佐藤佐太郎の秀歌(秋葉四郎)  ( ○平成25~   ○平成20~24年   ○平成15~19年

  ―秋葉四郎―




平成二十九年八月号   



  かりそめに手形をとれば年老いて手に力なし
  瑞祥はなし           (黄月)


 明治四十二年生まれの作者は、昭和六十二年十一月十三日、病み衰えながらも、七十七歳、俗にいう喜寿を迎えた。人のすすめで、記念に朱の印泥に手を染めて大きい判の色紙に、手形を残した。よく相撲の力士などがする手形である。
 この歌はその稀有な行為を、年を取ってしまって、手に力がないし、、めでたいなどというよろこびもない、という感慨として詠われている。読む者の胸に突き刺さってくる響きのある作である。
 この歌は、大判の色紙に朱の手形が押され、作者のいくばく筆力の衰えた賛がされて、残っている。
 それから九か月後の生涯であった。 



平成二十九年七月号   


  人ゐるを外より見れば一日だに家に居りたし
  病みながらふも         (黄月)


 外の散歩などから家に帰り着いた感慨である。かつて
  わが家に帰り着きたる安心を昨日も今日も庭
  にわが言ふ          (H60)
があったが、事態はより深刻となって、家族のいる家をたまたま外から客観して、その存在を強く感じ、どんなに病が重くなってもこの家に過ごしたいものだと強い詠嘆になっている。「一日だに家に居りたし」という老い衰えた人の実感は一読胸に追ってくる。
 今私は、作者の生年を越えて三年になる。この頃の先生の衰えは想像を越えるもので、ある時から一気に弱られた。それを思うと慟哭なしには読めない作の一つである。


平成二十九年六月号   


  夜更けて寂しけれども時により唄ふがごとき
  長き風音            (黄月)


 昭和六十一年、夏が更け初秋のころの作。この歌の前に
  家出づることまれとなり聞こえくる常なるも
  のの音の親しさ
の一首があるように、いよいよ散歩もままならなくなり、臥床が多くなったころの作である。夜が更けてさびしさは一層増すが、時々長く吹く風が人の唄声のごとく聞こえて、心にひびくのである。風音が寂しさをいやすというような感情ではなく、夜更けて長く吹きわたる風の実相を捉えている。衰老という境涯だから感じ得た詩情である。
 このころの作には
 外歩むこと無くなりてなつかしむかつて強ふ
 るごと歩みしをとめ
 窓ちかく鴉の声のきこえしを時の感じなく春
 かと思ふ
など一読心に沁む歌がある。





平成二十九年五月号    


  運動のために玄関に転ぶなどいよいよ老いて
  能力のなし           (黄月)


 
斎藤茂吉の晩年の作にも
 真実の限りといひて報告す家の中にて折折倒る (つきかげ)
という作があったが、老境の現実として、門人佐藤佐太郎の身の上にも容赦なく衰えが降りかかってきているところ。このころ日々努力して散歩を欠かさなかったが、その運動のために出掛けようとして、玄関で転ぶのである。茂吉の「倒る」も佐太郎の「転ぶ」も老いた人の究極の真実というものである。
 歌人は自身を見つめ続けるから、こういう作が残るのでもある。冗談に人が家にいて倒れたり、転んだりすると先がない、などを語ったりしたが、茂吉はその二年後、佐太郎はその翌年、世を去っている。
 





平成二十九年四月号


  満天星のもみぢうつくしき年の暮老人なれば
  日を惜しむなし         (黄月)


 いよいよ晩年となってからの一首である。身近な美しいものが点景となることが多くなる。時間にあまり制約されずに観察ができる境涯であるからであり、それは、一方からすれば、やがて見ることが出来なくなる宿命にあることでもある。
 この歌でも満天星つつつじは観賞用の庭木で、最も美しいのは紅葉である。春の、若葉と共に壺状のやや黄ばんだ白色の花をたくさんつけるのも悪くはないが、秋の後半、その年は暮れまで、黄の部分を交えての真紅の葉は見事で「満天星のもみぢうつくしき年の暮」はそれを見事に言い当てている。そして、老人だから、追われる仕事もなく、そうした美しさに浸っていることもできる。もちろん「老人なれば日を惜しむなし」は、目先の「満天星」の美しさだけではない。老人ゆえにすべての事にじっくりと味わい深く向かうことが出来る。いわば老境の真実の発見という箴言のような響きが下の句にはある。
 「満天星」は広辞苑では「どうだんつつじ」の意味だが、ここでは「どうだんのもみぢ」と続き、「つつじ」を省略して声調を整えている。





平成二十九年三月号


  むらさきの彗星光る空ありと知りて帰るもゆ
  たかならずや          (黄月)


 昭和六十一年(1986)二月九日に最も接近したハレー彗星を歌にしている。この歌は前年昭和六十年の十一月歌会に
  彗星の尾の見え難き夕空の下を帰るも楽しか
  らずや
という形で出詠された。この初出の作と掲出の作とを比べてみると、歌の推敲がどうあるべきか、悟るところは大きいのではあるまいか。「彗星の尾」は実際に見えず、必ず見えるとも限らないことであるから不徹底ということになる。いずれにしても、作者は実際に見ていない彗星を「むらさきの彗星」と歌い、そういう空があると思うだけで、「ゆたかならずや」と言っている。作品にするいわば「角度」が非凡である。
 実はこの時のハレー彗星は、専門家の観測史上でも最も観測し難いものであったというから、佐太郎のこの歌は極めて実際に即している歌とも言える。茂吉には明治四十三年のハレー彗星を詠った作がある。
  うつくしく瞬きてゐる星ぞらに三尺(みさか)
  ほどなるははき星をり      (赤光)
 つまり、七十六年前は一メートル近い尾を引く彗星が肉眼で見えていたのである。佐太郎が生まれて一年後の空である。





平成二十九年二月号


  葉をもるる夕日の光近づきて金木犀の散る花
  となる             (黄月)


 昭和六十年「金木犀」一連に
  秋晴の一日のうちに萩の花終りむらさきの花
  あまた散る
  晴れし日の白き蝶とぶ道ゆきて音なく動くも
  のをよろこぶ
などの作と共にある。
 行動範囲が狭まって、家近くの遊歩道での矚目。繁る葉から夕日の光が漏れているさまを凝視していると、やがてその光は地に届く金木犀の散る花であるのだ。「夕日の光近づきて」も鮮やかであり、それが「金木犀の散る花」だと時の経過を言って、その光景を見事にイメージさせる。そしていかにも金木犀の感じを伝え、その香りさえ思わせる。自註して「私の将来の歌を考える上で一つの目標になっていい」と言っているが新境地で、追従をゆるさない作である。
 こうして、金木犀に別れ、むらさきの萩の花に別れ、晴天とぶ蝶にもわかれて行くのが晩年というものであろうか。




平成二十九年一月号


  けさゆりし地震をおもふさながらに家の重さ
  の沈みゆく音           (黄月)


 同じく昭和六十年「蟬のこゑ」一連にある。朝あった地震を振り返って思っているところ。家の重さによってそのまま沈んで行ってしまうような感じの音だった、という。縦揺れを伴いドンという短い鋭い音を伴う地震の特色が言い当てられている。
 このあたりは最晩年の作となるが、少しも老いを感じさせず、佐太郎短歌の鋭さ、的確さが響いて、共感がしみじみと湧いてくる。地震を言って「家の重さの沈みゆく音」は他に例を見ない表現である。
 この一連には他に
  住む人の無き家ひとつ道のべにいつよりかあ
  りわれの気づけば
  夕ちかき四時家いでて道をゆく樹に鳴く蟬の
  残るころはひ
などがある。みな見るべきを見、捉えるべきを捉えている。




