二〇二四(令和六)年「歩道」十一月号
型は不自由か 樫井礼子
狂言師の野村萬斎は思春期の頃、師匠としての親に教え込まれた「型」に反感を覚えていたと言う。萬斎の息子もまた同じように「型」と不自由な稽古漬けの日々に悩んだと言う。しかし、二人とも後にはそれを克服し、むしろその型を身につけたことが今の演技の進化につながっているのだとも言っているのは興味深い経験談である。
短歌は「定型」詩である。私は長く短歌に親しんできたが、「型」に対して違和感どころか、そのリズムとしての音楽性に惹かれむしろなくてはならないものとして受け取ってきた。それは声調として一首に響きを与え歌の詠嘆を支える重要な要素であるからだ。しかし現歌壇にも自由律や口語の短歌が存在しており、表現の方法として自由ではあるが、本来の歌としての万葉調の純粋性からは遠ざかっている。
この「型」について、茂吉がどのように言っているのか『童馬漫語』から引いてみる。「歌の形式と歌壇」では、「短歌の形式は不自由である。そこに自由な心を盛るのは虚偽に陥るといふ」と、形式などの約束を面倒臭がる他の歌人の言い分に触れた上で「実はその虚偽なところより力が湧いてくるのだ。(中略)短歌の形式をいとほしむ心は力に憧るる心である」と、短歌の形式に対する意思の面で力説しているのは意外であった。更により具体的に言ったのが「短歌の形式、破調の説」である。「自由な形式の所謂『破調』とか、三行や四行に書き下す短い歌は矢張り長詩の一種として味はふべきものであるに相違ない。又短歌は矢張り一行に書き下すべき性質のものであるらしい。そこで微細な処に苦辛も要るし、又繊細な処に妙味も出てくる。」と言い、続けて正岡子規の次の語をも引用している。「こんな些細な事を論ずる歌よみの気が知れずなどいふ大文学者もあるべし。されどかかる微細なる処に妙味の存在無くば短歌や俳句は長い詩の一句に過ぎざるべし」。その上で、「今の口語短歌は無理心中未遂の姿である」と言って口語短歌の非を断じている。率直で沈着豪胆な歌論が心地よく響きつつも、ここでは声調云々の前に、作歌者の「覚悟と努力」によって「型」の効果が生き、短歌の優れた趣が出てくることの根本を言っている。
「型」論の本流としては、茂吉が「短歌声調論」で緻密かつ多面的に声調を論じており、単に音調論にとどまらず歌の意味・内容の要素を含め、私の声調への憧れが単純であったと思い知るほどに深い世界が展開されている。能や狂言同様、「型」の修養が、短歌の本質と価値を体得していく実践的道しるべだと改めて思いを致す。
二〇二四(令和六)年「歩道」十月号
佐藤佐太郎歌論抄(二) 大塚 秀行
『茂吉秀歌』の中で佐太郎は「みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし噞喁ふ」という一首を通して、「湧水があるとも思われない平穏な冬の池」だが「みなもとは石のかげなる」湧水をたたえた池だから冬でも鯉が泳いだりする、と看破した茂吉に感銘を受けたとして次の様に述べている。
「見えるものを見るのが見るというものだが、見えないものを見るのが、ほんとうの見るという働きである。」
この歌論ともいうべき一節だが、佐太郎の歌の中でどのように実践されているのか。
大苞の泰山木は葉の動く風にしろたへの花のしづかさ
『星宿』
「大苞の泰山木」は背も高く葉も大きく分厚い。その葉が動くとはある程度強い風が吹いているのだろう。しかし、白い花は静かさを保っているというのである。風に動かない花に見えないけれどもその存在感、重量感を見たのである。泰山木の花の姿が鮮やかに詠嘆されているのである。そして、花の豊かさまでも伝わってくる。見えない風を動く葉に見て、動かない花にその本質を見る佐太郎の透徹した眼に感服させられる。見えないものを見るとはこういうことなのだろう。
また、『短歌作者への助言』の中で佐太郎は次のように述べている。
