〔歩道賞 一覧(S36〜H14) 一覧(H15以降) 作品 S36〜49 S50〜59 S60〜63 H元〜14年 〕

 歩道賞受賞作     

   救 急 車       仲田 紘基


サイレンの常まつはりて聞こゆるはわれ自らが搬送さるる
幾たびも呼ばれ幾たびも返事をす意識みづから確かむるごと
運ばれて病院に入る束の間の景にてあふむけに見し夕あかね
つらければ目を閉ぢしまま会話するかかる怠惰を諾ひて臥す
看護師の入り来てそばに寄る気配折々ありぬ寝ね難き夜半
果たせざる責務のあればベツドにて電話かけつつ涙の出づる
飲み込みしカプセルカメラの明滅にわが腸壁は輝きをらん
転院の決まりてめぐり忙しなきベッドに罪を負ふごとくゐる
病院より病院に行く救急車かく運ばれてつなぐ命か
点滴の管つなぐ手にペンを持ち輸血承諾の署名したたむ
何事も人生経験と思へどもされども辛し腹割かるるは
尿意なきままわが尿の溜りたる蓄尿バッグと共に運ばる
固定されベッドにをれば院内の様も窓外の景色も知らず
何階といふ意識なく臥す窓辺今日も晴れたる空のみを見つ
身動きのままならねども想念は自由にて時に涙こぼるる
わが命支ふる管の美しや点滴の黄と輸血の赤と
体内を幾人の血の巡りゐん病室の窓に月照る今宵
点滴の液がおもむろに尿となる過程すなはちわれの一日
午前二時暗き灯ともり看護師の柔らかき手が触れて行きたり
病める身に蘇りくるものありて妻の優しき声に目覚めぬ
遠く来て日々添ひくるるわが妻よ椅子にまどろむ姿愛しき
かたはらに物食ふ妻の羨しけれ点滴のみに八日経ぬれば
ことさらに快活に声かけられて尿道カテ―テル外しくれたり
わが四肢に纏はる検査器具などの減りて湧きくる気力と思ふ
快復は近くて遠く漸くにナ―スステ―シヨンまで歩みて戻る
点滴棒あひ携へて病棟に遇ふ人およそ表情暗し
病室にからだ衰へて見たる夢楽しかりにしアラスカの旅
運び来し易消化三分といふ食事青菜も蒸魚も飲むごとく食ふ
点滴の管はづされし解放感ありて病院のをちこち歩く
退院の荷を積み込めば心晴れ妻の車に揺られて帰る
 


 歩道賞候補作(作者五十音順)

   山 霧         今給黎恵子

辛夷咲くスタ―トホ―ル雨あがり視界なきまで霧の湧き出づ
振り返り見れば歩みて来しコ―ス忽ち霧に閉ざされてゐる
山々の裾を覆ひて漂へる山霧日をうけ空のぼりゆく
懸命に鴉に追はれし子兎が逃げ切る迄をわれら見守る
二十余年ゴルフ場にし働きて山百合の咲く処の親し
団栗を両手に持ちて喰ふ野栗鼠ゆけば忽ち枝伝ひ去る
慈しみ育てしわが子二人して欝を病みゐる現のあはれ
始末書を書きても会社に残りたる夫を思ふロ―ンを抱へて
辞め得ればいかに安からんわが老いて若きキャディの中に働く
来年は古稀となるわれ今年のみの雇用契約書に署名捺印す


   妻病む         大友圓吉

癌告知受けたる妻は一呼吸おきて小さく余命はと聞く
淡々と医師いひたるもわが妻の余命一年言葉の重し
病巣の一部と医師はもてあそぶさまにシャ―レの肉片示す
検査オペ終へて眠れる妻の手に無音の点滴ひたすら落つる
五十年共に生き抜きここに来て先に逝くのか癌病む妻よ
誤診にて要らざる手術なしたるか治療せぬままに転科せよとは
病状は今日もはかばかせぬままに病舎の窓に夕日落ちゆく
寂さびと厨の辺り蟋蟀の鳴けば思ほゆ病舎の妻を
洗濯は皺を伸ばして日に干せとわれに病む妻苛立ちていふ
病後の妻喜ぶ食事作らんと厨に春の香満たし菜切る


