佐  藤  佐  太  郎  抄





             菊澤 研一




二〇二一(令和三)年三月号(その一)  


 由 来

 
上目黒のお宅を訪ねたとき、歩道に連載中の「及辰園往来」のコピーの綴りを所持していた。「それを置いてってくれ」と先生は言われた。帰ってから自用のを再び作った。
 昭和五十一年五月一日訪問。先生は封筒から『及辰園往来』(求龍堂・四月二十日刊)を取り出し、「君が言って来たのを書いておいた」と、本を下された。赤い見返しの次の頁に、「愁思縁餘寒 衰容非疾病 今日復春分 辛夷百苞立 佐藤佐太郎 与菊澤研一君」。及辰園主の角印を押すとき私は、天地を逆にしてしまった。思えば何にでも落款を要するものでもなかろう。ここに()とあるのだから。
 題字は先生の墨跡である。この日B5版のコピーの綴り携えていた。歩道に掲載された短歌・随筆・表紙二・歩道通信の「往来」「私暦」、他の雑誌・新聞等に発表された諸作、先生に関する諸家の文章・記事の類を複写して冊子を作っていたのである。冊子のはじめに白い紙を付した。揮毫されるとき、「何と書けばいい」と言われた。「今日は天気がいいから散歩しよう」。蛇崩の道に山茶花が咲いていた。昭和五十二年十一月十三日のことである。
 この日は六十八の生日にあたり、午後、講談社刊『佐藤佐太郎全歌集』の出版祝が京王プラザホテル「南園」で開かれ、十余人が招かれたのであった。(題字先生)




二〇二一(令和三)年四月号(その二)  


 『短歌入門ノオト』の表紙

 
昭和二十年代、心的葛藤の渦中にあって、『斎藤茂吉秀歌』『短歌入門ノオト』を読み、二十七年八月歩道に入会した。ノオトは再販で帯文・高安國世。先生が高安に執筆依頼する訳はない。書評を読んだ伊藤禱一が転用したのだろう。初版本は二十余年後、大阪の古書店から入手。初・再の間に『帰潮』が出て二十七年五月、第三回読売文学賞詩歌賞を得た。因に第一回斎藤茂吉『ともしび』、第二回高村光太郎『典型』である。
 ノオトの再販本にかけたカバーが擦り切れたので外すと、裏に「表紙絵 小田野直武筆」とある。鼡色の地にモノクロの枇杷図だ。幹の尖端の花を囲む六葉、右上に蕾と三葉、左下に花芽と五葉。天頂の葉脈の鮮やかな広い葉と、左右に伸びた長い葉が図を引き締め、風格と気韻を象っている。緑の地の初版より数等上である。一月号から替った歩道の表紙絵、燕子花が同然の風韻を蔵し、ここにも佐藤佐太郎絵画の特質を認めることができるであろう。
 秋田八代藩主、曙山佐竹義敦の家臣、小田野直武(一七四九-八〇)は角館に生まれた。ゲーテと同年である。鉱山の調査に見えた平賀源内に画才を見出され、自身絵筆を握る藩公に召されて江戸詰となり、出府して間もなく、杉田玄白の『解体新書』に挿画を描く。秋田蘭画の一派は司馬江漢に先行する日本洋画の魁で、直武らを江湖に広めたのは平福百穂であった。




二〇二一(令和三)年五月号(その三)  


 平福百穂

 
武士・画家小田野直武と同じ秋田県角館に生まれたのが両家・歌人平福百穂(一八七七―一九三三)である。『赤光』の挿絵通草のはなも、昭和二年創刊岩波文庫の、正倉院御物をあしらった装頓も百穂で、文庫本の典型を作った。ついでに、この文庫の『佐藤佐太郎歌集』は作品を増補改版すべきではないか。
 このころ先生は岩波の小売部にいた。神保町のランチョンで麦酒を飲んだとき、岩波入店の動機をたずねると、何ともない、店員募集の貼紙をみて出かけたという。当時の店員は小林勇ら二十人ほどである。
 同二年、百穂歌集『寒竹』が古今書院から出た。五年、岩波から百穂著『日本洋画の曙光』が三百部限定で刊行された。収載された直武の枇杷図が二十年後『短歌入門ノオト』の表紙になったのである。あるいは二十四年田沢湖に遊んだとき、直武旧居で原画を眼にしたものか、随行者が現存しないので不明だ。
 アララギの発売所、岩波に佐太郎がいるのは斎藤茂吉やアララギにとって貴重だった。著書の殆どが佐太郎の製作にかかっている。たとい岩波以外からの出版であっても。
 八年十月二十一日、竹尾忠吉歌集『平路集』の表紙画の督促のため、三宿の白田舎を訪ねている。二日後百穂の次兄が急逝、秋田に帰郷した百穂は二十四日突然発病し三十日に歿した。九年四月、アララギ平福百穂追悼号に先生は「最後の訪問」を書く。転載するのがいいと思うからコピーを同封する。


  最後の訪問          佐藤 佐太郎
 昭和八年十月二十一日の午すぎ先生(編者註、平福百穂)を訪問したのは、歌集「平路集」の装幀を御願してあつたが、本文の校正も大分進行したので御催促にあがつたのであつた。私はそのとき額に表装した寒牡丹の絵を抱へて行つた。この絵は昭和六年「門問春雄歌集」の表紙書を頂きにあがつた折に頂いたもので、其日は来客があり二時間近く待たねばならなかつた。縦長の木枠に絹を張つて寒牡丹や柘榴や蜀黍や佛像の絵などが描かれてあつたが、そのなかの蜀黍の絵にきめられ、葉の蔭から実の房が見えてゐるところに更に色を加へられた。私は暫く逡巡して居たが寒牡丹の絵を頂けませんかと言つた。先生は花のところに少し筆を附けられ、これも御持ちなさいといつて柘榴の絵も一しよにナイフで切つて下された。
 牡丹の絵には署名がなかつたけれど、未完成のものに署名まで御願ひするわけにゆかなかつた。私は電車のなかで、先生は永く待たしたことを済まない御気持で居られ、それで此絵も簡単に頂けたのだらうと思ひ、偶然に恵まれた幸幅を感謝した。其後「寒牡丹」は或人が額に仕立ててくれ、判を押して貰ひなさい、表装しましたからと持つてゆけば嬉んで押してくれますよ、といつた。折々は署名して頂いて置いた方がよいと思ふこともあつたが気が臆せて駄目だつた。それを抱へて私は電車に乗つた。多摩川電車を下りて通りから右に折れた処で暫く立止つて心を鎮めようとした。それから引返して角の煙草屋でバツトを一箱買ひ、額は一時そこに預つてもらつて漸くほつとした気持になつた。
 そのとき応接室に出て来られた先生の顔は何となく蒼白のやうに見え、いつも血色のいい顔をして居られたから直に私の注意をひいたのである。椅子に落着かれてから、先生は両の掌で顔を洗ふ時のやうな動作で、顔を撫でられた。大きな眼が殊に目立ち、眼が稍赤味を帯びて居られたと思ふ。いつか新聞の消息欄は先生が病気のため帝展に出品されない事を伝へて居た。私は『御愛りございませんですか』といつた。先生は『どうも難有う』といはれた。私は顔色の事をいひ出さなかつたから不手際な挨拶はこれで終つた。要件を御願ひすると、三四日のうちに考へて置きませうといふ事だつた。いつも装幀は御目にかかつて御願ひしてから、二度ぐらゐ電話で御催促して最後に頂きにあがるやうになつてゐた。先生は非常に御忙しかつたからいつもさういふ順序をふんで表紙絵を頂いたのだつた。
 先生は帝展の事を話され『若い人にいいのがありますね。特選はやはりいいです。二つ三ついいのがありましたですね。』と言はれた。又『日本書は浅薄だから西洋書を取り入れる事も必要だしいろいろ行き方があるわけですね。わたくしなどは力が弱くてかなひません』ともいはれた。数日前の読売新聞に「玄明」といふ絵の批評があつたので御話しすると、『いつですか』『何新聞ですか』『誰が書いてゐますか』かういふ問を続けて発せられ、『羽をひろげてゐる絵でせう。鵜飼の始るところか済んだ後かのようであつたですね』『ああいふ意味を持たせるからいけないのですね。鵜なんか大き過ぎますね』かういふ事もいはれた。
 それから歌のことも話され、私がアララギに歌を御出し下さるやうにいふと『いやあ、わたくしなんかとても古くて駄目です』と笑はれた。又、西洋の時の歌は手帖に書いてあるがなかなか纏まらない、いつか十首ばかり半紙に清書して斎藤君に見てもらふつもりで居たが、其紙が見つからない、絵の反古を入れる籠があるから何かの時にそれに入れて捨ててしまつたかもしれない、西洋の歌でも出して居るうちに又作れるやうになると思ふが、どうしても見当らない。といふ事をいはれた。
 話の合間に先生は『煙草はどうです。上の方は湿つてゐるから』と箱の底の方から一本とつて、それを軽くふかされたりした。そんな時でも先生の蒼い顔には変に張りがなかつた。
その日は三十分程で先生の宅を辞し、煙草屋から額を受取つて帰つた。
 私は仕事の関係から割合に多く先生に御目にかかる機会に恵まれてゐたのであつたが、其翌々日に令兄の急逝に会ひ秋田に帰郷された先生は、その地に(にはか)に病を得て遂に起たれなかつたのである。  (「アララギ」平福百穂追悼号S九四月号)




