今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2023(令和5)年一覧

 

  二〇二三(令和五)年十二月号    


     坂上郎女と恋の歌       土肥義治


 大伴坂上郎女は、大納言大伴安麻呂の娘として六九七年頃に生まれた。十代前半にて郎女は穂積皇子の寵愛を受けたが七一五年に皇子は他界した。その後一時期、京家祖の藤原麻呂と相愛の仲となり交した情熱的な相聞歌が万葉集に残る。郎女の才智に富む恋歌二首(五二六•五二七)を紹介したい。
  千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし
  わが恋ふらくは
  来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来む
  とは待たじ来じと言ふものを
郎女は、七二二年頃に異母兄大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を生んだ。しかし、七二八年に夫に先立たれ、七三一年には大伴氏族長の兄旅人とも死別した。旅人没後は氏族の家刀自として、一族の祭祀や祝宴さらに交際を取り仕切る調整役を果たしつつ、娘らの婿選びを慎重に進めた。
 家刀自として一族の氏神を祭る歌(三八〇)や他界した新羅尼の理願を悼む挽歌(四六一)などを詠じた。
  木綿畳手に取り持ちてかくだにもわれは祈ひ
  なむ君に逢はじかも
  留めえぬ命にしあればしきたへの家ゆは出で
  て雲隠りにき
 命婦として聖武天皇に献上する歌(七二五)もある。
  にほ鳥の潜く池水心あらば君にあが恋ふる心
  しめさね
 長女大嬢の婿となる大伴家持や次女二嬢の婿となる大伴駿河麻呂と交した疑似的恋歌(六六一・六八八)と回顧的恋歌(一五〇〇)はとくに名高い。
  恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽くし
  てよ長くと思はば
  青山を横ぎる雲のいちしろくわれと笑まして
  人に知らゆな
  夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は
  苦しきものぞ
 娘を意中の男に婿として託した母親の心境を詠んだ歌(六五二)もある。
  玉守に玉は授けてかつがつも枕とわれはいざ
  ふたり寝む
 越中守家持とともに現地に滞在した娘大嬢へ七五〇年に送った歌(四二二一)が郎女の掉尾歌となった。
  かくばかり恋しくあらばまそ鏡見ぬ日ときな
  くあらましものを
 郎女は八四首の長短歌を残した最も多作な恋多き女流万葉歌人であった。




  二〇二三(令和五)年十一月号    


     「鍼の如く」と純粋短歌論   八重嶋勲


 先生は、師斎藤茂吉の次に精力的に研究に取り組んだ歌人は長塚節と言われた。先生の育った茨城の先人歌人ということの他に節の作風の気品と冴えた芸術観に共鳴したからであろう。
 先生は、昭和三十四年に『短歌文學讀本 長塚節』を雄鶏社から刊行。昭和四十一年には『長塚節全歌集』を鷺の宮書房から刊行されている。
 さらに、昭和四十三年、短歌新聞社発行の随筆集『枇杷の花』に「長塚節の短歌と『土』」、「「初秋の歌」の成立」「「鎌の如く」について」が収載、かなり長文の研究論文である。節の鋭敏な作家の心は一つの完成に到達するが、そこに安住停滞することなく、「初秋の歌」を経て「鍼の如く」の冴えた澄明な歌境に到達したのである。喉頭結核で余命二年の正に絶唱二百三十一首。大正四年二月八日死去、三十七歳。
 先生は、昭和二十八年、宝文館発行の『純粋短歌』の「單純といふ事」で子規の歌(略)•左千夫の歌(略)•長塚節の歌(霧島は馬の蹄にたててゆく埃のなかに遠ぞきにけり)を例示し、「この三首は事実に即して直感的であるが象徴的で感銘が深い。節の「埃のなかに遠ぞきにけり」の感銘は象徴的で、情調とか余韻といわれるものも象徴的感銘である。この二つの全く距離のないものがある距離をおいて相応ずると思われるのが象徴的関係である。ゲーテが言った「生きた啓示の輝ける瞬間」はこういう距離に発光するものであろう」、といっている。
「寫生Ⅱ
」に「瞬間の発光、断片の重量を把握するのが短歌の観入である」、「それは唯一つの瞬間、唯一つの断片の中に生のリズムを感じてよい。瞬間と断片とは単に瞬間と断片とではなく、真実とか永遠とか秩序とか生命とかいわれるものはこの中にある、総じてさういふものは単純なものの中にある時、意味なき時に最も光輝く」、「「限定」の中に「白銀の鍼打つごとききりぎりす幾夜はへなば涼しかるらむ」(長塚節「鍼の如く」)を引いて、「瞬間」と「断片」とに殆ど最高の意味を置いて考えている。それは短歌という純粋抒情詩は「限定」する働きをぎりぎりまで追求する形だからで、限定の最も純粋な形に於いて現実は瞬間と断片とに落ち着くからである」と言われている。




  二〇二三(令和五)年十月号    


     小書き            仲田紘基


 「歩道」以外の結社の人と交流していると、まったく思いがけない意見や情報に接することがある。
 流派を越えて地域の愛好者の参加する短歌大会があった。その応募作品の選者の一人だったTさんから、最近こんなメールをいただいた。
 「誤字のある作品が入賞しています。あの作品は、内容としては良いと思っていましたが、『リフオーム』は正しくは『リフォーム』です。私は誤字があるので選びませんでした。」
 片仮名の「オ」が小書き文字になっていない、というのだ。さっそく私は次のようなメールを返した。
 「歴史的仮名遣いで『リフオーム』と書くのは誤りではありません。私たちの『歩道』では、短歌作品の小書きは一切ありません。」
 Tさんからはすぐに、「ご教示頂き勉強になりました。」とていねいな返信をいただいたのだが、その数日後、今度はこんなメールが届いた。
 「『リフォーム』の件ですが、手元の短歌雑誌を見たところ、文語表記の作品でも、全部発音通りでした。つまり『リフォーム』です。二人の友人に確かめましたが、これは外国語なので発音通りでないといけないとのこと。昔はなかった言葉なのですから。」
 歴史的仮名遣いであっても、片仮名で外来語を表記する場合だけは小書きを用いる、という結社が多いのは事実だ。だからTさんのような誤解が生じるのだろうが。
 『仮名遣意見』を書いた明治の文豪森鷗外の『即興詩人』などを見ると、片仮名でも「フイレンチエ」(フィレンチェ)、「ジユリエツト」(ジュリエット)のように表記している。
 もっとも、戦前でも小書きの表記が混在はしていた。そもそも仮名遣いに関するきまりそのものがなかった。
 戦後、「現代かなづかい」(昭和二十一年)が公布され、それが昭和六十一年に「現代仮名遣い」の名称で改定された。そこには、拗音に用いる「や、ゆ、よ」や促音に用いる「つ」について、「なるべく小書きにする。」と記されている。「なるべく」である。現代仮名遣いにおいてさえ、規則のうえでは小書きにしなくとも誤りではない、ということになっている。




