歌壇の窓  【最新版】 【2003(平成15)年~2024(令和6)年一覧




   二〇二四(令和六)年「歩道」二月号    


     『百花譜』におもう           佐々木比佐子


 
木下杢太郎の植物図譜『百花譜』を書店にて岩波文庫の一冊として目にしたのは十年ほど前の事であっただろうか。父片山新一郎の蔵書中には、澤柳大五郎選『百花譜百選』(昭和五十八年)があって、その大きさに親しんでいた為、岩波文庫のコンパクトサイズがいたく新鮮に感じられた。
 この岩波文庫本は、澤柳大五郎選の後に刊行の前川誠郎選『新百花譜百選』(平成十三年)を『新編百花譜百選』として縮小し、編集した一冊である。巻末の前川誠郎による解説には、「原著がこれまでに編纂された二つの〈百選〉をも含めてすべて稀覯に属するものとなった現在、本書が…小さな手引草ともなるならば…」とある。版を重ねていることから、今でも入手可能かもしれない。
 原著の『百花譜』(岩波書店昭和五十四年)は、八百七十二枚の原色版を上下巻二冊に収めて出版された。制作者である杢太郎の没後三十四年の事である。前川誠郎は『百花譜』を、「自娯のための仕事であって必ずしも公開を予想したものではなかったかと思う。」と書いている。
 医学者でありつつ、絵描きであるという自負を持ち続けていた杢太郎が、その晩年に辿り着いた表現が植物写生であった。戦況が悪化しつつある昭和十八年三月十日に描いた「まんさく」の花の画から『百花譜』は始まっている。制作の意図や動機を杢太郎は明らかに述べてはいないけれども、植物に向けた愛は、かねてより著作に散見される。佐藤佐大郎の随筆「木下杢太郎先生」に記される、杢太郎の「僕はこういう草が好きなんだ。」との発言も、のちの『百花譜』につながるものと言える。戦争も末期の、食糧が乏しくなった昭和二十年六月十三日の日記に「救荒本草百首」の題目を掲げ詠草を記すように、食糧難を乗り切るための植物図鑑という意図も『百花譜』にはうかがえるが、先ず第一義としては植物という生命体への賛歌であろう。『百花譜』の一葉一葉の丁寧な描写と彩色からは、驚きを以て自身の目を見開き、対象に真摯に向かう杢太郎の姿が窺われる。可憐な生命体への賛歌は、戦時下にあって、自身の生きる力になった。
 『百花譜』が、杢太郎自身のための表現であったという事に及んでひとつ思い浮かんで来る言葉がある。晩年の佐大郎が、父片山新一郎に贈った墨書にしたためた「自身のための言葉を求めよ」との教えである。この墨書を初めて見た頃の私は師の厳しさを思ったものであるが、それから随分時間の経つ今年の冬は、先達である師が自らの経験を通して父に与えた、血の通った篤い言葉に思われて来るのである。



   二〇二四(令和六)年「歩道」一月号    


     木下杢太郎の言葉            佐々木比佐子


 
戦争と芸術表現についての思いをめぐらせる時、真っ先に浮かんで来るのは、佐太郎が記した木下杢太郎の言葉である。放送大学に卒業研究として提出した論文「佐藤佐太郎研究『立房』まで」(平成十五年十一月)を執筆する過程において、佐太郎の随筆中に見出した杢太郎の言葉からは、強い光の如き印象を受けた。拙論に引用したこともあって、短いながら忘れ難い言葉である。
 それは、佐藤佐太郎の随筆集『枇杷の花』に収める「木下杢太郎先生」という一篇のなかに、次のようにある。
 
広い葉の油ぎつた雑草を見た日、先生は歩きながら突然のように、「佐藤君、愛国歌は作らない方がいいね。斎藤君でもああいうのになるとよくないな。」と言われた。この言葉に先生の芸術に対する信念があつたし、私はこの高貴な精神にうたれた。
 言わずもがな、右における「先生」は木下杢太郎、「斎藤君」は斎藤茂吉であり、「愛国歌」は所謂戦争プロパガンダの作品を指すのであろう。久々に『枇杷の花』をひらいて読んでみたが、杢太郎の発言は今も鋭さを失ってはいない。
 『木下杢太郎日記』は、岩波書店から全五冊刊行されているが、その第五巻の昭和二十年七月七日の条には、次のようにある。杢太郎はこの年の十月十五日に逝去。日記は七月二十六日付で終わっているので、七月七日の条は最晩年の記述である、終戦も近い日であった。
 
命は鴻毛より輕しといふことが揚言せられる。そして人の子を犬の子、いなごの如く殺した。命をあまり輕くみることが、防ぐのみならず攻める武器の發達をも阻害した。
 戦争の偽らざる姿を、杢太郎は正面から捉えている。あくまでも理性を以て、大日本帝国の軍部について書き、また特攻精神についての箇所に続けて、右の傷嘆が記されている。
 杢太郎が晩年に心血を注いだのは、植物写生であった。昭和十八年三月から、昭和二十年七月までの二年四ヶ月にわたって描かれた総計八百七十二点におよぶ植物画は、『百花譜』として知られる。初刊は、没後三十四年の昭和五十四年(一九七九)であって、『百花譜』は、先ず杢太郎自身のための表現であった。それら一葉一葉を眺めていると、『百花譜』は杢太郎の純粋なる詩業の如く思われてならない。
 なお近年の「歩道」においては、戸田佳子さんが「木下杢太郎のこと」(「歌壇の窓「平成二十八年十月号)、「木下杢太郎『百花譜』」(「表紙三」令和五年八月号)を書いておられる。