二〇二一(令和三)年六月号(その四)  


 『帰潮』 読売文学賞

 第三回読売文学賞は昭和二十七年五月五日の新聞に発表され、佐藤佐太郎第五歌集『帰潮』が詩歌賞を受賞した。私の日記をみると五月六日祝意のはがきを出している。
 小説・戯曲・文芸評論・詩歌・文学研究五部門共通の選考委員は豊島与志雄・辰野隆・宇野浩二・折口信夫・久保田万太郎・正宗白鳥・小林秀雄・小宮豊隆・青野季吉・佐藤春夫・広津和郎の十一名である。佐藤先生は、「宇野・折口・佐藤春夫は前から知っていた。小宮豊隆は家内の父(伊森賢三)の学友だ」と言われた。現今の詩歌の賞は精精三名で雲泥の差だ。
 選考経過、投票は『帰潮』、三好達治『駱駝の瘤にまたがって』が各四、『窪田空穂の諸作品』一、棄権二で、佐藤、三好の作品で再投票となり、佐藤六、三好四、棄権一で『帰潮』に決定した。先生の話。三好達治のは後で日本芸術院賞になったから(二十八年二月十日発表)、運はわからないものだ」。「私は実作で応えた」という受賞のことばから抄記する。
 「この短い詩は千数百年の伝統の中に磨きをかけられて、今日では詩としてほとんど極限の形を現わすべき時期に来ている。その短歌としてのぎりぎりの形はどういうものであるかという事について、私は私なりの信念を持って実作を追及して来た」。




二〇二一(令和三)年七月号(その五)  


 岡 鬼太郎のこと

 
一月二日NHKテレビで、歌舞伎座の初芝居「らくだ」を見た。落語なら志ん生の「火焔太鼓」「黄金餅」などと同じ好きな演目だが、芝居は初めて。佐藤先生は圓生が贔屓らしく、駿河台の東京古書会館で『圓生全集』を求められたとき、「文章も落語のように山がないと面白くない。歌も同じだ。推理小説のような展開が必要だ」と言われた。死人のならず者・駱駝の馬太郎にかんかんのうを踊らせ、酒に酔うにつれ主客が転倒して行くのが醍醐味で、落語も芝居も楽しい。
 上方噺が江戸に伝わり昭和三年、岡鬼太郎(一八七二―一九四三)が『眠駱駝物語 らくだ』(ねむればらくだものがたり らくだ)に仕立てて今日に到ったもの。作家、劇評家岡鬼太郎は洋画家岡鹿之助の父で、永井荷風(一八七九―一九五九)と親しく、『断腸亭日乗』に登場する。昭和十年代前半『鷗外全集』『濹東綺譚』の編集担当だった先生も、麻布の荷風邸・偏奇館に出入りしていたので、荷風日記『断腸亭日乗』にしばしば現れる。
 荷風の死の翌年、詩と詩論の季刊誌「無限」Ⅵ冬季号に「永井荷風先生」を書かれた。その雑誌がないというので、盛岡市立図書館で復写したのを届けた帰り、青山通の古本屋に寄ると、店頭に出ているではないか。引き返して玄関ですててこ姿の先生にお見せした。「君が持っているのがいい」。荷風追悼文のなかに岡鬼太郎がいる。





二〇二一(令和三)年八月号(その六)  


 『断腸亭日乗』から

 佐藤佐太郎が岩波の編集者として偏奇館に通っていた昭和十年代前半のことは、『断腸亭日乗』に簡潔に記録されている。これは「秋海棠―永井荷風と佐藤佐太郎」として四十四年、本誌に書いたが、今では知る人はほとんどないだろう。
 十年代後半にもいく度か荷風を訪ねている。ある時は店主岩波茂雄とともに、荷風全集のための未発表原稿八種を預るために。また荷風の変節により、預った原稿の返戻に。そのころ岩波・中央公論・弘文社が全集の刊行を考えていたのである。出版社の動向、間に立つ人の暗躍など、日記にしか書けないことが隠見する。荷風は一回限りの刊行を中央公論に許すが、やがて生前の全集を懐疑する。のち佐太郎退職後の戦後、岩波から決定版全集が二度刊行されること周知の通り。
 荷風は真摯寡黙の佐太郎を信頼していたと思う。四年ぶりに重い任を負って訪問する昭和十九年九月二十日の日乗から。
 「三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著『腕くらべ』五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何らの滑稽ぞや」。





二〇二一(令和三)年九月号(その七)  


 池上浩山人

 「昭和二十年の夏、茨城に疎開していたころ手帳の清書を日課としていた。そのうち八月十五日に終戦となって為事を中絶した。清書の済んだ分を〈童馬山房随聞〉と題して、三冊に製本して銀行の金庫にあずけてある。製本は俳人の池上浩山人氏をわずらわしたが、氏は代金をとらなかった」(昭和四十八年五月二十目角川書店刊『斎藤茂吉言行』後記)。
 これを読んだ岩波の先輩小林勇が佐藤佐太郎を促し、随間を刊行することになる。中身は随聞が言行に先行するが、のち『佐藤佐太郎集』第七巻、第八巻によって年代が接続した。
 昭和二十三年朝日歌壇斎藤茂吉選「蟲食ひの古き代の書をつくろひて今日もはじまるわがたつきかも」によって私は池上浩山人を知った。生業をまともに詠歎して渋味がある。茂吉は作者を知っていて採ったのであろう。浩山人また茂吉を知り、佐太郎を知り、山房随間の価値を認めるゆえに対価を要求せず、声援を籠めたのであったろう。神田小川町に店を張っているのも好都合であった。
 浩山人は佐藤先生に後れて、昭和十八年四月二十四日永井荷風を訪ね、断腸亭日乗の製本を任される。荷風日記・茂吉訪問記の製本を手がけるからには、その人間を探求してみたくなろうというものだ。