  二〇二三(令和五)年九月号    


     「思い付き」と「写生」    星野 彰


 かつて尾山篤次郎が前田夕暮の自由律短歌について「どうも、奇抜なことをいうのは、思い付きが主になるようである。従って思い付きなどというものはその場限りのものであって、決して価値のあるものではない。」と言っている。昭和八年のことだが、現代の難解な口語短歌にもそのまま当て嵌めることが出来る。奇抜な暗喩の羅列は思い付き以外の何物でもあるまい。新聞歌壇では「好き、の重さ今日は揃っているみたいな赤チューリップの咲く遊歩道」のような歌が高い評価を得ている。(東京新聞2023.3.26)先の尾山篤治郎の言葉を思い出す。選者の評もまた「人が人を好きになることの重さに着目し『赤チューリップ』がエモーショナルな気分をかきたてる。」というものであり 思い付きとしか思えない。作者と選者が「思い付き」に苦心しようが価値あるものにはなるまい。価値あるためには作者・評者の関係を超えて多くの読者の共感を得るものでなければならない。しかし、現在の歌壇は「思い付き」に溢れている。例えは、「吼え狂うキングコングのてのひらで星に匂いを感じていたよ」(種村弘)に対し萩原裕幸は「穂村は日常会話にそれぞれ異常なほどのこだわりを見せながら、伝統のスタイルでは到底なし得なかったようなコミュニケーションを真摯に追及しているものと思われてならない」(現代短歌のニューウェーブ)と言う。全く、作品も評論も思い付きそのものではないか。如何にそれらしき言葉を並べ立てても思い付きが真の感動を呼び起こすことはない。「思い付き」の対極に位置するものが「写生」であろう。比喩について佐太郎は「短歌指導」の中で「歌の表現では、奇抜な比喩などというものはかえっていけないもので、それよりは平凡に実際をありのままに言うのがいいということがわかります。飾らないで正確に実際を言うのが短歌の表現であります。」と言っている。これが写生である。歩道四月号の田丸英敏氏の歌「海近き路に海桐花の実のはぜてくれなゐの種冬の日に照る」は「写生」を具現した優れた歌である。観察は行き届いて言葉の一つ一つに実質があり、 それでいて一首に作者のさわやかな気持ちが流れている。改めて作歌におけ る「写生」の重要性を思い知る。




  二〇二三(令和五)年八月号    


     木下杢太郎「百花譜」     戸田 佳子


 「歩道」平成二十八年十月号の 「歌壇の窓」 に 「木下杢太郎のこと」という拙文を掲載させて頂いた。今回は前回執筆できなかった植物図譜「百花譜」について述べてみたい。
 杢太郎は将来は画家になるのが夢で美術学校への進学を希望していたが実家の反対で叶わず。東京帝国大学医科大学を卒業し、東北帝国大学医学部皮膚科教授、東京帝国大学主任教授等を歴任。医学者として大きな業績を残した。文学者としても幅広く活躍し、佐藤佐太郎も 「私は先生の詩を愛読し、随筆を愛読した」(『枇杷の花』)と述べている。観潮楼歌会にも参加していた。「百花譜」 は太平洋戦争末期の昭和十八年三月十日から昭和二十年七月二十七日まで二年四箇月、杢太郎が描き続けた植物の写生総計八百七十二点からなる植物図譜である。戦争が逼迫した最中、ほぼ毎夜管制下の乏しい灯火のもとで描き続けられたこの 「百花譜」は多い日は昼間も入れて一日で二十一種の写生をしたという。 絵は写生に徹し、繊細なタッチで徴密に描かれている。
 杢太郎は植物、ことに雑草を愛した。「あかざとひゆと」 という随筆のなかで 「午休みの数十分、少し早く退いた時の夕飯までの間は、構内の雑草の間をぶらぶらするのが何よりの慰めであった」 と述べている。
 「百花譜」 は、植物図鑑であるが、簡潔なその日その日の日記にもなっている。戦局に関するものや自身の病状に関する記録もある。講義や研究に多忙を極めた一日を終えた深夜に、植物の写生をほとんど一日も休むことなく二年四箇月、病によって止むを得ざるまで続けた。第一作はまんさくの絵で「昭和十八年三月十日、大学池畔に始めてまんさくの花の開けるを見る。昨夜来気温甚だ低し。寒風袴を透して膚膩に逼る。」 とある。 この写生を始めたきっかけなどは書かれていない。他に例えば昭和二十年四月十五日は山葵の絵に 「先日正一 (㊟長男)持ち来り土中に埋め置きしに花咲きたり。今朝十時少し前警戒警報、敵一機頭上を過ぐ。」 と戦局のことも簡潔に事実のみが述べられている。「百花譜」 最後の絵はやまゆりで 昭和二十年七月二十七日金、胃腸の痙攣疼痛なほ去らず、家居臥療。安田、比留間此花を持ちて来り、後之を写す。 運勢たどたどし。」 これが絵も書も絶筆となった。十月十五日、胃癌のため死去。六十歳。人の生き方について深く考えさせられる画業である。




  二〇二三(令和五)年七月号    


     思いつくまま 三       長田 邦雄


 若い頃、私達が始めた 「青の会」と先生との交流について思い出したことがある。「青」 の活動として私は歌集「歩道」 の五句索引を作りたいと考えた。それにはまず歌集「歩道」 が必要だが、当時はインターネットなど無いから仕事の休みを利用して神田の古書店を探した。歌集の類を多く扱っている店で八雲書林の初版を探したがみつけることが出来なかった。戦後に出た角川書店の新版は紙質が悪く比較的安価ではあった。
 私はようやく第二版を購入したが、当時の私にはかなり高価なものであった。 それでも五句索引を作るためのカードを書き初めた。ある時、先生と話す機会があり私は尋ねた。「定本は初版ですか」「いや、三版だ」。初版本こそ定本であると思っていた私は、あわてて三版を探した。ようやくみつけた三版はやはり高価であった。それでも定本を手に入れることが出来、作業を早めることが出来た。
 その後、講談社から「佐藤佐太郎全歌集」 が出、先生没後岩波書店から「佐藤佐太郎集」全八巻が出版された。先生の文庫本の歌集は角川文庫の 「佐藤佐太郎歌集」 に長く頼っていたが、近年は岩波文庫を座右に置いている。今は現代短歌文庫の 「佐藤佐太郎全歌集」が手許にある。
 さて私の 「歩道五句索引」が「青八号」として出来た。その記念の会には先生ご夫妻が出席して下さった。その席で先生は 「俺のことをやってくれることはありがたいな。わからないことがあったら、何でも聞いてくれればいい。俺は生きているんだから。しかし、聞きにこないのもえらいな」 と労っていただいた。そして 「俺が広告を書くから、売値は四百円だな。」 と即決して 「歩道」(昭和五十年五月号)に広告を出していただいた。
 現在は文庫版の全歌集と対になる香川氏の 「佐藤佐太郎全歌集各句索引」がある。作歌をするうえにおいて言葉の使い方、語感や声調等多くの勉強となる示唆が得られるはずだ。このことは記念の会での先生の発言にもはっきりと表れている。「青の会」 の仲間は皆先生の弟子を自認しているのだ。




