もはっきりしており、三人は安堵し無言でしばし歌碑に対座、思い出を語り合った。
昭和四十五年十月二十五日、佐藤佐太郎先生は、龍泉洞に遊ばれ「地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音」他五首を作歌された。バスで総勢三十名の吟行会であった。
平成七年十二月十八日、岩泉町の内村利裕教育長に八重嶋勲(盛岡市教委総務課長時代、岩手県市町村教育委員会協議会及び東北七県(新潟を含む)都市教育長協議会事務局長を務めていた関係で)が、龍泉洞前に佐藤佐太郎歌碑を歩道岩手の会で建立したい旨打診、同月二十八日付、好意ある書簡をいただいた。菊澤研一会長、菅原照子、千田伸一副会長、八重嶋勲副会長兼事務局長が相談。歩道岩手の会役員会、総会で事業として歌碑建立を行うことに決定した。会員百八十有余名からの募金も思いのほか多く寄せられ、(有)吉昭石材工業の施工も順調に進み、澤尻弘志氏(国鉄・JR職員で全国の啄木歌碑等の拓本を沢山採取した方)に歌碑・副碑の拓本を採取、額装してもらい、後に歌碑と共に岩泉町に寄附した。
岩泉町の龍泉洞公園整備計画の中に位置づけていただき、平成十年十一月十日、歌碑・副碑の建立を無事終えた。
除幕式は翌十一年五月三十日、佐藤佐太郎先生令嬢渡辺洋子様始め岩手県内外の多くの歩道会員•八重樫協二岩泉町長•内村利裕教育長等関係者参加。盛大なる建立式典、祝賀会を行った。
龍泉洞は外国人も多く訪れるので、私は歌の英訳を思いつき、盛岡市教委指導課の佐藤孝指導主事に相談、米国からのALT (英語指導講師)マイヤ・フィールド(女性)さんに話してもらった。シカゴ市のお母さんノーマ・フィールドさんは日本文学研究家。暫くして四行の短歌の英訳が届いた。これを歌碑の裏面に彫り込んだ。拓本を幾枚か採取した。私が、上京の折り、志満先生に持参し、しどろもどろに読んでいたところ、志満先生はにこにこしながらすらすらと読まれたのであった。
二〇二五(令和七)年二月号
「輝」を垂る 仲田紘基
よく知られた佐太郎の名歌の一つに次の一首がある。
夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝
を垂る
「夕光」には「ゆふかげ」、「輝」には「かがやき」とルビがつく。この歌は市原市にある佐藤佐太郎研究資料室入口の歌碑に刻まれているし、これを取り上げた鑑賞文や解説も多いが、大辻隆弘氏の解釈は個性的で、そのとらえ方に私は興味をひかれた。
大辻氏は「輝」が漢字一字で表記されている点に注目している。「これによって花の光の反射が硬いソリッドなものとして感じられる。」(『コレクション日本歌人選・佐藤佐太郎』笠間書院)と言うのだ。
作歌の際に語の表記をひらがなにするか漢字にするか、だれもが気をつかうところだろう。大辻氏は「送り仮名を振って『輝き』と書いたら硬質な手触りは感じられなくなってしまう」とも言っている。
表記から「硬質」感をとらえたのはおもしろい読み方だが、ここで考えてみたいのは、佐太郎はもともと名詞に送り仮名を付けないことが多いという点だ。『歩道作歌案内』にも「歩道では名詞には原則として送り仮名をしない。」とある。例えば「流れ」は「流」となる。そこには例の一つとしてこの「輝」も示されている。
内閣告示の「送り仮名の付け方」は芸術などの分野に及ぶものではない。どう表記しようと作者の自由だが、それは他に強制すべきものでもない。
先日、小学校の国語教科書を見ていたら、芭蕉の名句が次のように紹介されていた。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
芭蕉のもとの句は「閑さ」だが、活用語尾の前の「か」から送るという送り仮名の付け方にならって、こう表記されていた。「閑」を「静」に書き直したりはしていないから、これによつて感動の質が変わることもないだろう。
一結社の中だけでしか通用しない表記があるとしたら、それは決して好ましいことではない。仮に歌の表記が「輝きを垂る」と「誤記」されることがあったとしても、そのことによって感動の本質が損なわれるような作品ではない、と私は思っている。
二〇二五(令和七)年一月号
短歌ブームと抒情詩 星野 彰
現在は短歌ブームだそうである。短歌を作る若い人が増えているそうである。しかし、われわれ結社に所属する者にとっては短歌ブームなど全く感じることは出来ない。若い人達はどこで短歌を発表するかと言えばライン、X、フェイスブック等のネットで発表し結社には入らないそうである。そこで発表される短歌と言えば、「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」(岡本真帆)や「ふりむけば君しかいない夜のバスだから私はここで降りるね」(木下龍也)と言った歌である。五句三十一音からなれば短歌と言えるのか。短歌は抒情詩である。感動の表白である。これらの歌は頭を掠めた思いつきを五・七・五・七・七に押し込めたに過ぎないのではないか。しかしこのような歌は既に、一九八七年に出版された俵万智の『サラダ記念日』に始まっている。代表作「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」は軽く深みがなくわれわれの目指す短歌ではない。これらの歌とは棲み分ければ良いのであろう。そして棲み分けたいと思うもう一つの傾向がある。現在の歌壇を席巻している難解な短歌である。難解な短歌は一九六〇年代に活発になった塚本邦雄らの前衛短歌運動に始まるが、現在は新聞の歌壇欄にまで及ぶ。また、令和五年の迢空賞受賞作、水原紫苑の「快楽」の中の一首と言えば「鏡持つ人類さびし、鳥、けもの、石、夕焼け鏡見よ 狂へ」である。暗号ではないか。大塚布見子は難解な短歌に対し、「作者の一つの思念を、自分勝手に吐き出した字句の羅列を短歌と銘打たれては叶わない」と一刀両断しているが全くその通りと思う。今まで述べて来たような歌において上達することなど不可能ではないか。上達不能な短歌の作歌へのモチベーションを保ち続け得るのだろうか。生涯このような歌を作り続けることへの虚しさを感じないのだろうか。私達は良い歌を詠みたい、明日は今日よりも良い歌を詠みたいと願って努力しているのである。その為に添削があり歌会が有るのかと思う。短歌の上達とは、より多くの人により深く感動を共有して貰うことであろう。私達の生き方は間違ってはいない。佐太郎は言っている。「言葉に言えない感情を、捉え難い生の律動である感情を言葉に表すのが抒情詩である」と。
二〇二四(令和六)年十二月号
小学生と短歌 戸田佳子
六月号の本欄で仲田紘基さんが「俗」という題で、中学校の短歌教材について「疑問をいだいた」とあった。私も最近、小学校の短歌教材について疑問をいだくことがあった。
今年、千葉市のある公民館主催の講座で小学一年から三年の児童に「短歌を作ってみよう」という催しがあり、講師として参加した。出席者は五名で、皆真剣に取り組み、作品の出来映えも上々であった。この折、公民館の職員の方が「三年生は短歌の授業でこんな作品を勉強している」といって、教科書に載っている作品四首を示して下さった。
むしのねも のこりすくなに なりにけり
よなよなかぜの さむくしなれば 良寛
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音に
ぞおどろかれぬる 藤原敏行
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は
悲しき 猿丸大夫
天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出
でし月かも 安倍仲麿
私はこれまでに何度か小学生を対象とした短歌講座の講師を務めたが、うかつにも小学生が学校でどのような短歌を学習しているか知らず、調べることもなかった。今年右の四首を知り意外な思いであった。小学生が短歌を学習することは大変好ましいことだが、三年生がこのような作品に興味・関心を抱くのかと思った。そこで私の住む千葉市の小学校で採択されている国語の教科書を調べてみた。初めて短歌を学習する三年生は「短歌を楽しもう」として「声に出して読み、言葉の調子やひびきを楽しみましょう。気に入ったものは、おぼえて言ってみましょう。」とあり、先の短歌四首が口語訳と共に並べられていた。因みに四年生では「短歌・俳句に親しもう(一)」として、短歌では志貴皇子、光孝天皇、素性法師の作品が口語訳と共に並び、三年生のものと同様に 「声に出して云々」とある。更に「短歌・俳句に親しもう(二)」では石川啄木、与謝野晶子、佐々木信綱の作品が並び「作品に表された風景を想像してみましょう。」とあった。
僅かな数の作品で短歌に興味・関心を持たせることはむずかしいかも知れないが、もう少し身近な、親しみのもてる作品を示して欲しいと思った。
二〇二四(令和六)年十一月号
思いつくまま 五 長田邦雄
〇斎藤茂吉先生では「居る」という字を書く場合だね。「ゐる」か「をる」かと迷う場合がある。私などははっきりわかるが柴生田さんなんかはわからない。と言っている。それは僕は先生から聞いているからね。「歌は文語だからここは『をる』だ」と斎藤先生ははっきり言っている。そういう訳で、かな書きにすると思いがけない、今まで問題にしないで読んでいたところが障害となることがある。幸いなことに本人がまだ生きているからね。そういう時は聞いたらいい。
〇これ何部作ったか知らんが、せっかく作って印刷しているからこれを熱心で欲しいという人に少し分けるようにしたらいい。「歩道」にも広告を出すから。
〇とにかくこういう地道な仕事をしてそれからまた歌論のようなものをやるのならそれをもとにして大いにやったらいい。歌論は少しはできなくてはだめです。できなくてはだめというよりやらなくてはだめだ。(略)山口茂吉という、私の先輩だが、その人のことを斎藤先生が「山口君は歌論ができない」と言っている。(略)歌論をするということは自分で考えるということだからな。それがなくてはだめです。
〇ある時に、昭和十何年かな十頁位「アララギ」に文章をのせたが、先生に「君は歌より文章の方がうまいな。」といわれ、オレは大いに不満だったが「歌より」というところが不満だった。しかし、先生が文章を認めてくれたわけです。(略)歌論だって歌だって同じだが年と共に成長するからね。
〇歌なんてものは作らなくても進歩する時は進歩するから。これは斎藤先生がいったことだ。私も実感としてわかるんだ。