二〇二一(令和三)年十月号(その八)  


 続池上浩山人

 斎藤茂吉は書画の表装は出入りの久保田表具師に頼んでいた。毛筆による自著の原稿は製本して、原本として保存し、副本を作って印刷原稿に用いた。製本を佐藤佐太郎に依頼したことが随間・言行によって知られる。先生が製本するのではない。神田小川町の池上浩山人に委ねるのである。装幀、製本用紙に過敏な茂吉を満足させるには、練達の職人を選ぶことだ。一つ年輩の浩山人の仕事は眼に適っていた。
 昭和二十三年、大日本雄辯會講談社刊『互評自註歌集歩道』の十三年「晩夏」の条、「先生から斧正をいただいた歌稿は初期のものからずつと一まとめに製本して保存し、それが三册あつたが、戦災に焼けてしまつて、かういふ時に参考にすることが出来ないのは残念である」。『随聞』十六年四月十三日の条の追記では「二冊に製本」とある。二か三か。製本は池上によるだろう。自らの歌稿を焼失、茂吉からの書簡(童馬山房主人来書)は持ち出していて無事。茂吉本位だ。
 浩山人池上幸二郎(一九〇八-八五)。千葉生まれ。父田中蛇湖の影響下に作句。虚子・風生に師事。「桃李」を創刊主宰。句集「雁門集」。岳父池上梅吉の製本業晴心堂を継ぐ。荷風全集月報には注して国宝修理業とある。「書痴吾に本の神田の祭かな」「荷風黴び潤一郎黴び露伴黴び」「帙固き金槐集や実朝忌」。
 




二〇二一(令和三)年十一月号その九)  


 続続池上浩山人

 『童馬山房随聞』昭和十一年七月六日の条、「突如として『僕が玉の井を書けば荷風(永井荷風「墨東綺譚」)よりうまいな』といわれた。先生は、僕も書いておこう、といって、更に、『僕も去年の夏からいってないが、いい子がいたよ。なんかこういたわってくれてね。髪を前にさげたりしてかわいい顔をしていた。その後二三度いってみたがもう居なかったな。僕は裏口にまわって、おかみさんのような人に聞いたら、(ちょっといません)って言ったよ』と話された」。
 同じことが秋葉太郎(一九〇七―八五)の『考證永井荷風』(岩波・四十一年刊)に見える。「(十八年五月十日)荷風が池上を訪ねてから数日後に斎藤茂吉が池上を訪づれた。事は俳誌『桃季〔李〕』昭和三十二年三月號に載つた池上浩山人執筆〈茂吉から聞いた話〉に審かである。即ち、『或る時先生が拙宅に御越し下さつた時に、〈二三日前荷風先生が見えました〉と申上げると、先生曰く、〈私も荷風先生に遭ひたいですなあ―〉と云はれ、突然又〈僕が玉の井を書けば、荷風以上のものを書きますよ。―私も二三度行きました。いゝ子が(ママ)たね。髪を前にさげて可愛いゝ顔をしてゐた。その後行つたが、(ママ)ませんでした。裏口へ廻つてお上さんに聞いたら、もうゐませんと云つてゐた〉』。佐藤先生と酷似の筆致で、『随聞』製本後、刊行以前の執筆だ。




二〇二一(令和三)年十二月号(その十)  


 池上浩山人余話

 (承前)茂吉は荷風の数日後に池上を訪ねていない。精緻極まる考證家・秋葉太郎も池上の文章を鵜呑みにして茂吉日記を繕かなかった。荷風が訪ねる十一日前の十八年四月三十日、「午後一時ニ宇賀田博士卜共ニ神田ノ池上幸二郎氏ヲ訪ヒ(鹿児島寿蔵君同道)、三原コレクシヨン(現在木村氏蔵)ノ浮世絵ヲ見セテモラヒ、夕食うどんヲ御馳走ニナリテ帰ル。」
 『茂吉言行』五月一日、「昨日は宇賀田(為吉)さんの紹介で池上幸次郎という、あの製本屋に行っている浮世絵を見せてもらった。浮世絵などというのは馬鹿にしていたが、こんどは見なおした。版画だが線といい色の配合といい実に気のきいたものだね。ほんとうにいいことをした」。
 遡及して茂吉の手帳、「池上幸二郎氏所蔵の赤光の扉に(十七年六月)君のべにありとおもへばわがよみしはかなき哥もこゑあぐらむぞ」。十七年十月一日の日記、「佐藤夫人来リテ佐藤君昨夜ヘモプトエアリ、宇賀田博士ニミテモラヒシヨシナリ○渡会君ニモ頼ンダ○佐藤君ヲ見舞ヒ、上野松坂屋、表慶館」。
 宇賀田為吉は内科医、斎藤家の子供達にも往診した。著作に岩波新書S48(昭和四十八年)『タバコの歴史』がある。
 私は秋田県角館出身で戦後パリで豪華本の製本を業としたアナキスト・椎名其二(一八八七―一九六二)を思う。森有正・野見出暁治らと交流があった。




二〇二二(令和四)年一月号(その十一)  


 対談 童馬山房にて 二月二十六日の夜

 今年は、斎藤茂吉歿後六十九年である。昭和二十八年二月二十五日、夜七時のラジオが逝去を報じた。翌朝、土屋文明、佐藤佐太郎の対談が放送された。私は二十四年アララギに入会し、ついで二十七年八月歩道に入会して佐藤先生に師事した。半年後茂吉の訃に遭遇したのである。
 葬儀に参ずることを決意した。岩手から夜行車で上京。三月二日午前、築地本願寺の境内で初めて佐藤先生に見えた。「アララギ会員控室で待つように。君はいつ帰る。明日家に来てくれ」と言われた。三日、先生はひとり在宅であった。
 遡るが二月二十六日夜、小林勇と佐藤佐太郎の対談が童馬山房で行われた。岩波書店の重役で、茂吉全集刊行のため二十七年に作られた童馬会九名のひとり小林勇の企画によるだろう。対談は「図書」二月号に掲載された。同誌のあとがき。
 「斎藤茂吉翁の逝去は多くの人に非常に大きなショックを与えたことと思います。新聞やラジオではすでに翁を偲ぶ企てが幾つか行われましたが、今後も一層じっくりしたものが出てくるのは当然のことと思われます。本誌では翁の逝去の翌日、佐藤、小林の両氏を煩わして翁を偲ぶ対談をしてもらい、急據この號に掲載いたしました」。
 茂吉全集は配本が十冊になっていた。




二〇二二(令和四)二月号(その十二)  


 童馬会記 小林勇

 岩波書店の「図書」昭和二十七年四月号は、五月刊行の全集を予告する斎藤茂吉号に全頁を充当している。
 小泉信三・安倍能成・廣津和郎・室生犀星・谷川徹三・なかの・しげはる等十五人が執筆し、他に(K)の「童馬会記」がある。岩波の専務のちの会長小林勇がKであろう。
 小林勇(一九〇三―八一は長野県赤穂村(現駒ヶ根市)の出身。大正九年十七歳のとき入店。六歳下の佐藤佐太郎は六年後の大正十五年同齢で入店した。ともに少年店員である。「はるかの先輩として小林勇氏を知り、めだたない後輩として小林氏に知られた」と謙遜する。若い佐太郎を鷗外全集の編集者に推挙するなど、小林は力量を認めていた。
 『童馬漫語』の自序に「童牛不服 童馬不馳」がある。明治十五年壬午生まれの茂吉は、書斎を童馬山房と号した。襲って童馬会を組織し、全集の編集主体としたのが小林である。
 会員斎藤輝子・斎藤茂太・土屋文明・結城衰草果・山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎・小林勇・布川角左衛門の九名。斎藤家・アララギ側・高弟・書店側、非の打ちようがない。
 数多い茂吉門人の憤懣の一端が本誌の香川哲三「佐太郎詳細年譜」中に窺われる。先取りして童馬会を作り、矛先を封じたのが出版人としての小林勇の見識、度量であった。