平成二十八年十二月号


  道のべのはぐさのたぐひいつ知らず道をせば
  めて人にさやらふ        (黄月)



 昭和六十年「蟬のこゑ」一連の最初の一首。「はぐさ」は、普通の葉草ではなく、「莠」で人に障(さや)り易いえのころ草の類である。一年前の作
  家いでて道のちから草穂の伸びて残暑を垂る
  るところひそけし   (S59『黄月』)
と詠った「ちから草」もえのころ草に似て人の歩みに障る。そうした草が知らず知らずのうちに殖えて道を狭め、老境の作者らの歩みに支障をもたらす、というのである。いよいよ衰え歩みがおぼつかなくなった時、道べの草が作者にこんな感慨を抱かせたのでもある。
 なお、結句の「さやらふ」は普通の辞典には出てこない。しかし、茂吉の歌には多くの用例のある語で、こういうところに自然に使われているのも私には親しい。「わが船にさやらふ(・・・・)ごとき黄なる藻の」(遍歴)、「わがこころに障らふ(・・・)ものもなかりけり」(ともしび)(寒雲)等々である。





平成二十八年十一月号


  宵降りし大雨のなごり夜更けて棟しづむごと
  き音のきこゆる         (黄月)



 昭和六十年「半歳」と題する一連にある。早くも半年が過ぎ梅雨の頃だから、大雨も降るのである。宵の口に激しい雨があって、そのなごりで夜半に豪雨となる。その状態、音が「棟しづむ」ようだと言って、特殊であり、読者に強く伝わるものがある。二階が寝室だったから、激しく迫ってくるように大雨は家を覆って容赦なく降り、その音だけがあたりを占める。「棟しづむ音」にはその潔さを客観してその音のもたらす世界に浸っている感じがあるだろう。つまりある宵の生活感情であり、老境の叡智として、その音を聞き、言い表して味わい深い生の断片としているのである。
 若くして
  暁の降るさみだれやわが家はおもても裏も雨
  の音ぞする         (しろたへ)
と詠って、今この歌がある。「おもても裏も雨の音」の把握が更に進化して「棟しづむごとき音」である。 





平成二十八年十月号


  わが家のあたりも遠くおもほゆる雨雲ふかき
  つゆの道のべ          (黄月)



 やはり「晩春の雨」一連の中にあるが、季が進んで梅雨の頃の作である。健康のためによく歩いた蛇崩遊歩道も、この頃は足腰が弱り、往時の三分の一ほどの距離を家族に付き添われて歩くようになっていた。
  わがためにぬれしタオルをたづさふる娘とも
  なひ日々坂をゆく       (S58)
この作以来である。一キロ足らず歩いて一般道に出てアルという茶房で、珈琲を飲み一憩し、手帖に作歌するのである。
 梅雨の雨雲が深く立ち込めた道に立つと、それほど遠く来ているわけではないのに、わが家さえ遠く思われるという。妙に深刻に響く感受ではあるまいか。
 作者は一首一首の歌には作者の影がこもっている必要があると言った。そうした影は、人の周囲を覆う天象がもたらす場合が少なくない。梅雨雲のもたらす老境ゆえの影、老いていよいよ機敏である。 





平成二十八年九月号


  流氷のただよふ上に辛うじて命たもちし三人
  帰る              (黄月)



 昭和六十年「晩秋の雨」一連にある一首。この年の春、春と言っても流氷が漂っている樺太、サハリンの東海上で漁船が遭難、転覆し沈没した。乗組員三人は救命ボートに乗り、十六日間漂流し奇跡的に生還した。万人を感動させたが、作者は衰老という境涯にあったから、殊更この事実が身に沁みてこの一首がある。
 流氷がまだ漂っているという北の海で、「辛うじて」即ち海の男の全知全能を働かせて「命をたもち」生還したのである。鷗なども捕えて食べたと当時の新聞記事にはあった。「三人帰る」にはそうしたたくましさ、生への努力を讃えてやまない抒情詩人の声がこもっている。
 こういう素材には事実に詩的な重みがある。長く生きた人の叡智がこういう事実の詩的な重みを機敏に受けとめさせるのである。





平成二十八年八月号


  三體詩(さんたいし)五百首を読み()へていふ言葉重く金の
  如きは一首だに無し       (黄月)



 昭和六十年「時々感想」五首中にある。「三體詩」は中国、南宋の唐詩選集。「唐詩選」と好対照と言われ、李白、杜甫は一首も選ばれていない。
 いよいよ晩年になってそれを読んだ感想である。七言絶句、七言律詩、五言律詩など五百首を読んだが、金のような重厚な響きを持つ詩は一首もない。長く作歌をし、純粋抒情詩としての短歌を追究してきた作者として「敢へていふ」と言うのである。拙著『短歌清話』(昭和六十年一月十五日)に自註を記録している。「ほんとにいい詩は一首もない。」「それは美しい言葉とか、上手い言い方の詩はあるよ。だけど例えば″最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも″(茂吉)に匹敵するような、響く詩は一首もないね、レベルが違う」。この時金箔の小色紙に書かれていた初出は
  三體詩五百首を読み敢へていふ金延べし如き
  詩一首だになし
だった。この小色紙の隅には「代遺言」とあって、訪問されていた片山新一郎氏に贈られた。




平成二十八年七月号


  日々あゆむ遊歩道にて川音の近く聞こゆる風
  の日のあり           (黄月)



 昭和六十年「散歩」一連の中の一首。昭和五十年以来意識して日々歩むようになり、作者の日々の生活の場となっている遊歩道、公式名は「蛇崩川緑道」、作者の作品では「蛇崩遊歩道」として多くの作品の点景となっている。蛇崩川を暗渠としてできた遊歩道だから、車の往来はなく、歩むのには快適なところであった。橋の名が残っているのに注目したり、街川だったところだから、この遊歩道から家裏が見えるところなど歌人佐太郎晩年のユニークな作品の背景になった。今は改修されて、道の両端に花壇が作られているが、作者が歩んだ十年は中央のみに花壇があって、さまざまな植栽が四季折々に花を咲かせ、実を着けた。人は左右に分かれ、よりスムースに通行していた。
 この歌は、暗渠にした下の川音がきこえるところ。暴風雨の後など激しい音がするのを私も聞いているが、「風の日」に近く聞いているのが特殊である。おそらく暗渠下の川の上を風がわたり、川波をたてるのであろうか。特殊な川音を捉えて、晩年の人の孤高をも感じさせる。一連には
  わが家に帰り着きたる安心を昨日も今日も庭
  にわが言ふ
という作もある。





平成二十八年六月号


  世にうとくわがゐる時に何がなし戦時下のご
  とき不安のきざす        (黄月)



  
昭和五十九年「余清」一連の中にある。
 晩年になって、小旅行に出たり、歌人の会に出たりすることがなくなり、日々健康のため、家の近くを散策する生活になって、自ずから「世にうとく」、孤高の生を送るようになったのである。「世」に対する関心も敢えて持たないという姿勢もこの作者にはもともとあった。事件的な真実を抒情詩短歌の対象にしない作歌姿勢も、関係していたかもしれない。社会からの隔絶感は多くの高齢者を襲う真実でもある。
 この模糊とした「不安」を「何がなし戦時下の不安」と言って、この歌はことの核心を突いた作品となった。太平洋戦時下、東京大空爆の被災者でもあった作者の経験の声であり、鮮やかな表現である。
 老いたから言える、老境を味方にして、この作者の求めた純粋短歌がいよいよかがやいている作品のひとつである。





平成二十八年五月号


  朝床にきこゆる風の音のありものをひきず
  る如きその風         (黄月)