  二〇二三(令和五)年六月号    


     ヘルマン・ヘッセ       佐保田芳訓


  先日、歩道合評に参加した。そのなかで有馬典子さんが
 「外燈の(かさ)の下にてその光あかるくなりぬ暮れ果てしかば」
の一首について、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」を想起すると書いていた。合評であるから、私は多くを書けなかったが、同感したのである。私は若い頃、「シッダルタ」や「デーミアン」など愛読していた。へッセ全集を書棚から取り出して、再び懐しく読んだのである。「外燈の蓋の下にて―」の有馬さんが想起した所は「もうすっかり暗くなっているのに気づき、私はランプを取ってマッチをすった。すると、たちまち外の景色はやみに沈んでしまい、窓いっぱいに不透明な青い夜色に閉ざされてしまった。」という一節に当たると思う。
 佐太郎先生は、若き日に西洋の詩人の詩を図書館で借りて耽読していた。ゲオルゲの詩について、茂吉とやりとりする文章があったと記憶するが、詩人についての見識がたかかった。ある時、私が佐太郎先生に、ヘルマン・ヘッセはどうかと質問すると、へッセは甘いという返事であった。その返事を聞いて、佐太郎先生はヘッセを読んでいたと思ったのである。
  夜あるく
 もう夜だ。往来は静かになる。
 道からはなれたところで、眠そうに
 川がものうい流れの音をたてて、
 無言のやみに向って流れて行く。
 歩道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸のそと
 佐太郎先生の歌集『歩道』にある一首である。ヘッセの詩の影響であるとは思えないが、ヘッセと同じ視点であるのが面白い。佐太郎先生の若き日は人と違った短歌を作ろうと思い、埋立地や街川などを散歩して多くの短歌を作っている。おそらく佐太郎先生もヘッセの詩を読んでいただろう。
  眠れる夜
 意識の最後の境に、精神が
 疲れながら意地悪く目ざめて見張っている
 寝ぐるしき夜なりしかどものの音しばらく絶えて暁になる
 佐太郎先生は若くして岩波に勤め、茂吉を助ける仕事をしていたが、ヘッセに似たような青春があった。





  二〇二三(令和五)年五月号    


     不必要な便利さ        波 克彦


 一九九〇年初めからインターネットが普及し始め、その便利さのため利用者が指数関数的に増え、二〇〇〇年代には電子メール、ウェブサイトなどに世界中の人が慣れ親しみ、二〇一〇年代にはスマートフォン(スマホ)が爆発的に普及した。パソコンがタブレット端末となり、印刷冊子として読まれてきた書物が電子書籍化されるなどして、スマホやタブレットを持っていれば何時でもどこでも電子書籍を読むことができるようになっている。
 インターネット検索システムも普及し、近頃は人工知能(AI)を搭載した検索システムが出現し、検索用語として、話言葉のような散文による質問を検索欄に入れるとたちどころに質問に対する回答が流暢な文章により提示されるようになった。
 ウィンドウズやアンドロイドといったパソコンやスマホを作動させる基幹オペレーティングシステム(OS)も、利用者の要望に応じて次々と新たな機能が追加されてアップデートされる。特定あるいは多くの利用者の要望により改良・付加された新たな機能はそれら多くの利用者にもてはやされ、便利さをうたう新機能を搭載したスマホの新機種が次々と開発・販売されることが日常茶飯事となった。
 そこで一個人の立場で考えてみたい。私にとってありがたい、必要な便利さには、インターネット検索システム、電子辞書アプリを入れたスマホ、道路のナビゲーションアプリ、セキュリティアプリを入れたスマホなどが挙げられ、とても重宝に利用していて手放せない。しかし、自分の選択意思にかかわらない便利さ(不必要な便利さ)の押売りには注意が必要である。OSが頻繁にアップデートされて新たな機能が追加されるとその新しい機能を必要としない者にとっては、従来通りの使い方が変更される度に新しい使い方を頭に入れなければならないという不便さが付き纏う。
 私にとって不必要な便利さには、例えばマイクロソフトのワンドライブ、銀行口座やセキュリティカードの指紋や顔認証などがあり、今後自分にとって不必要な便利さをいかに排除して従来の便利さを維持できるかが現生を生き抜く上で大きな課題となっている。




  二〇二三(令和五)年四月号    


     大伴旅人と梅花の歌      土肥 義治


 正三位六十四歳の大伴旅人は太宰府の帥に任ぜられ、七二八年に妻の大伴郎女を伴い現地に赴任した。愛妻は旅の疲れのためか栴檀の花咲く頃に急逝した。万葉集には、郎女の死を悼む山上憶良の名挽歌六首が収められている。
 年明けて早春の丘に咲く梅の花を詠じた旅人の歌(一六四〇)がある。
  わが岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまが
  へつるかも
 中国の詩文に親しい旅人は、七三〇年正月に九州各国の官人が遠の朝廷に参集し帥に拝賀した折に、舶来種の梅の花咲く旅人邸に招き賀宴を催した。
 万葉集の巻五には、宮人総勢三十二人が詠んだ梅花の連作(八一五―八四六)が収められている。その序文には、「時に、初春の令月にして気淑く風和ぐ」の記述があり、元号「令和」は、この文が典拠と言われている。
 ここに、宴の主人旅人と五位以上の上座客四人の歌を紹介する。
  正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ
  楽しき終へめ     
(大弐 紀卿・八一五)
  梅の花今咲けるごと散り過ぎずわが家の園に
  ありこせぬかも 
  (小弐 小野大夫・八一六)
  梅の花咲きたる園の春柳はかづらにすべくな
  りにけらずや   
(小弐 栗田大夫・八一七)
  春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつ
  や春日暮らさむ
  (筑前守 山上大夫・八一八)
  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流
  れ来るかも     
(帥 主人旅人・八二二)
 旅人は、七三〇年十月に大納言に任ぜられ上京したが、翌年七月に世を去った。左大臣長屋王自害(七二九年)後、朝廷の政治的実権は藤原氏が握っており、従二位氏上の旅人は大伴氏の行く末に大きな不安と深い孤立感を抱きつつ、次の叙情歌を詠じた。
  わが妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつ
  つ涙し流る           
(四五三)
  指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行き
  て手向けむ           
(九七〇)
 古里の明日香を再び訪れることなく生を閉じた。旅人に仕えた資人余明軍の敬愛に満ちた挽歌(四五五)が残る。
  かくのみにありけるものを萩の花咲きてあり
  やと問ひし君はも




