二〇二四(令和六)年十一月号
思いつくまま 五 長田邦雄
〇斎藤茂吉先生では「居る」という字を書く場合だね。「ゐる」か「をる」かと迷う場合がある。私などははっきりわかるが柴生田さんなんかはわからない。と言っている。それは僕は先生から聞いているからね。「歌は文語だからここは『をる』だ」と斎藤先生ははっきり言っている。そういう訳で、かな書きにすると思いがけない、今まで問題にしないで読んでいたところが障害となることがある。幸いなことに本人がまだ生きているからね。そういう時は聞いたらいい。
〇これ何部作ったか知らんが、せっかく作って印刷しているからこれを熱心で欲しいという人に少し分けるようにしたらいい。「歩道」にも広告を出すから。
〇とにかくこういう地道な仕事をしてそれからまた歌論のようなものをやるのならそれをもとにして大いにやったらいい。歌論は少しはできなくてはだめです。できなくてはだめというよりやらなくてはだめだ。(略)山口茂吉という、私の先輩だが、その人のことを斎藤先生が「山口君は歌論ができない」と言っている。(略)歌論をするということは自分で考えるということだからな。それがなくてはだめです。
〇ある時に、昭和十何年かな十頁位「アララギ」に文章をのせたが、先生に「君は歌より文章の方がうまいな。」といわれ、オレは大いに不満だったが「歌より」というところが不満だった。しかし、先生が文章を認めてくれたわけです。(略)歌論だって歌だって同じだが年と共に成長するからね。
〇歌なんてものは作らなくても進歩する時は進歩するから。これは斎藤先生がいったことだ。私も実感としてわかるんだ。
〇人に遠慮しないでどんどんやる。自分の思うことをどんどんやる。人まねをしていてはだめだ。(略)「歩道」なら「歩道」という一つのわくがあってその中でめちゃくちゃなことをやっているように見えるくらい全部自分の考えで人と違うことをやらなくては。私はアララギで育ち、アララギにいたが、人と同じようなことはしていない。それが一番大事だ。それがまちがっていれば自然と気がつくし(略)私みたいなものがいればいくらか舵をとってあげられる。
〇いずれにしろ自分の好きなようにやるのがいい。いじけたようになって同じ型の中に入っていってはだめだ。そういうのは大成しない。
二〇二四(令和六)年十月号
作歌上の留意事項 大塚秀行
東京歌会に参加して次のような指摘があった。「一首は作者の父を詠んだ歌だが敬語が使われている。身内に敬語は使わないのではないか」。よく勉強されている方である。成程『歩道作歌案内』の留意事項に「身内の者に敬語、丁寧語を使はない」とある。これは、日本語の文法では自分の事や肉親には敬語は使わないということによっている。では、一首に詠まれた敬語は推敲すべきなのか。ここで、次の様な歌があることに着目したい。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は
死にたまふなり 斎藤茂吉
なきがらとしづまり給ふ父に見ゆその上にわ
が身をしかがめて 佐藤佐太郎
二首とも「死」という人間の生の中で最も厳粛な瞬間を詠嘆しているが、「給ふ」という敬語を使うことにより、母や父の尊厳を鮮やかに浮かび上がらせているのだ。このような歌に出逢うとき、「身内に敬語を使う」場合があってもよいことに気づく。もちろん原則として大切にすべき事柄だが、一首の流れの中で適切か否かを判断すべきだと思う。そのような眼で東京歌会の「父の歌」を読んでみて、私は適切な敬語の使い方だと思っている。
さて、短歌を詠む上で様々な留意事項があるが、佐太郎に次の様な歌があることに注目したい。
あゆみ来て水見えるときさわがしい港の音は
その水にある 『群丘』
「つぐなひは済んだぜ」「借りは返したぜ」
古き日本のことばにあらず 『冬木』
一首目の「見える•さわがしい•ある」と、二首目の括弧内の言葉と口語調である。佐太郎は『短歌作者への助言』で次のように述べている。
「短歌において文語を用い古語を用いるのは短歌が『詠嘆の形式』であるという本質にもとづいている。 (中略) 同時に新しい工夫を怠ってはならない。その工夫というものはどこまでも短歌の根本形式の要求するところに従って追及されねばならない。」 (「文語」より)
佐太郎は短歌の本質を押さえつつ新しい表現を求め続けていたのだ。
二〇二四(令和六)年九月号
ハイブリッド歌会 波 克彦
テレビ会議とかビデオ会議などと称されるインターネットを利用した会合、いわゆるオンライン会合が以前から実業界では利用されてきた。新型コロナウイルス感染が広まって、リモート勤務(在宅勤務や自宅以外の場所での勤務)が急速に広まった。リモート勤務にはメリットも多いがデメリットもある。メリットの一つは何といっても通勤時間が不要になり業務に就く時間も比較的自由にできることが挙げられる。一方デメリットもあり、とりわけ大きなデメリットは、組織に所属する者として同じ組織に所属する者とのフェイス・トウ・フェイスの接触がなくなることから、組織人としての一体性、組織に対するアイデンティティーの維持がおろそかになることである。
リモート勤務者間、およびオフィスに出勤している者との会合などの接触の機会として、インターネット会合が急速に普及し、更には会議室にいて会合に出席する者とインターネットにて参加する者とが混在して同一の会合を構成するハイブリッド会議という方式も非常に多く利用されるようになった。
