今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2019(平成31)年一覧

 


  二〇二二(令和四)年五月号    


   歴史的仮名遣いあれこれ 仲田 紘基


 私たちがふだん読み書きする文章は現代仮名遣いだが、「歩道」誌に発表する短歌の表記は歴史的仮名遣いだ。
 私はこんな失敗をしたことがある。「掃除」をうっかり「そうじ」と書いて投稿したのだ。それがそのまま掲載されてしまった。「さうぢ」とすべきところだから、わずか三文字のうちの二文字を間違えたわけである。
 発音が今は同じになった仮名の書き分けには特に気をつかう。歌稿のゲラを校正していて最近こんな例を見かけた。「行商のをうな」という表現。「をうな」は漢字にすれば「女」で、「をみな」が転じた言葉だ。一方、歴史的仮名遣いで「おうな」と書けば老女のことになる。漢字で「嫗」「媼」などが当てられる。「おきな」(翁)と対になる言葉でもある。
 この例の使われた短歌の原稿を確かめてみると、実は「行商のおばさん」が添削されたものであった。もし「おばさん」でなく「おばあさん」だったら、「行商のおうな」となるはずのところだろう。仮名一文字の違いでそのイメージもがらりと変わってくる。
 よく見かけて気をつけたいと思うのは「ろうばい」(蠟梅)の表記である。「蠟」の字体が複雑だから歴史的仮名遣いをまじえて「らふ梅」と書かれることがある。これを「らう梅」と書くと「老梅」になってしまう。
 やはり歌によく詠まれる「やまぼうし」は佐太郎にも縁のある花木だ。歌壇の大家の染筆展「四照花会展」ではこれに「四照花」の文字を当てていた。漢字で「山法師」と書かれることもある。比叡山延暦寺の山法師になぞらえたものとか。「法師」は歴史的仮名遣いでは「ほふし」なので、連濁で「やまぼふし」となる。
 ところで、これには「山帽子」という書き方もある。こちらは「帽子」だから、新旧どちらの仮名遣いでも同じ「やまぼうし」ということになる。先日、図書館で『言泉』という古い辞書を調べたら「山帽子」の表記が当てられていたのだが、なんと見出し語が「やまばうし」であった。「帽子」を「ばうし」と書いた時代もあったらしい。
 仮名書きせずに漢字表記にすれば迷う必要などないわけで、結局どうでもよいような話ではあるのだが。





  二〇二二(令和四)年四月号    


   小林勇「婚礼の歌」   菊澤 研一


 昭和十三年一月三十日夜、明日の結婚式のため佐藤佐太郎・伊森志満ふたりは童馬山房へ挨拶にゆく。「先生は五百円わたして、いるだけ使えといわれ、両親は来るかと聞かれた。私がよばないというと、〈若いときは田舎の親などはずかしいとおもうが、ほんとうはそうではない。よぶとよかったな。いまではしかたがないが〉」。見事な洞察である。夫人と別居中の茂吉は媒酌を土屋文明夫妻に依頼。諸事を甥の守谷誠二郎に委ねた。新婦は、東大出の高官で学歴偏重の父に抵抗し、身の軽い新郎に同調していた。
 佐藤佐太郎編集・茂吉全集元版第十二巻(二十七年十二月刊)附録・月報8に冬青庵主人「茂吉先生五題」(初対面・本・酒・〈驚くではないか〉・婚礼の歌)が載った。先生が依頼したもの。冬青庵は幸田露伴が命名した鎌倉の小林勇邸の書斎号。
 一月三十一日(火)婚礼。場所・目黒雅叙園。司会小林。岩波書店関係・アララギ関係が主な出席者で、文明の挨拶、親代りというべき茂吉の小語があっただけで、あとは形式的なことは何もない支那料理の打ちとけた祝宴になった。「さすがに〈アララギ〉の大歌人が揃っているだけに、祝の歌が続々作られて、朗々と披露された。季節はちょうど双葉山が奮闘していた頃の冬場所の最中であったと思われる。斎藤先生の祝歌は下の句だけおぼえている。〈佐太郎おしま今宵取り組む〉というのである。この歌はいずれ佐藤君が恥かしがらずに上の句をつけて全集に収めることと思う」。
 五十年十二月十三日、先生を訪問。「童馬山房随聞の校正が来ている、見せようか」。同夜徹して再校を見た。
 十三年一月三十一日の条、「おのおののメニューの裏に即詠の歌を書いて、小林氏がその歌を読んだ。先生の戯歌の上句は〈春場所の双葉山なす勝力士〉〈当時は初場所を春場所といった〉というのだった」。
 翌日机をはさんで対坐。婚礼の歌がようやく首尾したことをいうと、「あまり品のいい歌じゃないから(全集新版短歌補遺には載せない)」。毎日新聞に出た宮柊二の文と九日に終えた歌会始の選者会議の非に触れ「君のような若い人が知っていてくれ」といわれた。