〇人に遠慮しないでどんどんやる。自分の思うことをどんどんやる。人まねをしていてはだめだ。(略)「歩道」なら「歩道」という一つのわくがあってその中でめちゃくちゃなことをやっているように見えるくらい全部自分の考えで人と違うことをやらなくては。私はアララギで育ち、アララギにいたが、人と同じようなことはしていない。それが一番大事だ。それがまちがっていれば自然と気がつくし(略)私みたいなものがいればいくらか舵をとってあげられる。
〇いずれにしろ自分の好きなようにやるのがいい。いじけたようになって同じ型の中に入っていってはだめだ。そういうのは大成しない。
二〇二四(令和六)年十月号
作歌上の留意事項 大塚秀行
東京歌会に参加して次のような指摘があった。「一首は作者の父を詠んだ歌だが敬語が使われている。身内に敬語は使わないのではないか」。よく勉強されている方である。成程『歩道作歌案内』の留意事項に「身内の者に敬語、丁寧語を使はない」とある。これは、日本語の文法では自分の事や肉親には敬語は使わないということによっている。では、一首に詠まれた敬語は推敲すべきなのか。ここで、次の様な歌があることに着目したい。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は
死にたまふなり 斎藤茂吉
なきがらとしづまり給ふ父に見ゆその上にわ
が身をしかがめて 佐藤佐太郎
二首とも「死」という人間の生の中で最も厳粛な瞬間を詠嘆しているが、「給ふ」という敬語を使うことにより、母や父の尊厳を鮮やかに浮かび上がらせているのだ。このような歌に出逢うとき、「身内に敬語を使う」場合があってもよいことに気づく。もちろん原則として大切にすべき事柄だが、一首の流れの中で適切か否かを判断すべきだと思う。そのような眼で東京歌会の「父の歌」を読んでみて、私は適切な敬語の使い方だと思っている。
さて、短歌を詠む上で様々な留意事項があるが、佐太郎に次の様な歌があることに注目したい。
あゆみ来て水見えるときさわがしい港の音は
その水にある 『群丘』
「つぐなひは済んだぜ」「借りは返したぜ」
古き日本のことばにあらず 『冬木』
一首目の「見える•さわがしい•ある」と、二首目の括弧内の言葉と口語調である。佐太郎は『短歌作者への助言』で次のように述べている。
「短歌において文語を用い古語を用いるのは短歌が『詠嘆の形式』であるという本質にもとづいている。 (中略) 同時に新しい工夫を怠ってはならない。その工夫というものはどこまでも短歌の根本形式の要求するところに従って追及されねばならない。」 (「文語」より)
佐太郎は短歌の本質を押さえつつ新しい表現を求め続けていたのだ。
二〇二四(令和六)年九月号
ハイブリッド歌会 波 克彦
テレビ会議とかビデオ会議などと称されるインターネットを利用した会合、いわゆるオンライン会合が以前から実業界では利用されてきた。新型コロナウイルス感染が広まって、リモート勤務(在宅勤務や自宅以外の場所での勤務)が急速に広まった。リモート勤務にはメリットも多いがデメリットもある。メリットの一つは何といっても通勤時間が不要になり業務に就く時間も比較的自由にできることが挙げられる。一方デメリットもあり、とりわけ大きなデメリットは、組織に所属する者として同じ組織に所属する者とのフェイス・トウ・フェイスの接触がなくなることから、組織人としての一体性、組織に対するアイデンティティーの維持がおろそかになることである。
リモート勤務者間、およびオフィスに出勤している者との会合などの接触の機会として、インターネット会合が急速に普及し、更には会議室にいて会合に出席する者とインターネットにて参加する者とが混在して同一の会合を構成するハイブリッド会議という方式も非常に多く利用されるようになった。
私たち短歌に親しむ者にとっては、会場に集って歌会をすることが短歌の研鑽の重要な場であるが、新型コロナの蔓延していた頃には一堂に会することが出来ず、紙上歌会といった方式で何とか歌会が続けられてきた。コロナ対応が昨年五月八日から感染症の第五類対応になってようやく従来のように会場に集って歌会を開くことができるようになり、やはり紙上歌会では得られなかった短歌・作歌の解釈や知識の向上が図れるようになった。
しかし、会員の高齢化などのために全国大会を開くことも今となっては困難な状況にあり、前述のような実業界で急速に普及しているインターネット会合やハイブリッド会合を導入していくことを考えていくことが有益である。
全国大会とまでいかなくても、支部歌会や拡大地域歌会・合同歌会をハイブリッド歌会として開催することを考えてみても良いのではないか。ハイブリッド歌会のメリットは、会場に集うことができる会員は会場に集まり、会場まで足を運ぶことが難しい会員はインターネットでその歌会に参加することができることである。歩道短歌会の活性化にもなるので、今後の検討課題である。
天皇の御製歌 土肥義治
『万葉集』の作者層は、皇族・貴族・官人から農民•遊行女婦に至るまでの多様な階層に及ぶ。今回は律令国家への歩みを開始し「天皇」号を用い始めた飛鳥・藤原時代の天皇の御製歌を取り上げる。中国では天子は天命を受けた為政者であり、暗君は交代すべきと言う易姓革命の思想がある。しかし日本では天皇は天孫降臨の現人神であり、万世一系との思想がある。
最初に、百済滅亡、白村江での大敗、国土防衛、近江遷都と国難の続く時代を率いた天智天皇の歌を紹介する。
香久山と耳成山と会ひしとき立ちて見に来し
印南国原 (一四)
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜あき
らけくこそ (一五)
香久山と耳成山が相争ったときに、出雲の大神が播磨の印南国原まで争いを見に来たという伝説を歌にした。また海辺の雄大な夕雲の光景と明月への期待を詠じている。二首ともに播磨の地祇を祝ぐ気宇壮大な御製歌である。
天智の崩御後に天智の皇子大友と弟大海人との間に後継者争い(壬申の乱)が起こり、大海人が勝利し即位した。天武天皇は「神」とあがめられた。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よ
く見よ良き人よく見
吉野行幸に同行した六皇子に相助け合うことを誓わせたときの天武の御製(二七)である。しかし天武亡き後に盟約は破られ、大津皇子は謀反者となり自害した。皇太子の草壁も早世し、そのため皇后の持統が天皇に即位した。
持統天皇の御製歌二首を紹介する。
春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香
久山 (二八)
北山にたなびく雲の青雲の星離れゆき月を離
れて (一六一)
後歌は天武崩御の悲しみを詠じており、青雲に天皇を、星に皇子たち、そして月に皇后を暗喩したのであろう。
最後に奈良への遷都を成し遂げた元明天皇(草壁の妻)の歌二首を記す。
ますらをの鞆の音すなりもののふの大臣槍立
つらしも (七六)
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があた
りは見えずかもあらむ
前歌は矢を射る厳粛な大嘗祭での緊張感を、後歌(七八)は明日香の故地に眠る天武•草壁・持統•文武などを置きて去る哀愁を詠じた御製であろう。
二〇二五(令和七)年十一月号
澤本長清郎への佐太郎先生の礼状 八重嶋勳
元歩道会員澤本長清郎氏が逝去、遺族から蔵書等の処分について相談され、八月三十一日、菊澤研一•山本豊氏と共に訪問、長男長女孫が迎えてくれた。歌集歌書等蔵書約三千冊、額、軸、書簡、資料等多数。菊澤氏が、調査の際、菊澤研一•澤本長清郎宛ての先生の書簡がある筈是非見付けて欲しいとのこと、注意して三時間余調べた。中々見つからなかったが、遺族が出してきた軸に、遂に見付ける事が出来た。澤本氏はこの書簡を表装して大切に保存。
昭和五十一年五月二十四〜二十五日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、岩手の正法寺・猊鼻渓に遊んだ。片山新一郎氏等宮城県金成町の会員、岩手から森山耕平・菊澤•板宮清治•澤本•八重嶋等総勢二十名程が参加。曹洞宗古刹正法寺を見、猊鼻渓の舟下りをした。断崖絶壁の中を静かに流れる砂鉄川二キロ程を大型の平田舟に客を三、四十名を乗せ、船頭が棹一本で操り往復。所々で名所のガイド・猊鼻追分を歌ったりした。鯉や鮠等が舟を取り巻くようにしてついて来る。切り立つ岩の所々に丁度見頃の藤の花が美しく垂れて咲いていた。最も奥に着いて下船。徒歩で五百米程行ったところが終点で獅子の鼻の様な巌があることからの命名。
翌朝私達が目覚める前、先生は、舟を出してもらってもう一度見て来たと言うことで皆驚いたのであった。
先生の書簡の内容を掲げて置こう。
今日出来た猊鼻渓の歌四首あり。
一報、先日は寫真忝し。
雲のごと藤さく洲あり断崖のきりたつ川をさかのぼり来て
晴れし日の水の光は石壁にありその下のさく藤にあり
石壁の下の川洲にむらさきの藤を明恵にまねび憐れむ
山なかの音なき川にまれまれに河鹿なくとき川音きこゆ 以上
七月二日 佐藤佐太郎
沢本長清郎君
投函一両日後になるべし
澤本氏が先生に写真を送った御礼の書簡である。この写真は、猊鼻渓の奥の洲で、たわわに咲く藤棚を左に見て先生が杖を携え独り歩む姿である。澤本氏の書庫の一番奥にパネルに仕立てたこの写真が掲げてあった。私がいただいてきて早速書斎に掲げた。
二〇二五(令和七)年十月号
終戦八十年 仲田紘基
臥しながら遠く花火の上がる見ゆ終戦の日の
生家の庭に 波克彦
昨年、東京歌会に出詠された一首。四句の「終戦の日」という言葉をめぐって議論などもあった。この歌は戦争が終わったその当日、すなわち昭和二十年の記憶ではないか、といった解釈が出されたりした。
この歌の「終戦の日」は、いわゆる終戦記念日、単に終戦日とも言われる八月十五日。今年は戦争終結より八十年という一つの節目の年でもある。
私たちの仲間には高齢の方が多い。それだけに、体験に基づく貴重な作品に「歩道」誌でしばしば出会う。
父母もはらからもゐて零下なる寒き樺太時代
恋しき 高野スエ
「ただいま」と軍服の叔父立つ土間に名を呼
び母は縋りて泣きぬ 畑岡ミネヨ
文字に残さなければ忘れ去られてしまう事実である。戦争体験を歌に詠むことの意義と意味を改めて思う。
私はかつて、東京歌会に「開戦後ひと月われの生れし日の新聞はあまたの戦果伝ふる」という詠草を出したことがある。昭和十七年一月七日が誕生日。戦争が始まってちょうどひと月だ。
自分の生まれた時代がどんなだったか。当時の雑誌を収集してみて驚いたことだが、ジャンルや読者対象を問わず、一様に戦意高揚を叫ぶ文章が誌面にあふれている。短歌雑誌『短歌研究』や『アララギ』の昭和十七年一月号に発表された茂吉や佐太郎の作品にしても、その例外ではなかった。