私たち短歌に親しむ者にとっては、会場に集って歌会をすることが短歌の研鑽の重要な場であるが、新型コロナの蔓延していた頃には一堂に会することが出来ず、紙上歌会といった方式で何とか歌会が続けられてきた。コロナ対応が昨年五月八日から感染症の第五類対応になってようやく従来のように会場に集って歌会を開くことができるようになり、やはり紙上歌会では得られなかった短歌・作歌の解釈や知識の向上が図れるようになった。
しかし、会員の高齢化などのために全国大会を開くことも今となっては困難な状況にあり、前述のような実業界で急速に普及しているインターネット会合やハイブリッド会合を導入していくことを考えていくことが有益である。
全国大会とまでいかなくても、支部歌会や拡大地域歌会・合同歌会をハイブリッド歌会として開催することを考えてみても良いのではないか。ハイブリッド歌会のメリットは、会場に集うことができる会員は会場に集まり、会場まで足を運ぶことが難しい会員はインターネットでその歌会に参加することができることである。歩道短歌会の活性化にもなるので、今後の検討課題である。
二〇二四(令和六)年八月号
大伴家持の二十六年間 土肥 義治
家持は七一八年に旅人の長男として誕生した。大伴氏は武家の名門であり、また歌を世襲する家でもあった。家持は、漢籍を学ぶとともに歌をも学習した。万葉集に収められた最初の歌は、十六歳にて詠んだ次の一首である。
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思
ほゆるかも (九九四)
四十二歳までの二十六年間に詠じた歌四七三首が万葉集に収められている。家持の作品が最も多く、二番目が人麻呂の九一首である。家持は万葉集の主要な編者であろう。若き日に八人の女郎や娘子と交した恋歌が多数収められている。出身後は内舎人として天皇家に仕えた。仕えていた皇子安積親王は七四四年に十七歳で急死した。家持は皇子哀悼の挽歌(四七七)を詠んだ。
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごと
きわが大君かも
家持は七四五年に従五位下が授けられ、翌年に越中守に任じられた。越中は能登四郡を含む大国であり、国府は高岡市伏木にあった。雪国越中に五年間滞在して二二三首を作った。それらの歌より四首を選び紹介する。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来
にけり (三九八七)
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つを
とめ (四一三九)
もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の
堅香子の花 (四一四三)
朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ
舟人 (四一五〇)
七五一年に小納言に遷任され奈良の都に戻った。しかし時代は、聖武・橘諸兄の世から孝謙・藤原仲麻呂の世へと移りつつあり、家持の政治的状況は厳しくなった。家持の孤独感は年毎に深まり、哀調ある独詠歌が多くなった。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐ
ひす鳴くも (四二九〇)
うつせみは数なき身なり山河の清けき見つつ
道を尋ねな (四四六八)
七五七年には橘奈良麻呂の事変が起こり多くの友を失った。翌年に因幡の国守に左遷され元旦に次の歌を詠じた。
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやし
けよごと (四五一六)
家持はこの歌を万葉集二十巻の掉尾歌に選んだ。家持は七八二年に従三位中納言・持節征東将軍として生を閉じたが、死してなお苛酷な制裁を受けた。
二〇二四(令和六)年七月号
野村胡堂と熊谷優利枝さん 八重嶋 勲
昭和五十六年十月三日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、遠野貞任高原に遊んだ。
その帰り路先生と熊谷優利枝さんが私の車に乗られた。私の住んでいる所を通過。「野村胡堂生家が見えます」と申し上げたところ、熊谷さんが「えっ胡堂さんはここの生れでしたか」と大変驚かれ「私は胡堂さんをよく往診したものでした」と本当に懐かしそうだった。先生は「ここはどこなんだい」、私は「岩手県紫波町大巻です」とお応えした。熊谷さんは杉並区上高井戸五丁目、胡堂宅は高井戸西一 丁目で隣町。
野村胡堂は代表作『銭形平次捕物控』の作者、そして野村あらえびすのペンネームでレコード音楽評論家でも著名。
胡堂生家と私の家は、二十軒ばかりの同じ行政区で極めて親しい。熊谷さんがその胡堂の主治医だったことに私は大変驚き感動したことを覚えている。
熊谷さんは、先生の高弟。主治医でもあったので、旅行等には殆ど同行され、岩手にも何度も随行された。
先生の歌に「七月二十一日」と題した四首がある。「月面におりし人を見こゑを聞くああー年のごとき一日」「ただ白き輝として人うごく永遠に音なき月のおもてに」他二首。