  二〇二二(令和四)年三月号    


   留意事項追補      長田 邦雄


  前回(三年七月号)は「歩道」小冊子の「作歌案内」にある「留意事項」を引用したが、紙数が尽きてしまい、私自身が佐太郎先生から直接教えていただいたことを書けずにしまった。そこで、そのつづきを少し述べたい。
 当時、南青山に発行所があり、毎月の面会日には自作の作品を佐太郎先生に見ていただいて教えを受けた。
 私の作品に「義兄」という言葉があり、それを見た佐太郎先生は「義」の文字を消して言われた。「短歌は戸籍調査ではない。義母とか義姉とかは必要ない。母でよいし、姉でいいんだ」。短歌は単純を求めていることを私は学んだ。また、別の時に「梅雨」を「つゆ」と読んだ作品について「今はこういう言い方が普通になっているが、俺は好きではないな。」といわれた。「ビル」という言葉についても「こういう省略した言葉はよくないな。しかし、今はこれが普通になっているからな、君なんか若い者はこういうことを知って使うんだな。知って使うのと知らないで使うのでは出来た歌が全然違うからな。それに君の歌はおとなしいから、もっと強くいうことを考えるといいな。」ともいわれた。
 面会日は単に自分の作品を添削していただくだけではない。ものの見方、何を見て何をいうか、その言葉は正しいか。添削の意味など言葉の使い方も含めて直接指導していただいた。そして、その歌稿の最後に「一見 佐太郎」と署名してくださった。とっていただいた作品は清書して次号の歌稿として提出する。四十年以上前の話ではあるが、その教えも現在の作歌上の基礎になっている。
 佐太郎先生が亡くなられたいまも佐太郎先生の言葉は私の体内に生きている。愚鈍な私でも佐太郎先生の言葉はつねに座右にある。
 時々目にする何かの受賞作品にみられる、はやり言葉や突飛な表現には辟易している。作品の進歩発展はこんな発想や軽薄な言葉の使い方ではない。
 茂吉先生を進歩発展させた佐太郎先生をどれだけ先に進めるか、多くの「歩道」会員に共通した宿題であるだろう。さて、作歌をするうえにおいて留意するべき事柄を自身の忘備として二回にわたって書きとどめたが、その実践は容易なことではないだろう。