二〇二二(令和四)三月号(その十三)  


 
『万葉秀歌』と『茂吉秀歌』

 
斎藤茂吉日記・昭和十三年七月五日「岩波書店ノ小林勇氏―岩波新書ノ件」は、執筆依頼を指す。夏、箱根の山荘に寵り一気呵成。十一月創刊の叢書二十点中『万葉秀歌』は最も早く完成した。新書の発案者・吉野源三郎曰く。「成立の事情とあの簡潔で狂いのない評釈(略)、万葉に関する先生の多年の蘊蓄と造詣と、歌人として鍛えあげたすばらしい鑑識力とが、この著作の底に溢れるような水量でたたえられていて、それが、時間も短く枚数も少ないために、かえって凝集してこの著作にこんこんと湧き出しているような気がします」。
 四十年後の五十三年三月十五日、佐藤先生から私宛の書信。「先日来しばしば御便り頂き恭し。実は、〈茂吉歌抄〉を岩波書店から出して貰ふ事になつたところ話が進んでゐるうちに〈岩波新書〉で出す事になりそれから急に仕事が進んで校正が出はじめ、その校正にかかりきりで、寸暇なしといふ状態でした。やうやく六日に初校が終り、たまつてゐた礼状など書いてゐます。前は原稿をまとめるにも読み返す気力もありませんでしたが、此頃は校正を直したり、相当に元気でやる事が出来ました。本は四月二十日に発売に(上、下とも)なります。秋葉君、大ふん闘で索引作つてくれました。三月十一日 佐藤佐太郎」。のち歌抄が秀歌(。。)となる。





二〇二二(令和四)四月号(その十四)  


 
驥尾(きび)に付す

『万葉秀歌』序。「いよいよとなれば()(しゃく)しない態度を折に触れつつ示した筈である」。『茂吉秀歌』序。「作者みずからのいえない部分について触れた点もいくらかあるはずである。本書を〈岩波新書〉に収めてもらうことになったとき、当然〈万葉秀歌〉に連想がおよんだ。喜ぶべきか、どうか、感慨は複雑だが、ともかくも驥尾に付して、書名を〈茂吉秀歌〉としたのであった」。ともに自信が隠顕してひびきが永い。吾々の作品評も佐太郎作品合評も単なる解釈でなく、既説に拘泥せず堂々と私見を披瀝するのがよいと思う。
 昭和五十三年四月二十八日、佐藤先生から郵便葉書到来。「東京は追々桜が終りにならんとしてゐます。久しぶりでお手紙拝見。さしあたり〈茂吉秀歌〉をお送りしたが、昨夜編集会だったから、編集委員で水割りで乾ぱいをした。本が出来てから毎日楽しんで読んで時間をつぶしてゐたが、今日から自分の勉強にとりかかる事になる。本と同封で、さきに君が送って来た金をお返したから、それで奥さんに何か贈物をしたまへ。さういふいたはりが大切です。ここのところ三日ばかり晴天、晴天はありがたい。23/Ⅳ 佐太郎」。
 書中の金は、講談社版『佐藤佐太郎全歌集』について岩手日報二月十日夕刊に書き、稿料は私すべきでないと考え、先生にお送りしたのであった。





二〇二二(令和四)五月号(その十五)  


 小林勇「『斎藤茂吉言行』を読む」から

 「佐藤君は出版部といわれるところで、主として本を作る仕事をしてヴェテランになった。いつの頃からか茂吉について歌をやっていることを知った。私はその歌に感心し、アララギに出るのをいつも見て、岩波書店には、これだけ芸術的感覚をもった人間は他にないと思った。茂吉はこの弟子の才能と人柄を愛していることを私はひそかに察していた。―岩波茂雄が或る時私に佐藤を認めていなかったのは不明だったと告白した。茂吉は鷗外全集編集者の一人だった。佐藤君は茂吉を頼りとし、その指導をうけて仕事を進めたものと思う。鷗外の全集をこの人のように丹念に読んだ者は沢山はあるまい。とも角茂吉亡き後私の尊敬し親しんでいる唯一の歌人である。佐藤君には不思議な魅力があり、人を怒らせるような角がない。したがって茂吉がこの人に対して腹を立てたことはあまりないのかもしれない。佐藤君に対して茂吉は他の弟子たちよりも遠慮なく、人間臭い行動を見せていると思う。例えば茂吉は佐藤君を連れて何回か玉の井へいって女を買ったという。このことを私は佐藤君からきいている。佐藤君は酒好きである。茂吉は佐藤君が訪問するとすぐ酒を出す。茂吉からこんな扱いを受けた弟子は恐らく他にはあるまいと思う」。「図書」昭和四十八年十月号所載。





二〇二二(令和四)六月号(その十六)  


 
小林勇著『蝸牛庵訪問記―露伴先生の晩年』

 「昭和十四年三月十八日 午後二時 佐藤佐太郎君がまだ一度も先生にお目にかかったことがないというので連れていった。二階の書斎には遲塚麗水翁が来ていた。―ぼくが知らない人をつれてゆくと、先生はけわしい顔をする。今日も佐藤君をじろりと見た。―麗水翁が〈俳句を書いてもらおう。〉といった。先生は素直に二枚書いた。一枚は〈春霞邦のへだてはなかりけり〉―終ったときにぼくが、佐藤君に一枚書いてやって下さいといったら、先生の顔は瞬間にけわしくかわって、にらみつけた。しかし、じきに顔色を動かしてく〈ああ、墨が余っているから書けというのかえ。〉というが早いか、そこにあった半切をとり、半分ほどに乱暴に切って、〈春霞〉の句を書いた。そして佐太郎君に投げるようにして与えた」。このころ幸田露伴は青淵生誕百年祭に向けて、『澁澤榮一傅』執筆の最終段階だった。六年前、心が進まない露伴を承諾させたのが小林勇である。この間、十二年第一回文化勲章を受け、芸術院草創の会員にもなっていた。
 昭和四十九年五月十八日、及展園を訪ねたとき、「露伴の俳句を一枚持ってる。おれはいらないんだが小林さんが頼んだんだ。露伴は、いやそうな眼をして〈墨が余っているから書けというのか〉といったな。おれは斎藤先生のだけあればいいんだ」といわれた。




二〇二二(令和四)七月号(その十七)  


 
東慶寺

 三月二十二日、鎌倉東慶寺にて二首『天眼』昭和五十年。
  生死夢の境は何か寺庭にかがやく梅のなか歩みゆく
  ひたすらに梅はかがやきみつれども葬の庭ゆゑ入ら声なし
 「自歌備忘」に「今日弔う人は私が若い時から知っている人であり、喪主もよく知っている人だからその感じは切実であった。私は当然読んでいる蘇東坡を思い出した。蘇東坡は、ある詩で〈生死夢三者劣優なし〉と言っている。―私はまだ〈劣優なし〉という心境に居るのではない。だから〈何か〉と言うわけだが、本当はすべて私にはわからない」という。
 故人は小林勇夫人小百合で、岩波茂雄の二女。先生より二つ下である。入店時神田の店兼家の二階に宿舎があり、やがて小石川小日向の岩波邸内の宿舎に移る。店員は岩波の家族に近くいた。少年時代から熟知の、小百合の不慮の死であった。家族はもとより知人も激しい衝撃をうけた。
 小林の長女小松美沙子は、「葬儀の日、その年の寒さで遅れていた梅が満開になり、東慶寺の庭は紅、うす色、白の梅が雲のようにただよい、良い香りに満ちて極楽の様であった」と書く(『冬青小林勇画集』)。岩波家・岩波学者・小林家の墓はここにある。私は平成五年に機会があって詣でた。小林秀雄・高見順・日紡貝塚の大松監督・歩道会員だった織田栄子夫妻の墓も塋域にある。