昭和四十四年七月二十一日、米国のアポロ十一号でアームストロングとオルドリンが月面に人類初の有人着陸を果たし約二時間半の活動をした。テレビでその様子を見感動したものである。
熊谷さんがこの様子を詠って宮中歌会始に入選されたと記憶していた。
この度家人にスマホで検索してもらったところ、昭和四十六年、お題「家」。「患者の家いくつめぐりてテレビジョンの同じドラマをきれぎれに見る」東京都熊谷美津子、とあり、初の月面有人着陸の様子ではなかった。先生が宮中歌会始の選者を務めておられた。
昭和六十年九月、「蛇崩遊歩道」を私が妻みねを案内した時、偶然にも歩行ままならない先生と次女渡辺洋子さんにお会いし、ご自宅でお茶をいただき、みねの歩道入会のお許しをいただいた。
お暇し歩道短歌会の標示のある門前でお互い写真を撮ろうとしていると熊谷さんが先生の往診を終えて出て来られ、私達の写真を撮ってくださった。
先生が昭和六十二年八月八日に亡くなられ、熊谷さんは歩道を去った。
二〇二四(令和六)年六月号
俗 仲田 紘基
最近の若者ことばむつかしい「エモい」と言
はれ途方にくれる
「歩道」誌への投稿作品の中にこんな歌があった。作者は池下晃氏。似たような経験を持つ人も多いだろう。
数か月前に、私は思いがけない場所でこの言葉に出会った。ある中学校での国語の研究授業。ちようど「短歌」の単元で、子どもに配られたプリントには授業者の探してきた短歌が一首、「エモい」短歌、という見出しを付けて載せられている。一つのモデルとして教師の鑑賞文も添えられて。
おふとんでママとしていたしりとりに夜が入
ってきてねむくなる
これは松田わこさんという、小学生のころから朝日歌壇に姉妹で投稿して話題になった作者の歌だが、こういうのが「エモい」短歌なのだそうだ。
「エモい」は「なんとも言えないすてきな気持ち」を表す俗語と言われる。この授業の学習指導案に、「『エモい』という言葉について紹介し、どのような気持ちなのか、意見を出し合う」とある。美しい日本語にたくさん触れさせたい短歌の授業で、わざわざ取り上げてまでこんな俗語を教える必要があるのか。すなおな言葉で歌を詠んだ松田わこさんも、作品が「エモい」などと言われたらさぞ苦笑いすることだろう。そんな感想を持ちながら私は授業を参観したのだった。
ところで、授業の中でもう一つ考えさせられたことがあった。それは教科書の短歌教材の問題だ。
全国どこの中学校でも二年生で短歌の学習をする。ここの学校で使用していた教科書は教育出版の『中学国語』で、教材として穂村弘氏の「短歌の味わい」という文章が掲載されていた。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプール
に星が降るなり
こんな穂村氏自身の歌を例にして鑑賞を試みたりしている。これが高校ならともかく、短歌の基礎・基本を定着させたい中学でことさら取り扱うほどの作品か、と私は疑問をいだいた。
人々がその存在を忘れている夜のプールなのだという。プールに「星が降る」など、それにしても表現がいかにも通俗だ。現今の歌壇でもてはやされそうなこんな歌なら、「エモい」短歌という言い方もよく似合うかもしれない。
二〇二四(令和六)年五月号
「歩道」と花 星野 彰
昨年の『歩道』十二月号の作品欄の作者は二百七十六名、掲載歌数は約千四百首でありその内の約三百首に花の名、樹木の名が詠み込まれている。(以下、花に統一する)二割強の歌に花が詠み込まれている。『歩道』の歌には何故このように花を詠み込んだ歌が多いのだろうか。詠み方には色々ある。花そのものを詠んだもの、生活の添景として登場するもの、覇旅の矚目として歌われたもの等である。いずれの詠まれ方にしても、花を詠み込んだ歌が多い理由は、写生短歌を旨とする歩道短歌会の行き方と大いに関係があるものと思う。写生とは観ることに始まる。観ることとは目に見えるものだけを見るということではない。視覚を含む五感で感じること、更には、心に生起する感清を感じることである。そして視覚こそが最も普遍的な外界認識の手段であろう。その視覚により身辺を見回して心を動かされるものの一つが花である。心が動けばそれを表現しようと努力する。心が動くとは、美しい、麗しいといった気持ちだけでなく、その花にまつわる思い出、花から連想される物語性が喚起され、それは作歌の大きな動機となる。それは受動的な受け留め方であるが、写生短歌を旨とする我々は能動的な姿勢をもって、つまり作歌への意欲をもって花に向うのである。生活の添景としての花も常に写生の目を持てばこそ目にする花の具体的な名が脳裏に刻まれ歌の中に現れるのである。やはり、ものを見るという写生の基本姿勢を大事にする故に花の歌が多いのである。先師佐藤佐太郎にも花の歌は多い。佐藤佐太郎全歌集(現代短歌社文庫)に収められている約六千五百首の内、約二千首に花が詠われ、花の種類は約三百七十種に上る。佐太郎は『短歌指導』のなかで「もともと感動というものは、見たり聞いたりする、その事が感動だといってよいので…表現の方法としては、とにかく実際に即してありのままを直接にあらわす」と言っている。われわれは花を詠むにもこの教えに則ろうとするのである。花においてもわれわれは佐藤佐太郎を継承しているのである。花の歌がいかに多くともそれぞれの歌には作者の個性、感動が満ちて画一的ではないのである。それが「歩道」の花の歌である。
