佐藤佐太郎の秀歌(秋葉四郎)
 ( ○平成25〜   ○平成20〜24年   ○平成15〜19年



   平成十九年十二月    


  しろたへの張とばりうつるはまのあたり うつるな
  り闇にたふとく(開冬)
 昭和四十八年、伊勢の神宮の式年遷宮に当り、臨時出仕した折の作。二十年に一度、神殿を営み、これに御神体を遷御する祭で、作者はもともとかういふ厳粛、荘厳を大切にする歌人であつた。日本人の根源にある論理を超えた神秘性、継続性、宗教性を重んじ、この臨時出仕といふ貴重な経験を喜んだのである。その年の六月の歌
  さいはひの予感をときにいなまんや眉にいう
  ある老人おいびとにして
といふ一首は、この内示を予め喜んでゐる歌で、この機会を与へられたことに対して感謝したのである。
 一首は、自註「歌は絹垣とよばれるしろい張が闇に移るのは神が遷るのだと荘重な言い方をしたのである。ことばのひびきはこういう形態もある」(及辰園百首)に尽きる。他に
  よみがへる遠き古のこころにてすゑものの
  鉢に篝火もゆる
など、ナイ―ヴを伝へてゐる。
 なほ、この出仕に伴つてテレビやラジオに出演し、その記録が残ることになつた(佐藤佐太郎研究資料室)。



   
平成十九年十一月


  悔多きわれのかうべづるものありとおもひ
  て夜半よはにさめゐき(開冬)
 昭和四十八年一月作で、「寒のころ」と題する一連の中の一首。後悔をすることの多い自身、さう思つてはゐるがそんな自分の頭を撫でて評価してくれるものがあつた。すなはち半睡か半醒のなかにあつて、ゆめか幻か、作者の努力を認め、具体的に頭を撫でて褒めてくれるものがあつたと思つて、夜半のひと時覚醒し、思ひに耽つてゐるところである。
 この頃の作者の生活は、作歌を中心として充実してゐた。字や絵の方面にも進展が見られ、その染筆展(四照花会)も好評であつた。作歌の面でも蘇東坡の世界を咀嚼した新境地が拓け始めてゐた。歌壇の重鎮としての位置もいよいよ揺るぎないものとなつてゐた。さうした自信のやうなものが一首の背景にあるであらう。
 実際には衣類が頭に触れて、母が頭を撫でてくれたやうに感じたなどと語つたが、一首には深い感傷が流れてゐる。この一首の自註に「歌は哀愁のうちにある甘美、甘美のうちにある哀愁である」と言ふところの快いセンチメンタリズムがある。



   
平成十九年十月


  紅葉の山のしづくに潤ひて岩はゆくてにし
  ばしば光る(開冬)
 作者は十一月十三日が生日に当るが、昭和四十七年の丁度その頃、山口県大畠町の歌会に臨み、帰路門人浅井喜多治氏らの案内で中国山脈を横断してゐる。すなはち、「中国山脈横断」と題し
  山かひに人の住み捨てし田のあれば白くか
  がやく茅原なせり
  すこやかに老いしめたまへ山なかの小春生
  日の天くれてゆく
など七首を残し、この歌はその中の代表的な一首である。
 山峡深く車が進むと、道の傍らは岩が露はに見える崖である。折しもその岩はみな濡れてゐる。紅葉から直接に落ちるしづくにも当然濡れるが、ここはもつと大きく全山の紅葉のしづくが一旦地に沁み込んで、それが滲み出てゐるのである。厳しい山の裾を切り開いて道を作るからしばらく同じ光景が続く。しばしば光るのは「紅葉の山のしづく」に潤つたのだと言つたのが何とも味がある。深山の空気と光と奥深さとを捉へて人の心を厳粛にもさせる。この歌は浅井氏らの努カで匹見峡に歌碑となり、はや三十年が過ぎた。



   
平成十九年九月号


 木々古りし三輪山の天寒くしてゆく山のべ
 の道あたたかし(開冬)
 昭和四十七年十一月五日、奈良県桜井市主催の記紀万葉歌碑共同除幕式に参加した折の作。佐藤佐太郎は柿本人麻呂の「三諸みもろのその山並に子らが手を巻向山はつぐがよろしも」(一〇九三)を揮毫してゐる。
 一連は「山の辺の道」と題する五首である。この題の「山の辺の道」は固有名詞で作中の「山のべの道」は文字通り山のほとりの道である。さういふところの天が寒く晴れ徹つてゐるところ。晩秋の空気はきりつと締まり、あたりには俗気のない雰囲気が満ちてゐる。そんな「気」が捉へられてゐるから「てん」と音読みされる必然性がある。
 一見、「天寒くして」と一言ひ、「道あたたかし」と言ふのは対照があらはに過ぎるやうにも感じられる。しかし、むしろここには作者の感受の鋭さと表現上の配慮が窺へる。すなはち、それほど秋の日が澄み徹つてさし、三輪山の木々は古りてゐるのである。風景の特色を捉へてこの畳み掛ける表現となつてゐるのであり、結果的に現実感が一層増してゐる。



   
平成十九年八月号


  天は老い地は荒れたりといふ言葉おもひ出
  づるは何のはづみか(開冬)
 昭和四十七年「秋雑歌」一連の中に
  黄の花のとろろ葵さく残暑の日門をとざし
  て家ごもりけり
  草木の上にも神はやどれるを八百万神とい
  ひしいにしへ
などといふ歌とともにある。いよいよ作歌が自在になつてあらゆることが作者の抒情の中に取り込まれるやうになつた。経済発展の目覚ましい中にあつて、人心の荒廃、環境の汚染、乱開発などが社会問題となつてゐた。この二年後にオイルシヨツクといふ大不況を迎へるが、そんな世相の不安が背景にあつて、何かの弾みに「天は老い地は荒れたり」と言つた古人の言葉を思ひ出したのである。佐太郎短歌は社会の事象とこのやうにかかはるのである。「天荒地老」は『江湖風月集』に二例あつて「天も地もそのまま老いて荒れたこと」「世が澆季に移り変わる有様」とある。因みに「澆季ぎようき 」は「道徳の薄れた人情軽薄な末の世」と辞典に出てくる。原典は「天は荒れ地は老い」だが、ここで「天は老い地は荒れたり」とあへて言つたのは作者の感覚に従つたのである。 



  
 平成十九年七月号


  その指をとりて祖父われは憐れまんをさ
  なご故に爪やはらかし(開冬)
 何かの拍子で「その指に」触れることになつたのか、あるいは敢へて「その指」をとつたのか、いづれにしても幼子の指があまりにも稚く、殊更爪なども柔らかいのに深い感慨を抱いてゐる歌である。「祖父われ」の見ることの出来ないこれからの長い人生を歩んでゆくのは孫の幼女である。祖父の憐れは限りない。「をさなご故に爪やはらかし」の具体が、すべての微かな存在である幼女を暗示する。
 直接には、この幼女が小学校に入学したばかりで、学校生活にもまだ慣れてゐない頃だから「祖父われ」をして一層「憐れ」ませたのである。
 自註になるこの作の前年に当る昭和四十六年の文章がある。「幼子は今年小学校に入学する。私は憐れでならない。これから小学校六年間、中学、高校、大学と間断なく勉強しなければならない。それから杜会へ出ても苦労が多いだろう。幼子はもはや「叱するを須ひず」というわけには行かなくなった(『短歌を味わうこころ』「幼子」)。



   
平成十九年六月号


  移り来し家に今年の花を待つ百苞の辛夷
  日々光あり(開冬)
 昭和四十六年の暮に、長く住んだ青山から上目黒の新居に作者一家は転居した。いはゆる柴垣のある家で、後の書斎「及辰園」である。近くには蛇崩川が流れ、やがてこの街川が暗渠となり蛇崩遊歩道となり、晩年の歌人佐藤佐太郎の作歌の舞台となる。
 この歌は新居の庭の、新屋を祝つて贈られた辛夷の古木を素材としてゐる。辛夷は秋の頃の落葉と同時に無数の花芽をあらはにする。厳冬の間堅く小さい辛夷の花芽はやがて、少しづつ変化して春に先駆け花を開く。
 その苞を「百苞」と言ひ、「花を待つ」と言ひ更に「日々光あり」と言つて、的確に状態の真髄、変化を伝へる。同時に新居新書斎の完成を喜ぶ思ひが一首にしみじみと響く。当然新居完成に努力した夫人への感謝、この庭木を贈つた人への思ひもこもる。そしてここから開けてくる未来の光も感じられる。この辛夷は
  窓外の辛夷のつぼみ立つころとなりて衰
  へしわが日々寒し(昭和四十八年)
など何首かの歌の添景となつてゐる。