今、私の手元に『少女俱楽部』という雑誌の新年号がある。表紙の少女の絵に添えて、「この一戦、何がなんでもやり抜くぞ!」と書かれている。最後のほうに「編輯部だより」というページがあり、そこには少女に向けてなんと次のようなことが記されていた。
皇軍は連戦連勝、すばらしい戦果をあげてをります。私どもはこの大御代に生まれた幸を思ふこと切でありますが、それとともに勝つて兜の緒を引きしめることを忘れてはなりません。
二度とないだろうような時代。二度とあってはならないとだれもが思うような時代。私が生まれたのはそんな「大御代」だった。
二〇二五(令和七)年九月号
コロッケと短歌 星野 彰
ものまね界のレジェンドと言われるコロッケのインタビュー記事を読んだ。彼の言うところは短歌の世界にも通じるかと思う。彼は言う「その人を徹底的に観察して、最初は普通にまねするところから始めて、どんどんデフォルメして、その人が言わなそうなこと、やらなそうな動きを次々に足して行く」と。これはわれわれが対象を徹底的に観察し、自分の言葉で表現して、独創性を磨いて行くという事に通じるであろう。また「芸は年を重ねるごとに余計なものがそぎ落されて磨かれていくものだと思います」ともいう。私達が短歌を始めて以来、常に教えられてきた「単純化」そのものである。またインタビュアーはコロッケの芸に対し「ほどよく枯れていき、その年齢でしかみられない芸の凄みや深みの『味』や『粋』に心打たれることもあります」と言う。これは私達にとって非常に重要で励みとなる言葉である。歩道の歌には老いに因る体の不具合の嘆き、つれあいとの別れの悲しみ、施設に入居する環境の変化への戸惑い等の歌に充ちている。その為に外部からは歩道の歌は類型的であると言われることがあるがそのようなことは無いのである。それぞれの歌には作者のそれぞれの、その時その時の感動があるのである。詠うテーマが同じであれば表面的には類型的と見えることもあろう。しかし作者としては同じテーマを詠うにしても「その年齢でしか見られない芸の凄みや深みの『味』」を追求しているのである。類型的と言われる由は無いのである。そう、短歌は芸術であるから芸の凄み、深みを追求していくべきであろう。我々歩道会員は佐太郎の「作歌真」を念頭に作歌に励むのである。しかし一方、短歌には排悶という効用がある。短歌を詠むことにより心の悶えを払う、悲しみを和らげるということである。それは生きることへの励ましとなり、活きる力を与えるであろう。結社には様々な人が参加している。芸術性よりも排悶を主とする人もいるであろう。結社はそれで良いのではないかと思う。芸術性を極限まで求める人がいる、排悶によって苦しみを和らげる人がいる、この多様性こそ結社の存在意義なのではなかろうか。
二〇二五(令和七)年八月号
声調について 戸田佳子
今年の三月、千葉市短歌協会主催の短歌大会があり、その折「声調のいい歌、そうでない歌」というテーマで鼎談が行われた。
短歌に声調が大切な要素であることは言うまでもない。佐藤佐太郎も「作歌真」で「声調徹り」と述べている。御著書『短歌指導』から抜粋する。
・「声調」は浅い意味の「調子がよい」ということではなく、真実のひびき、いぶきというものがこめられるかどうか、という点において声調を理解すべきである。
・五音、七音の句を声調の単位として考え、その句単位が意味内容的にひとつの独立をしていると考える。これが声調の要素。
・句の単位がはっきり抑えられていれば、必要に応じて破調になっても、それは定型の歌を作っているといえる。
当日の鼎談で私は問題提起のつもりで「そうでない歌」として茂吉の「虚空小吟」(『たかはら』)二首を示した。そのうちの一首が
直ぐ目のしたの山嶽よりせまりくるChaos
きびしきさびしさ
である。昭和四年十一月二十八日に初めて飛行機に乗った時の歌で、作者は「工夫して新味のある歌を作った」(「作歌四十年」)という。佐藤佐太郎は自著『茂吉秀歌』でこの歌について次のように述べている。「『直ぐ目のしたの山嶽より』までが一句から三句に当たり、『せまりくるchaos』が四句に当たる。思いきった破調で(略)一首が直線的に堅固に形成されている。(略)この歌も一息に連続して読むことによって短歌のひびきを聞くことができるであろう。」、『短歌指導』でも「破調でありながら短歌の形態と声調とをたもち得ている。」と述べている。これなども前述した「句の単位がはっきり抑えられていれば(略)破調になっても、それは定型の歌を作っているといえる」ということになる。
佐大郎、茂吉がこのように述べており、決着のついた歌であるが、声調という観点からもう一度考えてみたいと思ったのである。鼎談は時間の都合で議論できずに終わってしまった。それにしても「声調」と一言でいっても一筋縄ではいかない。
二〇二五(令和七)年七月号
ランチョンの色紙 長田邦雄
東京の神田に世界的に有名な古書店街がある。私は若い時分にたびたびこの街を歩いて先生の歌集や著書を探した。特に歌集の「しろたへ」や「立房」はみつけることが困難であった。また、運よくめぐりあっても高額で買うことが出来なかった。やっとのことで入手が出来ると私は先生にお願いして署名をしていただいた。
さて、その古書店が建つ靖国通りの向い側にレストランの「ランチョン」がある。風格のある立派な店で若い私には敷居が高かった。その店に先生の色紙があることを岩手の菊澤研一氏から知らせていただいた。私は古い友人のT氏と「ランチョン」を訪ねた。彼は現在写真家として地元で活躍をしている。「歩道」の表紙にある先生の絵は彼が撮影してくれたものである。
店主に先生の短歌の書かれた色紙の存在を確認して見せていただいた。色紙には『泪いづるまで懐しむわが若く麦酒を飲みしところはここぞ』と、そのとなりに月原橙一郎氏の『神田ハどんぐりぞランチョンぞゆめ青春今日もあり』が書かれ、昭和四十九年七月二十日の日付がある。先生と月原氏の関係は私には分からない。この色紙を撮影したのはその年の十月である。写真はすぐに菊澤氏にお届けした。
ところが、突然「ランチョン」は火災に遭遇して色紙も焼失したと思われた。それからどれ程経ったか、店は再建して復活した。
後日、私は店を訪ねた。店主にあの時の色紙の撮影をさせていただいた礼を述べて、その有無を確かめた。やはり色紙は焼失していた。残念にほかならない。
昭和の時代のなつかしい思い出のひとつである。
二〇二五(令和七)年六月号
作歌上注意すべき言葉 大塚秀行
「初孫」「初雪」など「初」は、多くの人に使われていくうちに手垢のようなものが付いて俗な言葉になっており、作歌をする上で好ましくない語と言われている。これは言語感覚の問題だが、短歌を作る上で大切にしたい感覚である。一方、「初〇〇」は絶対に使ってはならないというものでもない。秋葉四郎は『短歌入門』の中で次の様に記しているのである。
農業に転職をして初生りの茄子をしみじみ手
にいだきをり
などの場合は、手垢がついている言葉でも、杓子定規に否定してはならない。転業して今初めて生った茄子を手にしているのが特殊であり、生活感のある感慨である。 「推敲のポイント」
「初生り」は一首の中で生きているから用いてもよいというのである。
次に、「小春日和」「春一番」などについて考えてみたい。佐藤佐太郎は『作歌の足跡』に次の様に記している。
春一番といふ風ふきし日のゆふべ黒き雲あか
き桃に日がさす
「春一番」は気象台用語だが、「といふ風」と言ったら俗臭がなくなるだろうと思って、こういう表現をしたが、結果は良かったか、悪かったか、わからない。 「雑歌⑴」
俗な言葉でも工夫をすれば歌の中で使える可能性があることを教えられる。
最後に、「教へ子」について考えてみたい。この語は俗でもあるが、語の背後にある尊大さ、傲慢さの匂いが気になるのである。しかし、その点を理解した上で文字通りの「かつて教えた児童、生徒」として自然に詠まれた場合には使ってよいと思うのである。仲田紘基の歌に次の一首がある。
教へ子の名の記されし産直の大根買ひぬ懐か
しければ 『追憶岬』
この一首は、「かつて教師として指導した生徒を懐かしみ、その成長をよろこぶ」作者の率直な感慨に共感できる歌になっている。自分が教えたのだという尊大な気持ちが根底にない歌として詠まれているからだろう。
言語感覚による「通俗な言葉」を歌に詠んではいけないという基本を押さえつつ、俗な言葉でも様々な工夫や使い方により一首の中で生きている時には使ってもよいという認識を持ちたく思う。
二〇二五(令和七)年五月号
ゼロからの純粋鑑賞法 波克彦
佐藤佐太郎先生(以下「佐太郎」)は、斉藤茂吉の歌について、「先生の歌は、『万葉調』と『写生』とを根本として成りたち、語気、言葉のひびきを最も重んじた歌人であった」と自著『茂吉秀歌』(岩波書店)上巻に書いておられる。また、同著において佐太郎は、茂吉の一首「ひんがしはあけぼのならむほそほそと口笛ふきて行く
かような茂吉や佐太郎の考えに従い、筆者は、短歌の鑑賞法として、ゼロからの鑑賞法、言い換えれば純粋鑑賞法を旨として、短歌を鑑賞することにしている。
筆者の八十年の生涯の生活スタイルは、かつて自然科学の分野に身を置いた一研究者のときも、野球やゴルフなどのスポーツにおいても、ピアノやフルートの演奏など音楽においても、生活全般においても、理論より実践、自分で考えて仮説を検証して実践することにあった。短歌においても、目で見、耳で聴き、体(五感、八感)で捉えて作歌する実践を中心としてきた。
歌から読み解く作者の心、ゼロからの鑑賞の勧め、これから歌に親しもうとする人、短歌に必ずしも長く親しんできてはいない一般の人には、短歌を堅苦しく考えないで、是非ゼロからの鑑賞で良いのだと伝えたい。そして、どんな歌・作品の鑑賞においても、ゼロからの純粋鑑賞法を一義的鑑賞法として重視して参りたい。
二〇二五(令和七)年四月号
女官歌人の額田王 土肥義治
額田王は鏡王の娘として六百三十年頃に生まれ、十代前半に皇極天皇の宮廷に出仕した。皇極の次男である大海人皇子の寵愛を受け十市皇女を生む。才智に富む王は出産後も宮廷女官として天智までの歴代天皇に三十年近く仕えた。万葉第一期を代表する歌人であり、長歌三首、短歌九首を残した。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治のみやこ
の仮廬し思ほゆ (七)
皇極上皇が近江に行幸した折に、夫の舒明天皇と宇治の地にて旅宿りした女帝の回想を聞き、その心情を詠んだ額田王の出世作である。女帝は格調の高い歌に満足し、王を傍から離さず女官歌人としての位を与えたのであろう。
上皇は弟の孝徳天皇が崩御したのち重祚した。六六〇年に唐・新羅の連合軍により滅ぼされた百済救援のために出陣し、伊予の熟田津にて天皇に代り額田王は船団出発を予祝し詠った。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ
今は漕ぎ出でな (八)
天皇は筑紫の朝倉宮にて崩御し、百済に送った大軍は白村江にて唐・新羅の連合軍と戦い大敗した。中大兄皇子は六六七年に外敵の襲来に備えて大和の地を離れ近江に都を移した。額田王は近江遷都にあたり惜別の歌を詠んだ。
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠
さふべしや (一八)
皇子は近江にて天智天皇に即位した。額田王は後宮女官として詩宴や宴会の場に侍り作歌した。蒲生野に遊猟した宴会において額田王と大海人皇子との間にて交した有名な贈答歌を紹介する。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君
が袖振る (二〇)
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわ
れ恋ひめやも (二一)
娘の十市皇女は、天皇の長男の大友皇子の正妻となり葛野王を儲けていた。これらの二首は余興の恋歌であろう。
天皇は六七一年に崩御し、大友皇子と叔父大海人皇子との間に皇位継承をめぐり大戦「壬申の乱」が起きた。敗者の大友皇子は自害し、勝者の大海人皇子は天武天皇となった。額田王は天武宮廷を離れて静かに余生を過ごしたことと思う。六九〇年頃に王が詠んだつぎの贈答歌が万葉集に残っている。
古に恋ふらむ鳥は杜鵑けだしや鳴きしわが思
へるごと (一一二)
二〇二五(令和七)年三月号
龍泉洞歌碑建立余話 八重嶋勲
令和六年十月二十二日、佐藤佐太郎先生の龍泉洞の「地底湖」歌碑建立二十五年目、菊澤研一、山本豊、八重嶋勲が訪れ歌碑の状態を見分した。岩泉町の龍泉洞管理事務所がとても良い管理をされ歌碑は黒光りして文字もはっきりしており、三人は安堵し無言でしばし歌碑に対座、思い出を語り合った。
昭和四十五年十月二十五日、佐藤佐太郎先生は、龍泉洞に遊ばれ「地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音」他五首を作歌された。バスで総勢三十名の吟行会であった。
平成七年十二月十八日、岩泉町の内村利裕教育長に八重嶋勲(盛岡市教委総務課長時代、岩手県市町村教育委員会協議会及び東北七県(新潟を含む)都市教育長協議会事務局長を務めていた関係で)が、龍泉洞前に佐藤佐太郎歌碑を歩道岩手の会で建立したい旨打診、同月二十八日付、好意ある書簡をいただいた。菊澤研一会長、菅原照子、千田伸一副会長、八重嶋勲副会長兼事務局長が相談。歩道岩手の会役員会、総会で事業として歌碑建立を行うことに決定した。会員百八十有余名からの募金も思いのほか多く寄せられ、(有)吉昭石材工業の施工も順調に進み、澤尻弘志氏(国鉄・JR職員で全国の啄木歌碑等の拓本を沢山採取した方)に歌碑・副碑の拓本を採取、額装してもらい、後に歌碑と共に岩泉町に寄附した。
岩泉町の龍泉洞公園整備計画の中に位置づけていただき、平成十年十一月十日、歌碑・副碑の建立を無事終えた。
除幕式は翌十一年五月三十日、佐藤佐太郎先生令嬢渡辺洋子様始め岩手県内外の多くの歩道会員•八重樫協二岩泉町長•内村利裕教育長等関係者参加。盛大なる建立式典、祝賀会を行った。
龍泉洞は外国人も多く訪れるので、私は歌の英訳を思いつき、盛岡市教委指導課の佐藤孝指導主事に相談、米国からのALT (英語指導講師)マイヤ・フィールド(女性)さんに話してもらった。シカゴ市のお母さんノーマ・フィールドさんは日本文学研究家。暫くして四行の短歌の英訳が届いた。これを歌碑の裏面に彫り込んだ。拓本を幾枚か採取した。私が、上京の折り、志満先生に持参し、しどろもどろに読んでいたところ、志満先生はにこにこしながらすらすらと読まれたのであった。
二〇二五(令和七)年二月号
「輝」を垂る 仲田紘基
よく知られた佐太郎の名歌の一つに次の一首がある。
夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝
を垂る
「夕光」には「ゆふかげ」、「輝」には「かがやき」とルビがつく。この歌は市原市にある佐藤佐太郎研究資料室入口の歌碑に刻まれているし、これを取り上げた鑑賞文や解説も多いが、大辻隆弘氏の解釈は個性的で、そのとらえ方に私は興味をひかれた。
大辻氏は「輝」が漢字一字で表記されている点に注目している。「これによって花の光の反射が硬いソリッドなものとして感じられる。」(『コレクション日本歌人選・佐藤佐太郎』笠間書院)と言うのだ。
作歌の際に語の表記をひらがなにするか漢字にするか、だれもが気をつかうところだろう。大辻氏は「送り仮名を振って『輝き』と書いたら硬質な手触りは感じられなくなってしまう」とも言っている。
表記から「硬質」感をとらえたのはおもしろい読み方だが、ここで考えてみたいのは、佐太郎はもともと名詞に送り仮名を付けないことが多いという点だ。『歩道作歌案内』にも「歩道では名詞には原則として送り仮名をしない。」とある。例えば「流れ」は「流」となる。そこには例の一つとしてこの「輝」も示されている。
内閣告示の「送り仮名の付け方」は芸術などの分野に及ぶものではない。どう表記しようと作者の自由だが、それは他に強制すべきものでもない。
先日、小学校の国語教科書を見ていたら、芭蕉の名句が次のように紹介されていた。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
芭蕉のもとの句は「閑さ」だが、活用語尾の前の「か」から送るという送り仮名の付け方にならって、こう表記されていた。「閑」を「静」に書き直したりはしていないから、これによつて感動の質が変わることもないだろう。
一結社の中だけでしか通用しない表記があるとしたら、それは決して好ましいことではない。仮に歌の表記が「輝きを垂る」と「誤記」されることがあったとしても、そのことによって感動の本質が損なわれるような作品ではない、と私は思っている。
二〇二五(令和七)年一月号
短歌ブームと抒情詩 星野 彰
現在は短歌ブームだそうである。短歌を作る若い人が増えているそうである。しかし、われわれ結社に所属する者にとっては短歌ブームなど全く感じることは出来ない。若い人達はどこで短歌を発表するかと言えばライン、X、フェイスブック等のネットで発表し結社には入らないそうである。そこで発表される短歌と言えば、「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」(岡本真帆)や「ふりむけば君しかいない夜のバスだから私はここで降りるね」(木下龍也)と言った歌である。五句三十一音からなれば短歌と言えるのか。短歌は抒情詩である。感動の表白である。これらの歌は頭を掠めた思いつきを五・七・五・七・七に押し込めたに過ぎないのではないか。しかしこのような歌は既に、一九八七年に出版された俵万智の『サラダ記念日』に始まっている。代表作「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」は軽く深みがなくわれわれの目指す短歌ではない。これらの歌とは棲み分ければ良いのであろう。そして棲み分けたいと思うもう一つの傾向がある。現在の歌壇を席巻している難解な短歌である。難解な短歌は一九六〇年代に活発になった塚本邦雄らの前衛短歌運動に始まるが、現在は新聞の歌壇欄にまで及ぶ。また、令和五年の迢空賞受賞作、水原紫苑の「快楽」の中の一首と言えば「鏡持つ人類さびし、鳥、けもの、石、夕焼け鏡見よ 狂へ」である。暗号ではないか。大塚布見子は難解な短歌に対し、「作者の一つの思念を、自分勝手に吐き出した字句の羅列を短歌と銘打たれては叶わない」と一刀両断しているが全くその通りと思う。今まで述べて来たような歌において上達することなど不可能ではないか。上達不能な短歌の作歌へのモチベーションを保ち続け得るのだろうか。生涯このような歌を作り続けることへの虚しさを感じないのだろうか。私達は良い歌を詠みたい、明日は今日よりも良い歌を詠みたいと願って努力しているのである。その為に添削があり歌会が有るのかと思う。短歌の上達とは、より多くの人により深く感動を共有して貰うことであろう。私達の生き方は間違ってはいない。佐太郎は言っている。「言葉に言えない感情を、捉え難い生の律動である感情を言葉に表すのが抒情詩である」と。
二〇二四(令和六)年十二月号
小学生と短歌 戸田佳子
六月号の本欄で仲田紘基さんが「俗」という題で、中学校の短歌教材について「疑問をいだいた」とあった。私も最近、小学校の短歌教材について疑問をいだくことがあった。
今年、千葉市のある公民館主催の講座で小学一年から三年の児童に「短歌を作ってみよう」という催しがあり、講師として参加した。出席者は五名で、皆真剣に取り組み、作品の出来映えも上々であった。この折、公民館の職員の方が「三年生は短歌の授業でこんな作品を勉強している」といって、教科書に載っている作品四首を示して下さった。
むしのねも のこりすくなに なりにけり
よなよなかぜの さむくしなれば 良寛
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音に
ぞおどろかれぬる 藤原敏行
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は
悲しき 猿丸大夫
天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出
でし月かも 安倍仲麿
私はこれまでに何度か小学生を対象とした短歌講座の講師を務めたが、うかつにも小学生が学校でどのような短歌を学習しているか知らず、調べることもなかった。今年右の四首を知り意外な思いであった。小学生が短歌を学習することは大変好ましいことだが、三年生がこのような作品に興味・関心を抱くのかと思った。そこで私の住む千葉市の小学校で採択されている国語の教科書を調べてみた。初めて短歌を学習する三年生は「短歌を楽しもう」として「声に出して読み、言葉の調子やひびきを楽しみましょう。気に入ったものは、おぼえて言ってみましょう。」とあり、先の短歌四首が口語訳と共に並べられていた。因みに四年生では「短歌・俳句に親しもう(一)」として、短歌では志貴皇子、光孝天皇、素性法師の作品が口語訳と共に並び、三年生のものと同様に 「声に出して云々」とある。更に「短歌・俳句に親しもう(二)」では石川啄木、与謝野晶子、佐々木信綱の作品が並び「作品に表された風景を想像してみましょう。」とあった。