  二〇二三(令和五)年三月号    


     志満先生の思い出       八重嶋勲


 佐藤佐太郎先生は岩手に十度お出でになった。その最後となった、昭和五十八年六月二十六日に、岩手支部歌会及び板宮清治歌集『待春』・菊澤研一歌集『雪影』等合同出版記念会に先生ご夫妻、秋葉四郎氏が出席された。
 昼食後、志満先生が「大変、入歯が割れたわ」と真っ二つになった上顎の入歯を示された。日曜日で歯科医院はどこも休み。私はとっさに以前盛岡市立病院の事務局に務めていた時の遠藤歯科医長が、川徳デパート七階に遠藤歯科医院を開業していたことを思い出し、電話をした。私の車でゆき、直ちに診察、入れ歯を修復して貰った。待合室で志満先生が私に背を向けられて肩を揉むようにいわれるので、私は畏れつつも揉んだが、凝ってとても固い肩だったことを今でも覚えている。そして会場に戻ってかなり進んでいた歌会に出席したのであった。
 翌日、盛岡市手代森の堤防から北上川をしばらく眺め、その後紫波町の高水寺城跡から北上川の下流方面を遠望。
  詰草の白とむらさき北上川見おろす丘に踏み
  てわがたつ        (黄月)佐太郎
を作られ、後で私が車の運転をしたことへの礼状のはがきに書いてくださった。また、志満先生は即詠歌会で「登り来し城山跡の台地より八重嶋君の田のあたり見ゆ」を作られ詠草をくださった。歌会に収まっていないが、私にとってありがたく懐かしいお歌である。
 佐太郎先生没後、数年たったころ上京、発行所を訪問。応接室の奥に先生の御遺骨が安置されており、礼拝。お茶をいただいたが、応接テーブルに先生の色紙二、三百枚が積まれていたのには驚いた。お暇しようとしたところ、志満先生が「送っていくわ」といわれ、蛇崩遊歩道を散策。目黒区で設置した先生の「桜の歌三首」の写真板や散策途中休まれた電話ボックス脇のベンチ、そして作歌された喫茶ナイルの話など、先生を偲びながら歩いて中目黒駅に着き、改札口でお別れした。階段を昇りながら振り返ると志満先生がまだ手を振って見送ってくださっていた。
 思えば、昭和五十二年、私は第二歌集『青響』を出版しようと先生に原稿をご一覧頂いたが、志満先生から一首一首ご助言頂き、その上出版社への依頼など全てにお世話頂いたのであった。




  二〇二三(令和五)年二月号    


     二つの「は」         仲田 紘基


 「佐藤佐太郎の添削」と題された現代歌人協会主催の公開講座が昨年の四月に東京の学士会館であった。講師は歩道会員の佐保田芳訓氏。三十人ほどの聴講者にまじって私も佐保田氏の話を興味深く聞かせてもらった。
 佐保田氏自身の歌についての佐太郎の添削事例など、具体的な資料に基づく貴重なひと時で、講座の後半には講師への質問の時間も設けられた。
 佐保田氏が助詞「は」の使い方のむずかしさに触れたことに関連して、一首の中に二つの「は」が用いられている歌について、その場合の二つの関係をどうとらえるかという質問が出された。佐太郎の歌集『開冬』の歌である。
  冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に
  海はかくるる
 二つの「は」が使われる根拠として、これは「冬の日の眼に満つる海」と「一つの波に海はかくるる」という二つの歌だ、と佐保田氏は説明された。
 多くの解説や鑑賞がされている名歌であり、特に『佐藤佐太郎百首』(佐藤志満編)に収められた鎌田和子氏の文章は充実した内容だ。そこでも紹介されているが、詠まれた情景からクールベや北斎の絵を想起するという鑑賞がよくなされる。下の句に視点を当てた読みと言えよう。クールベはさまざまな「波」を描いており、上の句の「眼に満つる海」にふさわしい絵もある。つまり、言わば二枚の絵である。
 こうしたとらえ方に私はやや物足りなさを感じてきた。確かに視覚的なのだが絵画ではない、と思うからだ。
 「あるときは」の表現から、海に向かって立ち尽くす作者の姿が浮かぶ。結句の「は」は「海」という主格をあらためて強調するが、三句の「は」は「あるとき」をとりたてて副詞のようにあとに続ける働きをしている。この「あるときは」によって時間が生き生きと動き出すのだ。「は」の導く三句が二枚の静止画を一本の動画として躍動させる、と言ったらよいだろうか。
  しげりたる蓮のあひだはあるときは林の如く
  舟をゆかしむ
 同じ『開冬』にこんな歌もある。ほかにも「は」の重出する佐太郎の歌は意外に多い。むずかしいと言われる「は」の使い方だが、二つの「は」のバランスの妙を味わいたいものである。




  二〇二三(令和五)年一月号    


     歌を詠む           星野 彰


 私達は何故短歌を詠むのだろうか。心の感動を表白したいという思いに駆られるからである。私達を取り巻く全てのものが感動の対象である。風景、社会的事象等の外的なものから、胸中に過る内的なものまで全てが対象である。この感動を五七五七七の三十一字で表すのが短歌であり、私達歩道の会員は感動の表白手段としてこの短歌を選んだのである。しかし表白するだけでは短歌として十分とは言えない。外部に発表し感動が短歌の読み手と共有されて始めて短歌としての存在価値がある。感動の共有者を必要としなければ日記でも書いていれば良いので、私達は如何に多くの人に自分の感動を共有してもらうかに骨身を削るのである。
 私達が「歩道」によるのも、この感動を共有してもらう力を高め、共有する仲間を得るためである。叙景歌であれ社会詠であれ心象詠であれ、目指すところは同じである。その中にあって挽歌は感動の最も凝縮された表白であろう。ある歌人が、我々が作歌に精進するのは人生の一大事に当たって遺憾なくその思いを表すためだと言っていたがその通りと思う。挽歌に秀歌が多いのもその故であろう。
 今年度の歩道言受賞作、折居路子氏の「埋み火」のなかの一首「余命知る夫看とりし半年の空白多き日記を捨つる」には上述した全てが込められているように思われる。この挽歌こそ、この作者が長年歩道に寄り、作歌に励んで来たからこそ成せる一首であろう。この歌の眼目は「空白多き日記」である。ここに作者の胸に去来する万感の思いが込められている。この日記を捨てることにより悲しみを乗り越えて前に進もうという作者の思いが窺えるが、そのことに一層作者の切なさ、深い悲しみを知るのである。「半年の」も作者が懸命に看病する様子を彷彿させて読者の胸を打つ。初句と結句を「る」で終えて脚韻を踏み、句切れなく詠み下す流暢さの中に返って静かな悲しみを感じる。この歌のように、しみじみとした調べの中に作者の深い感動が籠る歌こそが作歌の王道であると私は思う。
 私達は幸いに、「歩道」という伝統ある発表の場を持ち、多くの先達に恵まれている。明日は今日よりも感動多き歌を作ることを信じて励んで行こう。




