平成十六年歩道賞                 


  うそのこゑ           近藤 清子


雪どけの音なごましき昼つ方平癒の祈祷札子らよりとどく
              (祈祷は原作では旧字体)
治療終へ呼び覚まされて半睡のままに気だるき体運ばる
甦ることなき肝と思へれどおのが現のものといとしむ
人の目を気にする事も稀にして病めば己をひたすらかばふ
蜜柑摘む鋏の音が不甲斐なくなりし己に寂しくひびく
独居に長く馴れ来て或る時は子に言ふ言葉選びつつをり
かく老いて得たる自由も或る時は心重たき空しさに似る
負ふものの無き身はむしろ寂しけれひたすら病む身守るのみにて
たまはりし命尊しつつしみて喜寿となりたるこの年送る
雪どけの道に図を画き猪狩りの人ら追ひ込む位置計りをり
熊啄木鳥くまげらの木を打つ音が絶えまなく湖の水面に沁み渡りゆく
榾山の崩れし土に白じろと息づく甲虫の蛹あらはる
朝明けの近づく峡のしづかさや心展きて木菟をきく
打ち続く蓮田は泥の匂ひつつ彩鮮らしく今日の花照る
いま着きし駅の広場に涼しさを展べて噴水の光したたる
日の入りて翳る庭池鯉の背に触るるばかりに蜻蛉来て飛ぶ
山越えし村の花火が地底よりわが家突上ぐるごとく轟く
池の面を覆ひつくせる布袋葵の花の紫とほくけむりつ
近づける台風あれど円かなる月光われの病む部屋に満つ
道の上油ぎるまで暑き日に照る坂下も通院のみち
自動払機の手順違へてうろたふる態もカメラに収まりてゐん
夏過ぎし沼の光に蓴菜の花も巻葉も翳のごと照る
問引きする大根すでに摺りおろす時の辛き香放ちつつゐる
打ちつけに銃声ひびく峡の空発ちゆく雉の声のするどし
家ごもる日々のかすけき喜びに漬物桶を満たし並ぶる
干柿を漁る蜜蜂したたれる糖蜜羽根に絡まり乾く
茶柱のたちしタベはほのぼのとかすけき物に心の遊ぶ
すこやかに過ぎし一日の喜びの切実にして夜々に香焚く
病むわれに死ぬなと涙ながらいふ寡婦ながかりし義妹いもうとあはれ
鷽鳥うそどりの来鳴く朝明け待ちまちしさはやけき声を起き抜けに聞く









歩道賞候補作品(氏名五十音順)



  湖 畔               荒木精子


新冬の湖辺の道はあたたかし空にあふちの黄の実ひかりて
木枯の荒びし朝かいつぶりの浮巣のいくつ波にただよふ
白々と靄たつ湖の水面占め眠れる鴨ら声さへもなし
左目の暗点いつしか広ごりて躓くことの多しこのごろ
薄明の吹雪ける湖をとびたちし鴨らいづこに餌を求めゐん
再びは立つことのなき老母のはかなき骨を映像に見る
音たてて湖面伸びゆく風道の見えゐて白き光のさびし
雪ひかる阿蘇連山をこの朝ひと列の鴨越えてゆく見ゆ
梅雨ふけし湖岸ゆけば紫のたぶの落実がしるく匂へる
季ながく病める夫が親しみし岸辺の合歓の花も終らん





  冬 芽              石井 清恵


戸を繰れば寺庭埋めし黄落を照らして夜半の月傾きぬ
癌病みし後遺症なるあしなへも命のあれば今は嘆かず
海よりの吹く風強き渚村葉のなき枝に夏柑垂るる
病みし時小学生までは生きたしと思ひし娘に今励まさる
降る雨はみぞれとなりてわが庭に咲く臘梅の花黄に透ける
水仙の青たつきほひ見る如し雪は忽ち根方より溶く
枇杷の花満ちて咲きゐる畑なかに暗くなるまで野鳥らあそぶ
大寒といふ感じなく汗ばみて枯れ穂薄は日にかがやける
岬山の急勾配の花畑波濤の荒き海にし終る
沖海に日は傾きて磯原に乾きし若布西風に鳴る