二〇二二(令和四)八月号(その十八)  


 
永井荷風余話

営業部・出版部を経て小林勇は編集部に移る。ただひとりの編集部員は岩波茂雄に連れられて著者を歴訪する。荷風とのはじめての成約が、朝日連載中の『墨東綺譚』だった。製作に出版部の佐藤佐太郎が当たる。『童馬山房随聞』昭和十一年七月五日の「僕が玉の井を書けば荷風よりうまいな」は荷風文学の底を衝いている。小林勇にも荷風の追懐談がある。人が蔑視しがちな金銭感覚をむしろさっぱりしていると言い、著作だけの活計の荷風に同情する。綺譚の評判は木村莊八の挿絵に負う点もある。戦後茂吉が「むく鳥印象記」で焼跡を歩いたとき、同行して絵を付し、全集月報に茂吉の印象を活写した。映画化した新藤兼人も挿絵の空気を描出している。
 作家・永井路子の平成三年一月、私宛書簡。「断腸亭日乗お読みの由、燒失の前年の十一月頃一度だけ登場する〈永井擴子〉が私です。荷風さんはお気に召されないのかもしれませんが、残るのはあの日乗だけではないでしょうか」。浅草の劇場に出演し、荷風とも懇意の歌手・永井智子の娘の弁である。
 佐藤先生の追悼文の結びが印象深い。「私は戦後のある日久しぶりで浅草に行って、ある小屋に荷風が贈った緞帳の垂れているのを見た。先生はもう何歳になるだろうと思い、先生を懐しむ情の動くのを覚えた。併し用もないので訪ねることもなかった」。





二〇二二(令和四)九月号(その十九)  


 
小林勇氏を悼む

『茂吉秀歌』下巻は『白桃』からはじまる。「うつしみは和に死なじと甲ひつついにしへ人もなげきけるかも」「民族のエミグラチオはいにしへも国のさかひをつひに越えにき」「覚悟していでたつ兵も朝なゆふなにひとつ写象を持つにはあらず」など、「当時の熱河戦を背景とした詠歎」と先生は書かれた。九十年前の作品が、現下のウクライナ戦に適応する如くだ。『言行』に「時が批判してくれるよ。時の批判というのは峻厳だからね。一世紀もたてばだいたいおちつくな」というくだりがある。東欧の事件が茂吉の歌の真実を立証したともいえる。小林勇が昭和五十六年十一月二十日に帰天した直後、先生は毎日新聞に「小林勇氏を悼む」を書かれた。「私は戦前岩波書店に勤めて、小林氏のはるか後輩だったし、酒好きであったから、茂吉好きで愛酒家の氏に好意をもって遇された。近い例では私に〈茂吉秀歌〉という著書があるが、あれももとは氏の推輓によって出して貰うことにしたものである。何度か妻に電話で、あれは名著だと言ってくれた」とある。項をたてて小林勇に触れたのは同紙前年の「めぐりあい」欄の「小林勇氏」と、この追悼文の二つだけ。筑摩書房が『小林勇文集』(全十一巻)と『回想小林勇』を出した。先生のは回想に入っていない。編集者と童馬会員・社長布川角左衛門の不覚か。




二〇二二(令和四)十月号(その二十)  


 
鷗外の語から

 今年は森鷗外生誕一六〇年、没後一〇〇年で、新聞・雑誌に讃仰の企画がつづき、岩波の新刊・復刊も目につく。新書の中島国彦著『森鷗外―学芸の散歩者』もそのひとつ。冒頭に「番紅花(サフラン)」の「器に塵の附くやうに」が引いてある。かつて佐保田芳訓が「金毘羅」の「薄明の意識を襲つて」とともに、『佐藤佐太郎私見』に項を立てて論じていた。
 「器につける塵」「薄明のわが意識」のごとく『歩道』に作品化され、「鷗外を読みしときどき静かなる生を仰ぎものを思ひき」が『立房』にある。
 小泉信三は佐藤佐太郎を「鷗外専門家」と言い、小林勇は精読無類と賞した。
 『暁紅』の「新しくいでし鷗外全集をかい撫でて居り師のごと親のごと」は、先生が実務に当たった新撰鷗外全集・昭和十一年版に寄せた茂吉の作。下句に逬る感情が寵る。
 『枇杷の花』の「木下杢太郎先生」に、「〈俗になじまなければ俗に従うのは悪いことではない〉という鷗外の言葉を引いてその鷗外観の軸とせられた」とある。鷗外の明治二十二年「女子の衛生」中にある語である。確かにいうと「俗の爲に制馭せられさへしなければ俗に随ふのは悪い所ではない。郤つて結構です」。茂吉・鷗外・蘇東坡が先生の作品と生活を律する軸であつた。





二〇二二(令和四)十一月号(その二十一)  


 
鷗外・茂吉・佐太郎

 昭和十年十二月四日。『鷗外全集』編輯会後の食事会で茂吉は、森於菟(鷗外長男・台北帝大・解剖学)・森潤三郎(鷗外弟)・小堀杏奴(鷗外次女)に請われるまま、即座に四首作った。「三毒のうへに立ちたるけぢめとぞひとたびのらしし君をこそおもへ」他(『暁紅』)。三毒について佐太郎は問う。「富むといひ貧しといふも三毒の上に立てたるけぢめならずや」。鷗外の「奈良五十首」中にある。「これなんか鷗外の見識が出ていていいね」。茂吉の博識も見識も窺える。佐太郎編の二つの茂吉選集(中央公論社・宝文館)には採ってあるが、岩波文庫の歌集にはない。山口・柴生田・佐藤三編者の二人以上の選歌を収めたのが岩波文庫である。
 『天眼』昭和五十三年、「四月二十四日。河野与一先生夫妻。上句茂吉先生にまねぶ」の詞書のある「二人とも長生きをする老い人としてひさびさにその声を聞く」は、『白き山』の「あはれなる小説ありて二人とも長生きをする運命のこす」に淵源する。江戸末期の武士、美濃部伊織、るん翁媼夫婦をテーマにした鷗外の「ぢいさんばあさん」を指す。「長生きをする運命のこす」が簡浄である。小説を読んでもらうしかない。鷗外記念の今年、宇野信夫脚色の芝居が歌舞伎座で上演された。河野夫妻は茂吉・佐太郎とも関係深い。つづく。





二〇二二(令和四)十二月号(その二十二)  