  二〇二二(令和四)年十二月号    


    「歩道」草創          菊澤 研一


 神保町を歩いて田村書店の前に来たとき、「寄りませんか」というと「向こうが気をつかうから」と先生はいわれた。もう二、三十年は経っている。
 古書肆田村書店店主奥平智、旧姓角田。「歩道」草創の同人である。上智大学経済学部の学生で藤沢市在住だった。
 『回想河野与一 多麻』(一九八六年信山社)に、奥平智の「河野先生を憶う」が載っている。吉祥寺の河野邸から持ち帰った本の中に、「雑誌〈歩道〉が何冊か入っており、あとで奥様から奥様の歌の出ている号だけ戻して欲しいと言われ奥様が〈歩道〉の会員であったことを始めて知りました。この〈歩道〉という雑誌は、岩波書店に勤務したことのある佐藤佐太郎先生を主宰とする短歌雑誌で、その創刊号を私が編輯させられたことがありましたので、懐しく思いました。たしか岩波書店に届けるようにといって編集中の辞典のカードを一緒に運んだのも、この時だったと記憶しております」。
 すでに『歩道』『軽風』『しろたへ』が刊行され、「アララギ」他諸誌に掲載される作品によって佐太郎に啓発された青年たちが歩道短歌会を起ちあげたのである。
 米軍の東京空襲が頻発するなか、幾度か、幾人かが神宮参道の同潤会アパートに集り構を重ねたのであろう。すでに佐太郎の膝下にあった各県の同志には郵便によって同意を促し、九人の同人を得て昭和二十年春「歩道」が創刊された(四月号)。私の所持しているのには四月二十五日印刷とあって発行日は空白である。香川哲三『佐藤佐太郎 純粋短歌の世界』では五月一日発行とある。編輯兼発行人は光橋正起だが、編集後記を読むとガリ版等実務に角田智が当たったことがわかる。
 先生を畏敬する青年たちの研鎖道場として出発したので、巻頭の「観入の態度」という先生の一文は、集団の方向を示唆するものであった。
 同人筆頭の関口登紀は東京天文台長関口鯉吉の娘で、すでに師事していたと思う。井上雅道入隊(この方には後年東京で会った)、角田四月一日入隊。五月二十五日先生罹災。若林伸行・角谷辰雄・長澤賀寿作・斎藤清子罹災。かくて伊皿子の病院へ転居した光橋正起が第二号、第三号の鉄筆をにぎる。




  二〇二二(令和四)年十一月号    


    思いつくまま 二        長田 邦雄


 数年前、「男はつらいよ」の新作映画が公開され大いに観客を喜ばせた。「男はつらいよ」が長年にわたって人気を得ているのは何故だろうか。
 思うにそれは一にも二にも画かれている風景やその中に生活する人々の本音の言葉や感情が具体的で観る人達に共感を与えているからだ。画かれている世界は俗中の俗ともいうべき日常だが、砂の中にきらりと輝く砂金の粒をみつけられる。確か鷗外に「俗になじまなければ俗にいることは悪いことではない」という主旨をどこかで聞いたか見た憶えがある。
 私は小さな商いをする店主だから四六時中俗の中で生活をしている。最近は老二人の生活だから、ゴミを出し仕事の途中に日用品の買物をし、食事の手伝いをし、近所の方々との井戸端会議を楽しむ。しかし、それらは嫌悪する日常ではない。店に来てくださるお客様と刃物についての雑談など実に楽しい。
 私の日常はこのように平々凡々たるものである。高邁な理想をもって高邁な生活をして高邁な作品を生むなどは夢のまた夢なのだ。精神だけでも高邁でいたいものではあるが。
 佐藤先生は『帰潮』の後記に「ただ何か実務を持たなければ生活内容が希薄になり、それは作歌にも影響するだらう」といわれた。この言葉は私の思考の基礎にある。後記は平凡な生活を是として、作歌をする姿勢が重要であることを教えてくれる。その中に「重い断片、光る瞬間」の新しい発見をするのだ。
 『帰潮』の後記は佐藤先生の最も基礎的な主張であり、作歌論の要約である。愚鈍な私はこの後記を常に座右に置いて読み返している。佐藤先生の以後の幾多の歌論もこの一文から出発しているといってよい。
 寅さんは風来坊の自由人だが、その実、繊細に感じ本質を鋭く指摘する。彼をとりまく平凡な人達は彼の本質をつく指摘にとまどい、あわてるが、結局誰もが受け入れる。寅さんの無心に感じて無心に対応する人間の強さだ。
 それは作歌の根本態度と相通じるといっていいだろうと私は思う。




  二〇二二(令和四)年十月号    


   朱の門        佐保田芳訓


 私は中学生の頃、東京港区の愛宕山下に住んでいた。当時、すでに地下鉄が発達していて神谷町から東京のあらゆる所に行く事が出来た。愛宕中学に通い、高校に通い、大学にも短時間で行く事が出来た。後年、短歌を作り始め、佐太郎先生の住んでいた表参道にも行けたのである。
  風はかく清くも吹くかものなべて虚しき跡に
  われは立てれば
 佐太郎先生の歌集『立房』にある一首である。自註で「昭和二十年の夏、青山の辺を歩いてゐて得た感想。草も花も人も廃墟に生きるすべてのものが清く感ぜられたが、風は清いものの最勝であった。」と言っている。
 昭和二十年三月の東京大空襲において下町はほぼ焼きつくされた。佐太郎先生の一首は、その時の東京の模様を伝えた歌である。空襲の被害はいたる所に及んだが、私が終戦後住むようになった愛宕山下の家々のいくつかは焼けずに済んだ。真福寺や青松寺等々の寺も残って、現存している。
 さて、「朱の門」についてであるが ある時、奈良市に佐保田町という町がある事を知った。妻が大阪の友人に用があって行くというので同行した。妻が友人と会って夕方の飛行機で帰るまでの時間帯に奈良市法蓮佐保田町を訪れた。帰途、平城京跡に立寄ったのである。そこには、「朱の門」があり、立派なものであったので、当時の時の勢力のすごさを思った。
 私の中学生時代の親友は、芝大門に住んでいた。親友の母親が家に来て共に勉強をし教えてくれという、たびたび友の家を訪れた。愛宕山下から芝大門まで徒歩で行くのである。
  焼けざりし芝増上寺の朱の門を昼みて暑き夜
  もおもほゆ
 一首は佐太郎先生の『帰潮』時代のものである。私は友人の住む芝大門にゆく途上、増上寺の朱の門をたびたび見るのであるが、奈良で見た平城京跡の門と見紛うほどのもので太い円柱には驚かされた。
 その後、私の友人は病気になり私より早く逝ってしまった。芝増上寺へも通り過ぎることもなくなった。私の親友の母親は蕎麦屋をいとなんでいて、毎年十二月三十一日に、年越ソバが出来たと声をかけてくれた。増上寺の朱の門を横に見て取りに行ったのである。