「歌は短小な詩だが、できのいいものとなれば、ひとつの事柄、ひとつの状態は、その歌にあってひかり輝き、あるいはずっしりと重いものになっている。どうしてそうなるかというと、そこに作者の影がさし、作者の気息がこめられることによって可能なのである。」 (「作者の影」より)
として、次の一首を示している。
冬の日といへど一日は長からん刈田に降りていこふ鴉ら
『冬木』
この一首は「作者の影」が添うことによって自然の一面が鮮やかに詠嘆されている。決して平凡な自然の歌ではない。短いと一般的に思われている冬の日も「長からん」と作者の推量の意を添わせて、朝早くから活動する鴉の生活を想起させる。さらに、刈田に降りた鴉を「憩ふ」と捉える作者は、鴉の一日の生態を見事に詠んでいるのだ。
前回から様々な例を挙げて佐太郎の歌論を佐太郎の歌に落とし込んでみて理解を深めようとしてきたが、「どのようにものを見るのか、どのように詠むのか」ということに大きな示唆を与えてくれることが分かる。そのように見て、見て考えて歌を詠嘆するとき、歌に深みが生まれ説得力を持つのだ。
二〇二四(令和六)年「歩道」九月号
佐藤佐太郎歌論抄(一) 大塚 秀行
佐藤佐太郎の歌論ともいうべき『純粋短歌論』の中の「限定」に次の一節がある。
短歌は純粋な形に於ては、現実を空間的には「断片」として限定し、時間的には「瞬間」として限定する形式である。断片の中に秩序を籠め、瞬間の中に永遠を籠めて、現実を限定するのが短歌である。
佐太郎に学び短歌を実作しようとするとき、佐太郎の歌論を真に理解することによりその力量が付いていくと思っている。そのためには、佐太郎の歌論を佐太郎の歌の中に求める必要がある。歌論を単なる理屈ではなく歌の中に具体的なものとして落とし込むのである。こうすることにより、歌論は自身の血となり肉となって短歌を詠む力量が増すと思うのである。
さて、冒頭の佐太郎の歌論の一節だが、初めて読んだ時は漠然として具体的なイメージが湧かなかった。「空間的には 『断片』として限定し」とはどういうことか、「時間的には『瞬間』として限定する」とはどういうことか、よくわからなければ当然歌論を実作に生かすことができないのである。
そのようなときに杉山太郎氏の次の解説文を読む機会を得た。
冬の光移りてさすを目に見ゆる時の流といひて寂しむ
机の上か或いは畳の上か、冬の日ざしがわずかに処を変えてゆく。見える物はこれだけだ。それを「移りてさすを目に見ゆる時の流」と観た。これが詩的直観力だ、何という観相の深さか。(中略)なるほど歌はこういう工合に作るものか。そう思って詩情に酔い、『純粋短歌』を開くと「私は短歌に於いて『瞬間』と『断片』とに殆ど最高の意味を置いて考へてゐる。それは短歌といふ純粋抒情詩は『限定』する働きをぎりぎりまで追求する形式だからであり、限定の最も純粋な形に於いて現実は瞬間と断片に落着くからである。」という言葉に出逢う。この透徹した論理を鮮やかに裏付けた一首のみごとさ。私はくり返し感嘆してこの歌人こそ私の師だ、と心に決めた。(佐藤佐太郎百首』より)
この解説文から冒頭の佐太郎の歌論を「冬の光に」の具体的に落とし込んでみた。「冬の光移りてさす」とは空間的にみた現実の断片だろう。「目に見ゆる時の流」 とは時間的にみた現実の「瞬間」だろう。このように捉えるときに、「断片」に自然界の秩序が籠められ、「瞬間」に永遠に流れてゆく時間が籠められるのだろう。そのような佐太郎の実相に観入した発見が、一首の 「寂しむ」という詠嘆に繋がるのである。
二〇二四(令和六)年「歩道」八月号
続、改めて「写生」とは 中村 達
前号では、真の写生歌に到るのは難しいと書いた。「おもむくままにおもむく」と言う佐太郎の言葉を拠所に写生を説明した。また佐太郎に「作者の影」と言う言葉があり、写生との関わりはどの様なものなのか、齋藤茂吉、佐藤佐太郎の歌から改めて考えてみたい。
①しづけさは斯くのごときか冬の夜のわれをめぐれる空気の音す
斎藤茂吉