二〇二四(令和六)年四月号
茂吉の言葉 戸田 佳子
私の手元にある歩道誌で最も古いものは昭和二十八年一月号で、その五月号が「斎藤茂吉追悼号」である。斎藤茂吉は昭和二十八年二月二十五日に逝去。佐藤佐太郎は「歩道」五月号で茂吉を追悼した。令和五年は茂吉没後七十年に当たったので改めてこの追悼号を読み直した。二十七名が執筆している。執筆者と題名は「歩道」令和三年十二月号の香川哲三編「佐藤佐太郎詳細年譜( 27)」に詳しい。
本稿では五月号の追悼号から佐藤佐太郎の「『歩道』をめぐる思出」を取り上げる。「『歩道』といっても、私の処女歌集ではなく、雑誌の方だが」と断って茂吉との思い出を語っており、その思い出の場面、場面で茂吉の言葉が記されている。「即座の談話であっても先生の言葉には作歌四十年の実歴が圧縮されてゐた。」と佐太郎は述べている。その茂吉の言葉を紹介する。(一)は歩道の歌会が終ったあとの座談である。「東京に帰ってから毎日孫を対手に遊んでゐるが、孫といふのは文句なしにかわいい、これは理屈ぢやなくかわいいもんです。皆さんは私から見れば孫のやうなものだ」「とに角歌は実相に観入するしかない。へその下に実相観入といふ信念を持ってゐればいい。骨髄に徹してるものをひとつ持ってゐれば、師匠は無限にある。今頃なにも南無阿弥陀仏ぢやあるまい、写生ぢやあるまいといふが題目をとなへる如く写生々々ととなへてればいい。腹の据ゑどころさへきちんとしてれば、あとは自由自在にゆく」。(二)また茂吉が作歌に入った機縁の幸運を回顧し、このつづきに「しかし人間は、ある程度までは、これはかなはないといふ気持を持つてゐなくてはいけない。レオナルド・ダ・ビンチのやうな大家が、バチカンでミケランジエロの壁画を見てしほしほとなるところがある。あれがいい。ああいふ偉い大家でも自分の芸術に対して悲観してゐるところがある」(三)山形から東京の歌会に出席した青年には「はるばる山形から出て来たんだから、何か学んで帰らなければならないよ。」「歌は将棋のやうに勝負が分かるもんだ。自分はとてもかなわないと思つた時は背筋に冷汗を流すやうな熱意がなくちやならないもんだ」云々。茂吉の熱い言葉に身の引き締まる思いである。
二〇二四(令和六)年三月号
思いつくまま四 長田 邦雄
前回、私の「歩道五句索引」について先生の言葉を記憶のみを頼りに少し書いたが、秋葉四郎氏が文字におこして「青九号」(昭和五十年六月)に載せているので、ここに抄出する。
この記念会は他にU氏が経済学を研究するために東京を離れることになつた送別の会もかねて開いた。紙数の都合で彼への先生の言葉はやむなく省略した。「青」は秋葉四郎氏を中心に当時二十代三十代の仲間で先生を勉強した。皆先生の「弟子」であるという自負があった。その若い弟子への先生の言葉である。
〇
〇斎藤先生はこういう地道な勉強というか仕事が好きで、僕らにもよくそういうことをやれということをいっていました。ところが実際にはなかなかそれができない。こういう地道な仕事はやさしいようで努力して継続するというのはむづかしいものです。
〇とにかく地道な努力をして仕事をするということは敬意に値する。こういうものが一つあればこれをもとにして考えたり、足場にしていろいろすることができる。たとえば「歩道」なら「歩道」みたいな言葉をどの位使っているか、随分出てくる。私は金へンの「鋪道」を歌集の名前にしようと思った。斎藤先生はすぐに歩く方の「歩道」に直してくれた。やっぱり考えることが上手です。そういう風にこの索引によっていろいろなことが考えられる。
〇君達の仕事で一つ感心だと思うことは、私のところに合本にして「アララギ」の古いところなんかずっとあるんだが、それについて貸してくれとか見せてくれとかいってきたことがない。なんでもないようだが、ある意味ではそういうのが自分で努力するということにつながることなのかも知れない。
〇たとえば「いきしか」と読むか「ゆきしか」と読むかというようなこと、こんなことは作者が生きているんだから作者に聞いたらいい。そういうところはうまく利用する方がいい。しかし考え方としては若いのに感心なところがある。自分で調べようというようなね。言葉としては「いきし」だけれども「ゆきし」と読むのがいいです。
二〇二四(令和六)年二月号
手本を学ぶ 大塚 秀行
歩道短歌会の事務局を担当してより三年が過ぎた。その中で気になることがある。会員から送られてくる詠草の中に他人の歌だとはっきり分かる歌が交っていることがあるのだ。偶然に他人の歌と似た歌ができる場合があってこれは止むを得ないが、他人の歌をそのまま自分の歌として出すのはよくないのである。
一方、私たち歩道会員は、斎藤茂吉や佐藤佐太郎の歌の優れた表現を自らの歌に生かしたいという願望を持っているのも事実であり、作歌をする上で大切な態度だと思っている。そこで、他人の歌をどのように自分の歌に生かしていけばよいのかを考えてみたい。
佐太郎の『短歌作者への助言』の「手本を学ぶ」に次のように述べられている。
歌を作るには「手本によって練習する」必要があるというのは、習字のようにあるいは臨画のように手本をそのまま真似て習うということではない。良い歌はどのように現実を現したかということを学び、短歌の調子・声調を学ぶのである。
この佐太郎の指摘の中に、良い歌を作るための重要な示唆がある。具体的な例を挙げてみる。