   
平成十九年五月号


  草焼きし跡のゆゑもなき静かさやその灰
  黒く土かたくして(開冬)
 「立春前後」と題する一連にあつて、冬の更けた頃の矚目であることが分かる。ここにあるのは、草を焼いた跡であり、その黒い灰であり、堅い感じに見える土である。さうしてそれから漂ふ「気」・「静けさ」が一首の世界である。捉へられてゐる具体とそこに籠る感情とには、虚飾のない美と底光りするやうな精神の響きがある。
 ある時、三句の「静かさや」を誤つて「寂しさや」と記憶してゐる者があつて、それを聞いた作者が「この『静かさや」にはその『寂しさや』も含んでゐる」と自ら答へたことがある。自註には「『しづかさ』と言って暗示するのは『侘しさ』である」とも言つてゐる。しかし三句を「寂しさや」あるいは「侘しさや」まで言へば言ひすぎであり、あくまでも『ゆゑもなき静かさ』であるところにこの歌の味ひがあり、深さがある。即ち「語烟霞を帯ぶ」といふ響きがこもることになる。



   
平成十九年四月号


  二十年魚の目老いず雪晴れし部屋にうづ
  くまり魚の目を削ぐ(開冬)
 右足の小指に、終戦後に出来て、それより二十年間作者を苦しめてゐる魚の目、皮膚の角質層の一部が肥厚増殖して真皮内に深く人込んでゐるもので、「鶏眼」などとも言ふらしい。肥大すると当然痛みを伴ふから削ぐ必要があつたわけである。その魚の目を意識して二十年、躰全体はあきらかに老い且つ衰へてきてゐるのに、厄介なその魚の目は、意外にも老いも衰へもしないでむしろいよいよ作者を苦しめてゐるところである。このやうに対比されると人間の哀れは何とも限りない。
 雪が晴れてことさら明るい部屋にうづくまつてひたすらその面倒な「魚の目」を削いでゐる老いた人の姿を思ふとき、その哀れは更に限りない。自註して「やっかいなものを伴って老いた人の自嘲である」(及辰園百首)と言つてゐるが、思ひもかけない「魚の目」を点景として、ここまで人間の真実の姿、哀れな実存を描き得てゐることに、私は感嘆する。同時にこの短歌といふ詩の無限の可能性を思つたりもする。



   
平成十九年三月号


  あかつきの海の渚にあそぶもの蟹の子ら
  群れて川さかのぼる(開冬)
 昭和四十六年、折々の雑歌七首をまとめ「初夏日々」と題した一連の中にある。さう広くもない川が流れ込む海の渚を散策してゐるとそこに蟹の子らがたくさん見える。さらによく見てゐるとその蟹の子らはみな川をさかのぼつてゆく。おそらく蟹らはある程度成長するまで川口の近くで本能的に外敵を避けるのだらう。ここに自然の真実の姿が見え、暗示的でもあり、憐れでもある。
 この歌は、この年の八月千葉県の九十九里浜(白里)において歩道の全国大会が行れたときの矚目である。この自註になる後記が「歩道」昭和四十六年十一月号に載つてゐる。「ボラの子のやうなこまかいものの群は流にしたがつて下つてゆく。それとは反対に流をさかのぼる群がある。それは一糎にもみたない蟹の子たちであつた。蟹の子はどれほどゐるのか、つぎからつぎからさかのぼつて行く。蟹が泳ぐところを私ははじめて見た。当然といへば当然だがめづらしいものを見たものだ。蟹の子は波によせられて砂の上を歩くこともある。砂に上がると白い足をしてゐた」。



   
平成十九年二月号


  童女にもときに重厚のかたちありわれに
  向ひてもの言はず立つ(開冬)
 童女は孫の娘である。その六歳になつたばかりの少女が、祖父である作者の言行に何か不満があるのだらう、無言で抵抗抗議などの姿勢をとつてゐる。当然作者はさういふ幼女を客観するから、意外なる「重厚のかたち」を感じて、感慨に浸るのである。「童女にもときに重厚のかたちあり」と言つて、幼女の成長の過程にある真実の姿が永遠にとどめられてゐる。人の「まこと」の姿である。
  みはりたる二つの瞳そのなかに老いて恥
  多き吾は映らん
といふ歌が、この歌に続いてゐるし、少し前には
  幼子は恬淡てんたんとして銭を欲るゆゑに与へて
  結論もなし
といふ歌もある。みな同じ童女がモデルである。後年、ある童顔の女性の門人が、この歌は私をイメ―ジして先生が作つたと、告白するやうに私に語つたことがある。歌が真実を言ひ得てゐる証左のやうなもので、こんな滑稽な連想も生まれるのである。



   
平成十九年一月号


  還らざりし鴨濠にをり小さなるこの鳥に
  何の楽しみありや(開冬)
昭和四十六年「晩春」一連七首の中にある。他に
  眠ければからだちからなく街をゆく晩春の雨
  さむき古書の香
  繁殖期すぎし孔雀らの棲む檻は砂のにほ
  ひの暑くなりたり (「躯」は原作では正字体)
などがあつて、ごく日常の中から感覚的に捉へた世界が深い詠嘆となつてゐる一連である。
 鴨は群を作つて生活し、移動する渡り鳥であつて、季節が来れば餌に不自由しない好適地を目指し移動してゆく。日本では秋、北地から渡来し、春になると北へ帰つてゆく。それが常識だが、作者はある時「還らざる鴨」を発見する。その生態の不思議に生きとし生ける物の哀れを思つたはずである。どんな事情によつて還らないのか、いづれにしてもこの小禽に何の楽しみがあるのか、作者は思はず反芻したのである。
 下句には作者の心象の反映がある。小禽に「何の楽しみあ
りや」と問ひかける思ひはやがて自身にも返つて来るのである。若くしては感じ得ない、永く生きた人のみが抱く境涯のこゑである。



   
平成十八年十二月号


  枯葦の光る夕沼いくたびとなくさわがし
  く雁の群帰る(形影)
 昭和四十六年二月、門人片山新一郎氏の案内で見た宮城県伊豆沼の雁である。
  沼のうへ渡りてかへる雁の列こもごもに
  鳴くこゑ移りゆく
  よもすがら千羽の雁は伊豆沼の真菰枯れ
  ふすところに眠る
など八首が一連をなしてゐる。一首は平明で、雁がそれぞれ群となつて沼に帰つてくるところである。群ごとに声をあげつつ来るから「いくたびとなくさわがしく」である。千羽もの雁が次々と沼に帰る感じが生写されてゐる。
 昭和八年、茂吉に随行して
  春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真
  菰に雁しづまりぬ        茂吉
といふ歌に触れて以来作者は、雁は真菰に塒するのであつて、葦に降りることのないことを知つてゐる。引用二首目はそれを証明する。然るにこの歌では「枯葦の光る夕沼」が印象深い。事実としての伊豆沼がかういふ特色をしてゐたからであり、これを言ふことによつて沼をめぐる広さ・明るさ・空気などが出るのである。



   
平成十八年十一月号


  山茶花はゆふべの雲にしろたへの花まぎ
  れんとして咲きゐたり(開冬)
 われわれがよく見る山茶花を詠つて、一読何か大きなスケ―ルのやうなものを感じさせる一首。山茶花のあふれるほど咲き盛る白い花、その花は夕雲にまぎれるといふのだから、大変な数だし、情景だ。古都の一角らしい清澄な空気、華やかさのない光などをも感じさせる。そして、山茶花を詠つてかくまで堂々としてゐることに、この詩形が小文芸であることさへも忘れさせる。烟霞の気がこもつてかく歌の世界が広がるのである。『開冬』になつて、開けてゐる境地である。
 対照は京都詩仙堂に古りた山茶花だから、おそらくその真髄を言ひ当ててゐるのであらう。実景に接すればより納得できるやうに思ふ。それにしても東洋的詩情を思はせてやまない。自註によつて陸放翁の「海雲寺山茶花一樹千苞」が胸中にあつたことも分かる。