   父母の死        大貫孝子

霙降り視界の狭き山狭に重機ひたすら瓦礫を運ぶ
水とパン持ちつつ父と母さがし変はり果てたる故郷歩む
呆然と瓦礫の前に立つわれに自衛隊員より敬礼を受く
梢まで津波襲ひし梅の木は土埃まとひつぼみほころぶ
怖れつつ棺を開けて水の浸む野良着を見れば確かに父なり
流されし身に着けしもの一枚の下着と指輪に母を確かむ
母植ゑしハ―ブの芽生え葉を摘めばかすかなる香の家跡にたつ
故郷の寺に父母の遺骨置きわれ去りがたく帰り来たりし
大津波に全て流され故郷に残りしものは父母の遺骨のみ
ここに街ありしと後の世の人は語らん町は路のみ残る


   看取る         古賀奉子

あぢさゐの盛りの庭に車椅子押せば夫の表情やさし
追憶の思ひせつなく退職後の日々おほよそを夫病み伏す
いつしかにわが腕力の衰へて抱ふる夫のいよいよ重し
腕力の日々弱まれば手に持たす匙さへあはれ口に届かず
夫看取る介護用品つぎつぎと増えて十余年茫々と過ぐ
病む夫支へ立つとき不覚にもアキレス腱を切りたるわれは
わが入院にやむなく施設に入所せし夫見送る立冬さむく
病室に聞けば心の安からず救急車のおと度々にして
窓外に木枯らし吹けど部屋うちの静かさ二人の余生思はす
杖をつきひさびさに来し美容院髪ととのへばあはれ華やぐ


   老父と猫        鈴木ひろ子

母逝きて十八年か老父と共に生き来し猫も老いたり
知らぬ間に介護保険の手続をみづからしをり卒寿の父は
ヘルパ―と宅配弁当にたよりつつ父は一人の暮しを支ふ
独居の老父のもとにわれ一人一日をかけ車にて行く
早苗田の中に畑の混じりゐる景色このごろ当り前となる
故郷に来てゆくりなく思ひ出づ少女にて父を疎みたる日々
弟が新たに買ひやりし炊飯器父は操作がわからぬと言ふ
造りたる船に試乗しトルコまで行きたることを父の語れる
老いし父に付き添ひミサにあづかれば落ち着き難く時の過ぎゆく
教会にてひざまづくさへ難き父歩みて聖体拝領をする


   凍土高原        畑岡ミネコ

やうやくにアンカレジ暮るる八時頃沈みゆく日を入江に送る
残照の消えゆきしかば遠空にそばだつ青きマツキンリ―は
靄深き森に立つ木々濡れをりて幹に触るれば雪の香のする
岩の上ひとかたまりに群るるトド動くともなく光るおのおの
 *原作では「トド」の「ト」は「胡」、「ド」は「けもの辺に賓」の漢字表記
果てしなき年月の空気籠りゐん氷河崩るる一瞬の音
草のみどり映ゆる山よりフイヨルドに落ちゐる滝の遠く音なし
ゆふづけば泳ぐラッコら影纏ふ解けぬ氷塊浮きゐる湾に
アラスカの海の匂の淡きこと行く先ざきに気付き寂しむ
山川にビ―バ―の巣の夥し組む枝木々の盛りあがりゐて
ツンドラの起伏穏しき高原の草のもみぢの色あたたかし


   葉書          原田 美枝

色あせて文字の薄るる父の葉書すみずみにまで言葉溢れつ
二歳なるわれを気遣ふ父の文読めば自づから涙あふるる
原爆に父の逝ければ何時よりか広島はわが心を占むる
いくたびか帰省の途次に広島の町歩むときわが父の顕つ
仰ぎ見る原爆ドーム何時にても只管に立つかたち寂しく
新型の青き電車が日に光り爆心地近き橋わたり来る
温室に熱帯植物培ひて楽しみゐしとぞわが知らぬ父
母のくれし山本康夫の歌集『閃光』涙あふれて今宵読みつぐ
城址のくろがね黐は原爆に耐へしものとぞ枝はりて立つ
若く逝きし父のおもひを継ぐ母か百歳越えて健やかにをり


