佐 藤 佐 太 郎 抄 〔2021年~2024年〕 〔2025年~〕


      




                     
菊 澤 研 一


二〇二五(令和七)年一月号(その四十七)

  龍泉洞歌碑行


 山本豊の計らいに和し八重嶋勲と同乗、龍泉洞に行くことになった。前夜にわかに蘇東坡「石鐘山記」「清渓詞」を覗いたものの、石窟の急峻を上り下りする能力は費耗した。
 昭和四十五年十月二十五日佐藤先生と吟行し、平成十年同月歩道岩手の会が「地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音」の石碑を建立、翌春除幕した。歌碑と副碑は地元岩泉町に寄進、二十六風霜を閲したが訪れる機もなかった。
 令和六年十月二十二日(火)、好晴、盛岡発十時。唐松・白樺・撫の黄・落葉の間を縫い、北上山地を北北東に横断百粁。かつて四時間の道程を八重嶋・(故)菅原照子と同行、町長との折衝に幾往反したことか。岩洞湖小憩。砕石を積んだ長堤を烈風を切って進まれた先生の俤が去来する。早坂高原は三粁余が隧道化し望むべくもない。十二時宇霊羅山麓着。遊客少。
 枯色の木々を交えた絶壁下、洞窟から迸る激流の轟きのなかに二つの碑が端然と鎮まっている。歩み近づき佇立、礼拝してしばらく声もない。安山岩の黒い歌碑の縁が苔のせいか緑褐に変色し、彫字「地底湖」の地の土偏と「し多ゝる」のしが絵具を垂らしたように白い。触れると線状に水が滴る。急流の飛沫だ。歌碑のやや左に由来を刻んだ撰文の副碑。真裏に礼宮手植の槐。碑域背後に割竹の垣が設えてある。月明深夜のいかに。再び来る日はない。


二〇二五(令和七)年二月号(その四十八)

  龍泉洞歌碑撰文


 歩道岩手の会の平成十年、龍泉洞歌碑建立はその三年前、 副会長八重嶋勲の発議に負う。盛岡市教育次長の彼は岩泉町教育長を動かし、八重樫協二町長の動向を注視していた。幸い日大時代拳闘選手の文化人町長はすべて好意的だった。彼は石屋の選定、作品決定(菊澤宛毛筆書簡中の一首)、英訳 (シカゴ、ノーマ・フィールド氏)、募金、記念冊子編集、記念品(歌の古代型染)、除幕式等々巨細にわたり手腕を発揮し広範の業務を遂行した。私は石屋に行ったとき社長に促され、即時撰を作ったに過ぎない。副碑に刻字した明朝の撰文は早く磨滅する。記録して保存しようと思う。「(歌略)〈地底湖にしたたる一瞬のしずくの音は永遠の音だ〉というのである。歌人佐藤佐太郎は、昭和四十五年十月二十五日、龍泉洞に遊び、この歌を作った。先生は、明治四十二年宮城県に生まれ、アララギの斎藤茂吉に学んで、歌誌〈歩道〉を刊行した。歌集〈歩道〉〈帰潮〉〈形影〉〈星宿〉等によって現代短歌に屹立する作風を樹立し、読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、現代短歌大賞、日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員に推挙され、昭和六十二年八月八日、七十八歳をもって東京に歿した。県下百八十人余りの門人は、この歌碑を建立して先生を顕彰追慕し、師恩に謝するとともにその風韻を後に伝えようとする。歩道岩手の会」