   
平成十八年十月号


  冬の日の眼に満つる海あるときは一つの
  波に海はかくるる(形影)
 歌集『開冬』を代表する一首であり、佐藤佐太郎六十年の作歌を統べる一首でもある。作者は九十九里浜のやうな低い砂浜に立つて水平に太洋に対峙してゐる。当然海は満目といふ状態に見えてゐる。そこに冬ならではの大波濤が来るのである。たちまち海はその一つの波の彼方に隠れる。自然の見せる或る一瞬の姿であり、不思議さであり、面白さである。それはやがて天然自然の持つ諸相の厳粛、奥深さなどを思はせる。
 強く捉へて強く言ふのがわれわれの詩としての短歌だが、これほど鮮やかに言へてゐる例は決して多くない。
  大海の磯もとどろによする波われてくだ
  けてさけてちるかも       実朝
  最上川 逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべ
  となりにけるかも        茂吉
などを思ふ人は少なくないであらう。これらの歌は単純化の極致にあつて古今の傑作だが、この一首も決して負けてゐない。むしろ、光景の雄大さにおいて、声調の力強さにおいて、一歩抜き出でてゐるものがあるやうにさへ私には思へる。



   
平成十八年九月号


  菊の花ひでて香にたつものを食ふ死後の
  ごとくに心あそびて(開冬)
 食用菊は御浸し、酢の物などにして食べる。作者は酢の物で食べての感想であることが自註から分る。独特の香りはやや重厚で、品の良いものでありながら沈んだ感じを確かに含む。従つて下句の連想となつて「死後のごとくに心」が遊ぶのである。あくまでも心の遊びで、感覚的で軽妙な飛躍だから、読者は意外性に魅せられながらこの歌の醸す世界に自然と引き込まれてゆく。
 或る者はこの連想の飛躍が暗示する具象的なものが何であるか盛んに探るかもしれない。また或る者は、あへて深い意味を持たせないところにこの歌の新境地を見て、作者もいよいよ詩の「軽み」を意識してゐるのではないかなどと思ふに違ひない。
 歌集『開冬」の歌は、正述心緒や単に見えるものに思ひを託すといふやうなところをはるかに超え、具象的でありながら、それだけでは終らない余情、長い響きが添ふやうになつてゐる。その歌のひとつがこれである。作者は自ら 烟霞えんかの気』がこもつて来てゐると言つた。この頃「歌には分かり切らないものがあつていいんだ」などとも言つてゐた。



   平成十八年八月号



  地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音
  一劫の音(形影)
 昭和四十五年十月、盛岡歌会に臨み、その折に見た龍泉洞での作。「龍泉洞」五首、「龍泉洞途上及帰途」八首がある。一・七キロメ―トル余もある鍾乳洞の中の湖だから、「地底湖」である。そこにしたたる滴の音を捉へて、その一瞬の音は一劫の音だといふ。「一劫」は非常に長い時間を言ふ言葉。一切の外音の無い鍾乳洞内で、その地底湖にしたたる滴の一瞬の音が驚くほど長い時間に感じられるといふのである。「永劫の音」ではやや言ひ過ぎでもあり、平凡にもなる。漢語の「一劫の音」がここでは実に的確に決つてゐる。この滴の永いしたたりによつて鐘乳石が出来、鍾乳洞となる実相を思へば、言ひ得て鮮やかな一首である。
 それにしても大自然のごく一角を正確に照射して、空問的には雄大、時間的には承久を思はせる歌ではないか。



   
平成十八年七月号


  沼のべの村のしづかさ残汁を護る蜆も風に
  乾けり(開冬)
 昭和四十五年、青森の竜飛岬にこの作者の第一号の歌碑が建立され、七月にその除幕式があつた。終つて翌日門人と共に尾鮫沼に吟行したときの一首。私も同行し、冷夏でひどく寒く、太平洋に近づくにつれ風も強くなり、あたりはどんよりと曇つてゐた。一連の内の
  七月の寒き海よりあるところ沼にむかひて
  潮ほとばしる
が、その日の状況を良く伝へてゐる。
 大振の蜆が沼のほとりの店頭に売られてゐる。表面は風に乾き、荒涼とした沼のべの感じを暗示する。一首はさらに実相に観入してその蜆は、生きるために、貝を固く閉ぢ沼の残汁を必死に護つてゐると見てゐるのが非凡である。考へてみれば哀れ限りない事実である。やがてあたりの村の生活あるいは人の生の根元のやうなことまで思はせもする。



   
平成十八年六月号


  使はねばなににてもさびのつくごとく乗算じようざん
  九九を忘れてゐたり(形影)
 作者は、自然を対象にした秀歌を多く残してゐるが、素材は何でもよく、殊に身辺のことを詠つてよい歌が出来たときは特別にうれしいとも言つてゐる。この歌はさういふ意味で作者会心の作の一つであらう。自然を対象にした場合、素材さへ良ければ割りと造りやすい。それに対して身辺は、相対的に特殊性を出すのが難しいのである。
 あるとき顧みて、「乗算の九九」を忘れてゐる自分に気づきその意外性を嘆いてゐるところ。同時にさういふ自分を凝視して「使はねばなににてもさび」がつくやうなものだと思ひ、かく言ひ得たとき、この感慨は深い輝きを帯び、永く人の心に沈潜することとなる。万葉以来短歌作者は、このやうなごく身辺にある「詩」を大切にしてきたものである。



   
平成十八年五月号


  花にある水のあかるさ水にある花のあかるさ
  ともにゆらぎて(開冬)
 「太陽」といふ雑誌の企画で桜の名所京都大沢池の吟行に行つたときの作。その池のめぐりに桜が咲き満ち、「文字の飲」を楽しむ一行は舟を浮かべ、昼食を取りながら歌会をしたのである。
 桜の花を中心とすればその花に水の明るさが反映し、池の水に視点を当てればそこに水の明るさが映つてゐる。人の心を躍動させる満開の桜花の感じを余すなく言ひ得て居る作である。この日のことを書いた随筆「泛春池はんしゆんち」(短歌を味わうこころ)には「折をひらき、杯をあげて、歌が主でもない、花が主でもない、酒が主でもない、『文字もんじいん』をたのしむので、今日ここに遊ぶのは私達夫妻と歌の仲間十数人、どれも親しい顔だ。春の光を分けあい、影をならべて一日の歓をつくすのである」とある。この楽しさも一首から発散されて居る。表現技法に特色があるが、作者にも既に
  流氷のたゆたふ黒き潮流氷にたゆたふ黒き潮
  納沙布の海
があるし、茂吉にも
  小園のをだまきのはな野のうへの白頭翁の花
  ともににほひて
がある。



   
平成十八年四月号


  水のべにをりて冬日の反映をしばらく受くる
  吾と柳と(形影)
 千葉県の利根川のほとりの町木下(印西市)での作。門人横尾忠作氏らの案内で訪れ、この歌の他に
  あたたかき水の光や利根川のほとり音なく冬
  の日旱く
  対岸の砂におりたちて鷺あゆむ遠くに見ゆる
  楽しきかたち
など六首を残してゐる。
 やうやく老境となつた作者が利根川の水辺に降り立ち、その水から返つてくる光を浴び、内に動く感情を詠つてゐる。川に近づいて強く感ずる水の反映であるから、内にこもる寂しさのやうな感情が照らし出されるのである。しかもその反映は感情のない傍らの柳も浴びてゐる。老境の寂しさを照射されてゐる人間と無感情の柳の木とが対比されて、殊更老いを迎へた人の孤独感が強調される。自註に「平安の中にある孤独感が出ているだろう」(及辰園百首)と言つてゐる通りである。



   
平成十八年三月号



  六尺の牀によこたへて悔を積むための一生ひとよ
  ごとくにおもふ(開冬)
 第十歌集『開冬』昭和四十五年「某日」と題する一連にある。このあたりの歌は殊に充実してゐて一首一首読み応へがある。
 人はベツドなどで静臥、休息するとき、改めて自身を省みる。そしていくつかの後悔の思ひがよみがへつたりする。作者もあるとき、さういふ悔を続けてゐる自身に気付くのである。そして一首の深い詠嘆となつてゐる。何しろ「悔を積むための一生ひとよのごとくにおもふ」といふ自嘲に同感させられ、一読心打つてくる歌である。
 技法の上では、自註で「一生を振り返つて後悔の連続のように思われるというのは哀れではないか」と言つた上で「『六尺の牀によこたへて』と、その時の状態を言つたから詠嘆の語気を帯びたのである。」と言つてゐる通りで、かう一言つて真実感が出、短歌の表現の妙味がある。
 「六尺の牀」といふ言い方にも、悔を「積む」といふ言い方にも、愈愈作者のものとなつた漢詩的な語法が窺へ、一首の格調を高くもしてゐる。(「愈愈」は原作では正字体)