  二〇二二(令和四)年二月号    


   先生の言葉       佐保田芳訓


 佐太郎先生の木俣修氏に宛てた葉書は三通ある。
(一) 昭和三十五年元旦の年賀状が一通目であり、港区赤坂青山南町より、志満夫人との連名の印刷物である。
(二) 先日は御高著「昭和短歌史」御恵送下され、呑く拝受いたしました。こんな高価な大著を頂いては申し訳なく存じます。永く架蔵、恩恵をかうむりたく存じます。目前の仕事に追はれてゐて御禮が遅れ失禮いたしました。その上こんな簡単な禮状では失礼ですがあしからず御ゆるし願上げます。御禮まで。14/Ⅷ 佐藤佐太郎
 二葉目の葉書である。「昭和短歌史」は昭和三十九年に出版されている。
(三) このたび芸術選奨文部大臣賞を受けましたについて御心こもるお祝詞をたまはりありかたく御礼申上げます。このたびの受賞は全くの幸運と推輓のたまものでありますから天と人とに対してふかく感謝してをります。この栄誉をはげみとして更に精神(進)して参る覚悟であります。何卒今後とも御鞭撻たまはり度く、とりあへず御礼まで申上げます。三月二十九日      佐藤佐太郎
 右の印刷に続いて、
御葉書拝見、返事御手数煩はし恐縮しました。入院されるほどの事と存ぜず失礼いたしました、草々
 と直筆で書かれている。文中、芸術選奨文部人臣賞とあるのは、佐太郎先生の歌集『開冬』の事である。
 「先師斎藤茂吉先生は『芸術に極致は無い』といはれたが、作歌を継続してゐれば思ひがけず境地が進むこともあり得る。私は短歌の価値の大部分は『ひびき』にあると思ってゐる」と後記に書いている。歌集『開冬』については、私には思い出す事がある。歌集の原稿を作製する時、私は先生の口述筆記をするべく先生の書斎で書き出した。午前、午後はスムーズに進んだのであるが、夕食の時先生と共に酒を飲み食事をした。私は酒に強い方でないから次第に少し酔がまわり口述筆記が出きなくなって一日で打切になった。
 かつて、中村達氏が歩道誌に佐太郎先生の歌集の頂点は歌集『天眼』や『星宿』であると書いていたが、佐太郎先生は私に、歌集『開冬』が歌集の頂点であると語っていた。





  二〇二二(令和四)年一月号    


   絆           波 克彦


 東京歌会は、令和二年二月十六日に筑波大学東京キャンパスの会議室にて開催したのを最後に、コロナ禍のため開けなくなって二年近くが経った。同年四月からは「紙上歌会」として毎月歌会を続けてきた。各地の支部歌会でもリアル会場での歌会ができずに紙上歌会を続けている支部もある。歩道誌の通信欄には毎号東京歌会(紙上)の案内を載せてきたから、リアルでは遠方ゆえ参加できない会員や東京地区でも参加するには不自由な会員が紙上歌会に参加していただくことが増えてきて、最近では毎月四十五人前後の参加がある。
 令和三年六月の東京歌会(紙上)では、参加した愛媛の村上時子さんの歌「島丘の墓参に来れば一面の蜜柑の花の香に包まるる」が四十五人の参加者の五首選で十七人から選ばれた高点歌となった。秋葉先生からも「『島丘』の墓参であるのが叙情的に響き、蜜柑の花の香が一首の短歌の世界を大きくしている。会心の一首である。」との歌評とともに秋葉先生の五首選の一首となった。
 その直後村上さんは、「歩道」十一月号の詠草として、「東京の紙上歌会に高点となりて嬉しく幾度も読む」という歌を寄せている。
 この交流は短歌活動が会員の生活に深く入り込んでいて生活の支えとなっており、会員間の繋がりを保つ絆となっていることを如実に示している。
 昭和二十三年に「歩道」が活版印刷となり新しく出発した時、門人佐藤佐太郎の「歩道」のために、師斎藤茂吉が五首の歌を贈って激励していて、その中の一首に次の歌があり、その一首を殊にわれわれは忘れてはなるまい、と秋葉先生が「歩道」令和三年三月号の歩道通信に書いておられる。
 あつまりて歌をかたらふ楽しさはとほくさしくる光のごとし
 本号を編集している令和三年十月頃から、猛威を振るっていた新型コロナウイルスの感染が激減してきていることから、コロナ感染の第六波がくるなど会合の自粛が必要にならない限り、東京歌会も令和四年一月から再びリアル歌会として開催することを計画している。歌会の参加者が一同に会して歌を語り合えることを楽しみにしている。