  昭和五十九年「朝寒」一連のうちの一首。昨年の年末からこの年の年初にかけて、念願の海南島旅行が実現し、満足の得られる成果があったのも一因として、このあたりの作歌には精神的な充実がみられる。朝早く目が醒めていると、折から風の音がする。老境を刺激する哀愁に満ちてもいる音であろうが、そんな感情を超えて、「ものをひきずる」ような、すなわち地を這ってすすむような風だという。作者は長年風にこだわって、風を詠った歌は相当な数になる。数が多いだけではなく、例えば
  暁の海におこりて海を吹く風音寂しさめつ
  つ聞けば           (開冬)
などという作のように、秀歌が少なくない。その作者がかつて聞いたことのない、地を這い、ものをひきずるような音として、風を捉えている一首である。現実に籠る、限りない味わいである。一連には他に、  
  寒暑なき花みづき咲く空の下万物清々の時
  を惜しまん
  目にたたぬ花あふれさくあしびの木花健か
  に咲くをよろこぶ
等という作があって同じことが言えるのである。




平成二十八年四月号


  晩潮にひたる椰子の木時移り遠野に見ゆる
  澄邁ここは          (黄月)



 昭和五十八年年末(二十七日)から翌五十九年年始(三日)まで蘇東坡ゆかりの地海南島「澄邁」へ佐太郎最後の旅をした。蘇東坡が赦されて海南島を去り、本土へ向かった港が「澄邁」ということになっているが、今日の「澄邁」は島の中央で、海から遠い。蘇東坡が大陸に帰る船を待ったのは、本土に近く、港のあるところでなければ不自然である。古い地図に「旧澄邁」という地名が海辺にあるから、そこに違いないと佐太郎は蘇東坡の詩の表現から推理し、それを確かめるこの旅をした。そうして今日「老城」と言っているところがそこであることを現地に立ち証明したのである。
  辛うじて八百年経し澄邁(ちようまい)の古き石坂にいまわ
  れは立つ
  石組みし船着場跡残りをり人見るごとくわれ
  は喜ぶ
などという一連の作からもわかるとおり、蘇東坡が詩に詠った通りの光景が、掲出の歌のように残っていたのである。
 「晩潮」は夕方の満ち潮、その潮に海浜の椰子の木が浸っているさまが遠い野に見える。間違いなく蘇東坡が詩に詠ったとおりの光景ではないか、納得のいったその感動を詠ったのがこの一首。永年親炙した東坡旧跡に邂逅できたよろこびが率直に伝わってくる。




平成二十八年三月号


  朝さめてこの世に老いし人ひとりにれ噛むご
  とく夢をはかなむ        (黄月)


 昭和五十八年歳晩の歌。
  肉眼に見えがたき太陽の輪のありとひとたび
  聞けどかかはらず生く
  健かに居りて病まねど居るままに居りておの
  づから老いてゆくべし
等という作と共に、「宿雲」と題する九首の中の一首である。
 「この世に老いし人ひとり」は作者自身で、老境になってからしばしばこうした自照の仕方が出てくる。他人事(ひとごと)のように自身を言うことにより、老いの現実がよりリアリティを帯びて響くだろう。
 朝目覚めた老人が、牛などがものを反芻するように、何度も朝方の夢を思い出し、そのたびにその夢をはかなんでいるのである。単に人のわびしさだけではない、老いた人の実存がここに在る。「にれ噛む」は本来「
(にれか)む」でよいところだが、敢えて読み下し「噛む」を当てて、一首に生かせたのも老境の叡智といえる。 



平成二十八年二月号


  潮入の池にみちくる水動き金木犀の花の香ぞ
  する              (黄月)


 
この頃の作歌は、日々の散歩コース蛇崩遊歩道を中心とした矚目と境涯の自照が中心である。ときおり変化を求めて車で移動し、素材を求めることもあった。この歌は、そうした浜離宮の庭園での作。海潮を引いた池があり、潮の満ち干がある。かつて
  わが来たる浜の離宮のひろき池に帰潮のうご
  く冬のゆふぐれ         (帰潮)
の一首がなったところで、晩年のこの頃はこのんでよく行き、ここへ来ると歌が必ずできるなどとも言われていた。この年の初夏には「浜離宮」一連がある。
 一首は改めて「潮入の池」の満潮を言って、帰潮とはことなる池をめぐる気配を捉えている。折からの金木犀の花の香を添え得て自然の味わいを深くしている。青天の下の清澄な光も空気も感じさせる。永年人生を共にしている「潮入の池」という必然性が一首にのっぴきならない詩性を醸し出し、声調の徹った一首である。



平成二十八年一月号

  三宅島噴火の写真みるときに峡にしばしば稲
  妻のたつ            (黄月)


 三宅島はしばしば噴火し、平成十二年(二〇〇〇)の全島避難を余儀なくされた大爆発もあるが、この歌は、昭和五十八年(一九八三)の噴火である。
 午後三時過ぎ、島の南西山腹から噴火が始まり、テレビが逐一放映した。「噴火の写真」はそのテレビの放映をこう言っている。山腹の噴火口は、テレビ映像ではまさに「峡」で、噴火の火柱とともに、顕つ稲妻を見ているのが特殊で、見るべきを見、捉えるべきを捉えている。
 こうした自然現象は、地球の存在を象徴、暗示するから、一首は自ずから厳粛である。それにしてもこうした素材を逃さず、老境の日々の「輝き・響き」として即ち自身にひきつけて抒情、詠嘆していることは注目されてよい。



平成二十七年十二月号

  あるときはみづからゆるすものありと辛うじ
  て「及辰園百首」を数ふ     (黄月


 
「及辰園百首」は正式の著書名は『及辰園百首付自註』で、昭和四十九年十一月、「歩道」創刊三十周年を記念して、自ら百首を選び、各歌に自註をしたもの。毛筆コロタイプ版で、時代背景と相まって、筆蹟複製和綴本、いわゆる豪華本として求龍堂から刊行された。会員はもとより多くの作家、歌人、等から注目された。
 その後昭和五十五年七月二十二日に「及辰園続百首を書くくらいの歌、その後もうある」(「短歌清話」)と自ら言った。しかし秀歌は十分残ったが、自註を可能にする体力はもはや残っていなかった。
 昭和五十八年、自らこの百首を顧みて、「みづからゆるすものあり」、即ち、自身是とする作品がこの「及辰園百首」だと感慨を新たにしているのである。内面には多少の自負もこもっている。
 つつましく、「辛うじて及辰園百首を数ふ」と謙遜したが、この一巻は歌人佐藤佐太郎を象徴する一冊であり、内容である。




平成二十七年十一月号
  何といふこと知らざれど行く道を圧しくるご
  とし木草の光          (黄月)


 春の後半、初夏を迎えるころの作である。第四句は「()しくるごとし」と読む。どういう摂理によってそうなるのか知るよしもないが、歩いて行く道を木草の光が圧迫するように感ずるという。若葉青葉もしげり、花も咲き乱れ、あらゆるものが夏に向って活気づいてくる。当然周囲から発する光も息吹きも強力になる。それを感覚的に捉えて妙に哀切な雰囲気も漂わせる。「何といふこと知らざれど」という境涯を暗示する条件が一首を重くしている。
 おそらく作者は木草の光に圧力を感じたことはかつてなかった。それが今「道を圧し」、作者をも「圧しくる」ように感じる。それほど体力も気力も弱ったのである。病み衰えている上に、煩わしい事件も後を引いていたことも背景にあったかもしれない。



平成二十七年十月号
  残生のみじかきわれのあるままを示して人を
  疑はず生く           (黄月)