   
平成十八年二月号


  冬至すぎ一日ひとひしづかにて曇よりときをり火
  花のごとき日がさす(開冬)
 冬至は一年の窮極の日であり、北半球では正午の太陽の高度が最も低く、また昼が最も短い。十二月二十二日ごろである。その冬至がすぎたある一日、静かに時がすぎつつ時折火花のやうな日差が雲を切れて差すところである。
 鋭い光を「火花」と言つて、その頃の光、雰囲気・気配のやうなものを一気に捉へてゐる。冬曇だからあたりを妙な静寂が篭めてゐるのでもあるし、そこに冬至をすぎたばかりの思ひきつた斜光が曇からもれて差すわけだから、「火花」が説得力をもつ。
 一首は極めて具象的であつて同時に天象の摂理を象徴してゐる一首と言つてよい。いはば「気の写生」に成功してゐる作として私は注目してゐる。作者は「一つの到達点のように作者自身思つた」(及辰園百首)と言つてゐる。



   
平成十八年一月号


  旱天の冬の屋上に飼はれゐるものにおどろ
  く鵜の眼は緑(開冬)
 昭和四十五年、一月の歌。歌集『開冬』はこの年から始まる。年末から年始にかけて冬の旱が長く続き新聞テレビなどのニユ―スにもなつた。この歌の混じる「冬旱」一連はさうした天象を機敏に添景にしてゐる作で、歌人佐太郎の感覚の鋭さを改めて感じさせる。
 旱天が異常につづくある日、ビルなどの屋上で、飼育されてゐる鵜に出会つて、こんなところに鵜のやうな鳥が飼はれてゐるといふ意外性に率直な驚きを感じてゐるところ。しかも近くで見るからその鵜の眼が緑色だといふことも発見して、感慨を一入にしてゐるのである。旱天といふ条件の下だからこの「鵜の眼は緑」が一首の世界を鮮やかにする。旱の空気や光まで感じさせるのである。
 『開冬』が刊行されたとき、この歌の鑑賞に当つたある歌人が、ものに驚いた時に鵜の眼が緑に変るやうに受け止めて物議をかもしたが、実相に観入すればさういふ解釈は成り立たない。どんな生物も恐怖などで目の色が変るといふことは有り得ないからである。



   
平成十七年十二月号


  わがための日あり夜ありとおもふこと老い
  てやうやく心にぞしむ(形影)
 昭和四十四年歳晩の歌。めぐり来る日も、夜も、すなはち残年となつて迎へる日々はみづからのためのものでいよいよ尊い。決して無為に過ごしてはならない、といふことにならうか。必然的に周囲も作者の存在を認めて、作者を中心とした日夜が展開されるのでもある。言葉を延べてゆつくり表現してゐるから、何か崇高な味も出てゐる。
 考へてみれば、若いときは社会や家族のため、即ち自身以外のためにほとんどの時間を費やすのが人の常である。無駄な時間の浪費も少くないが、わがための日であり、夜であるといふ訳にはゆかない。老いを自覚したとき、残された自身のみの為の時間をいかに生きるかが問はれもする。だからこそかういふ感想があるといふものである。境涯の声が響いてゐる。



   
平成十七年十一月号


  崩壊のあとの石塊にしばし立つ虚しきもの
  は静かさに似る(形影)
 昭和四十三年歳晩から歳首にかけて東南アジアに旅行し、アンコ―ル・ワツト等を見、バンコク、台湾などを見てゐる。この一連は「雑歌附載」として歌集ではその年の最後に載せられてゐる。自註で「ここに外国詠が入るのを好まないのだが、経験にしたがつて歌ができたのである」(作歌の足跡)と言つてゐる。だから「雑歌附載」といふことになつたのである。
 これら石の建造物は千五百年もの間埋もれてゐた。「静かさ」より「虚しさ」に作者の思ひはあつたから、下句の表現がある。すなはち単に旅の矚目として歌つてゐるのではない。日常感覚、生活感情として対象を見てゐるのである。それにしても長く埋もれてゐてあらはとなつた遺跡に対して「虚しきものは静かさに似る」は言ひ得てゐる。遺跡だから尊むのではなく、人の感情を刺激してやまない存在であることをさかんに思はせる。一連にある
  旅人はしばらく寂し回廊の濃厚に夕日あた
  れるところ
なども同じである。



   
平成十七年十月号


  南端の海しづかにて秋の日は開聞岳のかた
  はらにあり(形影)
 昭和四十四年十一月、作者は「歩道」鹿児島支部の歌会に臨み、序に薩摩半島に遊び、清水魔崖仏などを見てゐる。この歌は薩摩半島での作で、開聞岳がその先端にそそり立つてゐるから「南端の海しづかにて」と没細部に表現して一気に突出した開聞岳の感じを出してゐる。また孤立する開聞岳が太陽を従へてゐるといふ構図が単純だから、様々なことを想像させもする。山の偉容、一帯の静寂、秋の空と光の清澄等々。それでゐて線が太く、近代絵画でも見てゐるやうな明瞭さであるのがとりわけ親しい。この時の作に
  大き山ひとつ桜島日を受けて襞のさやけき
  ゆふべとなりつ
  いにしへの心のにほひ石崖に浅く彫りたる
  塔も親しも
などと言ふ作もある。



   
平成十七年九月号


  高原をめぐる紅葉の朱き山夜の雨はれて朝
  雲かるし(形影)
 昭和四十四年、「鳴子附近」と題する六首中の一首である。みづから註して「鳴子温泉の近くに鬼首温泉がある。そこの高原をめぐる山々は一様に紅葉して赤くなっていた。赤く重く静まっている山に対して雲は軽く感じられた」(及辰園百首)。「私にはこのように対照的に見た歌が他にもある。二つの物の間の関係を見るのが詩の方法である」(作歌の足跡)と言つてゐることに尽きる。
 紅葉の真盛りの山々を「高原をめぐる紅葉の朱き山」は、単純化が見事で、あの一気に紅葉した山々をこれ以上簡潔に表現するのは至難のことである。だから下旬の「朝雲かるし」といふ発見が強調されてひびく。紅葉の重厚と対照的な朝雲の軽さとが相響きあつて読むものの心をも爽やかに且つうきうきもさせる。
 作歌者が自然とどう対峙するか、自身との関係をどう位置付けるかなど様々を悟らせてくれる一首である。



   
平成十七年八月号


  鳥雀てうじやくのごとたあいなく秋の日のいまだ暮れ
  ざるに夕飯ゆふいひを待つ(形影)
 はやばやと夕食を待つ自分を客観、自嘲して「鳥雀てうじやくのごとたあいなく」と言つて、ある境涯となつた人の哀れとそれを超えた心境とが限りなく思はれる。生活実態としては自註に「その頃は健康のために昼食を軽くしていた。秋の日は短いのにその秋の日の暮れないうちから夕飯が待たれるというのである」と言つてゐる通りで、やうやく迎へた老いの影がのぞいてゐるところである。この「鳥雀」といふ一連には
  午睡する老いし形を妻はいふみづから知ら
  ぬあはれのひとつ
もあつて、この頃から、「老い」をむしろ迎へ撃つて、歌に新境地を出さうとする傾向が見える。



   
平成十七年七月号


  さはやかに心あらんとからうじて善につな
  がる一日をおくる(形影)
  何もせず居ればときのまみづからの影のご
  とくに寂しさきざす
などといふ歌と共に「形影」と題する一連にある。おそらく様々なことがあつて、「爽やかな心」で過ごさうと決意し、その通り実現できた、しかししみじみ顧みれば、「からうじて」といふ実情であつたから、この感慨がある。自嘲的であるのがまた人間的でいい。だから「善につながる一日」が人の心に抵抗なく、むしろ一寸した面白さ、気の利いた短歌的な表現として説得力を持つ。とにかく一首は親しい。
 歌は微かと言へばかすかな心理の動きを、やや誇張して「善につながる一日をおくる」と言つていきてゐる。かういふ世界も佐太郎短歌の一つの特色である。「善」などといふ言葉は使ひ方によつて厭味にもなるが、ここでは十分に抑制して使つて、あざやかに働いてゐる。
  善を積みしごとくおもへばはかなしや酒の
  まぬわが一日終る(開冬、昭和四十七年)
といふ例もある。 



   
平成十七年六月号


  限りなきところをわたりとどきたる宇宙の
  声ををののきて聞く(形影)
 昭和四十四年作。
  薔薇咲きて小鳥低くとぶ楽しさはかつても
  見しか老いて今日見る
などといふ歌と共に「薔薇」と題する一連に在る。当時米国とソヴイエト連邦とが競ひ合ひ、宇宙ロケツトの開発をしてゐた。この歌はソ連が一歩先んじて有人人工衛星の打ち上げに成功し、世界最初の宇宙飛行士ガガ―リンが「地球は青かつた」などといふ声を伝へてきたところである。このやうな科学の進歩に作者は戦慄したから、率直に「宇宙の声ををののきて聞く」と言つてゐる。この新しく且つ複雑な素材を自身に引きつけて極めてシンプルに、結果として暗示的に言ひ得てゐるのがこの歌の良さである。
 この歌は小学校の国語教科書の教材となつたが、この声は宇宙人の声だと受け取る子供の感受をむしろ作者は喜んで容認してゐた。自註に「(その後アメリカが月面着陸に成功したから)月面の声として受け取る人があれば、そう受け取ってもらってもよい。適当に単純化が出来ている」(作歌の足跡)と言つてゐることと関連する。