②暗きよりめざめてをれば空わたる鐘の音朝の寒気を救ふ
佐藤佐太郎
①②とも秀歌と言われている。長いあいだ私は、茂吉の歌の解釈を誤っていた。冬の夜の静けさの極みを歌っていると解釈していたが、『茂吉秀歌』によって、違う解釈を知った。佐太郎の解釈では、「(略)確かに対象を捉えた言葉が深切である。こういって感じさせるのは、直接にはいっていない、厳しい寒気である。これが歌の味わいである」と言う言葉に頭を打たれた様に感じた。自分のことを詠んだから写生になる訳ではない。佐太郎の解釈に、写生を暗示させる内容がある。寒気を直接言うのではなく「われをめぐれる空気の音す」に驚かされたのである。
②の佐太郎の歌には自註がある。「「暗きよりめざめてをれば」は、すべて静の中だが、その鐘の音の動が静の寒さを動かしたのだった。結句により歌が何とか収まっていると思う」とある。この歌では、直接に自分の思いを表出している。茂吉の直接言わない方法、この直接言う方法も写生への道である。如何に写生を生かすのが難しいかが分かる。
③雪ふぶく丘のたかむらするどくも片靡きつつゆふぐれんとす
斎藤茂吉
④冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
佐藤佐太郎
③の歌は「『茂吉秀歌』に、その寂しさ、吹き付ける雪の強さをいった「するどくも」が確かだし、一方に傾くのを「片靡き」と堅固に形容しているのもいい。一つの情景に一つの表現をしようとするから、このような句がある」。この解釈に、写生の方法がある。
④の歌は、佐太郎の自註によれば、「「風にかたむく那智の滝」という句はその場で出来た。(略)稀にはこのように簡素な表現がたちどころに成ることもあった」とある。この歌の主眼は「風にかたむく」にあるが、眼で見たと言うよりも、心の眼が見たのではないか。写生には、この様な飛躍も必要である。
「自然自己一元の生」は、対象を写すことではない。「作者の影」は、取りも直さず「写生」である。この歌には、この表現しかないと言う処まで突き詰めたのが「写生」であり「作者の影」である。
二〇二四(令和六)年「歩道」七月号
改めて「写生」とは 中村 達
短歌を始めて半世紀になろうとしているが、「写生」を体得していない自分を何時もはがゆく思っている。「自然自己一元の生を写す」が写生の定義になっている。意味は分かっているつもりだ。だが実作において、「自然自己一元の生」はどの様にしたら実現できるのか、判断が出来ないのが事実である。言葉の字面は分かっているが、作品に生かされていないと実感している。「写生」は自然を写すことではない。それならば写真に及ばない。眼に見えたもの以上のものが必要である。何時も逡巡している自分がいた。
そんな時、朝日新聞に坂本龍一を偲ぶ
「よく『自然と一体となる』と言いますが、それは言葉のあやで、なかなか一体化するものではありません。自然の音がどんなに良くても、自然そのものには入り込めない。引き寄せたり、遠のかせたり、一種の駆け引きがそこに起こるのだと思うのです。」という発言に出あい、納得するところがあった。自然との一体を求めることは難しい。どの様に近づくかが問題なのだろう。佐藤先生は、その近づく手法を「技術」と言ったのではないか。佐藤先生は、作歌は九十九パーセント技術だと言った。だが手法は、伝授しなかった。いや出来なかった。一人一人が考えて体得するしかない。李氏の言葉で言えば「一種の駆け引き」になるのだろう。
先生の「作歌真」の中に「おもむくままにおもむく」とある。これがその意味であろうか。眼でみた輝きや響き、酸鹹の外の味わいだけでなく、思いを積むだけではなく、「おもむくままにおもむく」と言う技術が無ければ、ありきたりの平凡な歌になってしまう。