  夕 畑              小田川 芳子


日焼けせしわが顔暑しと思ふまで夕日まともに茄子畑照らす
徐ろに空気冷えつつ小松菜を採りゐるめぐり暗くなりゆく
宮森の静まるタベひろびろと鋤かれし畑土息づくごとし
冬旱の続く丘畑たはやすくたつ土埃遠くまでとぶ
横雲の縁かがやきて夕茜きはまりし頃畑道かへる
降りいづる雨に濡れつつ茄子畑に夫もわれも黙し藁敷く
わが体傾くまでの強風に植田の水は畦に片寄る
低丘の木群芽吹きてところどころ湧きたつごとくわが田より見ゆ
田渋つく手にて釣銭渡しつつわが生業と思へど寂し
行商の一日終はりて夜の床に寝ねんとしつつ長く醒めをり





  雪の嵐              門 祐子


降る雪か地吹雪なるかまがふまで日すがら雪の嵐とどろく
昨日よりの吹雪をさまり晴れし昼雪の匂にひたりて歩む
除雪作業夜を徹しておこなはれん真昼のごとき照明の下
ロ―タリ―除雪車の巻く雪煙に働く人がしばしば見えず
数十台のトラツクに雪をよどみなく積みをりロ―タリ―除雪車は
河川敷にむかひトラツク次々と走りゆきたり雪満載し
除雪してにはかに広くなりし道行きかふ人ら闊達に見ゆ
河川敷に積むひと冬の雪の量三百十万立米といふ
曇日のつづくゆゑにかわが耳のうとくなりたる感じにあゆむ
籠りゐてインタ―ネツトに対ひをりひととき孤独を忘れしごとく





  母逝く              草葉 玲子


下腹部の腫瘍日に日に太りつつ母たどたどと室内あゆむ
母看取る六階のまど荷をさげて姉の来る見ゆ降る雪の中
餅かざり暦をかけし母の部屋ゆく年さびし来る年さびし
新年の病室友にうかららに賑はひ母の饒舌たのし
やがて来る別離と思ふ遠山にあかあかとして夕日落ちゆく
車椅子とめて売店にココア飲む湯気ふく母の背いとほしく
わが知らぬ戦死の父もここにゐる母の目覚めの錯綜さびし
丘の上のホスピス窓に日は満ちて光りつつゆく雲やはらかし
なきがらと帰る夜の空さえざえと星光りゐて三日月清し
会ふ人と母を語れば涙落つ涙はなべて悔恨にして





  冬の駿雨―モロツコにて      鈴木 真澄


ベドウインの通ひし古代の交易路砂漠の入日に鈍くかがやく
まのあたりオアシスあれば棗椰子繁りほとりに麦のかがよふ
黄の砂塵ありありとたちトラツクが行き驢馬がゆく峠の道は
棘つよき木草夕日に曳く翳のしづかに長し冬の荒野は
雨降れば流れのたぎつトドラ谷峡の深きに人の住み継ぐ
城壁のうちにひしめき千年のたつき相似るままに継ぐとぞ
降りやすくはた止みやすき冬の雨路地のぬかるみに鶏の羽浮く
ただ一羽鶏を抱へて売らんとす降る雨の中老佇みて
ひたすらに生くるさまゆゑまつはりて物売る子等の疎ましからず
子等の声壁の内部にしてゐるは学校ありてコ―ラン学ぶ





  オリ―ヴの花           清宮 紀子


晴れ渡る二―スの街の朝市に香辛料の強き香のたつ
地中海の風に揺れゐるオリ―ヴの咲き満つる花一斉に散る
セザンヌの愛しし石灰岩の山サントヴイクトワ―ル夏の日に照る
丈低き葡萄の苗木並ぶ畑続けるかなた山はかがやく
ロ―ヌ河に沿ひて連なる低山の斜面いづこも葡萄の畑
マロニエの街路樹つづく坂の道リヨンの街の雑踏をゆく
収穫のいまだ終らぬ麦畑のロ―ヌ河畔にひろびろと見ゆ
ロワ―ヌのタ茜空午後十時すぎてやうやく終らんとする
犯人の逮捕されたる瞬間を旅のホテルのつれづれに見き
睡蓮の花咲くモネの庭園に初夏の光が時折にさす