   
平成十七年五月号


  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年の心を
  照らせ(形影)
 昭和四十四年初夏、作者は六十歳の還暦を迎へるに当つて、同じく同年で心置けない門人赤城猪太郎、薩摩慶治らと五紀巡游・西国諸寺巡拝の旅をして三十三首の歌を作つてゐる。この歌は最後の訪問地観音正寺での作で、そこから微かに見える琵琶湖を点景にして、六十年の感慨、心境を暗示してゐる。顧みて満足すべき半生と言つて良いだらうなどといふ思ひがのぞいてゐるやうに思ふ。それは同行の同じ還暦の二人も、この六十年間苦難を乗り越えて立派な仕事を成し遂げてゐるから、俗に言へば御互ひの健闘を称へ、以後の人生に期する思ひを籠めてゐるだらう。「六十年の心を照らせ」が何しろ思ひ切つた詩的な感受であり、表現で独自性が高い。
 その「序」に「明の高青邱は詠じて『人生百年の寿、六十未だ晩しとなさず』といつた。四日の游行終れば新しい四十日の出発がある」とある。この歌は五年後にここに歌碑と成つたが、その時薩摩慶治氏は病没して居り、十年後にはこの歌碑が火災に遭ふといふ運命をたどつてゐる。



   
平成十七年四月号


  黒き鯉赤き鯉むれて寄るみれば身をそばだ
  てて人に親しむ(形影)
 やはり「飲食」と題する一連のなかの一首である。真鯉や緋鯉は人に飼はれて餌を貰つて生きてゐるから、人が来れば条件反射で人に寄つてくる。遠くから一斉に群れてきて、犇めき合ふところである。その様を「身をそばだてて人に親しむ」と言つて実態を活写してゐる。
 人間の都合にしたがつて飼はれる鯉らは哀れでもあり、こころよい光景でもない。しかしそんな主観はこの一首には無く、とにかく現実の一角を切り取つて濃厚に描いてゐる。実質だけがあつてその重さを感じさせる。従つて暗示的であり想像力も刺激する。
 何しろ一首の表現が鮮やかで、短歌にはかうした「上手さ」が必要だと改めて思はせもする。



  
 平成十七年三月号


  わが庭の土に埋めし大き石をりをり思ひい
  でて弔ふ(形影)
 昭和四十四年春頃の作。「飲食」と題する一連の最初にある。「大き石」だからそれまで庭の景観に一役買つてゐたもので、作者並びに家族にとつては何らかの思ひがこもつてゐる石であるに違ひない。しかし戦後の住宅事情等の理由で、土中に埋められる運命になつたのであらう。そんな石だから「をりをり思ひいでて弔ふ」のである。
 それにしても、無機物に過ぎない「石」を「弔ふ」とまで言はしめたものは何か。自註によれば「一旦埋められた石は、再び日を浴びることはないだろう。罪ふかい行いだといえば言ってもよいから、『弔ふ』と言った」(作歌の足跡)とある。すなはち此石は地上にあつてはじめて存在感のあるものと認識してゐる。それを無にしたわけだから「罪深く」感じ、をりをり思ひ出しその償ひの為弔ふ、と言ふのである。
 かうして「石」には作者の深い感慨がこもつて無機物が単なる無機物ではなくなる。佐藤佐太郎といふ歌人の「写生」はこのやうな感受性を背景としてゐたのである。その作品傾向の一典型を示してゐると言つてよいだらう。



   
平成十七年二月号


  ゆふぐるるまへの明るさ一日の塵かうむり
  て雪乾きをり(形影)
 昭和四十四年「春雪」と題する五首の歌の内の一首。他に
  春の雪ゆたかに降れば三昼夜ひたすら融け
  て音とどまらず
等があつて、際立つて心打つ一連と言つてよい。
 残雪が方々に見える夕方、いくばく周囲が明るく、塵などを黒々と載せた雪が堅くなつてゐるところである。「塵かうむりて雪乾きをり」と言つて、粗い空気などが思はれ、荒涼とした都市の一角を感じさせもする。
 「雪乾く」は普通雪が融けて乾く、といふ意味である。それに対してここでは堅く、ぱさぱさとした感じの「雪乾く」と見てゐる。そこがこの歌の新しさである。即物的な言ひ方であるのが却て余情をもたらす。
 この歌には自註も多い。特に随筆『及辰園往来』では、作
者と同じ見方の漢詩の用例を引いて、古今の詩人が「常識に
とらわれずに物を見ている」例としてゐる。



   
平成十七年一月号


  真上より光さしくる石壁のしづかさ石の吐
  く霧うごく(形影)
 昭和三十三年の歳晩から歳首にかけて東南アジアに旅行し、アンコ―ル・ワツトなどを見た後、帰路台北に寄り、タロコ峡谷を詠つた作である。自註で「峡谷はおいおい狭くなって、いわば一枚岩のような大理石が切り立っている」(作歌の足跡)とその情景を説明してゐる。一枚岩のやうな石壁で、しかも大理石だから、「真上より光さしくる」といふ、誠に的確な表現といへる。さういふところに霧が動いて見えるのは風情と言ふものだが、作者はその霧が広大で冷ややかな大理石の石壁ゆゑに生ずると見てゐる。すなはち「石の吐く霧」だといふのである。自然の荘厳にどつぷりと浸ると共に、その意味するところを堂々と捉へて自身の世界とした。
 このタロコ峡谷そのものを讃へて作者自ら「山脈の裂け目にできた断崖はその規模において、その石壁の美しさにおいて、日本はもちろん、中国本土でも見られないものだろうと思って感歎したのであった」(同書)と言つてゐるが、この讃嘆の思ひはこの一首にも溢れてゐる。  



   
平成十六年十二月号


  茫々と潮けぶりたつ遠渚人とほなぎさをおもへば聞こ
  ゆるごとし(形影)
 昭和四十三年十二月に茨城県東海村を尋ねたときの作。当地の門人塙千里氏の案内で少年時代に十三詣りをした村松虚空蔵尊をも参詣し、
  ここに立ちここに詣でし少年は老鈍となる
  加護かうむりて
といふ歌を残してゐるところである。続いて村松晴嵐碑のある砂浜に遊び、この標題の一首がある。作者は近くの漁港平潟に幼年、少年時代を過ごしてゐるから「ふるさと」の近くの浜である。当然感慨は一入である。その思ひは下句の「人をおもへば聞こゆるごとし」に端的に出てゐる。     
 「茫々と潮けぶりたつ遠渚とほなぎさ」は長く心に沁みてゐた景観であるやうに思へる。さうして考へれば「人をおもへば聞こゆるごとし」の「人」は、過去の人、例へば十三詣りに伴つた母親などであらうか。あるいは少年の頃から心離れずにゐる、係恋のやうな存在の人であらうか。さう思つてこの一首に向つてゐると上句が暗示的であり、下句がとにかく想像を豊かにさせる。



   
平成十六年十一月号


  われをてず相伴ひし三十年妻のこゑ太く
  なりたるあはれ(形影)
 やはり「海鳴」一連七首のなかの一首で「某日、妻の誕生日に当る」といふ詞書があるから、千葉県白浜の仮寓で過ごされた十二月十一日(夫人生日)の作であることが分かる。歌人佐藤佐太郎が歌人専一に励むために夫人の内助外助の力は甚大であつたから、常に作者は感謝を忘れなかつた。たとへばこの一首の生れた仮寓も夫人の才覚で出来たものである。ここで多くの秀歌が生れたことを思へば上句の「われをてず相伴ひし三十年」には常識を超えた思ひが込められてゐる。さうして改めて気づけばいつのまにかその妻のこゑが太くなつてゐる、つまり老いて来たと言ふのである。「あはれ」といふ詠嘆には労り、感謝、永い結婚生活の感慨等々もろもろが響き、この一首の前に長く人を佇立せしめる。「妻のこゑ太くなりたる」といふ実の把握が核心を突いて、一首は非凡である。
 上旬が常識を超える言ひ方であることを踏まへて、自ら「私は修辞としてこう言ったのではない」〈及辰園百首〉と告白してゐるがこの上句と下句の兼ね合ひが誠にうまく、これによつて普遍化され、人問全てに共通する真実の発見その詠嘆となつてゐる。