   門中墓         比嘉  清

ふるさとの沖縄恋ひて逝きし母五十年忌の近づきにけり
復帰後を知らず逝きたるわが母よこの海一目見たかりにけん
琉球線香焚きつつ古き祖の墓にわれは額づく父母に代りて
戦禍にて収骨ならざる親族の名前書かれし石が祀らる
銃創を負ひて生還せし叔父もはや祀られし一人となりつ
黒御影石に連なる戦没者氏名にわれと同じ名のあり
諦念のこころに仰ぐ基地の空よぎりて高く戦闘機ゆく
生肉と鮮魚の匂ただよへる公営市場闇市に似る
顔だちが沖縄人うちなんちゆにあらずとぞ内地に生まれ育ちしわれは
あたたかき残波岬に紅く咲く寒緋桜を妻と見てゆく



  選考経過           秋葉 四郎

 今年の歩道賞の応募は、四十一編であった。応募作の名前を伏せた作品を選考委員の秋葉四郎、青田伸夫、四元仰の順で回覧し、めいめいが十編を選出した。その結果は別表の通りで、選考委員二人以上が採った作品が候補作で、今年は九人が該当した。この九作品を、さる八月二十七日、歩道発行所に於いて、秋葉四郎を選考委員長として選考に当たった(四元氏は病気のため文書にて参加)。
 全候補作をすべて読みなおし、十分に吟味、検討した結果、三人が採った仲田紘基さんの「救急車」三十首に今年度の歩道賞を贈ることにした。
 仲田さんの作品は、老境の戸口に立った作者が、救急車で運ばれるような急病になり、重症の入院加療生活をする。そうした自身を客観的に凝視し、湧く感慨を詩情豊かに且つ的確な表現で謳い上げている一連で、連作としての手際も、秀でていた。決定後にわかったことだが、作者の仲田さんは二十代の学生のころから佐藤佐太郎に師事し、歌歴が五十年になる作者であった。途中休詠が長かったにしろ、月々雑誌を読むことを怠らず、根本に「純粋短歌」の精神があって、厳しい境涯を作品化できたのでもあったろう。
 比嘉清氏の「門中墓」も力作であった。父母の郷里沖縄を訪う必然性に立って、沖縄を凝視している。父母の郷里の言語なども積極的に取り入れるなど意欲的な作歌姿勢も高く評価できる。
 ただ、全体の作品から迫ってくるものが今一歩なのは、テ―マの強調がやや弱い、連作としての構成も、努力の余地が残っているからであろう。

  受賞の言葉           仲田 紘基

 私か「歩道」に入会して今年でちょうど五十年。この一月に古稀を迎えた節目の年に、思いもかけず「歩道賞」受賞の栄に浴することができ、感無量です。
 五十年とは言っても、初めの四十年は欠詠ばかりで、ただ会費を納めるだけの会員でした。ある時志満先生に「あなたのような会員がいちばんありかたいのよ」と皮肉まじりの冗談を言われたこともあったほど。全国大会や東京歌会など、佐太郎先生から直接ご指導をいただく場はいくらでもあったのに、せっかくの機会を無にしたことが悔やまれます。
 四十年の遅れを取り戻すつもりで作歌に励んだのは、定年退職後のこの十年でした。短歌作者としての実績など何もない私ですが、「歩道マルタの会」で精進を重ね、今ようやく一人前の歩道会員になれたような気がしています。
 受賞作「救急車」は、ほとんど仰向けに寝たままの二週間の入院生活で、付き添う家内に口述筆記をしてもらってまとめました。急病は予期せぬ「禍」でしたが、私を支えそれを「福」に転じさせてくれたのが短歌の力だと思うと、歩道の会員であり続けることの意義を改めて感じます。今欠詠している会員も、短歌のすばらしささえ忘れなければ必ず復活できる。そう呼びかけたい気持ちです。
 歩道短歌会でともに学ぶ仲間たちやご指導にあずかる先輩諸氏、選考委員の皆様に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 

  略 歴(仲田 紘基)

昭和十七年一月七日生(千葉県)
昭和三十八年一月「歩道」入会
住所 千葉県千葉市