〇現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより
降れるこの春雨や 斎藤茂吉『あらたま』
〇うつしみは現身ゆゑにこころ憂ふ笹の若葉に
雨そそぐとき 佐藤佐太郎 『帰潮』
佐太郎の歌は、茂吉がどのように現実を現したかということを学んで作られた歌の好例である。
次に、秋葉四郎が佐太郎の歌から学び作歌した例を挙げてみる。
〇花にある水のあかるさ水にある花の明るさと
もにゆらぎて 佐藤佐太郎 『開冬』
〇花にある花のかがやき人にある人のかがやき
桜咲く道 秋葉四郎 『来往』
秋葉の歌は、佐太郎の歌の調子・声調を学んで作られた歌の好例である。
佐太郎は『短歌作者への助言』の「模倣」に次のようにも述べている。
斎藤先生は「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して成長したのであった。会員の諸氏もまた「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して徐徐に成長して行っていいのである。
二〇二四(令和六)年一月号
境涯の出た歌 波 克彦
佐藤佐太郎先生の第十二歌集『星宿』後記には、「私はこのごろ、歌に作者の影がさしてゐなければならぬやうに考へる。歌は境涯の反映だといふ考へと結局は同じだが、あまり窮屈ではなく、何を詠んでも、作者の影が差してゐればいいと考へるやうになつた。老境になつて、ほとんど歌論をしなくなつたから、最後の言葉として伝へる。」と記されている。
佐太郎先生は『短歌作者への助言』の「詠嘆」の項に、「どこまでも自身に直接なものでなければならないというのが、斎藤先生の意見であり、私の信念でもある。」と述べておられる。
短詩系文学の一つである俳句は、字数も五七五と少ない分、短歌より軽い気持で作りやすいからか、俳句に親しむ人の数は短歌より格段に多い。その原因は、短歌は五七五七七と字数が俳句より十字多いから作りにくいように思われてしまっているからであろう。俳句については素人だが、俳句は文学的嗜好から好まれているかもしれないが、俳句では短歌ほど深い境涯が出たものは作れないように思う。
短歌作品には作者の境涯が出ており、専門歌人でなくても多くの短歌作者の生活の一部となっていて、高齢になつても短歌作歌を続けられる所以であり、それぞれの作品に境涯が出ているからこそ、他者に深い共感をもたらすのである。「歩道」という短歌結社に所属して短歌作品の創作に切磋琢磨しているわれわれも、実際に会ったりしていなくても、毎月の歩道誌の作品を通じて、歌友を身近に感じ合っているのである。このような仲間同士の繫がりをもたらす効果は、作品に作者の生活に根差した境涯が出ているからこそ得られるものであり、短歌が、短歌作品を通じて知己となり、お互いの生活を支え合う文学であることを改めて認識している。そういう意味でもわれわれの歩道短歌会を誇りに思い、毎月の歩道誌の発行に引き続き力を注いで行きたい。
茂吉や佐太郎のような偉大な歌人の優れた作品を鑑賞し理解して短歌に親しむとともに、それぞれが自分の経験・体験した事象を一首に表し、その作品を何年か経った後に読み返しても当時の感動が新たに甦る作品であれば境涯が出ていることになり、その作品が読者にも深い共感を与えるものとなる。
大伴家持の二十六年間 土肥 義治
家持は七一八年に旅人の長男として誕生した。大伴氏は武家の名門であり、また歌を世襲する家でもあった。家持は、漢籍を学ぶとともに歌をも学習した。万葉集に収められた最初の歌は、十六歳にて詠んだ次の一首である。
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思
ほゆるかも (九九四)
四十二歳までの二十六年間に詠じた歌四七三首が万葉集に収められている。家持の作品が最も多く、二番目が人麻呂の九一首である。家持は万葉集の主要な編者であろう。若き日に八人の女郎や娘子と交した恋歌が多数収められている。出身後は内舎人として天皇家に仕えた。仕えていた皇子安積親王は七四四年に十七歳で急死した。家持は皇子哀悼の挽歌(四七七)を詠んだ。
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごと
きわが大君かも
家持は七四五年に従五位下が授けられ、翌年に越中守に任じられた。越中は能登四郡を含む大国であり、国府は高岡市伏木にあった。雪国越中に五年間滞在して二二三首を作った。それらの歌より四首を選び紹介する。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来
にけり (三九八七)
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つを
とめ (四一三九)
もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の
堅香子の花 (四一四三)
朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ
舟人 (四一五〇)