  田 植              高橋 緑花


胡桃の木の枝伐りたればたちまちに満つる雫が落葉に音す
雪残る早池峰山の寒風にトラクタ―に掘る田の土匂ふ
水の来ぬわれの田なれば上流の田植終りてより代掻きす
代を掻くトラクタ―とわれ風波に押し流さるる錯覚寂し
風強き午後の田植は荒波に押されて岸に寄る苗多し
田植機の排ガスに寄る虻のゐて気づきてみれば両腕痒し
田植機を操りて一日往き来して後に広がる早苗は清し
是非もなく農を継ぎ来し五十年植ゑ終へし田に早苗がそよぐ
昨日より諍ひつづく妻とわれそれぞれに田に入りて補植す
田の水を止めんと夕べ来し峡の空にひびきて時鳥鳴く





  生                中里 英男
なりゆきは定めと言へど時代より取り残さるる必然を負ふ
山上に今来し道が遠ざかるごとく切実に触れがたき過去
決断をためらふ常のならひにてかくのごとくに一生すぎんか
畳の目ひとつ進みてゆくほどに生きたりしこと心がなしく
ふつつかにすぎし一生と思はんかとりもどすべき過去にあらねど
テレビ見て唐突に湧く涙ありこころの乾く一日の果
うつつなく酔がさむればむなしきに六十年が夢に思へる
雪渓をすべり落ちゆく浮遊感ここち良く知る死のごときもの
つかれつつ眠り風吹く暑き昼ラジオの声の消長さみし
あともどりできねば哀れ命あるものことごとく前方に向く





  ◇◇選考経過◇◇


 今年度の応募作品五十二篇について、作者名を伏せたものを選考委員の、片山新一郎氏、吉田和氣子氏及び秋葉四郎が回覧し、各選者それぞれ十篇づつを選出し、それを持ち寄り去る九月六日発行所において、選考会議を開いた(片山氏は書類参加)。各選者の投票結果は別表の通りで、今年も二人以上が推薦した作品(表中★印)が丁度十篇になつたので、それを候補作として主宰に提出し、主宰の最終選考にも立ち会つてその都度意見も添へつつ、主宰の最終選考を見守つた。(秋葉四郎記)





  ◇◇佐藤志満◇◇


 候補作として推薦のあつた十篇について一読したところ、委員の推す候補作は妥当と考へられたので、この候補作十篇についてその都度選考委員の意見を聞きつつ丁寧に再検討した。その結果近藤清子さんの「鷽のこゑ」三十首に今年度の「歩道賞」を贈ることにした。近藤さんはこの数年大病を患ひ、病と戦ふ日常となつてゐる。さういふ自身を点景としてこの一連の歌はより切実になり、一首一首がより精深になつてゐる。病によつて歌が後退するどころか、むしろ強靱になつてゐるやうに思はれる。作歌を友に生きることの意義を改めて思はせられるやうな一連である。さうして顧みれば近藤さんはこの十年ほどは毎年候補作として注目されてきた。委員も全員が推薦してゐるし、私も今年度最も優れた作品としてこの一連を推す。
 他に表に上がつてゐない作者では、菅千津子さん河野敏子さん安川浄生さんの作品にも注目した。





  ◇◇受賞の言葉◇◇  近藤清子


 思ひがけず歩道賞入賞のお知らせを頂き驚くとともにただ感謝の念でいつぱいでございます。長い年月「歩道」の短歌を学ぶことによつて、どのやうに苦しく悲しい場合でもそれに順応し昇華し得たことを思ひ、私にとつて短歌こそ生きる力であり支へであつたと痛感いたします。そして改めて歩道会員であめることの誇と喜びを痛感してをります。
 この度の拙い作品も歩道会員たる自覚に基づく日々の営みのうへで得たもので、その力をお与へくださつた亡き佐太郎先生と、長くお導きを賜つた志満先生、更に多くの先輩と歌友の皆さんに心からお礼を申しあげます。これからも命の限り正道の短歌を詠みつぎたいと念じてゐますので、一層のお励ましをくださいますやう切にお願ひ申しあげます。
 賞をお与へくださいました志満先生、ご推薦くださつた選考委員の方々に厚くお礼を申しあげ、志満先生の更なる御健勝と「歩道」の発展を心より祈念してお礼の言葉といたします。
 ありがたうございました。


〔歩道賞  〕一覧(S36〜H14) 一覧(H15以降) 作品 S36〜49 S50〜59 S60〜63 H元〜14年