僅かな数の作品で短歌に興味・関心を持たせることはむずかしいかも知れないが、もう少し身近な、親しみのもてる作品を示して欲しいと思った。
二〇二四(令和六)年十一月号
思いつくまま 五 長田邦雄
〇斎藤茂吉先生では「居る」という字を書く場合だね。「ゐる」か「をる」かと迷う場合がある。私などははっきりわかるが柴生田さんなんかはわからない。と言っている。それは僕は先生から聞いているからね。「歌は文語だからここは『をる』だ」と斎藤先生ははっきり言っている。そういう訳で、かな書きにすると思いがけない、今まで問題にしないで読んでいたところが障害となることがある。幸いなことに本人がまだ生きているからね。そういう時は聞いたらいい。
〇これ何部作ったか知らんが、せっかく作って印刷しているからこれを熱心で欲しいという人に少し分けるようにしたらいい。「歩道」にも広告を出すから。
〇とにかくこういう地道な仕事をしてそれからまた歌論のようなものをやるのならそれをもとにして大いにやったらいい。歌論は少しはできなくてはだめです。できなくてはだめというよりやらなくてはだめだ。(略)山口茂吉という、私の先輩だが、その人のことを斎藤先生が「山口君は歌論ができない」と言っている。(略)歌論をするということは自分で考えるということだからな。それがなくてはだめです。
〇ある時に、昭和十何年かな十頁位「アララギ」に文章をのせたが、先生に「君は歌より文章の方がうまいな。」といわれ、オレは大いに不満だったが「歌より」というところが不満だった。しかし、先生が文章を認めてくれたわけです。(略)歌論だって歌だって同じだが年と共に成長するからね。
〇歌なんてものは作らなくても進歩する時は進歩するから。これは斎藤先生がいったことだ。私も実感としてわかるんだ。
〇人に遠慮しないでどんどんやる。自分の思うことをどんどんやる。人まねをしていてはだめだ。(略)「歩道」なら「歩道」という一つのわくがあってその中でめちゃくちゃなことをやっているように見えるくらい全部自分の考えで人と違うことをやらなくては。私はアララギで育ち、アララギにいたが、人と同じようなことはしていない。それが一番大事だ。それがまちがっていれば自然と気がつくし(略)私みたいなものがいればいくらか舵をとってあげられる。
〇いずれにしろ自分の好きなようにやるのがいい。いじけたようになって同じ型の中に入っていってはだめだ。そういうのは大成しない。
二〇二四(令和六)年十月号
作歌上の留意事項 大塚秀行
東京歌会に参加して次のような指摘があった。「一首は作者の父を詠んだ歌だが敬語が使われている。身内に敬語は使わないのではないか」。よく勉強されている方である。成程『歩道作歌案内』の留意事項に「身内の者に敬語、丁寧語を使はない」とある。これは、日本語の文法では自分の事や肉親には敬語は使わないということによっている。では、一首に詠まれた敬語は推敲すべきなのか。ここで、次の様な歌があることに着目したい。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は
死にたまふなり 斎藤茂吉
なきがらとしづまり給ふ父に見ゆその上にわ
が身をしかがめて 佐藤佐太郎
二首とも「死」という人間の生の中で最も厳粛な瞬間を詠嘆しているが、「給ふ」という敬語を使うことにより、母や父の尊厳を鮮やかに浮かび上がらせているのだ。このような歌に出逢うとき、「身内に敬語を使う」場合があってもよいことに気づく。もちろん原則として大切にすべき事柄だが、一首の流れの中で適切か否かを判断すべきだと思う。そのような眼で東京歌会の「父の歌」を読んでみて、私は適切な敬語の使い方だと思っている。
さて、短歌を詠む上で様々な留意事項があるが、佐太郎に次の様な歌があることに注目したい。
あゆみ来て水見えるときさわがしい港の音は
その水にある 『群丘』
「つぐなひは済んだぜ」「借りは返したぜ」
古き日本のことばにあらず 『冬木』
一首目の「見える•さわがしい•ある」と、二首目の括弧内の言葉と口語調である。佐太郎は『短歌作者への助言』で次のように述べている。
「短歌において文語を用い古語を用いるのは短歌が『詠嘆の形式』であるという本質にもとづいている。 (中略) 同時に新しい工夫を怠ってはならない。その工夫というものはどこまでも短歌の根本形式の要求するところに従って追及されねばならない。」 (「文語」より)
佐太郎は短歌の本質を押さえつつ新しい表現を求め続けていたのだ。
二〇二四(令和六)年九月号
ハイブリッド歌会 波 克彦
テレビ会議とかビデオ会議などと称されるインターネットを利用した会合、いわゆるオンライン会合が以前から実業界では利用されてきた。新型コロナウイルス感染が広まって、リモート勤務(在宅勤務や自宅以外の場所での勤務)が急速に広まった。リモート勤務にはメリットも多いがデメリットもある。メリットの一つは何といっても通勤時間が不要になり業務に就く時間も比較的自由にできることが挙げられる。一方デメリットもあり、とりわけ大きなデメリットは、組織に所属する者として同じ組織に所属する者とのフェイス・トウ・フェイスの接触がなくなることから、組織人としての一体性、組織に対するアイデンティティーの維持がおろそかになることである。
リモート勤務者間、およびオフィスに出勤している者との会合などの接触の機会として、インターネット会合が急速に普及し、更には会議室にいて会合に出席する者とインターネットにて参加する者とが混在して同一の会合を構成するハイブリッド会議という方式も非常に多く利用されるようになった。
私たち短歌に親しむ者にとっては、会場に集って歌会をすることが短歌の研鑽の重要な場であるが、新型コロナの蔓延していた頃には一堂に会することが出来ず、紙上歌会といった方式で何とか歌会が続けられてきた。コロナ対応が昨年五月八日から感染症の第五類対応になってようやく従来のように会場に集って歌会を開くことができるようになり、やはり紙上歌会では得られなかった短歌・作歌の解釈や知識の向上が図れるようになった。
しかし、会員の高齢化などのために全国大会を開くことも今となっては困難な状況にあり、前述のような実業界で急速に普及しているインターネット会合やハイブリッド会合を導入していくことを考えていくことが有益である。
全国大会とまでいかなくても、支部歌会や拡大地域歌会・合同歌会をハイブリッド歌会として開催することを考えてみても良いのではないか。ハイブリッド歌会のメリットは、会場に集うことができる会員は会場に集まり、会場まで足を運ぶことが難しい会員はインターネットでその歌会に参加することができることである。歩道短歌会の活性化にもなるので、今後の検討課題である。
二〇二四(令和六)年八月号
大伴家持の二十六年間 土肥 義治
家持は七一八年に旅人の長男として誕生した。大伴氏は武家の名門であり、また歌を世襲する家でもあった。家持は、漢籍を学ぶとともに歌をも学習した。万葉集に収められた最初の歌は、十六歳にて詠んだ次の一首である。
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思
ほゆるかも (九九四)
四十二歳までの二十六年間に詠じた歌四七三首が万葉集に収められている。家持の作品が最も多く、二番目が人麻呂の九一首である。家持は万葉集の主要な編者であろう。若き日に八人の女郎や娘子と交した恋歌が多数収められている。出身後は内舎人として天皇家に仕えた。仕えていた皇子安積親王は七四四年に十七歳で急死した。家持は皇子哀悼の挽歌(四七七)を詠んだ。
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごと
きわが大君かも
家持は七四五年に従五位下が授けられ、翌年に越中守に任じられた。越中は能登四郡を含む大国であり、国府は高岡市伏木にあった。雪国越中に五年間滞在して二二三首を作った。それらの歌より四首を選び紹介する。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来
にけり (三九八七)
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つを
とめ (四一三九)
もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の
堅香子の花 (四一四三)
朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ
舟人 (四一五〇)
七五一年に小納言に遷任され奈良の都に戻った。しかし時代は、聖武・橘諸兄の世から孝謙・藤原仲麻呂の世へと移りつつあり、家持の政治的状況は厳しくなった。家持の孤独感は年毎に深まり、哀調ある独詠歌が多くなった。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐ
ひす鳴くも (四二九〇)
うつせみは数なき身なり山河の清けき見つつ
道を尋ねな (四四六八)
七五七年には橘奈良麻呂の事変が起こり多くの友を失った。翌年に因幡の国守に左遷され元旦に次の歌を詠じた。
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやし
けよごと (四五一六)
家持はこの歌を万葉集二十巻の掉尾歌に選んだ。家持は七八二年に従三位中納言・持節征東将軍として生を閉じたが、死してなお苛酷な制裁を受けた。
二〇二四(令和六)年七月号
野村胡堂と熊谷優利枝さん 八重嶋 勲
昭和五十六年十月三日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、遠野貞任高原に遊んだ。
その帰り路先生と熊谷優利枝さんが私の車に乗られた。私の住んでいる所を通過。「野村胡堂生家が見えます」と申し上げたところ、熊谷さんが「えっ胡堂さんはここの生れでしたか」と大変驚かれ「私は胡堂さんをよく往診したものでした」と本当に懐かしそうだった。先生は「ここはどこなんだい」、私は「岩手県紫波町大巻です」とお応えした。熊谷さんは杉並区上高井戸五丁目、胡堂宅は高井戸西一 丁目で隣町。
野村胡堂は代表作『銭形平次捕物控』の作者、そして野村あらえびすのペンネームでレコード音楽評論家でも著名。
胡堂生家と私の家は、二十軒ばかりの同じ行政区で極めて親しい。熊谷さんがその胡堂の主治医だったことに私は大変驚き感動したことを覚えている。
熊谷さんは、先生の高弟。主治医でもあったので、旅行等には殆ど同行され、岩手にも何度も随行された。
先生の歌に「七月二十一日」と題した四首がある。「月面におりし人を見こゑを聞くああー年のごとき一日」「ただ白き輝として人うごく永遠に音なき月のおもてに」他二首。