七五一年に小納言に遷任され奈良の都に戻った。しかし時代は、聖武・橘諸兄の世から孝謙・藤原仲麻呂の世へと移りつつあり、家持の政治的状況は厳しくなった。家持の孤独感は年毎に深まり、哀調ある独詠歌が多くなった。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐ
ひす鳴くも (四二九〇)
うつせみは数なき身なり山河の清けき見つつ
道を尋ねな (四四六八)
七五七年には橘奈良麻呂の事変が起こり多くの友を失った。翌年に因幡の国守に左遷され元旦に次の歌を詠じた。
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやし
けよごと (四五一六)
家持はこの歌を万葉集二十巻の掉尾歌に選んだ。家持は七八二年に従三位中納言・持節征東将軍として生を閉じたが、死してなお苛酷な制裁を受けた。
二〇二四(令和六)年七月号
野村胡堂と熊谷優利枝さん 八重嶋 勲
昭和五十六年十月三日、佐藤佐太郎先生ご夫妻は、遠野貞任高原に遊んだ。
その帰り路先生と熊谷優利枝さんが私の車に乗られた。私の住んでいる所を通過。「野村胡堂生家が見えます」と申し上げたところ、熊谷さんが「えっ胡堂さんはここの生れでしたか」と大変驚かれ「私は胡堂さんをよく往診したものでした」と本当に懐かしそうだった。先生は「ここはどこなんだい」、私は「岩手県紫波町大巻です」とお応えした。熊谷さんは杉並区上高井戸五丁目、胡堂宅は高井戸西一 丁目で隣町。
野村胡堂は代表作『銭形平次捕物控』の作者、そして野村あらえびすのペンネームでレコード音楽評論家でも著名。
胡堂生家と私の家は、二十軒ばかりの同じ行政区で極めて親しい。熊谷さんがその胡堂の主治医だったことに私は大変驚き感動したことを覚えている。
熊谷さんは、先生の高弟。主治医でもあったので、旅行等には殆ど同行され、岩手にも何度も随行された。
先生の歌に「七月二十一日」と題した四首がある。「月面におりし人を見こゑを聞くああー年のごとき一日」「ただ白き輝として人うごく永遠に音なき月のおもてに」他二首。
昭和四十四年七月二十一日、米国のアポロ十一号でアームストロングとオルドリンが月面に人類初の有人着陸を果たし約二時間半の活動をした。テレビでその様子を見感動したものである。
熊谷さんがこの様子を詠って宮中歌会始に入選されたと記憶していた。
この度家人にスマホで検索してもらったところ、昭和四十六年、お題「家」。「患者の家いくつめぐりてテレビジョンの同じドラマをきれぎれに見る」東京都熊谷美津子、とあり、初の月面有人着陸の様子ではなかった。先生が宮中歌会始の選者を務めておられた。
昭和六十年九月、「蛇崩遊歩道」を私が妻みねを案内した時、偶然にも歩行ままならない先生と次女渡辺洋子さんにお会いし、ご自宅でお茶をいただき、みねの歩道入会のお許しをいただいた。
お暇し歩道短歌会の標示のある門前でお互い写真を撮ろうとしていると熊谷さんが先生の往診を終えて出て来られ、私達の写真を撮ってくださった。
先生が昭和六十二年八月八日に亡くなられ、熊谷さんは歩道を去った。
二〇二四(令和六)年六月号
俗 仲田 紘基
最近の若者ことばむつかしい「エモい」と言
はれ途方にくれる
「歩道」誌への投稿作品の中にこんな歌があった。作者は池下晃氏。似たような経験を持つ人も多いだろう。
数か月前に、私は思いがけない場所でこの言葉に出会った。ある中学校での国語の研究授業。ちようど「短歌」の単元で、子どもに配られたプリントには授業者の探してきた短歌が一首、「エモい」短歌、という見出しを付けて載せられている。一つのモデルとして教師の鑑賞文も添えられて。
おふとんでママとしていたしりとりに夜が入
ってきてねむくなる
これは松田わこさんという、小学生のころから朝日歌壇に姉妹で投稿して話題になった作者の歌だが、こういうのが「エモい」短歌なのだそうだ。
「エモい」は「なんとも言えないすてきな気持ち」を表す俗語と言われる。この授業の学習指導案に、「『エモい』という言葉について紹介し、どのような気持ちなのか、意見を出し合う」とある。美しい日本語にたくさん触れさせたい短歌の授業で、わざわざ取り上げてまでこんな俗語を教える必要があるのか。すなおな言葉で歌を詠んだ松田わこさんも、作品が「エモい」などと言われたらさぞ苦笑いすることだろう。そんな感想を持ちながら私は授業を参観したのだった。
ところで、授業の中でもう一つ考えさせられたことがあった。それは教科書の短歌教材の問題だ。
全国どこの中学校でも二年生で短歌の学習をする。ここの学校で使用していた教科書は教育出版の『中学国語』で、教材として穂村弘氏の「短歌の味わい」という文章が掲載されていた。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプール
に星が降るなり
こんな穂村氏自身の歌を例にして鑑賞を試みたりしている。これが高校ならともかく、短歌の基礎・基本を定着させたい中学でことさら取り扱うほどの作品か、と私は疑問をいだいた。
人々がその存在を忘れている夜のプールなのだという。プールに「星が降る」など、それにしても表現がいかにも通俗だ。現今の歌壇でもてはやされそうなこんな歌なら、「エモい」短歌という言い方もよく似合うかもしれない。
二〇二四(令和六)年五月号
「歩道」と花 星野 彰