 昭和五十八年(七十四歳)ここから最終歌集『黄月』になる。境涯はいよいよ厳しくなって「残生のみじかきわれ」をいやが上にも自覚せざるを得ない日々になる。そこに古い門人が連帯して離れるという事件があって作者を煩わす。
  忘恩の徒の来ぬ卓に珈琲をのみて時ゆく午後
  のたのしさ
  策略をしたる元凶は誰々と知りてその名を話
  題にもせず
等の作にはその苦渋が籠っている。
 この表題の歌は、そういう事件とかかわらず、老齢のありのままを示す作者を疑わず、作者に親しんで、むしろいよいよ作者を尊敬し、「純粋短歌」をよりどころに生きる人々が少なくない。それに感謝し、讃えているのである。
  来日の多からぬわれおのづからほとりに集ふ
  友に親しむ
という作も一連にある。私などには前後のことがたちかえって涙なしには読めない。




平成二十七年九月号
  何もせず居りて気づけば衰老を悲劇的ならし
  むる夜の寒さは         (星宿)

 やはり昭和五十七年歳晩の歌で『星宿』掉尾の作。「衰老」は老いて体力の衰えた人を言う。この歌では作者自身の境涯である。夜の闇、夜の孤独、夜の寒さが老境の作者を不幸な思いにし、悲惨な思いにさせたのである。活発に活動する若い時には気付けなかった真実であり、経験であったから、「何もせず居りて気づけば」という上の句が必要欠くことのできない響きをもたらす。
 一首は平明で声調が徹っていて、一読おもく心に響いてくる。かって
  何もせず居ればときのまみづからの影のごと
  くに寂しさきざす        (形影)
と詠った影のような寂しさは、十三年経た今や衰老となり、「悲劇的ならしむる夜の寒さ」を感ずるまでになっているのである。 




平成二十七年八月号
  
暗きよりめざめてをれば空わたる(かね)(おと)朝の
  寒気を救ふ           (星宿)

 昭和五十七年歳晩の歌、『星宿』掉尾二首の内の一首。
 冬の真っただ中となり、夜はいまだに長い。朝暗いうちから目覚めていると、静まり返った住宅街の空を渡って、近くの祐天寺にて撞く鐘の音が聞こえてくるところである。その音が周囲に鋭く厳しく張り詰めている寒気を緩めるように感じて、非凡な一首となった。
 人のうちにある緊張感を和らげる音と受け止めたのである。一日の始まりの音であり、人の活動を暗示する音だから、この感覚的な感受にはリアリティがある。もともとこの作者は感覚的に一気に核心に迫る把握力を特色としているが、その特色がよく出ている一首と言える。
 「(かね)()」ではなく、「(かね)(おと)」であるところにも注意したい。あたりの静寂と寒気を打ち破るように、一音一音明確に聞こえてくるから「(おと)」である。だから「寒気を救ふ」のでもある。「(すず)()」「(むし)()」などとはニュアンスの異なる「(かね)(おと)」なのである。



平成二十七年七月号
  
昼も夜もしばしば広き道を行くクリスマス前
  後の街の寂しさ         (星宿)

 昭和五十七年の暮、二十三日の夕方に東京を発って、時差の関係で同日の午前十時半ごろロサンゼルス空港に着く。佐藤佐太郎夫妻、佳子さん、熊谷医師に私の五人が小旅行をしたのである。空港には志満夫人のいとこで、米国在住の二世、伊森昭夫、(さち)夫妻が出迎えてくれ、この旅中しばしば世話になった。
 十二月二十四日がクリスマスイヴ、二十五日がクリスマスで休日だから、街は閑散とし、広い道路に車も少ない。どうやらみな家庭にこもって敬虔に、聖夜を過ごすらしい。歌はそれを機敏にとらえて鮮やかである。「クリスマス前後」という言い方も的確である。二十五日の夜、伊森家の聖夜に招かれてビフテキを中心とした夕食をいただいた。この時先生は二首を即詠し、伊森夫妻に贈った。
  冬の日の夕暮るる頃妻の待つ家にクリスマス
  祝福に行く
  クリスマスの日ゆゑ街行く人のなきロスアン
  ゼルス昼の寂しさ
 夫人と佳子さんは伊森家に滞在していたから「妻の待つ家」であり、後者が掲出歌の原作となる。




平成二十七年六月号
  いにしへの(おうな)が恋にしづみにし人のなげきを
  とこしへに聞く         (星宿)


 やはり、昭和五十七年の「青芝」一連にある。昔の媼が恋をしてその恋に沈んだと詠嘆している作品があるが、永遠の嘆きを聞くようなものだ。恋にかかわる人の思いはかわらないという意味の歌で、晩年の佐太郎短歌にしてはやや異色と言える。
 この頃、老いたからと言って何時も暗く、哀れっぽい作品を作っていてもよくない。景気のいい歌も必要だ、などという意味の話をしていたから、その思いの反映でもあったろうか。その意味では「青芝」一連には、老境の深刻を詠った作品はない。この歌は『万葉集』の石川女郎が、大伴宿禰宿奈麿に贈った恋の歌が背景になっている。
  古りにし(おみな)にしてやかくばかり恋に沈まむ()
  (わらは)(ごと)            (129)
  ― 年をとってしまった老女なのに、これほど恋に沈むものでしょうか。まるで子供のように ― 老境を迎えたから、改めて心に響いた一首であろうし、深い共感があったのでもあったろう。




平成二十七年五月号
  幸に非常の病まぬがれてより十五年老いて死
  を待つ             (星宿)

 昭和五十七年「青芝」と題するこの一連にあり、これも老境を見つめる一首である。
 尋常でない切実な病は、昭和四十一年十二月二十三日夜半から、鼻出血があり止まらず、東京女子医大付属病院に入院療養をして年末を送り、翌新年を迎えたことをさす。
  病院の第五階にてわが窓はおほつごもりの夜
  空にひたる           (形影)
  出づる血のしばらく止まりたのめなき一月一
  日の夕暮となる          (〃)
などという歌にその時の状況が残されている。
  昭和四十年以来わが身は長き坂まろび来し如
 くまろび行く如し         (星宿)
という昭和五十四年作の歌もあるから、このあたりから前兆があって、「非常の病」となったのであろう。即ち節制生活となって十五年でもあり、それを顧みてもいる。
 「老い」は致し方なく、当然に来るが、「死を待つ」は実感から来る強調である。死を待つような明け暮れだという自嘲も籠めて、心境を吐露している。自照して老にして厳である。



平成二十七年四月号
  
いまわれは老齢のかずのうちにありかつて語
  らぬ人の寂しさ         (星宿)

 昭和五十七年「老齢」と題するこの一連には自ら老境を凝視する歌が多くならぶ。
  眼のうときゆゑに不安のきざすことありて衰
  老道を日々ゆく
  生日を過ぎてあらたまる思ひせし衰老凛々(りんりん)
  歳くれてゆく
 ある時は「衰老」と自嘲し、「眼のうときゆゑに不安のきざす」現身だと言い、またある時は、「衰老凛々と歳くれてゆく」、つまり哀老が身に沁みながら一年が終わってゆく、と言う。
 そうして掲出歌、老齢の数のうちにある自身をしみじみと思うのである。この時作者は七十四歳になったばかりだから、普通ならそんなに高齢ではない。動脈硬化などの病があって、衰えが早く来、「老境」を切実に感じていたのである。それを言って「かつて語らぬ人の寂しさ」とは言い得て心打つ。これまでの多くの歌人は「老」を素材から遠ざけた。しかし、作者は、新しく貴重な経験として「老」に追っている。他に例のない境涯の声である。



平成二十七年三月号
  
台風の過ぎたるあとのゆりかへしなごりとい
  へど暫しするどし        (星宿)
 昭和五十七年「秋香」一連にある。
  九月末の晴れし日台風余波吹きて吸入したる
  躰のごとし
などの歌に続いている。
 この歌は、「台風余波」よりは程度の強い、台風が過ぎた後の「ゆりかへし」で地震の余震のような強力な吹き返しである。だから「なごりといへど暫しするどし」となる。