   
平成十六年十月号


  海の湧く音よもすがら草木と異なるものは静
  かに睡れ(形影)
 「海鳴」一連七首のなかの一首。千葉県白浜町の仮寓での作で、それぞれの作に「某日、強風不息」「某日、晴喧」「某日、妻の誕生日に当る」などといふ詞書があり、この歌には「幼児喘を病む」とある。
 海の湧く荒い波の音が夜もすがらしてゐる。さういふ夜、伴つてゐる幼子は喘息の発作を起こしその痛ましい喘鳴ぜいめいが一晩中聞こえるのである。自然の成すがままの草木と異なる、愛しい孫の病の音は、「海の湧く音」よりも当然切実に心に響く。そして幼子を静かに眠らせてやりたいものだといふ詠嘆は心に満ちてくるのである。
 それにしても孫の幼女を哀れんで、「草木と異なるものは静かに睡れ」といふ表現には飛躍がある。この飛躍がこの一首に不思議な翳を添へてゐる。「このころはおもむくままに赴いて歌に遠韻が添うようになった」〈及辰園百首〉と自ら言つてゐる「遠韻」と言ふべき響きがあつて、従来の「写生」の歌を超えてゐる。



   
平成十六年九月号


  あるときは幼き者を手にいだき苗のごとしと
  謂ひてかなしむ(形影)
 たまたま抱いた「幼き者」は後に後継者として迎へ入れた孫娘である。わが子が幼かつた時と違つて、孫の場合はすべて客観できるから、見方が精深になつてこのやうな感慨になつたのである。久々に抱く幼子はまさに「苗」のやうに、一方で庇護を必要とするはかなさを持ち、その一方で限りない未来を持つといふ強さも持つてゐる。さう思ひつつ愛しくてならないところである。
 それにしても孫の幼子を抱いて「苗のごとし」は一見奇抜な比喩に思へる。しかし作者は自註で「『苗』はまだ幼く弱いもの、独り立ちの出来ないものである」(及辰園百首)と言つて、「苗」に特別な意味を持たせてゐない。幼子といふものは、「苗」のやうに大人の庇護が必要なものだと改めて感じ入つて憐れんだといふのである。
 しかし、意表を突くやうに「苗」と譬へてゐるのを見て、大方の読者は作者の自註以上のものを感じる。比喩に意外性があり、それを支へて感覚的に言へてゐるからである。



   
平成十六年八月号


  夕光ゆふかげの空にひとたびまぎれたる遠雪山の光る
  ゆふぐれ(形影)
 「歩道」の会員の一人であつた松山茂助氏の歌碑が郷里飯山市に建つてその除幕式に参列し、序に戸隠に遊んだ時の歌である。従つて「遠雪山」は晩春の日本アルプスである。雪山だから、その上を越えて日が沈まんとするとき、まぶしさにしばし紛れる。やがてその日が沈んでしまふと、雪山が再びくつきりと聳えてくる。時問的な変化を踏まへて対象の美しさ、自然の荘厳を鮮やかに捉へてゐる歌である。
 表面上は、「夕光ゆふかげ」といい「ゆふぐれ」と言つたのは、「少し変化した方がよかった」(作歌の足跡)と自ら反省してゐるのはその通りであらうが、私などには却つて豪放な感じが出てゐるやうにも思へる。少なくとも一読大景が目に浮かぶから気にならない。その時の作に
  晩春のくれがたのそら近山の戸隠くろく遠山しろし
といふ対照の面白さを詠つてシンプルで鮮やかな作もある。



   
平成十六年七月号


  夕光ゆふかげのなかにまぶしく花みちてしだれ桜はかがやき
  を垂る    京都二条城    (形影)
 花の咲き満つる枝垂桜を夕光の中で見てゐるといふ一首の構図が先づ非凡であり、だからその核心を感覚的に一気に伝へる「まぶしく花みちて」が満開の枝垂桜の雰囲気を相乗的に感じさせる。さうしたもろもろを受けて「輝を垂る」といふ潔く且つ堂々たる核心表現が一首を締め括つてゐる。
 芸術作品の傑作は人の沈黙を要求するといふ言葉があるが、この一首などまさにそれで、あらゆる論理の助けを寄せ付けない。多くの人は一首の世界に納得してただただ諳んずることになるのである。
 自註で結句について杜甫の「千朶万朶枝を圧して垂る」、李白の「輝を垂れて千春に映ず」をあげ「私は後塵をこうむつたことに違いはない」(及辰園百首)と言つてゐるのは謙遜である。この頃からかういふ現実に接すればおのづから「輝を垂る」と言ふ表現の出てくる歌境に作者は到達してゐた。その到達はこの一首のみでは当然なく、歌集『形影』の大きな特色をなしてゐる。
 また、この歌が深い伝統を踏まへてゐる京都での作であること、ここに案内した佐太郎短歌の篤い理解者がゐたこと、さうした影もこの一首には感じられる。



   
平成十六年六月号


  寺庭にのこる雪をぬきいでて紅梅こうばい一木ひときさく
  偈頌げじゆのごとくに(形影)
 昭和四十三年四月に永平寺を訪れての作。残雪をぬきいでて折しも紅梅が咲いてゐる。常識を越えた何とも暗示的な景観である。さういふ邂逅を喜びつつ作者は禅僧の悟りの境地を韻文で表した「偈頌」を思つたのである。道元を若いときから読み親しんできてゐた作者には当然の連想であつた。「偈頌」は音訳の「偈」意訳の「頌」とをあはせたもので要するに「偈」と同じだと辞典にある。「偈」は経典の中で「詩句の形式をとり、仏徳賛嘆や教理を述べたもの」(日本国語大辞典)である。作者が一歩進んで悟りの境地と受け止めたのは短歌の実作者だからである。
 結句の飛躍がこの一首を非凡にしてゐるが、自註に「私の結句もまた偈などのようにひびくところがなくもあるまい。こういう表現も写生のうちである」(及辰園百首)と言つてゐる。「写生」を心がけるからこのやうな表現になるのでもある。つまり教条ではなく悟りの境地としてひびくといふことである。『正法眼蔵』第五十三「梅花」には「忽ニ開花ス一花両花、三四五花無数花、清不可誇、香不可誇」といふやうな鮮やかな詩句が見える。あるいは作者の胸中を過つてゐたかもしれない。



   
平成十六年五月号


  篁の常にて幹の寒からんそのなかに積む雪を
  悲しむ(形影)
 雪の深い新潟にあつて門人の死を悼みつつ周囲を見るとき改めて自然の深刻が作者に迫つてきたのであつたらう。雪の積む篁もその一つで、竹林はもともと寒々としてゐるがその中に雪が積もつてゐれば余計寒々しい。「雪と竹の掛算のような寒さが見えた」(作歌の足跡)と自ら言つてゐる通り、そこに漂ふ気配を感覚的に捉へて一気に核心に迫つてゐる作である。いはば目に見えてゐる竹林と雪とから目に見えない「気の写生」をしてゐる作として注目される。
 また、自註によれば五十年以前の幼年期の体験がこの感傷を誘つたことが解るが、それだけではなくこの時の「人を悼む」心境も深くかかはつてゐたであらう。結句を強く「悲しむ」と言つたところにそれが現れてゐる。この一連には他に
  さかひなく雪おほへれば青き幹たてし篁のな
  かにもつもる
といふ作が先行してある。「青き幹たてし篁」がいいし、かうした独創的な把握は深い雪を背景にしてゐるから出来たのでもある。  
  


   
平成十六年四月号


  波さむきみぎはの砂はあなあはれ雪にほとびて踏
  みごたへなし(形影)
 昭和四十三年の作。「二月十一日、新潟における中浜新三郎氏追悼歌会に列す」といふ詞書が添へられてゐる「雪渚」十二首中の一首である。一方が荒海、一方は積雪の深い浜辺に立つて、その潮と雪がせめぎ合ふ汀の砂はふかふかになり、「踏みごたへなし」といふ状態に成つてゐるといふ。自然の摂理に「あなあはれ」と言ふより他に言葉がないやうな感慨を抱いてゐるところ。限りなく未知の輝く現実を暗示する一首である。かつて作者は「塩しみてかたき砂浜」(群丘)といふ経験をし、昭和十八年茂吉と共に箱根に過ごしたとき
  わが友とただ二人ふたりにてとほりたるほとびし
  赤土はにをおもひつつ居り  茂吉(小園)
といふ作に出会ひ、乾いてゐる土について「ほとびし赤土」といつた「表現の秘密」について悟入してゐたから、この一首があると言つて良い。だからこの歌に自註して「私は経験の蓄積によってそれを知っているから見ることが出来たのである。見るということにはこう言う働きもある」(作歌の足跡)といふ言葉は重い。