 
第二芸術論のころ

 「短歌ほろべ短歌ほろべといふ聲す明治末期のごとくひびきて」『白き山』。昭和二十一年末、「世界」と「八雲」に載った桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」と「短歌の運命」に対する茂吉の反応である。病後を大石田に養っていた茂吉は二十二年八月十六日、東北巡幸中の天皇に上山の村尾旅館にて拝謁し、短歌の御進講を行った。偶然前夜から、旧知の東北大学教授河野与一・多麻夫妻が、茂吉の弟高橋四郎兵衛の旅館山城屋に滞在していた。拝謁の日の茂吉日記から。「夜桑原武夫の第二芸術論を罵倒シタトコロが河野が京都カラツレテ来タ野郎ノヨシ、子五人アルヨシ、失敗シタ」。
 「アララギ」二十八年十月斎藤茂吉追悼号の河野与一の弁。「〈第二芸術〉の標語がこれを圧してしまって、人伝てに聞いたと云はれる茂吉先生の憤激を買った。〈何もシステイナの大殿堂やベートーヴェンのシンフォニーを造れといふ注文ではない。高が俳句や短歌だ。自分で幾つか作って見せてから論じてくれと、君、伝へて下さい。―代りに叱りつけられながら私は先生の血圧をお案じしたが、大変なお元気であった。これは桑原君に帰仙後早速伝へた」。
 このころ佐藤先生は外部からの批判には応えず、「純粋短歌論」を「歩道」に連載し、『帰潮』第一年の短歌を作っていたのであった。




二〇二三(令和五)一月号(その二十三)  


 
ウインケルマン

 「『意志と表象としての世界』はまだ出ているか」と先生に質されたことがある。昭和十六年刊岩波文庫、ショーペンハウエル著。訳者は山形高校教授岡本信二郎。上山在住で茂吉の旧知である。岡本は東北大教授河野与一(一八九六―一九八四)の十二歳年長の叔父と東大仏文科が同期だから河野は前から知っていて、河野自身東大の仏文に入り、一年後哲学科に転じた。家は四谷左門町、青山の茂吉とは遠くない。父が入院して茂吉との関係が生じ、翻訳家としての河野を茂吉は知っていた。茂吉の一高時代の友人達の後輩にあたる。
  「寒の夜はいまだ浅きに洟はWinckelmanのうへにおちたり」
 「寒雲」昭和十四年。茂吉日記五月三日に「机ニ向ヒ河野与一教授貸与ノウインケルマンヲ読ミ、少シク手抄ス」とある。
 『茂吉秀歌』に、「ウインケルマンはドイツの美術考古学者だが、ここではその著書ということになる。「作歌四十年」に〈全集は河野与一教授の好意によったが、自分は「絵画彫刻に於ける希臘芸術の模倣性に就ての考察」などを読んでゐただらう―〉。森厳なるべき本の上に洟が落ちたという偶然の事実に笑いを感じている」という。茂吉はアララギに表紙画解説を書いていた。洟がどんな場面で歌になるか顕現する。河野を通じ茂吉は独文学者柴田治三郎からマルクス全集を借りたりしている。 





二〇二三(令和五)二月号(その二十四)  


 
蔵王山上歌碑

 歌集『白桃』昭和九年。「〈蔵王山上歌碑〉六月四日、舎弟高橋四郎兵衛が企てのままに蔵王山上歌碑の一首を作りて送る 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中にたつ」。八月建立。茂吉は焼失した病院の再建、柿本人麿の執筆、「精神的負傷」等で見に行けない。永井ふさ子も上京。
 日記十年七月十三日「山口、佐藤君山形ヘ出発ス」。弟の子息重男にも、二人の歌碑行を書簡で予告。茂吉の名代として向かうのである。『歩道』に「高橋四郎兵衛氏に導かれて蔵王山上に斎藤茂吉先生歌碑を見る。山口茂吉氏同行」という「蔵王山」七首、「金瓶」七首があり、『自註歩道』に行程・経験の記載が詳しい。土日月の厳しい旅程であった。「直ざまに空よりふける霧なかに立ついしぶみや寂しきまでに・佐太郎」
 茂吉の歌碑行は四年後、十四年の七月で、東京から河野与一・多麻夫妻、山形から弟、岡本信二郎、結城衰草果が随行した。「この山に寂しくたてるわが歌碑よ月あかき夜をわれはおもはむ・茂吉」。
 私は二十八年八月十日、二十一歳の生日に上山の山城屋を訪ねた。令弟は、晴天の日は天眼鏡で兄の歌碑を見ている、と言われた。九月十三日付先生のはがき。「山の歌もつと数を多くお作りするのがよい」。五首が歩道十一月号立房集に載った。
        





二〇二三(令和五)三月号(その二十五)  


 
みづからの顔の幻

 昭和五十年四月二十六日銚子より来書。十八日恵天堂に入院されたことを知り、以後毎日小簡を送る。五月十六日先生の第二信。「おハガキ忝し。君のたよりは内容があつておもしろい。歌でも何でも具体性がなくてはだめ也。ここに廻してよこした手紙の中に頼山陽の詩の写真を同封したのがあつた。僕の文章を理解しないで、漢詩に興味をもつてゐるといふ程度に思つてゐるのだらう。こんな風だから『及辰園往来』を本にしてもどれだけ売れるかおぼつかないものだ。○みづからの顔を幻に見ることもありて臥床に眠をぞ待つ○この歌以後あまりいい歌はできない。近日中東京に帰りますから、以後は東京あてにしてくれ玉へ。五月十三日 佐藤佐太郎」。
 幻の歌は「近作三十三首」と「自歌備忘」に註がある。森外訳『即興詩人』のアントニオ宛アヌンチヤタの手紙を参看する。「世の人の言に、われとわが姿に出で逢ひしものは、遠からずして死すと申候へば、わが常の心の願にて、我心と同じものになり居たる君に逢ひまゐらせたるは、我死期の近づきたるしるしなるべくやなど思ひつづけ参候」。歌姫アヌンチヤタと『舞姫』の踊り子エリスには青年外の投影がある。十年前六草いちかの探求により、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴイーゲルトという女性が鷗外の恋人と判明した。茂吉も先生も知らずにしまった。





二〇二三(令和五)四月号(その二十六)  


 
はがき二通

 前月幻の歌について恵天堂からの第二信を録した。ものには順がある。第一信とその前の短信に触れるべきだった。先生の罹病にかかわる波瀾と、その波及のなかに私事があった。よって時にしたがい二通の来書を示し、来月につなげたい。
 昭和五十年九月八日(月)。四国、大阪、京都を経て訪問すると「君に出そうと思っていたはがきが出てきたから渡すよ」。表に「盛岡市 菊澤研一様」、その下に文面、裏に作歌真の墨書を印刷したはがきを下さった。
 「〈及展園往来〉複写感謝。〈無限〉からの筆録も感謝。小生三月二十八日から健康に小異変ありましたが今は心配なし。臥床中考へて早く歌集をまとめることにしました。四月四日 佐太郎」。五ヶ月前のはがきである。先生からの来翰は到着順にファイルしているから後の方に収めてある。
 第一信は四月二十六日に届いた「千葉県銚子にて 佐藤佐太郎」という青墨のはがきで、東京を離れられたのを知った。
 「元気ですか。僕は十八日からここの江畑耕作君の病院に来てゐます。当分ゐて体に自信をつけて帰る。その間何もせず歌だけ作る方針也。衰へし身を養はんわが日々に甘藍うまし海のべここは ○〈及展園往来〉近くうちきりにし、本にする予定だが、校正が出るやうになったら君に校正の助力をたのみたい。23/Ⅳ」。




二〇二三(令和五)五月号(その二十七)  