 
この歌が出来たとき作者は得意で、「風などの場今でも『ゆりかへし』と言っていいんだ。そこがおもしろいところでもあるが、自分の境涯にふさわしい内容でもある。いい歌だろう」(『短歌清話』下巻400頁)と言っている。こうした天象の意味を一語によって強く捉えられることを、ようやく老いを自覚する境涯にふさわしい内容だと言ったのである。生涯にわたってこの作者が究めて来て、今幸運にも出合った現象であり、それを「ゆりかへし」という言葉で言い得ることをよろこんでいるのである。


平成二十七年二月号

  椅子あれば菊芋(きくいも)といふ雑草の咲けるほとりに
  しばらく憩ふ          (星宿)

昭和五十七年「余生」一連のなかの一首。
  一週のめぐりすみやかに日の過ぎて余生みじ
  かきことを思はす
など、日常から湧く、嘆息のような作品が並ぶ。
 遠くへ足を延ばすことがなくなって、近くの遊歩道を日々歩くのである。ところどころに都合よく椅子がある。椅子があれば老いた体を休めることになるが、単に休息ではなく、周囲の木草と心を通わす。ここでは今まで注意していなかった「菊芋」が登場する。会員の菊澤研一氏が上京の折、一緒に散策してこの花の名を知らせ以後作者の胸中にあって、この一首になっている。素朴な花を点景にして、境涯の詠嘆にしたのは鮮やかと言える。
 菊芋は、江戸時代末期に帰化植物となり、飼料にもなった花である。第二次世界大戦中には食用として栽培され、それが今日野生化しているとも言われている。
 蛇崩遊歩道のほとりには、三メートルにもなって、晩夏に黄の花を咲かせていた。単純に「雑草」と言って一首が生きている。 


平成二十七年一月号

  旗のごと紅蜀葵なびく道のべの晩夏の風に吹
  かれて歩む           (星宿)
 
昭和五十七年「台風後」一連六首中の一首。一連には
  いづこにも今年の蟬の声きこえ老いて反
  応のにぶきわが日々
などという歌もあって、体力の衰えを痛切に感じる晩年の日々がこの歌にも反映されている。散歩の距離も短くなっていたが、そこで出会う木草の輝きが一層身に沁みていたであろう。
 
紅蜀葵(こうしょくき)は和名もみじ葵、葉は掌状で深く、夏から秋にかけて大形緋色の美しい花をつける。一本一本が人の背丈ほどだから「旗のごと」という表現がいきる。大柄な花が爽やかに揺れ、晩夏をしみじみと感じ歩いているところである。人と街の一画とが一体となって、リアリティがあり、それでいて、現実離れした風情を感じさせる。事件性のー切ない抒情が心に沁みる。 紅蜀葵は和名もみじ葵、葉は掌状で深く、夏から秋にかけて大形緋色の美しい花をつける。一本一本が人の背丈ほどだから「旗のごと」という表現がいきる。大柄な花が爽やかに揺れ、晩夏をしみじみと感じ歩いているところである。人と街の一画とが一体となって、リアリティがあり、それでいて、現実離れした風情を感じさせる。事件性の一切ない抒情が心に沁みる。


平成二十六年十二月号

  夏あさく街路樹のさくころとなりむらさきつ
  つじわれをとましむ       (星宿)
 
初夏を「夏あさく」という言い方もよいし、低木も高木もある街路樹がすべて咲くころという捉え方もありふれていない。そして、今まで特別注目もしなかった「もったいないほど多く花をつける」(自註)「むらさきつつじ」の花に改めて心を富ましてくれる花だと讃えたのも新鮮な感受と言える。高齢になって、自ずから身近な光景が身に沁みるのである。境涯の叡智がもたらす世界であり、その声のこもる一首である。
 この歌は、同じ昭和五十七年作の
  家にても道をゆきてもあふれ咲くむらさきつ
  つじわれを富ましむ
という作の下の句と
  夏あさく街路樹のさくころとなり病の影の老
  いてきえ得ず
という作の上の句が併せられて一首になっている。そうして自ら言っている。「『街路樹』がやはり『つつじ』だったからあわせて一首にすることを思いついた。こうすれば、一首へることになるが、同時に不徹底な歌が一首少なくなる」。歌人佐太郎の歌はかくして洗練されているのである。



平成二十六年十一月号

  よぎりゆく青木が原のひとところ人の死やす
  く或は難し           (星宿)


 昭和五十七年、「浴泉」十首は、哀調の深い一連である。
  (かひ)の湯に身をいたはりて日を送るときに
  恵まれて下剤をものむ
  ふたたびはすぎて返らぬ思ひあり五十年
  涙のごときわが過去
などがあって、掲出の一首もある。単純に喜んで浴泉をしているのではない。
 人が迷いこんだら生きて還れないと言われる「青木が原」。自殺願望の人は敢えて求めて行くと言われる青木が原原生林、その一角を通る時、今ある自身の状況が、人の死を思わせたのである。「死」はたやすいことであるか、難しいことであるか。そんなことに煩悶しなければならない心境が痛いように伝わってくる。
 拙著『短歌清話』昭和五十七年五月二十二日から「楓」と題した記録は、この一連が成立した背景である。その中に「また、洋子さんに『俺はもう死んでもいいんだ。薬で死ぬのは苦しいだろうから』などとも言う」という記述も混じっている。歌人佐藤佐太郎の人生の断片である。



平成二十六年十月号

  杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと
  何時人は言ふ          (星宿)


 
昭和五十七年、「春光」と題する七首のうちの一首。蛇崩遊歩道を日々散歩している。そうした自身をもう一人の短歌を作る自身が客観して、詠嘆した一首である。こんなふうに杖を引いて散歩していたあの人(自身)、を此の頃は見ない(大病して歩けなくなったり、世を去ったりして)と、何時人が言うだろうか、この遊歩道で何人かそういう人に出会っているが、自身もそう言われる日が近付いているのではないか、という意。自嘲といえば自嘲だが、実際、この頃からひとりで歩いていて転ぶことが何回かあって、家族が支えて散歩するようになっていた。一首は、冷徹にまで自照して、老境の真実を伝え、読む者を厳粛にさせる。表現の上でも、「ゆきし人」と「何時人は言ふ」の「人」の重複もむしろ徹した客観視、自分から突き放した感じを強調する結果になっている。「老而厳」を代表する一首と言えるだろう。
 昭和六十二年八月八日佐藤佐太郎逝去に当って、そのころは皇太子妃殿下であられた、今日の皇后陛下より賜った弔歌
  静けくも大きくましし君にして「見ず」
  とはいはず亡きを嘆かむ
は、この歌に和して下さったものである。



平成二十六年九月号

  玄関のまへに梅咲く日々の晴いで入る人は年
  七十二             (星宿)

 
この梅は事情があって不要になった庭木の古木を縁戚筋から貰い受けて玄関前に植えたもの。年々見事な白い花がさき、大きな実を付けた。自ずから佐太郎短歌の折々の点景になったのである。
  ひとときに咲く白き梅玄関をいでて声なき花
  に驚く            (S55)
  青ふかき着子の梅を顧みて門出づるわれ健か
  にあれ              (〃)
などがあって、掲出のこの歌につながる。
 例年のことだが玄関に梅の咲く日々となって、そこを出入りして過ごす人は七十二歳だ、梅の花が咲いて年の改まったのを思えば、自分はもう七十二歳にもなる、自身を客観して詠嘆の思いを強くしているのである。
 「玄関のまへに梅咲く」が実際に即して言って、非凡である。玄関先に堂々と花咲く梅が植えられている家はそう多くはないであろうし、その梅が咲いて「日々の晴」であるのも巧まずに爽やかである。「年七十二」は漢詩に用例があり、その漢詩の良さ、言葉の切れ味を生かしている