昭和四十四年七月二十一日、米国のアポロ十一号でアームストロングとオルドリンが月面に人類初の有人着陸を果たし約二時間半の活動をした。テレビでその様子を見感動したものである。
熊谷さんがこの様子を詠って宮中歌会始に入選されたと記憶していた。
この度家人にスマホで検索してもらったところ、昭和四十六年、お題「家」。「患者の家いくつめぐりてテレビジョンの同じドラマをきれぎれに見る」東京都熊谷美津子、とあり、初の月面有人着陸の様子ではなかった。先生が宮中歌会始の選者を務めておられた。
昭和六十年九月、「蛇崩遊歩道」を私が妻みねを案内した時、偶然にも歩行ままならない先生と次女渡辺洋子さんにお会いし、ご自宅でお茶をいただき、みねの歩道入会のお許しをいただいた。
お暇し歩道短歌会の標示のある門前でお互い写真を撮ろうとしていると熊谷さんが先生の往診を終えて出て来られ、私達の写真を撮ってくださった。
先生が昭和六十二年八月八日に亡くなられ、熊谷さんは歩道を去った。
二〇二四(令和六)年六月号
俗 仲田 紘基
最近の若者ことばむつかしい「エモい」と言
はれ途方にくれる
「歩道」誌への投稿作品の中にこんな歌があった。作者は池下晃氏。似たような経験を持つ人も多いだろう。
数か月前に、私は思いがけない場所でこの言葉に出会った。ある中学校での国語の研究授業。ちようど「短歌」の単元で、子どもに配られたプリントには授業者の探してきた短歌が一首、「エモい」短歌、という見出しを付けて載せられている。一つのモデルとして教師の鑑賞文も添えられて。
おふとんでママとしていたしりとりに夜が入
ってきてねむくなる
これは松田わこさんという、小学生のころから朝日歌壇に姉妹で投稿して話題になった作者の歌だが、こういうのが「エモい」短歌なのだそうだ。
「エモい」は「なんとも言えないすてきな気持ち」を表す俗語と言われる。この授業の学習指導案に、「『エモい』という言葉について紹介し、どのような気持ちなのか、意見を出し合う」とある。美しい日本語にたくさん触れさせたい短歌の授業で、わざわざ取り上げてまでこんな俗語を教える必要があるのか。すなおな言葉で歌を詠んだ松田わこさんも、作品が「エモい」などと言われたらさぞ苦笑いすることだろう。そんな感想を持ちながら私は授業を参観したのだった。
ところで、授業の中でもう一つ考えさせられたことがあった。それは教科書の短歌教材の問題だ。
全国どこの中学校でも二年生で短歌の学習をする。ここの学校で使用していた教科書は教育出版の『中学国語』で、教材として穂村弘氏の「短歌の味わい」という文章が掲載されていた。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプール
に星が降るなり
こんな穂村氏自身の歌を例にして鑑賞を試みたりしている。これが高校ならともかく、短歌の基礎・基本を定着させたい中学でことさら取り扱うほどの作品か、と私は疑問をいだいた。
人々がその存在を忘れている夜のプールなのだという。プールに「星が降る」など、それにしても表現がいかにも通俗だ。現今の歌壇でもてはやされそうなこんな歌なら、「エモい」短歌という言い方もよく似合うかもしれない。
二〇二四(令和六)年五月号
「歩道」と花 星野 彰
昨年の『歩道』十二月号の作品欄の作者は二百七十六名、掲載歌数は約千四百首でありその内の約三百首に花の名、樹木の名が詠み込まれている。(以下、花に統一する)二割強の歌に花が詠み込まれている。『歩道』の歌には何故このように花を詠み込んだ歌が多いのだろうか。詠み方には色々ある。花そのものを詠んだもの、生活の添景として登場するもの、覇旅の矚目として歌われたもの等である。いずれの詠まれ方にしても、花を詠み込んだ歌が多い理由は、写生短歌を旨とする歩道短歌会の行き方と大いに関係があるものと思う。写生とは観ることに始まる。観ることとは目に見えるものだけを見るということではない。視覚を含む五感で感じること、更には、心に生起する感清を感じることである。そして視覚こそが最も普遍的な外界認識の手段であろう。その視覚により身辺を見回して心を動かされるものの一つが花である。心が動けばそれを表現しようと努力する。心が動くとは、美しい、麗しいといった気持ちだけでなく、その花にまつわる思い出、花から連想される物語性が喚起され、それは作歌の大きな動機となる。それは受動的な受け留め方であるが、写生短歌を旨とする我々は能動的な姿勢をもって、つまり作歌への意欲をもって花に向うのである。生活の添景としての花も常に写生の目を持てばこそ目にする花の具体的な名が脳裏に刻まれ歌の中に現れるのである。やはり、ものを見るという写生の基本姿勢を大事にする故に花の歌が多いのである。先師佐藤佐太郎にも花の歌は多い。佐藤佐太郎全歌集(現代短歌社文庫)に収められている約六千五百首の内、約二千首に花が詠われ、花の種類は約三百七十種に上る。佐太郎は『短歌指導』のなかで「もともと感動というものは、見たり聞いたりする、その事が感動だといってよいので…表現の方法としては、とにかく実際に即してありのままを直接にあらわす」と言っている。われわれは花を詠むにもこの教えに則ろうとするのである。花においてもわれわれは佐藤佐太郎を継承しているのである。花の歌がいかに多くともそれぞれの歌には作者の個性、感動が満ちて画一的ではないのである。それが「歩道」の花の歌である。
二〇二四(令和六)年四月号
茂吉の言葉 戸田 佳子
私の手元にある歩道誌で最も古いものは昭和二十八年一月号で、その五月号が「斎藤茂吉追悼号」である。斎藤茂吉は昭和二十八年二月二十五日に逝去。佐藤佐太郎は「歩道」五月号で茂吉を追悼した。令和五年は茂吉没後七十年に当たったので改めてこの追悼号を読み直した。二十七名が執筆している。執筆者と題名は「歩道」令和三年十二月号の香川哲三編「佐藤佐太郎詳細年譜( 27)」に詳しい。
本稿では五月号の追悼号から佐藤佐太郎の「『歩道』をめぐる思出」を取り上げる。「『歩道』といっても、私の処女歌集ではなく、雑誌の方だが」と断って茂吉との思い出を語っており、その思い出の場面、場面で茂吉の言葉が記されている。「即座の談話であっても先生の言葉には作歌四十年の実歴が圧縮されてゐた。」と佐太郎は述べている。その茂吉の言葉を紹介する。(一)は歩道の歌会が終ったあとの座談である。「東京に帰ってから毎日孫を対手に遊んでゐるが、孫といふのは文句なしにかわいい、これは理屈ぢやなくかわいいもんです。皆さんは私から見れば孫のやうなものだ」「とに角歌は実相に観入するしかない。へその下に実相観入といふ信念を持ってゐればいい。骨髄に徹してるものをひとつ持ってゐれば、師匠は無限にある。今頃なにも南無阿弥陀仏ぢやあるまい、写生ぢやあるまいといふが題目をとなへる如く写生々々ととなへてればいい。腹の据ゑどころさへきちんとしてれば、あとは自由自在にゆく」。(二)また茂吉が作歌に入った機縁の幸運を回顧し、このつづきに「しかし人間は、ある程度までは、これはかなはないといふ気持を持つてゐなくてはいけない。レオナルド・ダ・ビンチのやうな大家が、バチカンでミケランジエロの壁画を見てしほしほとなるところがある。あれがいい。ああいふ偉い大家でも自分の芸術に対して悲観してゐるところがある」(三)山形から東京の歌会に出席した青年には「はるばる山形から出て来たんだから、何か学んで帰らなければならないよ。」「歌は将棋のやうに勝負が分かるもんだ。自分はとてもかなわないと思つた時は背筋に冷汗を流すやうな熱意がなくちやならないもんだ」云々。茂吉の熱い言葉に身の引き締まる思いである。
二〇二四(令和六)年三月号
思いつくまま四 長田 邦雄
前回、私の「歩道五句索引」について先生の言葉を記憶のみを頼りに少し書いたが、秋葉四郎氏が文字におこして「青九号」(昭和五十年六月)に載せているので、ここに抄出する。
この記念会は他にU氏が経済学を研究するために東京を離れることになつた送別の会もかねて開いた。紙数の都合で彼への先生の言葉はやむなく省略した。「青」は秋葉四郎氏を中心に当時二十代三十代の仲間で先生を勉強した。皆先生の「弟子」であるという自負があった。その若い弟子への先生の言葉である。
〇
〇斎藤先生はこういう地道な勉強というか仕事が好きで、僕らにもよくそういうことをやれということをいっていました。ところが実際にはなかなかそれができない。こういう地道な仕事はやさしいようで努力して継続するというのはむづかしいものです。
〇とにかく地道な努力をして仕事をするということは敬意に値する。こういうものが一つあればこれをもとにして考えたり、足場にしていろいろすることができる。たとえば「歩道」なら「歩道」みたいな言葉をどの位使っているか、随分出てくる。私は金へンの「鋪道」を歌集の名前にしようと思った。斎藤先生はすぐに歩く方の「歩道」に直してくれた。やっぱり考えることが上手です。そういう風にこの索引によっていろいろなことが考えられる。
〇君達の仕事で一つ感心だと思うことは、私のところに合本にして「アララギ」の古いところなんかずっとあるんだが、それについて貸してくれとか見せてくれとかいってきたことがない。なんでもないようだが、ある意味ではそういうのが自分で努力するということにつながることなのかも知れない。
〇たとえば「いきしか」と読むか「ゆきしか」と読むかというようなこと、こんなことは作者が生きているんだから作者に聞いたらいい。そういうところはうまく利用する方がいい。しかし考え方としては若いのに感心なところがある。自分で調べようというようなね。言葉としては「いきし」だけれども「ゆきし」と読むのがいいです。
二〇二四(令和六)年二月号
手本を学ぶ 大塚 秀行
歩道短歌会の事務局を担当してより三年が過ぎた。その中で気になることがある。会員から送られてくる詠草の中に他人の歌だとはっきり分かる歌が交っていることがあるのだ。偶然に他人の歌と似た歌ができる場合があってこれは止むを得ないが、他人の歌をそのまま自分の歌として出すのはよくないのである。
一方、私たち歩道会員は、斎藤茂吉や佐藤佐太郎の歌の優れた表現を自らの歌に生かしたいという願望を持っているのも事実であり、作歌をする上で大切な態度だと思っている。そこで、他人の歌をどのように自分の歌に生かしていけばよいのかを考えてみたい。
佐太郎の『短歌作者への助言』の「手本を学ぶ」に次のように述べられている。
歌を作るには「手本によって練習する」必要があるというのは、習字のようにあるいは臨画のように手本をそのまま真似て習うということではない。良い歌はどのように現実を現したかということを学び、短歌の調子・声調を学ぶのである。
この佐太郎の指摘の中に、良い歌を作るための重要な示唆がある。具体的な例を挙げてみる。