 発病三月二十六日

 昭和五十年四月二日。十二時近く長澤一作氏より電話。「先生三月二十六日夜より臥床。ろれつ回らず、ラリルレロが言えぬ。深酔。下半身痺れ。熊谷優利枝さん、強い注射。志満夫人妙高高原より急ぎ帰る。洋子さん曰く。二十六日菊澤が新宿に呼び出した。先生はもう出来ているというのに出て行った。夫人も洋子さんの説通り菊澤と飲んだと言っている。先生の状態は知っている筈だと思うが、菊澤君だったら申訳ないことをしましたと、昼、夫人へ電話する。他の用事もあるから」。
 容疑者は四十八年経ったいま、当時の日記の摘録を提示しよう。○三月二十四日。昼先生宅へ上京の事電話。洋子さん、母は旅行中。十六時四十八分盛岡発。車中作歌。福島辺降雪遅延。二十四時近く明神下の宿舎着。○二十五日。大手町、農中ビルにて会議・懇親会。先生へ電話「酒を飲んでしまったから明日の午前に来いよ」。○二十六日。明日国労・動労スト。秋葉原にて十六時の特急券入手。十時過ぎ及辰園訪。山本和義著『蘇軾』呈上。「東坡集語述懐」毛筆・「グアム島にて」頂く。出来いいよ。夫人妙高高原・佳子ちゃんスキー。黄泥坂詞・清渓詞。『冬木』『斎藤茂吉研究』入魂。田留喜代子さん来。中目黒にて川島・菅原・熊谷・長澤氏へ電話。神保町山本書店、台湾版蘇東坡集六冊、先生と同じもの。十六時上野発。食堂車黒麦酒。二十二時過帰宅。





二〇二三(令和五)六月号(その二十八)  


 三月二十六日以後

 晩酌後の先生を新宿へ誘引したのは誰か。先生も話さないから『短歌清話』にもない。4月5日長田邦雄よりランチョン火事の報。6日先生の姪(長姉の長女)山本宮子に会う。14日先生へ手紙。18日先生入院。26日先生より来信。5月12日先生の夢。16日来信。19日退院。24・25日別府・歩道全国大会。
 6月11~13日山形県酒田・温海行。上越線を経て14日午前、病後の先生を訪ねた。茂吉日記日光湯本行の条を読んでおられた。談片。毎日葉書をよこしてくれてありがとう。病院では夕食に酒一本ついた。江畑君秋葉君ときどき案内してくれた。四十数首作。随聞一日半ペラ十枚程度。往来終りだ。半分白木裕に送った。直された所をまたおれが直す。千振で胃を治した。飲む苦い。明日歌会、君も歌を置いていけ。今晩、和歌森太郎還暦祝等々。三宿・世田谷公園散歩。16日帰宅。留守中に来書。「銚子入院中は度々おたより恭し。帰宅してからそれほど元気でもないが、やはり恢復は徐々ゆゑ気長にやる事にしようと思ってゐる。気力がないので其後作歌もない。このほど短歌新聞来て全歌集出さぬかとしきりにすすめるので少し心が動いて来た。以前は全然対手にしなかったのだが。〈短歌〉にもストックがあるから一度だけ要求を入れて歌出さうかと思ってゐる。健康をいつも考へて生活し玉へ。6/5」。




二〇二三(令和五)七月号(その二十九)  


 夜の新宿綺譚

 微醺を帯びた先生を夜の新宿に誘惑するなど、誰にもできるわざではない。佐藤家から犯人に擬せられたのは光栄だが、深酔いが因で銚子の江畑病院に入ったとあっては様相が逆転する。何人かの会員が真疑を訊ねてきた。同夜の私の行動は五月号の日記摘録で述べたが、誘いの電話を先生が受け、菊澤君に会う、と言い残して出掛けたとすれば、それにはそれの訳があるであろう。私は沈黙すればいいのであった。
 先生から入院中の報が届き「当分ゐて体に自信をつけて帰る。その間何もせず歌だけ作る方針なり」 に、容易ならぬ覚悟を感じた。遠地に赴いての療養は人を謝したのである。私は毎日はがきか手紙を書いた。後日、東京で会った江畑耕作氏は、連日音信の届いたのは大牟田の平井寛と菊澤だったと言われた。遠くにあっては書信しか法がないのである。
 退院されてしばらくして、あるいは没後だったか(日記を検するいとまはない)、川越の佐藤淳子さんが電話をくれた。ことのはずみに、入院中に先生が 「菊澤君は来ないのか」と言われたという。たちまち火の如く怒った。「なぜすぐ知らせてくれなかったか!」。電話の向こうで淳子さんが絶句した。
 退院後の作が変化し、蛇崩坂、及辰園詠が多くなっていく。
  蛇崩の坂の熟柿雨ふれば鳥は来ざらん吾も歩まず




二〇二三(令和五)年八月号(その三十)  


 別府 全国大会

 退院直後、別府市における歩道全国大会(昭和50 ・5・24~25 ・於ホテル二条)に出席された先生は疲れて帰られた。長田邦雄君がすぐ資料を送ってくれた。その書簡「昨日帰宅しました。この二日間、小生先生と話さず。西川(敏)氏も同じでした。機会がなかったといふよりは積極的に近づかなかったといふことです。 五月二七日夜」。病後の先生を慮ったのである。 私は二人の門弟の態度に感じ入った。詠草233首。いつの大会にも多くの会員が出席した。いま残っている会員は僅かだ。先生はせっかく全国から時間と金をかけて集まったのだから、それに見合うものを身につけて帰ってほしい、と大会でも年末記念会でも言われた。長田君のことは神田のランチョンに触れてまた後で書くことにしよう。
 病後先生は自著の出版のことで神経を使っておられた。
 「たびたびおたより忝し。私は童馬山房随聞で寸暇がない。今日はやむをえず、半日をさいてハガキなど書いてゐる。〈開冬〉初校郵送して来た。妻他一人にたのむが、再校君が二日くらゐで一見してくれるなら、そのうち送るが都合はどうか。毎日体を鍛へるため一時間くらゐ歩いてゐる。これもいよいよ真夏でらくではない。17 /Ⅶ 佐太郎」。
 再校は送って来ず編集委員の福田柳太郎が見たはずである。彼も若くして世にない。






二〇二三(令和五)年九月号(その三十一)  


 銚子詠草


 昭和50年8月31日速達便到来。「御手紙拝見、九月は他出の予定ないし、〈随聞〉の原稿もすんだから都合のいい時遠慮なく寄ってくれ、もしかすればその頃は校正の時にかさなるかも知れないが、さうすれば校正の人達にもあへるわけだ。二十八日、夕食後佐藤佐太郎」。
 9月3日盛岡を発ち、宇部から連絡船で高松へ。高知市・神戸市で用務。5日夜大阪にて赤城猪太郎・西川敏二氏に会い歓談痛飲。6日赤城氏提供の車にて西川と奈良行。二上山麓当麻寺の先生歌碑「白藤の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし」を見、吹田市の西川宅泊。彼は『斎藤茂吉全画集』限定本をくれた。赤城氏は先生の「水平線」の書軸を下さる。7日京都で茂吉門高柳得宝氏に会い夕方、知己が住持の龍安寺の石庭を素足で歩き、記念に丸石を拾う。旅中「短歌」に「漂泊者の碧」、長澤一作『雪境』評を書く。
 9月8日月、晴。午後及展園訪問。先生シャツにすててこ。「長い旅だったな。午前中寝たよ。菊澤君これをやる(子規遺墨内容見本、先生「尽きない味わい」執筆)。開冬は今月末に出る。往来は来年だ。歩道に往来雑記を書いた。これから通信のような形のものを書く」。山本宮子・宮本クニさん見える。「銚子詠草(短歌9月号31首)なんか、読むと大したこと言ってないが、うまいだろう」。






二〇二三(令和五)年十月号(その三十二)  