上田三四二が「短歌一生」において「冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ」を次の様に解釈している。『それは実景であり、実景でなければならないが、しかしただの写生を越えたものがある。心眼と言いたいものがはたらいている』とある。この「心眼」の言葉は、煎じ詰めれば李氏の言葉と同じ考えの様に思える。
対象を見、自分自身の心を見つめたとしても、それだけでは「写生」ではない。「一種の駆け引き」が無ければ、つまり対象との駆け引きがなければならない。その積み重ねが「心眼」と言えるまでになってゆくのだろう。「おもむくままにおもむく」をもう一度考えてみる必要があるだろう。
二〇二四(令和六)年「歩道」六月号
萬葉集『巻十六』 上野千里
正岡子規が「萬葉を讀む者は第十六巻を讀むことを忘るべからず」といっているのを知り、子規の言葉に従って読んでみると確かにおもしろい。
巻十六は異常な歌で、しかも量の少ない歌が「由縁の有る雑歌」として一括され、大伴家持たちの手許に残る処理のしにくい歌を巻一から巻十五の付録として廻すことになったと「新潮日本古典集成」の解説にあり、係恋の歌、男女の戯歌、諸地方の民謡や芸能の歌なども収められ、つぎつぎと物の名前を上げて詠む物名歌なども多く、誦詠歌、嗤笑歌、仏教関係歌、伝説歌、その他さまざまな歌から構成されており、読み人の記名のある歌が多く、三七八六番から三八八九番までの一〇四首が編まれている。
「むかし、娘子あり。」から始まる巻十六は、一人の女性に複数の男が恋慕をし、その重さに耐えきれず自死をしてしまい、残された男たちが嘆き詠む歌につづき、「むかし、翁あり。」ではゆきずりに出会う九人の娘子から、からかわれる翁が老いの避けがたさを切々と歌で唱えれば、乙女たちはつぎつぎと翁の心に魅了されるという冒頭から興味のわく書き出しとなっている。
和歌などを取り込み詠んでいる歌もあるが、歌材になりにくいものを堂々と詠み誹謗中傷の歌もあり、そのような中でもどことなくユーモアの漂う歌が多いと感じる。やっかみ、しっぺ返し、卑猥な舞、のろけや恨み、もてない男の嘆き、恋の苦しみを納税に見立てる歌、悪臭や排泄物までも歌にしている。柏の葉を人間の裏表の顔に見立てて、おべっか使いを非難する歌。また、日常とは異なる世界、いわゆる物の怪や霊の住む領域なども詠み、人間の無情をうったえる歌、夢が現実になる不思議など限りがない。
これらの歌の多くは、宴席などで遊びの歌として、その場に居合せて人々が与えられた素材で即興に吟詠、吟誦をして楽しんでいたのである。歌は日々の娯楽として重要なものであり共有していたことが分る。
古今集に見られる花鳥風月に余情を得る文化は、子規や茂吉たちの写生的詩情の出現により、私たちはその恩恵を受け、万葉調を継続して直接端的な抒情詩を心掛けとしている。
「歌は詩として美しくなければならぬが、その美しさはどこまでも人間的に活々とした美しさでなければならぬ」と佐太郎は述べている。
文学的な歌材としては如何と思うのもある巻十六だが、佐太郎のいうように人間味にあふれ、生気にみち心の趣くままに詠嘆をし、捨てがたい歌として残されて当然の巻だったのだろう。
二〇二四(令和六)年「歩道」五月号
歌木簡 上野千里
木簡は文書、荷札、帳簿、伝票、手紙やその他、暦、呪符、文学の練習などに用いられていたことは一般的に知られていることだが、そのなかに歌を書くためだけに用意された木簡があり、典礼などで用いられた可能性が高いと栄原永遠男(大阪市立大学名誉教授)の『万葉集木簡を追う』にある。
この著書によるとー九九七年(平成九年)滋賀県の紫香楽宮(しがらきのみや)跡の中心部の溝から出土した木簡に、万葉集巻十六(三八〇七)の「安積山の歌」が書かれていることが分り、木簡に記された万葉集の歌が見つかったのは初めてのことであり、反対の面には「難波津の歌」が書かれていたという。千二百年以上も土の中の地下水に浸っていた木簡を赤外線撮影で確認をし、細かな木屑までも繫ぎ合せ、欠けた部分を万葉仮名で推定復元をして解き、明らかになった歌の全文と訳文は次の二歌である。