  二〇二二(令和四)年九月号    


   非 道        波 克彦


 二〇一四年五月十六日から一週間モスクワ(ロシア)での世界ライセンス協会の会合に出席したあと、五月二十五日朝ポーランドのワルシャワから列車でクラクフに向かった。クラクフから一時間程バスに乗ってアウシュビッツ・ビルケナウ博物館に着いた。第二次世界大戦中にドイツナチスがユダヤ系住民を収容して大量虐殺した強制収容所が大戦後二年経ってソビエト連邦からポーランドに返還され、一九七九年に世界遺産として登録された。
 ナチスドイツにより欧州各地で強制収容対象とされた人達は欧州各地から少しの旅行鞄などの所持を許されてアウシュビッツ終着駅まで貨物車に鮨詰めで運ばれた。到着した青空駅の土のホームで、子供連れの家族であっても働ける人と働けない人に強制的に分けられて二度と再会できない場所に収容された。「働けば自由になる」と書かれたアーチの門を入ると生涯外に出られることなく大量殺害されたのである。
 収容所の敷地から建物の全てが当時のまま保存されていて、各建物を順次ガイドの説明を受けながら見学したが、それは見るも悍ましい、夥しい靴や所持品などの遺品、人毛、写真、劣悪な蚕棚ベッドなど収容所内の佇まい、人体実験の記録、大量殺戮のガス室など、涙無しには凝視できない惨状を目の当たりにしたのであった。一九四〇年から四五年までの間に百三十万人がアウシュビッツに送られ、うち百十万人がユダヤ人、十四~十五万人がポーランド人、二万三千人がローマ人(ジプシー)、一万五千人がソビエトの捕虜、二万五千人が他国の捕虜といわれる。その内百十万人がここで死亡し大半がガス室での殺戮であった。
 三時間半の見学を終えて非常な疲れを覚えつつワルシャワヘの帰路についた。生涯忘れ得ないアウシュビッツであった。このような未曾有の大悲劇の光景を目の当たりにして小生のような非力な作歌力で表現することは力不足であるし、誠に非礼でおこがましいと感じ、歌は一首も作らなかった。
  アウシユビツツを訪ひしは八年前にして歌を
  一首も作り得ざりき
 ロシアによるウクライナに対する非道が一刻も早く終わり平和が訪れることを切に願う。





  二〇二二(令和四)年八月号    


   山上憶良と子らの歌        土肥 義治


 山上憶良は、百済からの亡命渡来人の家に育ち、成人後は下級官人として朝廷に仕えた。七〇二年に四十二歳の憶良は、その才が認められ第七次遣唐使小録に任命され唐に渡った。帰国する折に、執節使栗田真人に代り唐を出航する一団に向けつぎの歌を詠じた。
  いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち
  恋ひぬらむ           (六三)
 上代において、「子」は上位者が部下を呼ぶ際に、また夫が妻を親しく呼ぶ際に用いた。その使用例は多くの万葉歌に認められる。しかし、親が子を詠じた万葉歌は何故か極めて少ない。
 遣唐使として旅立つ息子の安全を祈願した母の言霊的情愛歌(一七九一)
  旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめ
  天の鶴群
 防人の国造丁として往く日下部使主三中の父が詠じた悲別歌(四三四七)
  家にして恋ひつつあらずは汝がはける太刀に
  なりても斎ひてしかも
 幼子を詠じた万葉歌は、憶良の歌を除き次の防人歌(四四〇一) 一首のみ
  韓衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来ぬや
  母なしにして
 儒教と仏教に詳しく正義感に富む社会派歌人憶良は、幼子も歌材として取り上げた。憶良は七一四年に従五位下に昇進し、七二六年より五年間余り、筑前国守として筑紫に滞在した。筑紫では、大宰帥の大伴旅人と交流し人生観や社会観を数多く詠った。つぎに幼子を素材とした憶良の歌を紹介する。
 わが子を愛しむ親の慈愛に満ちた心情を普遍的に詠じた歌(八〇三)
  しろかねもくがねも玉も何せむにまされる宝
  子に及かめやも
 宴を退席する折の挨拶歌(三三七)
  憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母
  も我を待つらむぞ
 急逝した男の子古日を仏教思想にて追善供養する歌二首(九〇五、九〇六)
  若ければ道行き知らじまひはせむしたへの使
  負ひて通らせ
  布施置きてわれは乞ひのむあざむかず直にゐ
  行きて天道知らしめ
 憶良は、民衆の困窮、人間の苦悩、愛の無常など人生の諸苦を詠み、晩年に自らの作品を歌巻に纏めた。次の終焉歌(九七八)を残し人生を閉じた。
  をのこやも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名を立てずして




  二〇二二(令和四)年七月号    


   果たせなかった先生の二つの願い  八重嶋勲


 昭和四十五年十月二十四日、佐藤先生ご夫妻が盛岡の歌会に臨み、翌二十五日、岩泉町の龍泉洞に吟行。先生は十七首作られた。
  地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫
  の音(開冬)         佐藤佐太郎
 盛岡に戻り、懇親会が始まろうとしている時、談たまたま秋田駒ヶ岳噴火の話題になった。先生は、突然今行ってみたい、といわれた。しかし、相当の雨降りで、標高千六百メートルの秋田駒ヶ岳は雲の中、凄まじい噴火の音は聞こえるものの全く見えないでしょう、と皆で宥めたが、先生は「遠くからでもいい、ちょっと見えればよい」と強くいわれた。行くとすれば、私の車を出せばよいのだが、ついに皆に引きとめられた。先生の望みを果たせなかったことを私は今でも後悔している。
 今一つは、先生は、以前から何度か「北上川を見たい。なんでもないところでよい」といっておられた。北上川は、岩手、宮城を貫流し、太平洋に注ぐ、二百四十九キロの大河。
 昭和五十六年十月三日に、遠野の貞任高原に先生ご夫妻が遊び、熊谷優利枝、秋葉四郎、岩手から森山耕平、菊澤研一、板宮清治、千田伸一、澤本長清郎の各氏と私が参加。澤本長清郎氏と私の車に分乗。吟行が終り、宿泊地盛岡の繋温泉に向かう途中、矢巾町徳田の北上川の広い川原に下りたが、先生は私の車の助手席でぐっすり眠っておられた。志満先生が「起こさないで」といわれ、皆で川原に下りて少しの間見物。「ホテル山翠」に到着。夕食時に北上川の川原が話題となった。先生は、きっと厳しい表情をされた。
 昭和五十八年六月二十六日に、岩手支部歌会及び板宮清治歌集『待春』・菊澤研一歌集『雪影』等合同出版記念会に先生ご夫妻、秋葉四郎氏が出席された。その翌日、盛岡市手代森の堤防から北上川をしばらく眺め、その後紫波町の城山から北上川の下流方面を遠望。
 詰草の白とむらさき北上川見おろす丘に踏み
 てわがたつ(黄月)      佐藤佐太郎
の一首を作られたが、先生は、銚子の利根川河口で「銚子詠草」の大作を作られたように、しっかりと北上川を凝視し、歌を作ることを考えておられたのではなかったのかと思い、とても残念である。