 平成二十六年八月号

  漓江より起ちあがりたる山々は明暗朝の霧を
  まとへる            (星宿)

 
昭和五十七年一月、七十三歳の作者は病後ながら、親しい会員と共に、桂林、漓江の旅をしている。漓江は中国の広西チワン族自治区東北部に位置する川、平坦な川辺からは塔のような巌の山・岩峰がそそり立つ。岩峰には盆栽を思わせ、風雪に耐えた松などが生えている。幅のある漓江の岸に続いて垂直に立つような岩峰だから、「起ちあがる」である。その岩峰がいくつも続くから「山々」となる。朝の川霧が一帯に濃く立ち込め、よく見える岩峰と暗くこもる岩峰とが「明暗」を作っているのである。それほど霧は濃い。ありふれていない漓江周辺の景観の核心を捉え、自然の摂理をも籠めて詠いあげている。
 同行した私がこの時の初案を書き残している(『短歌清話』)。この景観を見た翌朝同行者に書き与えたものである。
  大地より立ちあがりたる峯々は濃淡のある霧
  をまとへる
 比べると歌人佐太郎の作歌の秘密にも気付く。一般的な『大地』ではなく、固有の「漓江」からであり、「立ちあがる」より、更に一歩実態に即して「起ちあがる」岩峰なのである。また何が「明暗」なのかも明らかになる。


 平成二十六年七月号

  落月のいまだ落ちざる空のごと静かに人をあ
  らしめたまへ          (星宿)

 
落月は落ちかかっている月、宵から出た月は、朝方もっとも静かな時に西にかたむく。そんな静寂で澄みきった空のように、自分を静かにしておいてもらいたい。そんな境涯を願望している、という歌。
 昭和五十七年の年頭に当たってこんな願いを抱いたのである。この年の一月には、中国の桂林・漓江への旅などもしたが、体は衰え道で転倒したりすることがあるようにもなっていた。しかし、身辺には煩わしいことがいよいよ多く、自ずからうち深くに抱いた思いである。言語包蔵されていた蘇東坡の詩語「落月末落」が、こんな境涯の思いと一致してこの歌が生まれている。この一連には
  衰老の身をかへりみて日を送る人をにくまず
  天をうらまず
  祈るごと(あした)(とこ)にさめゐたりわが畏るるは神
  のみならず
など、老いて精深となった精神活動から湧いて出た作品がつづいている。


 平成二十六年六月号
  ひとところ蛇崩道(じやくづれみち)に音のなき祭礼(さいれい)のごと菊の
  花さく             (星宿)


 
蛇崩道は、晩年の作者が健康のために日々歩んだ道。作者が住む近くにある「蛇崩交差点」付近で、高齢の作者が安全に歩める道を、総称して「蛇崩道」として歌にしている。従って、蛇崩川を暗渠にした、作者の歌にしばしば出てくる「蛇崩遊歩道」(公式名は蛇崩川支流緑道)も、元気なころ盛んに歩んだ蛇崩坂も「蛇崩道」として歌になっている。
 この歌は、「蛇崩遊歩道」での矚目。道に沿った家にひっそりと住む高齢者が年々みごとに菊を育て、庭にも道にも置いて、通る人の心を豊かにしていた。しかしその菊づくりの人影はなく静まり返り、大輪の菊だけが殊更静かに咲いているのである。作者はこの菊を中心とした街の一画に日々魅かれて散歩の往反に注目をしている。
 ある時この感じは、原初的な神事、かつて作者が伊勢の御遷宮で体験したような、「音のなき祭礼」だと感じ得て、この非凡な厳粛を言い当てたのである。こう言って際立つ大輪の菊の花、あたりを占める静寂、清透な空気、抑制された光、無欲な人の気配、共感し合える人生観等々が暗示される。多くの言葉を使わず、ぎりぎりに削ぎ落とされた表現だから、限りない連想を生むのである。


 平成二十六年五月号
  やむを得ずおもむろにゆくわが歩みのみなら
  ず速やかにあらぬ飲食(をんじき)      (星宿)


 九首ある「飲食」一連は、老いた自身を凝視して切実できびしい歌からなっている。
  わが躰たもつ力の弱くして生のほとりは日に
  日に寂し
  おとづるるものを待つべき年齢にあらずやう
  やく老境となる
などがあって、この歌となる。
 歩みも敏捷というわけにはいかない。躰のあちこちが弱って、「やむを得ず」おもむろに歩むのである。そればかりではなく、人が生きてゆく上で最も重要な飲食さえも、速やかに行かない。老いた者の哀れを冷酷なまでにあらわに表現し、一首の詠嘆は重く、響きはながい。
 しかし、これが老いた人の現実で、こう確かに一人の人間の姿が描かれると、厳粛な芸術作品として、作者を超えた人間の真の姿として客観している自分に気づく。普遍的な人の現実なのだ。同じ経験をしている老いた人は今までもいたはずだが、このように詠い得た人はいなかった。肉体は弱っても、詩精神はいよいよ雄豪になって、「老而厳」を代表する一首と言える。 しかし、これが老いた人の現実で、こう確かに一人の人間の姿が描かれると、厳粛な芸術作品として、作者を超えた人間の真の姿として客観している自分に気づく。普遍的な人の現実なのだ。同じ経験をしている老いた人は今までもいたはずだが、このように詠い得た人はいなかった。肉体は弱っても、詩精神はいよいよ雄豪になって、「老而厳」を代表する一首と言える。


 平成二十六年四月号
  旧恨も新愁もわがうちにわくみづから知りて
  人に告げ得ず          (星宿)

 昭和五十六年「憶蘇東坡」一連十三首中の一首。「旧恨」は過去の恨み、自身に引き付けて言えば後悔の類である。新愁は新しく湧く愁い、高齢であることに伴って日々多くなるであろう。そういう感情が自身のうちに強く湧いてくるのを自覚するが、人に告げることは出来ない。語ればあるいは心が軽くなるかも知れないが、それが出来ないというのである。永い過去を背負う境涯だから湧く感情であり、声である。「旧恨も新愁も」は歌集『天眼』にすでに出ている。
  旧恨も新愁もなきおいびととして冬庭にひか
  りを浴ぶる(天眼)
 この時は、前述のような後悔も愁いもない、老人として冬の光を庭に浴びているという平安な境涯であった。これも老境の一面であり、三年が経過した今、それを「みづから知」るという現実を迎えている。もともとこの語句は蘇東坡の詩から来ている。「徐君猷(じよくんゆう)の挽詞」(徐君猷が黄州知事にて(しゆつ)するを(くや)())にある結句「旧恨新愁只自ら知る」が採られている。従って辞典にも出てくる言葉だが、蘇東坡を憶って自身の境涯が等しくなり、この表現により共感し、詩として和讃する思いがつよくなったのである。



平成二十六年三月号
  あるときは吹く風にからだとぶごとく思ふことあ
  り四肢衰へて           (星宿)


 健康のために日々散策をしていてこの日は風が強く、あるときは自分の軀が吹き飛ぶように思われる、四肢がかくまで衰えたせいだ、と自照し詠嘆している歌。自身のある時の境涯を点景にして、老いた人の現実に迫って、人の哀れを限りなく感じさせる。
 吹く風に「軀」が「倒れる」のではなく、「とぶごとぐ」と言って表現の上でも、内容の上でも、いよいよ強く切実になる。確かに見て確かに言うということはこういうことである。
 この作は昭和五十六年の「新年述懐」に続く「生日以後」一連にある。作者の生日は十一月十三日だから、前年即ち昭和五十五年の歳晩に位置づけるべき作品ということになる。作者は、こういうことにあまりとらわれず、歌集製作時、浄書をした私が注意しても、これで自然だと言っていた。歌集『星宿』は七十三歳までの作品であるが、製作時の七十四歳、七十五歳の作品も適宜混じっている。作者の考えでそうなっているのである