難波津に咲くや木の花冬こもり今は春べと咲
くやこの花
(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春
が来たとて梅の花が咲いています)
安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思
はなくに
(安積山の影さへ見える澄んだ山の井のよう
に浅い心でわたしはおりませぬ)
「新編日本古典文学全集」
この二歌は十世紀初頭、紀貫之らが編纂した『古今和歌集』の序文「仮名序」で「難波津の歌は、帝の御初めなり。安積山の言葉は、采女の戯れよりよみて、この二歌は、父母のようにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と紹介しており、最初に覚えるべき和歌の手本だといっている。また『源氏物語』や『枕草子』など、他にも広く手習いの歌としてセットで取り上げられていた。
村田正博(大阪市立大学教授)は「難波津の歌は、繰り返し咲く花で天皇家の繁栄を表現した、明るい気分にさせてくれる雑歌中の雑歌。安積山の歌は相手への深い思いを伝える相関歌で、子供に和歌を教えるための歌としては適している」と二歌がセットになった必然性を説明している。
この二歌が書かれている木簡の両面とも日本語の一音一字で表す万葉仮名で墨書きされており、文字の配列などから元の全長は60・6 6センチメ —卜ルと推定され、一緒に出土した荷札の年号から七四四年末から七四五年初めに捨てられたと推察されている。千二百年以上も前に木簡に記した歌が広く流布し、その後さまざまな経緯をたどり歌は今に至っている。
二〇二四(令和六)年「歩道」四月号
作歌と生成AI(二 言葉と感情) 香川哲三
感情を持ち得ないAIが、これからの文学、取り分けて詩作に如何なる力を持ち得るのかということを思考するのは、あながち無意味とは言い切れない面がある。何となれば、AIは言葉と感情の関係性を映し出す鏡になるだろうからである。
佐藤佐太郎の自註を一例挙げる。
山上に水にじむ泥の
かたむく 『群丘』
この作品に対して作者は、「平静な写実だが下句には広い意味の主観がある」と言っている。この場合の「主観」は感情・感動に直結しているから、作者は自らの心情を結句に凝集させていると言っていい。「対岸の火力発電所瓦斯タンク赤色緑色等の静寂」にも作者の感情が色濃く投影されている。
「写生」と「写実」、現歌壇ではこれら二つの言葉の意味が混同されて使われているのが実態で、「写生」を実際の景そのままに言葉で表現するという意味、即ち「写実」と区別なく使用している場面に私は幾たびとなく向き合ってきた。私にとっての「写生」は斎藤茂吉が定義した「写生」であるから、感情の込められていない、或いは作品から作者の感情を受け止め得ない「写実」は「写生」ではないのである。
実事と同時に立ち上がってくる感情を、如何に純粋に、俗気を感じさせない表現でもって短歌という言葉の器に盛り込んでゆくか、そのための基本技法として写実を重んじるのだが、それは単なる事実描写ではあり得ない。自らの生を写す、即ち言葉に感情を込めるために辛苦するのである。
「写生」というに相応しい短歌には、必ず感情が込められている。その感情は、実際の事柄と一体に、生き身の人間の脳内現象として、平たく言えば「心」に立ち上がって来るものだ。それだから私たちは、実事ということを大切に考えて「写実」を基盤にしつつ、わが生を言葉を通して表現しようとするのである。他者の作品を読む場合も、その姿勢は一貫して変わらない。佐藤佐太郎が「作者の影あるを要す」と言い遺したのは、生き身の人間の生、即ち境涯が作品の中核とならなければならないということと同義である。