〇現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより
降れるこの春雨や 斎藤茂吉『あらたま』
〇うつしみは現身ゆゑにこころ憂ふ笹の若葉に
雨そそぐとき 佐藤佐太郎 『帰潮』
佐太郎の歌は、茂吉がどのように現実を現したかということを学んで作られた歌の好例である。
次に、秋葉四郎が佐太郎の歌から学び作歌した例を挙げてみる。
〇花にある水のあかるさ水にある花の明るさと
もにゆらぎて 佐藤佐太郎 『開冬』
〇花にある花のかがやき人にある人のかがやき
桜咲く道 秋葉四郎 『来往』
秋葉の歌は、佐太郎の歌の調子・声調を学んで作られた歌の好例である。
佐太郎は『短歌作者への助言』の「模倣」に次のようにも述べている。
斎藤先生は「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して成長したのであった。会員の諸氏もまた「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して徐徐に成長して行っていいのである。
二〇二四(令和六)年一月号
境涯の出た歌 波 克彦
佐藤佐太郎先生の第十二歌集『星宿』後記には、「私はこのごろ、歌に作者の影がさしてゐなければならぬやうに考へる。歌は境涯の反映だといふ考へと結局は同じだが、あまり窮屈ではなく、何を詠んでも、作者の影が差してゐればいいと考へるやうになつた。老境になつて、ほとんど歌論をしなくなつたから、最後の言葉として伝へる。」と記されている。
佐太郎先生は『短歌作者への助言』の「詠嘆」の項に、「どこまでも自身に直接なものでなければならないというのが、斎藤先生の意見であり、私の信念でもある。」と述べておられる。
短詩系文学の一つである俳句は、字数も五七五と少ない分、短歌より軽い気持で作りやすいからか、俳句に親しむ人の数は短歌より格段に多い。その原因は、短歌は五七五七七と字数が俳句より十字多いから作りにくいように思われてしまっているからであろう。俳句については素人だが、俳句は文学的嗜好から好まれているかもしれないが、俳句では短歌ほど深い境涯が出たものは作れないように思う。
短歌作品には作者の境涯が出ており、専門歌人でなくても多くの短歌作者の生活の一部となっていて、高齢になつても短歌作歌を続けられる所以であり、それぞれの作品に境涯が出ているからこそ、他者に深い共感をもたらすのである。「歩道」という短歌結社に所属して短歌作品の創作に切磋琢磨しているわれわれも、実際に会ったりしていなくても、毎月の歩道誌の作品を通じて、歌友を身近に感じ合っているのである。このような仲間同士の繫がりをもたらす効果は、作品に作者の生活に根差した境涯が出ているからこそ得られるものであり、短歌が、短歌作品を通じて知己となり、お互いの生活を支え合う文学であることを改めて認識している。そういう意味でもわれわれの歩道短歌会を誇りに思い、毎月の歩道誌の発行に引き続き力を注いで行きたい。
茂吉や佐太郎のような偉大な歌人の優れた作品を鑑賞し理解して短歌に親しむとともに、それぞれが自分の経験・体験した事象を一首に表し、その作品を何年か経った後に読み返しても当時の感動が新たに甦る作品であれば境涯が出ていることになり、その作品が読者にも深い共感を与えるものとなる。
大伴家持の二十六年間 土肥 義治
家持は七一八年に旅人の長男として誕生した。大伴氏は武家の名門であり、また歌を世襲する家でもあった。家持は、漢籍を学ぶとともに歌をも学習した。万葉集に収められた最初の歌は、十六歳にて詠んだ次の一首である。
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思
ほゆるかも (九九四)
四十二歳までの二十六年間に詠じた歌四七三首が万葉集に収められている。家持の作品が最も多く、二番目が人麻呂の九一首である。家持は万葉集の主要な編者であろう。若き日に八人の女郎や娘子と交した恋歌が多数収められている。出身後は内舎人として天皇家に仕えた。仕えていた皇子安積親王は七四四年に十七歳で急死した。家持は皇子哀悼の挽歌(四七七)を詠んだ。
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごと
きわが大君かも
家持は七四五年に従五位下が授けられ、翌年に越中守に任じられた。越中は能登四郡を含む大国であり、国府は高岡市伏木にあった。雪国越中に五年間滞在して二二三首を作った。それらの歌より四首を選び紹介する。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来
にけり (三九八七)
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つを
とめ (四一三九)
もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の
堅香子の花 (四一四三)
朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ
舟人 (四一五〇)
七五一年に小納言に遷任され奈良の都に戻った。しかし時代は、聖武・橘諸兄の世から孝謙・藤原仲麻呂の世へと移りつつあり、家持の政治的状況は厳しくなった。家持の孤独感は年毎に深まり、哀調ある独詠歌が多くなった。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐ
ひす鳴くも (四二九〇)
うつせみは数なき身なり山河の清けき見つつ
道を尋ねな (四四六八)
七五七年には橘奈良麻呂の事変が起こり多くの友を失った。翌年に因幡の国守に左遷され元旦に次の歌を詠じた。
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやし
けよごと (四五一六)
家持はこの歌を万葉集二十巻の掉尾歌に選んだ。家持は七八二年に従三位中納言・持節征東将軍として生を閉じたが、死してなお苛酷な制裁を受けた。
二〇二四(令和六)年七月号
野村胡堂と熊谷優利枝さん 八重嶋 勲
昭和五十六年十月三日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、遠野貞任高原に遊んだ。
その帰り路先生と熊谷優利枝さんが私の車に乗られた。私の住んでいる所を通過。「野村胡堂生家が見えます」と申し上げたところ、熊谷さんが「えっ胡堂さんはここの生れでしたか」と大変驚かれ「私は胡堂さんをよく往診したものでした」と本当に懐かしそうだった。先生は「ここはどこなんだい」、私は「岩手県紫波町大巻です」とお応えした。熊谷さんは杉並区上高井戸五丁目、胡堂宅は高井戸西一 丁目で隣町。
野村胡堂は代表作『銭形平次捕物控』の作者、そして野村あらえびすのペンネームでレコード音楽評論家でも著名。
胡堂生家と私の家は、二十軒ばかりの同じ行政区で極めて親しい。熊谷さんがその胡堂の主治医だったことに私は大変驚き感動したことを覚えている。
熊谷さんは、先生の高弟。主治医でもあったので、旅行等には殆ど同行され、岩手にも何度も随行された。
先生の歌に「七月二十一日」と題した四首がある。「月面におりし人を見こゑを聞くああー年のごとき一日」「ただ白き輝として人うごく永遠に音なき月のおもてに」他二首。
昭和四十四年七月二十一日、米国のアポロ十一号でアームストロングとオルドリンが月面に人類初の有人着陸を果たし約二時間半の活動をした。テレビでその様子を見感動したものである。
熊谷さんがこの様子を詠って宮中歌会始に入選されたと記憶していた。
この度家人にスマホで検索してもらったところ、昭和四十六年、お題「家」。「患者の家いくつめぐりてテレビジョンの同じドラマをきれぎれに見る」東京都熊谷美津子、とあり、初の月面有人着陸の様子ではなかった。先生が宮中歌会始の選者を務めておられた。
昭和六十年九月、「蛇崩遊歩道」を私が妻みねを案内した時、偶然にも歩行ままならない先生と次女渡辺洋子さんにお会いし、ご自宅でお茶をいただき、みねの歩道入会のお許しをいただいた。
お暇し歩道短歌会の標示のある門前でお互い写真を撮ろうとしていると熊谷さんが先生の往診を終えて出て来られ、私達の写真を撮ってくださった。
先生が昭和六十二年八月八日に亡くなられ、熊谷さんは歩道を去った。
二〇二四(令和六)年六月号
俗 仲田 紘基
最近の若者ことばむつかしい「エモい」と言
はれ途方にくれる
「歩道」誌への投稿作品の中にこんな歌があった。作者は池下晃氏。似たような経験を持つ人も多いだろう。
数か月前に、私は思いがけない場所でこの言葉に出会った。ある中学校での国語の研究授業。ちようど「短歌」の単元で、子どもに配られたプリントには授業者の探してきた短歌が一首、「エモい」短歌、という見出しを付けて載せられている。一つのモデルとして教師の鑑賞文も添えられて。
おふとんでママとしていたしりとりに夜が入
ってきてねむくなる
これは松田わこさんという、小学生のころから朝日歌壇に姉妹で投稿して話題になった作者の歌だが、こういうのが「エモい」短歌なのだそうだ。
「エモい」は「なんとも言えないすてきな気持ち」を表す俗語と言われる。この授業の学習指導案に、「『エモい』という言葉について紹介し、どのような気持ちなのか、意見を出し合う」とある。美しい日本語にたくさん触れさせたい短歌の授業で、わざわざ取り上げてまでこんな俗語を教える必要があるのか。すなおな言葉で歌を詠んだ松田わこさんも、作品が「エモい」などと言われたらさぞ苦笑いすることだろう。そんな感想を持ちながら私は授業を参観したのだった。
ところで、授業の中でもう一つ考えさせられたことがあった。それは教科書の短歌教材の問題だ。
全国どこの中学校でも二年生で短歌の学習をする。ここの学校で使用していた教科書は教育出版の『中学国語』で、教材として穂村弘氏の「短歌の味わい」という文章が掲載されていた。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプール
に星が降るなり
こんな穂村氏自身の歌を例にして鑑賞を試みたりしている。これが高校ならともかく、短歌の基礎・基本を定着させたい中学でことさら取り扱うほどの作品か、と私は疑問をいだいた。
人々がその存在を忘れている夜のプールなのだという。プールに「星が降る」など、それにしても表現がいかにも通俗だ。現今の歌壇でもてはやされそうなこんな歌なら、「エモい」短歌という言い方もよく似合うかもしれない。
二〇二四(令和六)年五月号
「歩道」と花 星野 彰