 平成二十六年二月号
  おのづから星宿移りゐるごとき壮観はわがほ
  とりにも見ゆ          (星宿)

 昭和五十六年の「新年述懐」三首のうちの一首。星宿は星座のこと、高松塚古墳の壁画にも、男女の人物群像、四神とともに星宿が描かれている。無限の宇宙を暗示し、古代から人のあこがれの的であったことが思われる。
 そんな星宿・星座が一晩でかたむき、移ってゆくような壮観・壮大なる眺めが、作者のほとりにも見える、素晴らしいことだという歌である。一読豪快、雄豪な歌と言ってよいであろう。そんな壮観とは具体的にはどんなことであろうか。一首は暗示的で、読者の自由な想像に任せている。
 具体の中心には、高齢化が進み、高齢者が元気に過ごしているだけではなく、その長年の経験を活かして新たな業績を積んだりしていること、あるいは社会に貢献していることがあげられる。「わがほとり」と言って、長年の付き合いのある学者や、歌人や、あるいは夫人の存在をも含むであろう。堂々たる思想的抒情詩である。
 これ以上の新年の歌はなく、まさに傑作と言える。


  平成二十六年一月号
  蛇崩の道の斜陽にやまぶきの返花および老齢
  いこふ             (星宿)


 作者はこの頃の自身をしばしば「衰老」と自嘲し、持病もあったから、日々散歩を中心とした養生を中心として過ごしていた。そういう自身を歌を作るもう一人の自身が凝視している歌である。
 その散歩の途次、蛇崩れ遊歩道のベンチで一休みする。傍らには山吹があって黄の色の返花をつけている。季節外れのそのやまぶきの花と老齢者の自身が、折からの斜陽を浴びているところである。ここには、哀れとか寂しいとかという感情を超えた、ありのままの人の姿がある。
 七十歳以後、斎藤茂吉にない世界を求めてつづけて、それが感情を極端にまで抑制している表現に現れているように思う。それは「老齢」という爽雑物を削ぎ落とした用語にもあり、「返花および老齢」という、「および」にて接続する工夫にもある。前歌集『天眼』にも
  蛇崩れの斜陽に立ちて行人を数へしばらく愁
  なくゐき
があったが、それから前進してこの歌がある。 があったが、それから前進してこの歌がある。 


  平成二十五年十二月号
  日が早く暮れゆくゆゑに行動圏やうやく狭き
  秋分のころ           (星宿)

 俗に暑さ寒さも彼岸までというがよく言ったもので、寒のきびしい冬でも春の彼岸のころには、その寒も緩む。また猛暑の夏も秋の彼岸のころにはしのぎやすくなる。この歌はそういう天象と共に生を送る作者が、夏が過ぎ、日が早く暮れるようになって、行動範囲が狭くなったと詠嘆しているところ。老いて病のある身を労りつつ生きる自身、その自身を詩人たるもう一人の自身が凝視して、天象の支配下にある人の実存を捉えているのである。そして老いの実際を浮きぼりにしている。
 ごく日常からの鋭い発見だから一首は、ことさらに親しい。この作者の生涯の特色がよく出ている一首と言ってよい。かつて
  あくのなきわがせいながら天象てんしやうに支配されをり
  日々肉体は        (S54星宿)
と詠ったが、今その具体として「行動圏」さえも狭くなっているのである。 



    平成二十五年十一月号
  
蛇崩の来往に逢ふおほかたの主婦は買物の車
  をひけり            (星宿


 
「台風余波」三首中の一首。常の散歩コースである蛇崩れの道を歩いて改めて気づく。主婦が買物を運ぶために、小さな旅行用キャリーカーのような車を引くようになっている。世の風俗の変化に敏感に反応してこの歌がある。こう言って、家の近くの小売店がどんどん閉鎖され、主婦らが何でもそろっている大型店舗に日常の買い物に行くようになっていること、一度に何日分かをまとめて買うようになっていること、更にはその主婦らが高齢になって、車付きのキャリーカーでないと運べなくなっていることなどなど、さまざまな暗示をしている。
 歌人佐藤佐太郎は、このような世俗の変化につねに機敏に反応していた歌人の一人である。
  わがごときさへ神の意を忖度す犬馬の小さき
  変種を見れば
  梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへ
  そのうちにあり
  たまさかに銀座に来れば街路樹のなき人のみ
  の石道もよし
など、皆そうである。永く生を積み、凝視をつづけたから、こうした抒情の世界が生まれるのでもある。



    平成二十五年十月号

  ゆくりなき遭遇などを人の世の味はひと知る
  われ老いてより         (星宿)


 
「小庭」と題する一連七首の中にある。予期しない、偶然に過ぎない出会いをこの現世の味わいだと改めて思う、老いてからは、という意味の歌。若い時は「人の世の味はひ」とは思わなかったことだというのである。
 例えば、若い時から共に歌壇などで活躍してきた歌人に、海外旅行などでばったり出会ったりする場面である。お互いに老いているから、殊更親しく思うのであろう。過去のさまざまも思い出されてくる。「人の世の味はひ」と言って、双方の今ある地位のようなものまで思わせる。
  半年を経て公園に水たたく噴水の音ききつつ
  いこふ
  いつにても蝶がまつはり子らあそぶ木のあり
  梅雨の蛇崩ゆけば
など、平安な日常の感慨の続きとしてこの歌もある。




    平成二十五年九月号

  大苞の泰山木は葉の動く風にしろたへの花の
  しづかさ            (星宿)

 
大苞たいほう」は大きく、りっぱな苞(つぼみ)の意。その苞をいくつも抱く泰山木は、革質の長楕円形の大型の葉がびっしりと茂る。その葉の動く風にも、白く大輪の花は静かだという。咲き始めた八弁ほどの肉厚の花びらは、殊更がっしり見えて、風に動じないところである。
 こう見、こんな発見をしたとき、詠嘆となってこの一首になったのである。単純に言い得て、泰山木のひと木の感じ、花の状態、放つ芳香さえも感じさせ、確かに伝えている。泰山木という樹木を言葉で伝えるとしたら、こう言う以外に他にあるまいと思わせるほど、鮮やかに描写されている。この確かさはどこから来ているのであろうか。
 この作のある一連に、「小庭」という題がついていることからも分かるように、この泰山木は作者の庭にあって、この頃成木となり、立派な花を咲かせるようになったものである。即ち、たまたま見た素材ではなく、いわば作者と何年か生活を共にしてきた庭木の一つで、おそらく年々何らかの感慨をいだき来て、この年の発見となったのであろう。そうした必然性が、この一首を自ずから重厚にしているのである。



    平成二十五年八月号


  春動く羅浮を望みて立ちし人窮達不到の境に
  在りき             (星宿)

 一首の「注」に、「『羅浮春欲動』『窮達不到処』みな蘇東坡」とある。つまり、「羅浮を望みて立ちし人」は作者が晩年親炙した蘇東坡である。羅浮山に春の気配が動き始めるのを遠く望んだ蘇東坡は、窮るでもなく、達するのでもない(いわば人間臭く)、その境に生きた人だった、というのである。作者は蘇東坡を、晩年の生き方の指標にもしていたから、「窮達不到処」という言葉が身に沁みたのである。
 この歌は「恵州」一連十首のなかにあって、念願かなって蘇東坡の流刑の地の一つ「恵州」を訪れた作だから、一首一首が重く響く。
  蘇東坡が掘りたる井戸は八百年いま学校の屋内にあり
  わたり鳥鴨の帰りし恵州の豊湖の水にわれ手をひたす
  道にある花影を共に踏み行きし早春の日を永く惜しまん
  羅浮山の麓と東坡みづからが親しみ言ひし恵州ここは
などという作があって、掲出歌になる。
  非日常体験の旅の歌ではなく、時空を超えて作者の血肉となった、蘇東坡の世界に近づき、日常のつづき、人生の一端として詠嘆しているのである。