 続銚子詠草と『軽風』


 うまいも何も、巧みも巧み、放胆無礙、自在境に遊んでひびきの長いのが「銚子詠草」だ。詩は別才といっても先生は天意だ。同時代の歌人とくらべてみるといい。病を養い、精神に栄養を補給するのが恵天堂入院の一か月だった。江畑院長は「血脈に光明を注ぎ」、夕食に一合の酒を添えた。こんな病院があるものか。先夜大阪で西川敏が、おれも入院したい、と言ったのもうなづける。院長の英断に賛意する。
 この日私は「銚子詠草」のコピーを携えていた。「東庄といふところにて木々古りし森に社も寺もこもれる」の東庄のルビに、先生はペンで「の」を入れ、脱字と書き、とうのしょうと訂された。誤字、脱字、誤植は作者には実に気になる。
 四四年九月『軽風』初版を持って行った。「提灯を持ちたる父に背負はれし記憶は家売りしころにやあらなむ」を開くと、先生は毛筆で「な」に斜線を付し、トルと書かれた。「ころにやあらむ」。何とも悲しく寂しい歌である。大河原に歌碑が建ったとき、先生について本家佐藤栄一氏宅を訪い、生家の家跡、墓地を見た。『しろたへ』冒頭の「故山」一連が蘇った。『軽風』の「嫁ぎゆきてなほおろそかにネクタイを送り来しかば我は悲しむ」について何も言われなかった。女性について私には傍証がある。書いたところで作品の値打は変らない。だが断じて書くべきではない。






二〇二三(令和五)年十一月号(その三十三)  


はがき二通


 8月15日昼、事務局より佐保田芳訓他界の報。直ちに電話。佐保田夫人沈着。余、悲歎押さえ得ず。8月4日入院、12日8時37分寂。75歳。顔容靜穏。14日葬送。7月末電話時談論風発。病の話無し。〇昭和24年7月20日大阪生。45年青山時代に佐藤先生に師事。46年10月、歩道岩手の大会•吟行会の折、先生夫妻に随って盛岡へ。千田伸一•菊澤と同室泊。大学四年だった。先生がどんな角度から、どういう方法で歌を成すか、知りたくて来たという。小岩井農場と平庭高原でその場に直面した。以来交遊52年。盟友の他逝に遭遇し、二旬精神空白。本稿執筆の気力なし。よって先生の書簡を録するのみ。
 昭和50年9月25日来書。「原稿と手紙を拝見、私の青森行はいま更断るのは無理ゆゑとにかく行く事にしたが十月四日夜行で行き五日夜行で帰る事にしました。それ故御いでは無用に願ひます。九月二十二日」。
 10月6日来書。「<作品と背景>といふ題で<開冬>読後感を特集します。ついては集中、背景ご承知の歌について、気らくな感想、批評を書いて下さい。200字詰五枚くらゐ(長くてもよい)。2/五 佐藤佐太郎
 速達お葉書頂きました。<開冬>は九月丗(30)日えびす駅から送りました。又青森までわざわざ恐れ入ります。これ又よろしくお願ひ申上げます。志満」。






二〇二三(令和五)年十二月号(その三十四)  


青森行


 青森へ先生は幾度も参られた。それでも病後独立で来られるのを危惧する。50年10月5日(日)朝、寝台車の席へ伺うと、「よく列車がわかったな」。東奥日報社へ電話して察知。車中談片。稲刈り、ズンダ餅、開冬の背景書いてくれ、随聞、姪・山本宮子(前の亭主が鉄道•陸中白沢にいた・茂吉信行20年1/Ⅷ鮎八尾)。青森駅、長谷記者、福士修二。新聞社、福士編集局長、鎌田文化部長、横山副知事(島木赤彦門)、藤田紫水。青森支部へ予告せずに行ったので不興をかう。やがてわかってくれたようだ。講演「私の短歌作法」。昼食後歌会。一階にて懇親会。港が見えるホテルにて会員との夕食会。7時の寝台車へ荷を積む。誕生祝のこと。「世話になったな」。私は30分後の急行列車。6日、2/Ⅹ付夫人と合著の葉書届く。10月13日来書「先日の青森行きごくらうさまでした。来てもらはなくてよいと言っても、やはり君のやうな人がついてゐてくれると心強い。君は何の得るところもなかったわけだが。私は帰る列車で深夜眼がさめると右半身に軽いマヒを覚えました。別に無理をしたわけでもないが、どう体をあつかっていいのか分らない。。昨日熊谷さんが、私の誕生日の祝の会君にも案内したと言ってゐたが、決して無理をして出て来ないやうにしてくれ11/Ⅹ佐藤佐太郎 〇森山君ついでの時よろしく」。





二〇二四(令和六)年一月号(その三十五)  


新年来翰


 昭和51年1月19日来翰。「御手紙拝見、内容があるから面白く、楽しく読みました。〇〈開冬〉にぬけた歌が多く、自個(ママ)嫌悪を感じてゐます。〇開冬評切抜忝し。諸方からも送つてくれたが、やはり君が早い。〇私は三十日から一月五日まで福島の山沙草房で過ごし〈石〉五首を作りました。いづれ毎日新聞に出る筈。〇毎日歩いてゐるので体は少しづつ良くなる如し。15/1佐藤佐太郎」。
 1月7日の夜書いた小簡への返信である。28年から岩手日報の歌壇の選者を務められ、51年新年詠の出題は「朝雲」「冬鳥」。その選者詠、「朝雲はさむざむとして光あり運動のため坂をゆくとき」「わが庭の薔薇の朱実をついばみてしばし遊びし冬鳥あはれ」の感想を書き、元日にNHKが放送した田宮虎彦作「椿の花」のモデルが薩摩慶治氏のこと、秋葉四郎歌集『街樹』の所感、「一擲」の李白の例。日報1月8日夕刊、安田章生の「しづかに深い歌境―佐藤佐太郎の〈開冬〉」の切抜を送つたのである。「石」は毎日の1月24日に載つた。
 歩道以外の雑誌•新聞等に発表されたものは集めていたし、諸氏より教示、資料の恵送にあずかった。読んで反応するのは門下の義務のように考えたから手紙を書いた。書くのが楽しかった。返信をいただくのがさらに嬉しかった。





二〇二四(令和六)年二月号(その三十六)  


純粋短歌以前


 昭和28年刊『純粋短歌』は二十歳の私には難しかった。現れる人物をみただけでも、どれだけ凝縮して表現したか知られる。あるとき志満夫人が私の持っている本をみて「読んでわかる」と言い、「どうして生命のリズムなんて書いたの」と言うと「若かったからさ」と先生。このとき見返しに作歌真を書いてくださり、前の所持本には〈火に於ける炎〉の識語がある。かがり糸が切れ本も黄ばんでしまった。
 われわれの軸となる歌論だから各自読んでいると思うし、実践に苦労しているとも思う。辻邦生は30代後半に小説と小説論を同時に書き出した。『廻廊にて』『夏の砦』と『小説への序章』である。論が確立すると一瀉千里だった。『純粋短歌』『帰潮』の併行と同断だった。
 言うに易く実行に至難が純粋短歌だ。短詩である短歌の性格を考えると、必然と俗の見きわめをつけることである。通俗の埃を纏っていては純粋志向は無理だ。後に書かれた「通俗性について」をわがこととして読み、自作に照らすことだ。中国の『歴代詩話』中の『滄浪詩話』を引いて五俗を除くことを説く。俗体、俗意、俗句、俗字、俗韻を排す。文中にはないが『歴代詩話』では更に五つの詩法と七つの詩の品を挙げている。俗性に気づき、俗を脱しなくては純粋短歌の戸口に立てないと思う。