  二〇二二(令和四)年六月号    


   自然を詠う       秋葉 四郎


 三月の決算期になると著作権使用料の明細が文芸家協会から届く。というと、たいそう立派に感じられるかもしれないが、私の場合まことにささやかで一首の歌を十社ほどの教育書出版社が使っているに過ぎない。ただその歌が、
  湧きあがりあるいは沈みオーロラの(しやく)(くわう)(りよく)(くわう)
  闇に音なし              『極光』
という佐太郎先生追悼の歌だから、なんだかありがたくもある。昭和六十二年八月に先生が亡くなり、その年の暮れ、私はまだ現職の学校の管理職であったが、厳冬アラスカに行き、先生が歌の素材として拘って居られたオーロラを見、詠って鎮魂としたいという堅い決意があった。
 親しい友人を誘い、零下三十度のアラスカに行き、チェナホットスプリングと言う山奥でオーロラ三昧の日々を送った。そして三十首ほどに絞った中の一首がこの歌で、作者としても思い入れは強い。副教材などであろうが、とにかく生徒の記憶に残るようであれば歌人の一人として光栄というものである。
 この三年はコロナ禍で、素材を求めて旅をするということができなかった。家に居てせいぜい読書から新鮮な言葉を発見し、言語包蔵し、醸す(自身の言葉となるのを待つ)しかない三年だった。
 どうしても素材が大した変化のない日常に限られる。私は、若い頃は特に、どちらかと言えば、日常、生活から輝く瞬間を詠う傾向があった。そのため歌柄が自ずから狭くなっていたのであろう。ある時佐太郎先生から、君も自然が詠えるようになるといいんだが、という助言をもらった。
 考えてみれば、日常の歌は作歌の大原則だが、教職にあって狭い生活圏で活動している私が身辺の素材にこだわれば限界があるのは当然で、素材をもっと自由に大自然に向けなくてはならない。共働きや、子供を預け育てる日常は切実だったが、やがてそういう生活が終わった時、先生の「啐」があったのである。私は改めて自然の崇高を求めた。オーロラの歌などはその一つだが、わたしの「啄」はつねにあり今でも続いているが残念ながら「啐」はない。




  二〇二二(令和四)年五月号    


   歴史的仮名遣いあれこれ 仲田 紘基


 私たちがふだん読み書きする文章は現代仮名遣いだが、「歩道」誌に発表する短歌の表記は歴史的仮名遣いだ。
 私はこんな失敗をしたことがある。「掃除」をうっかり「そうじ」と書いて投稿したのだ。それがそのまま掲載されてしまった。「さうぢ」とすべきところだから、わずか三文字のうちの二文字を間違えたわけである。
 発音が今は同じになった仮名の書き分けには特に気をつかう。歌稿のゲラを校正していて最近こんな例を見かけた。「行商のをうな」という表現。「をうな」は漢字にすれば「女」で、「をみな」が転じた言葉だ。一方、歴史的仮名遣いで「おうな」と書けば老女のことになる。漢字で「嫗」「媼」などが当てられる。「おきな」(翁)と対になる言葉でもある。
 この例の使われた短歌の原稿を確かめてみると、実は「行商のおばさん」が添削されたものであった。もし「おばさん」でなく「おばあさん」だったら、「行商のおうな」となるはずのところだろう。仮名一文字の違いでそのイメージもがらりと変わってくる。
 よく見かけて気をつけたいと思うのは「ろうばい」(蠟梅)の表記である。「蠟」の字体が複雑だから歴史的仮名遣いをまじえて「らふ梅」と書かれることがある。これを「らう梅」と書くと「老梅」になってしまう。
 やはり歌によく詠まれる「やまぼうし」は佐太郎にも縁のある花木だ。歌壇の大家の染筆展「四照花会展」ではこれに「四照花」の文字を当てていた。漢字で「山法師」と書かれることもある。比叡山延暦寺の山法師になぞらえたものとか。「法師」は歴史的仮名遣いでは「ほふし」なので、連濁で「やまぼふし」となる。
 ところで、これには「山帽子」という書き方もある。こちらは「帽子」だから、新旧どちらの仮名遣いでも同じ「やまぼうし」ということになる。先日、図書館で『言泉』という古い辞書を調べたら「山帽子」の表記が当てられていたのだが、なんと見出し語が「やまばうし」であった。「帽子」を「ばうし」と書いた時代もあったらしい。
 仮名書きせずに漢字表記にすれば迷う必要などないわけで、結局どうでもよいような話ではあるのだが。





  二〇二二(令和四)年四月号    


   小林勇「婚礼の歌」   菊澤 研一


 昭和十三年一月三十日夜、明日の結婚式のため佐藤佐太郎・伊森志満ふたりは童馬山房へ挨拶にゆく。「先生は五百円わたして、いるだけ使えといわれ、両親は来るかと聞かれた。私がよばないというと、〈若いときは田舎の親などはずかしいとおもうが、ほんとうはそうではない。よぶとよかったな。いまではしかたがないが〉」。見事な洞察である。夫人と別居中の茂吉は媒酌を土屋文明夫妻に依頼。諸事を甥の守谷誠二郎に委ねた。新婦は、東大出の高官で学歴偏重の父に抵抗し、身の軽い新郎に同調していた。
 佐藤佐太郎編集・茂吉全集元版第十二巻(二十七年十二月刊)附録・月報8に冬青庵主人「茂吉先生五題」(初対面・本・酒・〈驚くではないか〉・婚礼の歌)が載った。先生が依頼したもの。冬青庵は幸田露伴が命名した鎌倉の小林勇邸の書斎号。
 一月三十一日(火)婚礼。場所・目黒雅叙園。司会小林。岩波書店関係・アララギ関係が主な出席者で、文明の挨拶、親代りというべき茂吉の小語があっただけで、あとは形式的なことは何もない支那料理の打ちとけた祝宴になった。「さすがに〈アララギ〉の大歌人が揃っているだけに、祝の歌が続々作られて、朗々と披露された。季節はちょうど双葉山が奮闘していた頃の冬場所の最中であったと思われる。斎藤先生の祝歌は下の句だけおぼえている。〈佐太郎おしま今宵取り組む〉というのである。この歌はいずれ佐藤君が恥かしがらずに上の句をつけて全集に収めることと思う」。
 五十年十二月十三日、先生を訪問。「童馬山房随聞の校正が来ている、見せようか」。同夜徹して再校を見た。
 十三年一月三十一日の条、「おのおののメニューの裏に即詠の歌を書いて、小林氏がその歌を読んだ。先生の戯歌の上句は〈春場所の双葉山なす勝力士〉〈当時は初場所を春場所といった〉というのだった」。
 翌日机をはさんで対坐。婚礼の歌がようやく首尾したことをいうと、「あまり品のいい歌じゃないから(全集新版短歌補遺には載せない)」。毎日新聞に出た宮柊二の文と九日に終えた歌会始の選者会議の非に触れ「君のような若い人が知っていてくれ」といわれた。