昨年の『歩道』十二月号の作品欄の作者は二百七十六名、掲載歌数は約千四百首でありその内の約三百首に花の名、樹木の名が詠み込まれている。(以下、花に統一する)二割強の歌に花が詠み込まれている。『歩道』の歌には何故このように花を詠み込んだ歌が多いのだろうか。詠み方には色々ある。花そのものを詠んだもの、生活の添景として登場するもの、覇旅の矚目として歌われたもの等である。いずれの詠まれ方にしても、花を詠み込んだ歌が多い理由は、写生短歌を旨とする歩道短歌会の行き方と大いに関係があるものと思う。写生とは観ることに始まる。観ることとは目に見えるものだけを見るということではない。視覚を含む五感で感じること、更には、心に生起する感清を感じることである。そして視覚こそが最も普遍的な外界認識の手段であろう。その視覚により身辺を見回して心を動かされるものの一つが花である。心が動けばそれを表現しようと努力する。心が動くとは、美しい、麗しいといった気持ちだけでなく、その花にまつわる思い出、花から連想される物語性が喚起され、それは作歌の大きな動機となる。それは受動的な受け留め方であるが、写生短歌を旨とする我々は能動的な姿勢をもって、つまり作歌への意欲をもって花に向うのである。生活の添景としての花も常に写生の目を持てばこそ目にする花の具体的な名が脳裏に刻まれ歌の中に現れるのである。やはり、ものを見るという写生の基本姿勢を大事にする故に花の歌が多いのである。先師佐藤佐太郎にも花の歌は多い。佐藤佐太郎全歌集(現代短歌社文庫)に収められている約六千五百首の内、約二千首に花が詠われ、花の種類は約三百七十種に上る。佐太郎は『短歌指導』のなかで「もともと感動というものは、見たり聞いたりする、その事が感動だといってよいので…表現の方法としては、とにかく実際に即してありのままを直接にあらわす」と言っている。われわれは花を詠むにもこの教えに則ろうとするのである。花においてもわれわれは佐藤佐太郎を継承しているのである。花の歌がいかに多くともそれぞれの歌には作者の個性、感動が満ちて画一的ではないのである。それが「歩道」の花の歌である。
二〇二四(令和六)年四月号
茂吉の言葉 戸田 佳子
私の手元にある歩道誌で最も古いものは昭和二十八年一月号で、その五月号が「斎藤茂吉追悼号」である。斎藤茂吉は昭和二十八年二月二十五日に逝去。佐藤佐太郎は「歩道」五月号で茂吉を追悼した。令和五年は茂吉没後七十年に当たったので改めてこの追悼号を読み直した。二十七名が執筆している。執筆者と題名は「歩道」令和三年十二月号の香川哲三編「佐藤佐太郎詳細年譜( 27)」に詳しい。
本稿では五月号の追悼号から佐藤佐太郎の「『歩道』をめぐる思出」を取り上げる。「『歩道』といっても、私の処女歌集ではなく、雑誌の方だが」と断って茂吉との思い出を語っており、その思い出の場面、場面で茂吉の言葉が記されている。「即座の談話であっても先生の言葉には作歌四十年の実歴が圧縮されてゐた。」と佐太郎は述べている。その茂吉の言葉を紹介する。(一)は歩道の歌会が終ったあとの座談である。「東京に帰ってから毎日孫を対手に遊んでゐるが、孫といふのは文句なしにかわいい、これは理屈ぢやなくかわいいもんです。皆さんは私から見れば孫のやうなものだ」「とに角歌は実相に観入するしかない。へその下に実相観入といふ信念を持ってゐればいい。骨髄に徹してるものをひとつ持ってゐれば、師匠は無限にある。今頃なにも南無阿弥陀仏ぢやあるまい、写生ぢやあるまいといふが題目をとなへる如く写生々々ととなへてればいい。腹の据ゑどころさへきちんとしてれば、あとは自由自在にゆく」。(二)また茂吉が作歌に入った機縁の幸運を回顧し、このつづきに「しかし人間は、ある程度までは、これはかなはないといふ気持を持つてゐなくてはいけない。レオナルド・ダ・ビンチのやうな大家が、バチカンでミケランジエロの壁画を見てしほしほとなるところがある。あれがいい。ああいふ偉い大家でも自分の芸術に対して悲観してゐるところがある」(三)山形から東京の歌会に出席した青年には「はるばる山形から出て来たんだから、何か学んで帰らなければならないよ。」「歌は将棋のやうに勝負が分かるもんだ。自分はとてもかなわないと思つた時は背筋に冷汗を流すやうな熱意がなくちやならないもんだ」云々。茂吉の熱い言葉に身の引き締まる思いである。
二〇二四(令和六)年三月号
思いつくまま四 長田 邦雄
前回、私の「歩道五句索引」について先生の言葉を記憶のみを頼りに少し書いたが、秋葉四郎氏が文字におこして「青九号」(昭和五十年六月)に載せているので、ここに抄出する。
この記念会は他にU氏が経済学を研究するために東京を離れることになつた送別の会もかねて開いた。紙数の都合で彼への先生の言葉はやむなく省略した。「青」は秋葉四郎氏を中心に当時二十代三十代の仲間で先生を勉強した。皆先生の「弟子」であるという自負があった。その若い弟子への先生の言葉である。
〇
〇斎藤先生はこういう地道な勉強というか仕事が好きで、僕らにもよくそういうことをやれということをいっていました。ところが実際にはなかなかそれができない。こういう地道な仕事はやさしいようで努力して継続するというのはむづかしいものです。