昨年の『歩道』十二月号の作品欄の作者は二百七十六名、掲載歌数は約千四百首でありその内の約三百首に花の名、樹木の名が詠み込まれている。(以下、花に統一する)二割強の歌に花が詠み込まれている。『歩道』の歌には何故このように花を詠み込んだ歌が多いのだろうか。詠み方には色々ある。花そのものを詠んだもの、生活の添景として登場するもの、覇旅の矚目として歌われたもの等である。いずれの詠まれ方にしても、花を詠み込んだ歌が多い理由は、写生短歌を旨とする歩道短歌会の行き方と大いに関係があるものと思う。写生とは観ることに始まる。観ることとは目に見えるものだけを見るということではない。視覚を含む五感で感じること、更には、心に生起する感清を感じることである。そして視覚こそが最も普遍的な外界認識の手段であろう。その視覚により身辺を見回して心を動かされるものの一つが花である。心が動けばそれを表現しようと努力する。心が動くとは、美しい、麗しいといった気持ちだけでなく、その花にまつわる思い出、花から連想される物語性が喚起され、それは作歌の大きな動機となる。それは受動的な受け留め方であるが、写生短歌を旨とする我々は能動的な姿勢をもって、つまり作歌への意欲をもって花に向うのである。生活の添景としての花も常に写生の目を持てばこそ目にする花の具体的な名が脳裏に刻まれ歌の中に現れるのである。やはり、ものを見るという写生の基本姿勢を大事にする故に花の歌が多いのである。先師佐藤佐太郎にも花の歌は多い。佐藤佐太郎全歌集(現代短歌社文庫)に収められている約六千五百首の内、約二千首に花が詠われ、花の種類は約三百七十種に上る。佐太郎は『短歌指導』のなかで「もともと感動というものは、見たり聞いたりする、その事が感動だといってよいので…表現の方法としては、とにかく実際に即してありのままを直接にあらわす」と言っている。われわれは花を詠むにもこの教えに則ろうとするのである。花においてもわれわれは佐藤佐太郎を継承しているのである。花の歌がいかに多くともそれぞれの歌には作者の個性、感動が満ちて画一的ではないのである。それが「歩道」の花の歌である。
二〇二四(令和六)年四月号
茂吉の言葉 戸田 佳子
私の手元にある歩道誌で最も古いものは昭和二十八年一月号で、その五月号が「斎藤茂吉追悼号」である。斎藤茂吉は昭和二十八年二月二十五日に逝去。佐藤佐太郎は「歩道」五月号で茂吉を追悼した。令和五年は茂吉没後七十年に当たったので改めてこの追悼号を読み直した。二十七名が執筆している。執筆者と題名は「歩道」令和三年十二月号の香川哲三編「佐藤佐太郎詳細年譜( 27)」に詳しい。
本稿では五月号の追悼号から佐藤佐太郎の「『歩道』をめぐる思出」を取り上げる。「『歩道』といっても、私の処女歌集ではなく、雑誌の方だが」と断って茂吉との思い出を語っており、その思い出の場面、場面で茂吉の言葉が記されている。「即座の談話であっても先生の言葉には作歌四十年の実歴が圧縮されてゐた。」と佐太郎は述べている。その茂吉の言葉を紹介する。(一)は歩道の歌会が終ったあとの座談である。「東京に帰ってから毎日孫を対手に遊んでゐるが、孫といふのは文句なしにかわいい、これは理屈ぢやなくかわいいもんです。皆さんは私から見れば孫のやうなものだ」「とに角歌は実相に観入するしかない。へその下に実相観入といふ信念を持ってゐればいい。骨髄に徹してるものをひとつ持ってゐれば、師匠は無限にある。今頃なにも南無阿弥陀仏ぢやあるまい、写生ぢやあるまいといふが題目をとなへる如く写生々々ととなへてればいい。腹の据ゑどころさへきちんとしてれば、あとは自由自在にゆく」。(二)また茂吉が作歌に入った機縁の幸運を回顧し、このつづきに「しかし人間は、ある程度までは、これはかなはないといふ気持を持つてゐなくてはいけない。レオナルド・ダ・ビンチのやうな大家が、バチカンでミケランジエロの壁画を見てしほしほとなるところがある。あれがいい。ああいふ偉い大家でも自分の芸術に対して悲観してゐるところがある」(三)山形から東京の歌会に出席した青年には「はるばる山形から出て来たんだから、何か学んで帰らなければならないよ。」「歌は将棋のやうに勝負が分かるもんだ。自分はとてもかなわないと思つた時は背筋に冷汗を流すやうな熱意がなくちやならないもんだ」云々。茂吉の熱い言葉に身の引き締まる思いである。
二〇二四(令和六)年三月号
思いつくまま四 長田 邦雄
前回、私の「歩道五句索引」について先生の言葉を記憶のみを頼りに少し書いたが、秋葉四郎氏が文字におこして「青九号」(昭和五十年六月)に載せているので、ここに抄出する。
この記念会は他にU氏が経済学を研究するために東京を離れることになつた送別の会もかねて開いた。紙数の都合で彼への先生の言葉はやむなく省略した。「青」は秋葉四郎氏を中心に当時二十代三十代の仲間で先生を勉強した。皆先生の「弟子」であるという自負があった。その若い弟子への先生の言葉である。
〇
〇斎藤先生はこういう地道な勉強というか仕事が好きで、僕らにもよくそういうことをやれということをいっていました。ところが実際にはなかなかそれができない。こういう地道な仕事はやさしいようで努力して継続するというのはむづかしいものです。
〇とにかく地道な努力をして仕事をするということは敬意に値する。こういうものが一つあればこれをもとにして考えたり、足場にしていろいろすることができる。たとえば「歩道」なら「歩道」みたいな言葉をどの位使っているか、随分出てくる。私は金へンの「鋪道」を歌集の名前にしようと思った。斎藤先生はすぐに歩く方の「歩道」に直してくれた。やっぱり考えることが上手です。そういう風にこの索引によっていろいろなことが考えられる。
〇君達の仕事で一つ感心だと思うことは、私のところに合本にして「アララギ」の古いところなんかずっとあるんだが、それについて貸してくれとか見せてくれとかいってきたことがない。なんでもないようだが、ある意味ではそういうのが自分で努力するということにつながることなのかも知れない。
〇たとえば「いきしか」と読むか「ゆきしか」と読むかというようなこと、こんなことは作者が生きているんだから作者に聞いたらいい。そういうところはうまく利用する方がいい。しかし考え方としては若いのに感心なところがある。自分で調べようというようなね。言葉としては「いきし」だけれども「ゆきし」と読むのがいいです。
二〇二四(令和六)年二月号
手本を学ぶ 大塚 秀行
歩道短歌会の事務局を担当してより三年が過ぎた。その中で気になることがある。会員から送られてくる詠草の中に他人の歌だとはっきり分かる歌が交っていることがあるのだ。偶然に他人の歌と似た歌ができる場合があってこれは止むを得ないが、他人の歌をそのまま自分の歌として出すのはよくないのである。
一方、私たち歩道会員は、斎藤茂吉や佐藤佐太郎の歌の優れた表現を自らの歌に生かしたいという願望を持っているのも事実であり、作歌をする上で大切な態度だと思っている。そこで、他人の歌をどのように自分の歌に生かしていけばよいのかを考えてみたい。
佐太郎の『短歌作者への助言』の「手本を学ぶ」に次のように述べられている。
歌を作るには「手本によって練習する」必要があるというのは、習字のようにあるいは臨画のように手本をそのまま真似て習うということではない。良い歌はどのように現実を現したかということを学び、短歌の調子・声調を学ぶのである。
この佐太郎の指摘の中に、良い歌を作るための重要な示唆がある。具体的な例を挙げてみる。
〇現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより
降れるこの春雨や 斎藤茂吉『あらたま』
〇うつしみは現身ゆゑにこころ憂ふ笹の若葉に
雨そそぐとき 佐藤佐太郎 『帰潮』
佐太郎の歌は、茂吉がどのように現実を現したかということを学んで作られた歌の好例である。
次に、秋葉四郎が佐太郎の歌から学び作歌した例を挙げてみる。
〇花にある水のあかるさ水にある花の明るさと
もにゆらぎて 佐藤佐太郎 『開冬』
〇花にある花のかがやき人にある人のかがやき
桜咲く道 秋葉四郎 『来往』
秋葉の歌は、佐太郎の歌の調子・声調を学んで作られた歌の好例である。
佐太郎は『短歌作者への助言』の「模倣」に次のようにも述べている。
斎藤先生は「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して成長したのであった。会員の諸氏もまた「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して徐徐に成長して行っていいのである。
二〇二四(令和六)年一月号
境涯の出た歌 波 克彦
佐藤佐太郎先生の第十二歌集『星宿』後記には、「私はこのごろ、歌に作者の影がさしてゐなければならぬやうに考へる。歌は境涯の反映だといふ考へと結局は同じだが、あまり窮屈ではなく、何を詠んでも、作者の影が差してゐればいいと考へるやうになつた。老境になつて、ほとんど歌論をしなくなつたから、最後の言葉として伝へる。」と記されている。
佐太郎先生は『短歌作者への助言』の「詠嘆」の項に、「どこまでも自身に直接なものでなければならないというのが、斎藤先生の意見であり、私の信念でもある。」と述べておられる。
短詩系文学の一つである俳句は、字数も五七五と少ない分、短歌より軽い気持で作りやすいからか、俳句に親しむ人の数は短歌より格段に多い。その原因は、短歌は五七五七七と字数が俳句より十字多いから作りにくいように思われてしまっているからであろう。俳句については素人だが、俳句は文学的嗜好から好まれているかもしれないが、俳句では短歌ほど深い境涯が出たものは作れないように思う。
短歌作品には作者の境涯が出ており、専門歌人でなくても多くの短歌作者の生活の一部となっていて、高齢になつても短歌作歌を続けられる所以であり、それぞれの作品に境涯が出ているからこそ、他者に深い共感をもたらすのである。「歩道」という短歌結社に所属して短歌作品の創作に切磋琢磨しているわれわれも、実際に会ったりしていなくても、毎月の歩道誌の作品を通じて、歌友を身近に感じ合っているのである。このような仲間同士の繫がりをもたらす効果は、作品に作者の生活に根差した境涯が出ているからこそ得られるものであり、短歌が、短歌作品を通じて知己となり、お互いの生活を支え合う文学であることを改めて認識している。そういう意味でもわれわれの歩道短歌会を誇りに思い、毎月の歩道誌の発行に引き続き力を注いで行きたい。
茂吉や佐太郎のような偉大な歌人の優れた作品を鑑賞し理解して短歌に親しむとともに、それぞれが自分の経験・体験した事象を一首に表し、その作品を何年か経った後に読み返しても当時の感動が新たに甦る作品であれば境涯が出ていることになり、その作品が読者にも深い共感を与えるものとなる。