  二〇二二(令和四)年三月号    


   留意事項追補      長田 邦雄


  前回(三年七月号)は「歩道」小冊子の「作歌案内」にある「留意事項」を引用したが、紙数が尽きてしまい、私自身が佐太郎先生から直接教えていただいたことを書けずにしまった。そこで、そのつづきを少し述べたい。
 当時、南青山に発行所があり、毎月の面会日には自作の作品を佐太郎先生に見ていただいて教えを受けた。
 私の作品に「義兄」という言葉があり、それを見た佐太郎先生は「義」の文字を消して言われた。「短歌は戸籍調査ではない。義母とか義姉とかは必要ない。母でよいし、姉でいいんだ」。短歌は単純を求めていることを私は学んだ。また、別の時に「梅雨」を「つゆ」と読んだ作品について「今はこういう言い方が普通になっているが、俺は好きではないな。」といわれた。「ビル」という言葉についても「こういう省略した言葉はよくないな。しかし、今はこれが普通になっているからな、君なんか若い者はこういうことを知って使うんだな。知って使うのと知らないで使うのでは出来た歌が全然違うからな。それに君の歌はおとなしいから、もっと強くいうことを考えるといいな。」ともいわれた。
 面会日は単に自分の作品を添削していただくだけではない。ものの見方、何を見て何をいうか、その言葉は正しいか。添削の意味など言葉の使い方も含めて直接指導していただいた。そして、その歌稿の最後に「一見 佐太郎」と署名してくださった。とっていただいた作品は清書して次号の歌稿として提出する。四十年以上前の話ではあるが、その教えも現在の作歌上の基礎になっている。
 佐太郎先生が亡くなられたいまも佐太郎先生の言葉は私の体内に生きている。愚鈍な私でも佐太郎先生の言葉はつねに座右にある。
 時々目にする何かの受賞作品にみられる、はやり言葉や突飛な表現には辟易している。作品の進歩発展はこんな発想や軽薄な言葉の使い方ではない。
 茂吉先生を進歩発展させた佐太郎先生をどれだけ先に進めるか、多くの「歩道」会員に共通した宿題であるだろう。さて、作歌をするうえにおいて留意するべき事柄を自身の忘備として二回にわたって書きとどめたが、その実践は容易なことではないだろう。




  二〇二二(令和四)年二月号    


   先生の言葉       佐保田芳訓


 佐太郎先生の木俣修氏に宛てた葉書は三通ある。
(一) 昭和三十五年元旦の年賀状が一通目であり、港区赤坂青山南町より、志満夫人との連名の印刷物である。
(二) 先日は御高著「昭和短歌史」御恵送下され、呑く拝受いたしました。こんな高価な大著を頂いては申し訳なく存じます。永く架蔵、恩恵をかうむりたく存じます。目前の仕事に追はれてゐて御禮が遅れ失禮いたしました。その上こんな簡単な禮状では失礼ですがあしからず御ゆるし願上げます。御禮まで。14/Ⅷ 佐藤佐太郎
 二葉目の葉書である。「昭和短歌史」は昭和三十九年に出版されている。
(三) このたび芸術選奨文部大臣賞を受けましたについて御心こもるお祝詞をたまはりありかたく御礼申上げます。このたびの受賞は全くの幸運と推輓のたまものでありますから天と人とに対してふかく感謝してをります。この栄誉をはげみとして更に精神(進)して参る覚悟であります。何卒今後とも御鞭撻たまはり度く、とりあへず御礼まで申上げます。三月二十九日      佐藤佐太郎
 右の印刷に続いて、
御葉書拝見、返事御手数煩はし恐縮しました。入院されるほどの事と存ぜず失礼いたしました、草々
 と直筆で書かれている。文中、芸術選奨文部人臣賞とあるのは、佐太郎先生の歌集『開冬』の事である。
 「先師斎藤茂吉先生は『芸術に極致は無い』といはれたが、作歌を継続してゐれば思ひがけず境地が進むこともあり得る。私は短歌の価値の大部分は『ひびき』にあると思ってゐる」と後記に書いている。歌集『開冬』については、私には思い出す事がある。歌集の原稿を作製する時、私は先生の口述筆記をするべく先生の書斎で書き出した。午前、午後はスムーズに進んだのであるが、夕食の時先生と共に酒を飲み食事をした。私は酒に強い方でないから次第に少し酔がまわり口述筆記が出きなくなって一日で打切になった。
 かつて、中村達氏が歩道誌に佐太郎先生の歌集の頂点は歌集『天眼』や『星宿』であると書いていたが、佐太郎先生は私に、歌集『開冬』が歌集の頂点であると語っていた。





  二〇二二(令和四)年一月号    


   絆           波 克彦


 東京歌会は、令和二年二月十六日に筑波大学東京キャンパスの会議室にて開催したのを最後に、コロナ禍のため開けなくなって二年近くが経った。同年四月からは「紙上歌会」として毎月歌会を続けてきた。各地の支部歌会でもリアル会場での歌会ができずに紙上歌会を続けている支部もある。歩道誌の通信欄には毎号東京歌会(紙上)の案内を載せてきたから、リアルでは遠方ゆえ参加できない会員や東京地区でも参加するには不自由な会員が紙上歌会に参加していただくことが増えてきて、最近では毎月四十五人前後の参加がある。
 令和三年六月の東京歌会(紙上)では、参加した愛媛の村上時子さんの歌「島丘の墓参に来れば一面の蜜柑の花の香に包まるる」が四十五人の参加者の五首選で十七人から選ばれた高点歌となった。秋葉先生からも「『島丘』の墓参であるのが叙情的に響き、蜜柑の花の香が一首の短歌の世界を大きくしている。会心の一首である。」との歌評とともに秋葉先生の五首選の一首となった。
 その直後村上さんは、「歩道」十一月号の詠草として、「東京の紙上歌会に高点となりて嬉しく幾度も読む」という歌を寄せている。
 この交流は短歌活動が会員の生活に深く入り込んでいて生活の支えとなっており、会員間の繋がりを保つ絆となっていることを如実に示している。
 昭和二十三年に「歩道」が活版印刷となり新しく出発した時、門人佐藤佐太郎の「歩道」のために、師斎藤茂吉が五首の歌を贈って激励していて、その中の一首に次の歌があり、その一首を殊にわれわれは忘れてはなるまい、と秋葉先生が「歩道」令和三年三月号の歩道通信に書いておられる。
 あつまりて歌をかたらふ楽しさはとほくさしくる光のごとし
 本号を編集している令和三年十月頃から、猛威を振るっていた新型コロナウイルスの感染が激減してきていることから、コロナ感染の第六波がくるなど会合の自粛が必要にならない限り、東京歌会も令和四年一月から再びリアル歌会として開催することを計画している。歌会の参加者が一同に会して歌を語り合えることを楽しみにしている。