過去の作品の言葉を無数に記憶させ、それらの言葉の機械的組み合わせを瞬時にアウトプットするAIには、そもそも境涯も無ければ、詩の原点たる感動も無いから、詩としての価値が根本的に欠落している。一方、言語と感情表現の関係性については、本稿冒頭で述べたように、一人一人の歌人の鏡面として、AIは様々なヒントを与えるだろう。それをどのように受け止めるか、或いは評価するのか、個々の歌人の短歌観に直結しているのである。
二〇二四(令和六)年「歩道」三月号
作歌と生成AI 香川哲三
七年前の本項で「作歌と人工知能」について記したが、当時私が想定していたよりも遥かにAIは進化した。自然な筆致で文章を綴る、実在の人間としか思えない人の顔写真や本人さながらの偽動画を生成するなど、今や枚挙にいとまが無いほど、AI技術は人間社会に浸透しつつある。短歌・俳句の世界でも専用の生成AIが公開されているし、AI俳句の紙本も出版された。又、特定歌人の全作品をAIに覚え込ませた上で、AIが瞬時に成した短歌を中心に、当該歌人の意見・感想を求めるといった企画も幾つか実行された。今のところAIが作った短歌・俳句は、私などから見ればぎこちないものだが、何れそれなりの文体・構文で短歌・俳句を作り得るようになるだろう。AI技術は急速に進歩しているから、次世代の賢いAIが作る短歌・俳句は、侮れないものになる可能性を秘めている。
そうした現状の中で、改めて作歌と人工知能、就中、生成AIについて私の考えを述べようというのである。
先ずは人間とAIの能力比較だが、記憶力では最早人間はAIに太刀打ち出来ない。開発が急速に進んでいる記憶素子によって支えられたAIは、データーの学習・解析、それに基づく新しいコンテンツ生成などで、人の力を遥かに凌ぎつつある。人間とAIで決定的に異なるのは、生命と連動した感情の有無、この一点である。AIは機械であり、感情(或いはクオリア)を内包することが出来ない。
翻って、現代短歌は多様で、歌人の短歌観も様々だから、短歌とAIの関係性を一般論で論ずるには、少々無理な面がある。故に、子規、茂吉、佐太郎の系譜に身を置く写生歌人の一人として、私の立ち位置・考えを述べるのである。「実事と連動して生起するわが心の景色(感情・クオリア)を、言葉によって言い当てるために、わが身の内外の現実(瞬間・断片)を見つめ、繰り返し想起して、作品に感情を込めてゆく、そうすることにより経験を深め、人生を豊かに生ききる」―斯くの如く私は、作歌の原点に実事と感情(クオリア)を置いている。だから作歌に、感情を持たないAIの力を借りようとは一切思わないし、生成AIによる短歌や俳句に、作品としての価値を認めない。
今後は、短歌や俳句でも色々な形でAIが登場するようになるだろうし、投稿歌等にAI作品が紛れ込むのも避けがたいように思われる。
また、AIに馴染みやすい詩型、或いは短歌観・歌風も存在すると私は考えている。そうしたグループと生成AIとの関わり合いを見極めた上で、改めて写生短歌の意味を記したいと思う。
二〇二四(令和六)年「歩道」二月号
『百花譜』におもう 佐々木比佐子
木下杢太郎の植物図譜『百花譜』を書店にて岩波文庫の一冊として目にしたのは十年ほど前の事であっただろうか。父片山新一郎の蔵書中には、澤柳大五郎選『百花譜百選』(昭和五十八年)があって、その大きさに親しんでいた為、岩波文庫のコンパクトサイズがいたく新鮮に感じられた。
この岩波文庫本は、澤柳大五郎選の後に刊行の前川誠郎選『新百花譜百選』(平成十三年)を『新編百花譜百選』として縮小し、編集した一冊である。巻末の前川誠郎による解説には、「原著がこれまでに編纂された二つの〈百選〉をも含めてすべて稀覯に属するものとなった現在、本書が…小さな手引草ともなるならば…」とある。版を重ねていることから、今でも入手可能かもしれない。
原著の『百花譜』(岩波書店昭和五十四年)は、八百七十二枚の原色版を上下巻二冊に収めて出版された。制作者である杢太郎の没後三十四年の事である。前川誠郎は『百花譜』を、「自娯のための仕事であって必ずしも公開を予想したものではなかったかと思う。」と書いている。