〇とにかく地道な努力をして仕事をするということは敬意に値する。こういうものが一つあればこれをもとにして考えたり、足場にしていろいろすることができる。たとえば「歩道」なら「歩道」みたいな言葉をどの位使っているか、随分出てくる。私は金へンの「鋪道」を歌集の名前にしようと思った。斎藤先生はすぐに歩く方の「歩道」に直してくれた。やっぱり考えることが上手です。そういう風にこの索引によっていろいろなことが考えられる。
〇君達の仕事で一つ感心だと思うことは、私のところに合本にして「アララギ」の古いところなんかずっとあるんだが、それについて貸してくれとか見せてくれとかいってきたことがない。なんでもないようだが、ある意味ではそういうのが自分で努力するということにつながることなのかも知れない。
〇たとえば「いきしか」と読むか「ゆきしか」と読むかというようなこと、こんなことは作者が生きているんだから作者に聞いたらいい。そういうところはうまく利用する方がいい。しかし考え方としては若いのに感心なところがある。自分で調べようというようなね。言葉としては「いきし」だけれども「ゆきし」と読むのがいいです。
二〇二四(令和六)年二月号
手本を学ぶ 大塚 秀行
歩道短歌会の事務局を担当してより三年が過ぎた。その中で気になることがある。会員から送られてくる詠草の中に他人の歌だとはっきり分かる歌が交っていることがあるのだ。偶然に他人の歌と似た歌ができる場合があってこれは止むを得ないが、他人の歌をそのまま自分の歌として出すのはよくないのである。
一方、私たち歩道会員は、斎藤茂吉や佐藤佐太郎の歌の優れた表現を自らの歌に生かしたいという願望を持っているのも事実であり、作歌をする上で大切な態度だと思っている。そこで、他人の歌をどのように自分の歌に生かしていけばよいのかを考えてみたい。
佐太郎の『短歌作者への助言』の「手本を学ぶ」に次のように述べられている。
歌を作るには「手本によって練習する」必要があるというのは、習字のようにあるいは臨画のように手本をそのまま真似て習うということではない。良い歌はどのように現実を現したかということを学び、短歌の調子・声調を学ぶのである。
この佐太郎の指摘の中に、良い歌を作るための重要な示唆がある。具体的な例を挙げてみる。
〇現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより
降れるこの春雨や 斎藤茂吉『あらたま』
〇うつしみは現身ゆゑにこころ憂ふ笹の若葉に
雨そそぐとき 佐藤佐太郎 『帰潮』
佐太郎の歌は、茂吉がどのように現実を現したかということを学んで作られた歌の好例である。
次に、秋葉四郎が佐太郎の歌から学び作歌した例を挙げてみる。
〇花にある水のあかるさ水にある花の明るさと
もにゆらぎて 佐藤佐太郎 『開冬』
〇花にある花のかがやき人にある人のかがやき
桜咲く道 秋葉四郎 『来往』
秋葉の歌は、佐太郎の歌の調子・声調を学んで作られた歌の好例である。
佐太郎は『短歌作者への助言』の「模倣」に次のようにも述べている。
斎藤先生は「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して成長したのであった。会員の諸氏もまた「悟入に手間取り」「模倣に手間取り」して徐徐に成長して行っていいのである。
二〇二四(令和六)年一月号
境涯の出た歌 波 克彦
佐藤佐太郎先生の第十二歌集『星宿』後記には、「私はこのごろ、歌に作者の影がさしてゐなければならぬやうに考へる。歌は境涯の反映だといふ考へと結局は同じだが、あまり窮屈ではなく、何を詠んでも、作者の影が差してゐればいいと考へるやうになつた。老境になつて、ほとんど歌論をしなくなつたから、最後の言葉として伝へる。」と記されている。
佐太郎先生は『短歌作者への助言』の「詠嘆」の項に、「どこまでも自身に直接なものでなければならないというのが、斎藤先生の意見であり、私の信念でもある。」と述べておられる。
短詩系文学の一つである俳句は、字数も五七五と少ない分、短歌より軽い気持で作りやすいからか、俳句に親しむ人の数は短歌より格段に多い。その原因は、短歌は五七五七七と字数が俳句より十字多いから作りにくいように思われてしまっているからであろう。俳句については素人だが、俳句は文学的嗜好から好まれているかもしれないが、俳句では短歌ほど深い境涯が出たものは作れないように思う。
短歌作品には作者の境涯が出ており、専門歌人でなくても多くの短歌作者の生活の一部となっていて、高齢になつても短歌作歌を続けられる所以であり、それぞれの作品に境涯が出ているからこそ、他者に深い共感をもたらすのである。「歩道」という短歌結社に所属して短歌作品の創作に切磋琢磨しているわれわれも、実際に会ったりしていなくても、毎月の歩道誌の作品を通じて、歌友を身近に感じ合っているのである。このような仲間同士の繫がりをもたらす効果は、作品に作者の生活に根差した境涯が出ているからこそ得られるものであり、短歌が、短歌作品を通じて知己となり、お互いの生活を支え合う文学であることを改めて認識している。そういう意味でもわれわれの歩道短歌会を誇りに思い、毎月の歩道誌の発行に引き続き力を注いで行きたい。
茂吉や佐太郎のような偉大な歌人の優れた作品を鑑賞し理解して短歌に親しむとともに、それぞれが自分の経験・体験した事象を一首に表し、その作品を何年か経った後に読み返しても当時の感動が新たに甦る作品であれば境涯が出ていることになり、その作品が読者にも深い共感を与えるものとなる。