      平成二十五年七月号


  ほしいまま拘束のなき老境はからだ衰へてお
  のづからあり          (星宿)
 
「ほしいまま」は「ほしきまま」の音便。自分の思うとおりにふるまうさま、と辞典に出てくる。そういう言葉で言えるような老境の拘束されない日々は、体が衰えたことによって、即ち勤めも、社会奉仕のようなこともできなくなって、自ずからあるというのである。七十歳で世を去った斎藤茂吉にない老境を、自らを覗き込むように作歌して、ある時こんな感慨を抱いたのである。悠々とした処世の姿だが、これは淮南子から悟入した世界である。
 淮南子の言葉「夫れ、大塊我を載するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を逸するに老を以てし、我を休するに死を以てす」(造物主たる大塊は、我を人間という形を以てこの世に送り、世に尽し働くために生があり、我を逸するために老いの境涯を与える。そして休ませるために死が来るという意)について、殊に「逸する」の意味に佐太郎は深くこだわった。辞典など多くを参考にして、ほしいままが許されるのが「逸」だと悟る。いわばわがままがゆるされ、拘束されないのが老境だというのである。その実感、体験の声がこの一首の世界である。(『短歌清話』昭和五十四年二月十一日参照)。





      平成二十五年六月号

    今月は、お休みです。




      平成二十五年五月号

  きはまれる青天はうれひよぶならん出でて歩
  めば冬の日さびし        (星宿)

 
師事した斎藤茂吉が七十歳で世を去ったことに関係して、古稀を迎えて後、茂吉に「七十歳以後の作」がないということを意識して作歌し、やがてひらけて到達している一首。
 歳晩の寒気が満ちて青々と晴れ徹っている空、その下をいつもの通り散歩に出でて歩んでいると妙にさびしい気がする。どうしてか、しみじみ顧みると、高々と晴れとおる青天がこの憂いをもたらしていることに気が付くのである。このように表現されて読者も思い当たることがあるのではなかろうか。

 もともとわれわれは天象のさまざまな節理の中で、生を送っている。満潮や引潮が人の生死にかかわったり、雨の日に古傷が痛んだりするのはごく常識的なこととして、高く晴れ徹る青天が、人の感情を揺さぶってくるというのに意外性もあり、先人未踏の境地がある。この歌には私が書きとどめた佐太郎の言葉がある。「秋葉君。今日はいい歌が出来たよ。三日も四日もどうしても言えなかったが。この四、五日晴天がつづいているだろう。そいつがどうしても言えなかった」。そしてその時(昭和五十四年十二月十八日)この歌を書いた真筆の葉書をもらっている。一読した私に、「いいだろ。そう言えるまで、えらく骨がおれた」(『短歌清話』)。




      平成二十五年四月号


  わがごときさへ神の意を忖度す犬馬いぬうまの小さき
  変種を見れば          (星宿)

 世の中が平和で豊かになったことともかかわるだろうし、高齢化社会も遠因になっているのかも知れないが、さまざまな愛玩動物が人々の生活を支えるようになっている。そうした中で、人工的な交配あるいは遺伝子の操作などによって、極端に小さな犬や、馬を産ませる、つまり変種を作ってそれを人々は喜んで愛玩する。そんな世相を愁いている歌である。
 無神論者の私のような人間でも、神の真意を推し量らざるを得ない。こんな不自然なことを神が許すだろうか。造物主たる神の意志を推察すれば、決してゆるすはずがない、というのである。「忖度」はここでは神の心中を推し量ること、推察することで、「わがごときさへ」があるから、文脈上反語のようになり、許されるはずがないという強い意味も伴ってくる。
 この作は、昭和五十四年「随時感想」一連の中にあることからも分るように、一首は世相批判である。作者はこのような「批判」も抒情詩の内に含まれるという考えであった。



     平成二十五年三月号

  台風を境に木々の衰ふるとき菊などの咲く花
  つよし             (星宿)


昭和五十四年、「晩秋」一連七首の中の一首。
  あかときに神のみすがたとどくとぞ夢に読む古代詩篇の言葉
  やうやくに音しづまりし夕暮の空まだくれず台風の後
などの後に続いている歌である。台風によって木々は傷めつけられ、散るべき葉は散り果てる。散れない葉はちぎれて無残な姿を見せたりする。そうして季節が一気に動き木々は衰え、冬に向かってゆくのである。ところが菊などの花は、ひときわ目立って光を放つ。ゼラニュームなども同じである。
 台風をまともに受けて、衰えてゆく木々、相対的に台風などの後により輝いて咲く菊などの花、自然の姿がここには在る。人間牛活に極めて身近な自然の摂理を捉えて、鮮やかに現実の一角を言い得ている。
 それゆえに極めて暗示的で、人の一生にも、存在している現象のようにも想像を発展させる。万象の具体的な一角を鮮やかに言って象徴的な作品だと言ってよいだろう。



     平成二十五年二月号

  珈琲コオヒ―を活力としてのむときに寂しく匙の鳴る
  音を聞く            (星宿)


 
昭和五十四年の「百日紅」一連にある。このころは片道一・五キロ程の遊歩道を歩き、レリーフのある喫茶店にて一憩、コーヒーを飲みつつ膝上作歌をなし、また帰るという日課をされていた。ある時、そのコーヒーが素材となったのである。頭脳労働の自身の活力として飲んでいること、広く静かな喫茶店であることと関係するかどうか、匙の音が妙に響くこと、そしてそれが身に沁みるのも老境ゆえと思ったこと、などが一首の内容になっている。
 このあたり作歌に気力が充満していて、人の意表を突き気の利いている作が目立つ。珈琲を飲むその匙の音で、これだけ充実した歌が出来るのは詩精神の充実のもたらすことにほかならない。老いたからその意味を感じ得、詠い得ているのである。前回の「梨の実の二十世紀といふあはれ」も同様で、誰もが見ていて、抒情詩になし得なかったことだから、殊更親しい。この歌も同じである。
  みづみづしき運命見えて咲きそむる百日紅の
  くれなゐ
などという作もこの一連にある。などという作もこの一連にある。  



    平成二十五年一月号      

  梨の実の二十世紀といふあはれわが余生さへ
  そのうちにあり         (星宿)


 
昭和五十四年の「樟枯葉」一連にある。二十世紀と名付けられている梨は、時代に先駆けて気が利いているような命名である。しかし、また百年という限定の中で呼ばれる名であることを思えば哀れとも言える。それよりも自身の余生もその二十世紀のうちにあるのだからいよいよ哀れだ、くらいの意味の一首である。
 梨の「二十世紀」は十九世紀の末に偶然発見され、日本全国に普及した新種の梨で、皮が薄く、汁気が豊富で、果肉も柔らかく、甘味も程よい。
 ある時作者はこの梨の命名に感心もしたのであろう。しかし、よく考えて見れば、次の二十一世紀がやがて来るのであるから、「あはれ」と思うのである。更に考えて、自身の残る人生もその二十世紀のうちだと思って更に愕然としたのでもあったろうか。一首は意外な取り合わせであり、自身の「余生」と結びびつけて、内容が深くなっている。作者佐太郎は二十一世紀まで十三年を残して世を去っている。
 歌集『星宿』の歌は、斎藤茂吉にない「七十歳以後」を強く意識して作られているが、この歌などは、殊に佐藤佐太郎の老境の叡智を感じさせる独自の世界である。