医学者でありつつ、絵描きであるという自負を持ち続けていた杢太郎が、その晩年に辿り着いた表現が植物写生であった。戦況が悪化しつつある昭和十八年三月十日に描いた「まんさく」の花の画から『百花譜』は始まっている。制作の意図や動機を杢太郎は明らかに述べてはいないけれども、植物に向けた愛は、かねてより著作に散見される。佐藤佐大郎の随筆「木下杢太郎先生」に記される、杢太郎の「僕はこういう草が好きなんだ。」との発言も、のちの『百花譜』につながるものと言える。戦争も末期の、食糧が乏しくなった昭和二十年六月十三日の日記に「救荒本草百首」の題目を掲げ詠草を記すように、食糧難を乗り切るための植物図鑑という意図も『百花譜』にはうかがえるが、先ず第一義としては植物という生命体への賛歌であろう。『百花譜』の一葉一葉の丁寧な描写と彩色からは、驚きを以て自身の目を見開き、対象に真摯に向かう杢太郎の姿が窺われる。可憐な生命体への賛歌は、戦時下にあって、自身の生きる力になった。
『百花譜』が、杢太郎自身のための表現であったという事に及んでひとつ思い浮かんで来る言葉がある。晩年の佐大郎が、父片山新一郎に贈った墨書にしたためた「自身のための言葉を求めよ」との教えである。この墨書を初めて見た頃の私は師の厳しさを思ったものであるが、それから随分時間の経つ今年の冬は、先達である師が自らの経験を通して父に与えた、血の通った篤い言葉に思われて来るのである。
二〇二四(令和六)年「歩道」一月号
木下杢太郎の言葉 佐々木比佐子
戦争と芸術表現についての思いをめぐらせる時、真っ先に浮かんで来るのは、佐太郎が記した木下杢太郎の言葉である。放送大学に卒業研究として提出した論文「佐藤佐太郎研究『立房』まで」(平成十五年十一月)を執筆する過程において、佐太郎の随筆中に見出した杢太郎の言葉からは、強い光の如き印象を受けた。拙論に引用したこともあって、短いながら忘れ難い言葉である。
それは、佐藤佐太郎の随筆集『枇杷の花』に収める「木下杢太郎先生」という一篇のなかに、次のようにある。
広い葉の油ぎつた雑草を見た日、先生は歩きながら突然のように、「佐藤君、愛国歌は作らない方がいいね。斎藤君でもああいうのになるとよくないな。」と言われた。この言葉に先生の芸術に対する信念があつたし、私はこの高貴な精神にうたれた。
言わずもがな、右における「先生」は木下杢太郎、「斎藤君」は斎藤茂吉であり、「愛国歌」は所謂戦争プロパガンダの作品を指すのであろう。久々に『枇杷の花』をひらいて読んでみたが、杢太郎の発言は今も鋭さを失ってはいない。
『木下杢太郎日記』は、岩波書店から全五冊刊行されているが、その第五巻の昭和二十年七月七日の条には、次のようにある。杢太郎はこの年の十月十五日に逝去。日記は七月二十六日付で終わっているので、七月七日の条は最晩年の記述である、終戦も近い日であった。
命は鴻毛より輕しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり輕くみることが、防ぐのみならず攻める武器の發達をも阻害した。
戦争の偽らざる姿を、杢太郎は正面から捉えている。あくまでも理性を以て、大日本帝国の軍部について書き、また特攻精神についての箇所に続けて、右の傷嘆が記されている。
杢太郎が晩年に心血を注いだのは、植物写生であった。昭和十八年三月から、昭和二十年七月までの二年四ヶ月にわたって描かれた総計八百七十二点におよぶ植物画は、『百花譜』として知られる。初刊は、没後三十四年の昭和五十四年(一九七九)であって、『百花譜』は、先ず杢太郎自身のための表現であった。それら一葉一葉を眺めていると、『百花譜』は杢太郎の純粋なる詩業の如く思われてならない。
なお近年の「歩道」においては、戸田佳子さんが「木下杢太郎のこと」(「歌壇の窓「平成二十八年十月号)、「木下杢太郎『百花譜』」(「表紙三」令和五年八月号)を書いておられる。