   
平成十六年三月号


  冬の日の入りたる後に海ひろき梶取崎かんどりざきは木々
  の葉ぞ照る(形影)
 昭和四十三年の立春に紀伊勝浦に遊び、那智の滝を見、続いて捕鯨で有名な太地に赴き三首の歌がなつた。その中の一首である。その地出身の由谷一郎氏らが案内をしてゐるから安らかな気持ちでこの小旅行をされたであらう。その気息がこの一連にはある。
 冬の日が沈んだ後、とりわけ海が広く感じられて、作者の立つ梶取崎は照葉樹の葉がことさら光り照るのだ。かう言つてこの岬の特色を一気に捉へてゐると共に、妙な静寂と作者の心中に満ちる一日の充実感のやうなものまで感じさせる。一首の言ひ得てゐる響きがそれをもたらすのであらう。梶取崎を形容して「海ひろき」と言つてゐる。この何でもないやうな枕詞のやうな一句がこの一首を引き締め、豊かな情感を醸しだす働きをしてゐる。



   
平成十六年二月号


  冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく
  那智の滝みゆ(形影)
 青岸渡寺の庭に出ると堂々と流れ落ちる那智の滝が見える。それだけでも壮観だがその滝は、思ひがけないことに風に傾いてゐるのだ。自然の相の不思議に讃嘆の声をあげて居るところ。かう言はれてわれわれと生活を共にしてゐる周囲の自然相は、極め尽くせない魅力を蔵して居ることが改めて思はれる。百メートルもある滝は滝壷に近づくに従つて水が霧状になるわけだから当然あり得る光景だ。それを一歌人として初めて発見し、このやうに表現してこの一首の存在価値は重いのであり、人口に膾炙されてゐる理由でもある。
 この歌について「秀品であればあるほど写生の歌の限界を感じてしまう」「〈滝の修羅の響きと超越的な清浄感は〉この上なく霊妙なデーモンであるが、その滝のいのちをしかと**みきつているとはいえまい」(平成十五年度「短歌年鑑」前登志夫)などといふ批評は「ないものねだり」といふものである。那智の滝に「デーモン」や「いのち」を感ずるのならさう感ずる人が鮮やかな歌を作つて示めせばよい。この作者は自然の一角の面白さを限りなく感じてゐるのである。言ひ得て、暗示性ももつてゐるのである。(秋葉四郎)
 **「掴」は原作では正字体



   
平成十六年一月号


  沼のべの村のしづかさ残汁ざんじふを護るしじみも風に
  乾けり(形影)
 昭和四十五年七月、青森県竜飛崎に歩道青森支部が中心となり、佐藤佐太郎の最初の歌碑が建つてその除幕式に先生も参加された。その翌日、会員有志と共に下北半島の尾駮沼方面に吟行をして、作られた五首のうちの一首である。私も同行したが七月とは言へひどく寒く、風も強く吹いてゐた。出会ふ人も殆どなく、葦が深く茂つた沼また沼といつた平坦なところをどんどん進み、太平洋の砂浜まで出て時を送つた。
 作者は沼のべにことさら大粒の蜆が売られて居るのを機敏に見て、既に蘇東坡の詩で知つて居る「残汁を護る」蜆の実景に深く感動し哀れも感じたのだ。貝の類が水や潮から離されて生き延びるのは、その貝の中の残汁を護る、すなはちその貝の内に水や潮を蓄へてゐるからだ、といふ観入は鋭い。蘇東坡の発見を生かし、和讃してゐるところに一首の風格も出てゐるが、自註にある通り、かう言つて荒涼とした沼のべの村の感じが捉へられてゐる。一連には
  はや風になびくを見れば葦ふかしひそみて
  まれによしきりが鳴く
などといふ作もあり、ものを見る、ものが見えるといふことを、改めて思はせる。



   
平成十五年十二月号


  海猫は雛はぐくみて粥のごと半消化せる魚
  を吐き出す(形影)
 昭和四十二年初夏、青森支部の歌会に臨み、そのついでに恐山の吟行をし、八戸市蕪島の海猫を見てゐる、その一連の中の一首である。この頃から作者は体調に変化が現れ、好むと好まざるとにかかはらず老境を意識するやうになつてゐた。同時にいよいよ自然の深淵に迫るやうな歌が多くなるが、鶴や白鳥あるいは雁の群、この歌の海猫など自然の一角を形成してゐる生物にも以前より増して熱い視線が注がれるやうになつてゐると思へる。
 歌は、雛をはぐくむ海猫が、雛の消化力を慮つて半消化した魚を与へてゐるところである。それを「粥のごと」と言つたのには、状態の描写もあらうが、それよりも作者の見方の人間性の厚みが込められてゐる。自註で「半消化せる魚」といふ言ひ方に、人に不快を与へない配慮があるといふ意味のことを言つてゐるが(及辰園百首)、さうであると同時にかう言はれて、いかにもものの真実が提へられ、その見方に温かさと深さを感じないでは居られない。一連のうちの
  みづからの位置を守ればまぎれ来し雛をも
  攻むる血の出づるまで
なども切実である。



   
平成十五年十一月号


  暁の部屋にいり来しわが妻の血の香を言ふ
  は悼むに似たり(形影)
  隣室のかすかなる声きこゆれば旅のやどり
  に似たるときのま(〃)

 千葉県の南端白浜の仮寓に、家族と共に年の暮冬至の日まで過ごし、作者が運転をして東京に帰ると夜半鼻出血があつて、そのまま止まらず、入院となつた。以後病院で過ごし、越年し新年の五日に退院してゐる。昭和四十一年の暮から翌四十二年の正月にかけてのことで、五十八歳を迎へた年であつた。
 前の作が入院間もない年の暮の歌で、みづからはおそらく気がついてゐない部屋にこもる血の香を、外から来た妻の言葉によつて改めて知り深刻に思つたところであらう。その心境を「悼む」やうだと言つて意外性もあり、切実でもある。後の作はそのまま越年した新年の歌で、快癒してきてゐるからこのやうな感慨も抱けるのであり、「旅のやどり」が言ひ得、さまざまに暗示する。
 年末年始を病院で過ごすといふことは普通のことではない。それを詩人としての作者が貴重な体験として作品に昇華してゐるのがこれらの作品の面白さである。



   平成十五年十月号



  限りなく稲はみのりてたもとほる村に老木おいき
  の樟の葉は鳴る(形影)

 歌集『形影』昭和四十一年の作。
 十月の光となりて舟かよふ稲田のひまの水路のにほひ
 うちつづく稲田蓮田のなかの水人ゐて水をうごかす音す
などの作と共に「千石沼」と題する一連にある。秋の晴天であり、遅れて咲く蓮の花があつたり、「バツタリ」と呼ぶ堰に水の落ちる音がしたりして、いはゆる名所ではないが意外なよさのある風景として心をとどめてゐるのである。
 この一首は限りなく稲が実つて秋香がただよふなか、目的があるとしもなく通る村には、樟の老木が茂つてゐてその葉の音がしてゐるといふ。稲が実る村と樟の葉の鳴る音はことさらふさはしくもあるし、作者の心を捉へて止まない音であることも納得できる。
 このころから漢詩の世界が作者の歌に影響してくるが、樟の葉の音に心を寄せてゐるのもその一つである。(「樟若葉の音」佐太郎集第五巻百七二貢参照)



   
平成十五年九月号


  いちはやくわかきとき過ぎて珈琲をのみし口
  中の酸をわびしむ(冬木)
 
 歌集『冬木』はこの一首にて終る。当然作者には思ひの深い一首で、自註にも多く取り上げられてゐる。作者は珈琲を愛飲した。若いときからさうであつたが、私の良く知る晩年は散歩のついでに必ず行きつけの喫茶店により、珈琲をのみ、膝上詩をなした。「歌を作るとか文章を書くとか、殊更に頭を使う時にのむ」(作歌の足跡)と言つてゐる通りで、カフエインの働きで心を集中しようとするのである。これは茂吉もさうであつたらしく「斎藤先生がやはりそうだった。先生は更に後年には日本の抹茶を飲むようになった」(同)とみづから言つてゐる。
 それにしても「酸」をわびしく感ずるのは、たまに飲むからだとも言ひ、老境のせゐだとも自ら言つてゐる。珈琲には種類によつても「酸」味のあるものもあるが、いづれにしても自らの境涯と関係付けてゐるからこの一首は生きるのである。この歌は五十六歳の作、次の歌は十四年後の七十歳の作である。
  珈琲を活力としてのむときに寂しく匙の鳴
  る音を聞く(星宿) 昭和五十四年



   
平成十五年八月号


  犬などにけだもののにほひ淡きこと互に長く
  親しみしかば(冬木)

 歌集『冬木』の悼尾を飾る「斑髪」一連にある歌。作者みづからよしとする作の一つで、『及辰園百首』では「動物のうちでも犬などは獣の匂いが淡い方だろう。ほんとうはどうかわからないが、そういう感想をもった。『互に長く』に作者の詠歎即ち主観がある」と言ひ、『作歌の足跡』には「けだものにはそれぞれ体臭があるが、そのうち犬や猫は臭が淡い方である。それは有史以前から人間に親しんでいるからである。必ずしもそういうわけだと限ったものではないかも知れないが、そう思って、『互に長く親し』んだからだと言ったのである。犬が、一方的に親しみ、人問が一方的に親しんだのではなく、『互に』親しんだと言ったのが、歌の味わいであろう。」とやや丁寧な自註が添へられてゐる。
 このやうな身近な真実・人間を中心とした摂理の面白さ・即ち「詩」を発見するのがこの作者の求め続けたもので、加齢と共に深く大きく見得た極致の作であり、みづから認めて当然の一首である。



   
平成十五年七月号


  人煙にまつはり生くる雀らのこゑ埋立に遠く
  きこゆる(冬木)

 昭和四十年の歳晩に近いころ、京葉工業地帯とするため、埋め立てが始まつたばかりの千葉県五井あたりを通つて館山の仮寓へ向ふ途次の歌。
  埋立の砂をたもつと植ゑなめて黄に冬枯れぬ
  弘法麦は
  海ぎしの松をふく風はやければ絶えず余韻な
  き音のするどさ
などの歌と共にある。
 浅海の砂を浚渫して埋め立てるわけであるから、最初の原には生物も近寄ることもなく、ことさら荒涼としてゐる。さういふ中にゐて、雀らの声が人家のあるところに集中してゐることを発見し、改めて彼らが人の営為に寄りかかつて生きてゐることを観入してゐる歌。
 「自然の法則のようなものに眼がむくのはこのころの傾向であった」(及辰園百首)と自ら言つてゐるが、かういふところに、ものの真実があるのであつてこの発見は感動そのものといつてよい。この真実はまた象徴的でもある。



   
平成十五年六月号


  当然のことを哀れむさまざまの動物の声は言
  葉にあらず(冬木)

 歌集『冬木』の最後半の「秋日」一連にある。二万年前の人間も犬などを共生動物として居た足跡が残つてゐるといふ。以来人のめぐりには常に犬や猫、小鳥その他の動物がゐて、多くの場合、人の暮しに忠実に従ひ、人の孤独を癒し、心を豊かにしたりして居る。それが当り前になつて居るのをある時顧みて、動物の声は動物の声だ、言葉ではないと思ふのだ。それはまた当然のことだが、これだけ相親しみ、心が通ひ合つてゐても、言葉ではないと言ふことは改めて思へば哀れである。誰もが同感を禁じ得ないだらう。一首の自註に従へば、京都岡崎の動物園ちかくに一泊して、「何ともわけのわからない鋭く透る声を夜半に聞いておどろいた。それは象の声だということにややしばらくして気づいたが、当然のことながらそれは音で言葉ではない」(作歌の足跡)といふことで具体的には象の声がきつかけとなつてゐる。
 だから愛玩動物に限つたことでは無いが、一首は象徴化されてゐるから人と生活を共にする全ての動物と受け止めるのがよいと思ふのである。



   
平成十五年五月号


  年を経ておもひいづれば湖塩粒々こえんりふりふすなはち鈍
  きこころのかなしみ(冬木)

 年を経てかつて見た湖塩の粒つぶしたのを思ひ出し、その光景もその記憶も寂しいやうな感じだと言つて振り返つてゐるところ。何でもないやうなことが妙にこころにかかつてゐて、即ちそんな「鈍きこころ」をみづからいたむのは詩人の心といふものである。
 「湖塩粒々」が何か意味がありさうだが、自注によつて、中国物産展で実際にみた茶色の粒々の「湖塩」であることがわかる(作歌の足跡)。塩湖から採れ、ミネラルなどが豊富で珍重される塩であるだらう。塩湖の水が蒸発したところに採れるのが岩塩だから、その岩塩を想像しておけば間違ひあるまい。
 それにしても「湖塩粒々」には何とも言へないひびきがある。意味なきところに意味を感じて詩的な感覚に遊んでゐる趣がある。かういふところにも境涯の反映が窺へる。



   
平成十五年四月号


  生まれたるばかりにて危険を知らぬ蠅われの
  めぐりにしばらく飛びつ(冬木)

 これは蠅などが活発に活動する暖かくなつたころの作である。生まれたばかりの動物はどういふ種類のものでも危機意識がない。だから客観的に見られる立場からすれば危なつかしくてならない。さう言ふ生物の摂理を微かだが、誰の日常にも縁の深い蠅に発見し、しみじみと抒情してゐるのがこの歌の魅力であり、また面白さである。作者自ら「感想の背景には昭和四十年二月に生まれたばかりの孫があった」と言つてゐる通り、その年に生まれ、半年ほど成長し、よい季節でもあるから活発に活動し出した孫娘への思ひが一首に重なつてゐる。「孫」だから余計に気がつくのでもあらうし、新たな生命への深い愛もこもつてゐる。
 一見平易なことを言つて暗示性が高いところにも境涯の反映が窺へる。



   
平成十五年三月号


  わが部屋にひそみて年をこえし蠅あたらしき
  糞を机におとす(冬木)

 いはゆる冬の蠅である。それだけでも在来りではないがその蠅が年を越して作者の机に新しい糞を落としたといふ。一種の諧謔をたのしむやうにかう言つて妙にまた新鮮な現実を思はせる。人の営為と共にあるものの憐れ、生あるものの哀れである。詩は遠くにあるのでは無い。ひたすら生きる全ての人のごく身近に輝き響いてゐる。それが見え聞こえるのは「写生」に徹し鍛へ上げた心眼であり、秀耳である。このやうな身近なものに詩的な意味を感じ得るのが作歌上の進化でもある。
 「蠅は生命カの強い虫だからこういうことがある。机の上に青い汁のような糞が落ちていて蠅はまだ生きているなと気がつく。(略)『おとす』が簡潔でいい」(作歌の足跡)とみづから言つてゐる。また、一連に註をして「歌の素材は何でもいいはずだが、日常の矚目でいい歌ができたときは喜びはまた格別である」(同前書)とも言つてゐる。     



   
平成十五年ニ月号


  憂なくわが日々はあれ紅梅の花すぎてよりふ
  たたび冬木(冬木)

 昭和四十年年頭の作。作者はこの年五十六歳になつて、NHKから四回にわたつて「短歌の用語」について放送したり、「短歌研究」に「痕跡」百首を発表したりして意欲的に作歌活動をして居た。
 梅・桃・桜のやうな幾つかの花木は、「争ひ開いて葉を待たず」と言はれる通り、冬枯れとなつてゐる木からいきなり花が咲く。それは誰もが見てゐる事だが、この歌はその後の「花すぎてよりふたたび冬木」だと人の気付かないところを見、且つ言ひ得て鮮かである。花が過ぎて冬の後半となり、意外にまた寒くなつたりするのである。紅梅の一つの状態をつぶさに照らして、真実を捉へてゐるから暗示性にも富んでをり自身を激励する「憂なくわが日々はあれ」も不即不離に一首をもり立ててもゐる。
 作者の張り詰めた精神状態が、言はれればその通りだといふ自然の姿を見事な一首にしてゐる歌である。



   
平成十五年一月号


  地下道を出で来つるとき所有者のなき小豆色
  の空のしづまり(冬木)

 地下鉄の駅のやうなところから地上に出てきた時に、夕映が終つて暮れようとする空を見て、この小豆色の美しい空は、個人的な所有者がない、と改めて感慨にふけつてゐるところ。個人の所有ではないといふことは、広く誰の心をも豊かにする空だといふことでもある。気が利いてゐて抒情性豊かな一首である。
 みづから「歌は奇を弄してはならぬが直観を鋭くしなければなるまい」(及辰園百首)と言ひ、「砂漠のタ映を見て感激したが、その余韻のようなものが残つていてこんな感じ方をしたのであつたろう」(作歌の足跡)と言つてゐる通りで、新しい体験がもともと鋭い感覚とあひまつて、ユニークな作品を生み出してゐる。