平成十五年歩道賞             


  防犯センサ―          戸田 佳子


空港の管理におつとかかはれば二十四時警察にわが家守らる
細々こまごまとゲリラ対策伝へられいよよ不安に日々わがすごす
警備上不都合あれば庭垣のひばの下枝ことごとく刈る
空港の反対デモの近づきて昼夜の警備強化されくる
わが家のパトロ―ルにて近隣の空巣の被害なしとこそ聞く
真夜中に帰りし夫来合はせし警察官と話す声する
夕づける庭にて萩に反応し防犯センサ―あかりが点る
パトロ―ルにきたとしけし警官がわれの培ふ花愛でて言ふ
巡らされゐる防犯のセンサ―が宵に鳴りをり猫来るらし
朝々の日課に夜間巡回のカ―ド確かむ十年あまり
物々しく思ひしパトカ―わが家にしばしば来ればいつしか慣るる
夜となれば出で入るたびにセンサ―の照明浴ぶる感傷のなく
この町にゲリラ事件がありしとぞ未明の電話をののきて聞く
ゲリラ事件の緊急通報受けてよりまなこの冴えて朝を迎ふる
退職を真近に控へたん々と今朝も夫が勤めに出づる
ガラス壁の塔そそりたちさながらに揺らぐまで空にゆく雲疾し
悔しみの折り合ひつけんと出でて来し寒き川の辺しばらく歩む
成行のことと思へど時を経てわが胸中に消えぬ悲しみ
諧謔として聞きたりし言葉ひとつ帰路ひとしきりこだはりてをり
砂浜のかたき感じを惜しみつつテロリズム生む背景思ふ
苦しみのかくまでなぎて雪柳返り咲きつつ一年の過ぐ
さばさばと吾は見てをり午まへの青き篁に雪降り注ぐ
今朝開き花の輝くかたくりが雑木林の一面に見ゆ
拘束のなき境涯を満たすべく社会人枠にて大学院に入る
はからずも定期券にて通学す五十六歳われ気負ふともなく
散りしける椎の花踏み帰りゆく昌平坂におぼろ月出で
新しき学期の緊張うすれんか樟若葉鳴る湯島を歩む









歩道賞候補作品(氏名五十音順)



  余 韻            石井 清恵


いちはやくもみづる奥多摩御岳山わが喜寿一期の思ひに登る
亡き夫の七年ひとつの区切とも心に思ひ思ひて寂し
寺に嫁し先づ教はりて打ちし鐘五十年やうやく余韻をもてり
反対をおして嫁ぎしこの寺に一念にすぎし年月思ふ
五十年心注ぎて詮のなしわが寺焼けし後の苦を負ふ
夫亡き七年さまざまに過ごし来て逝きたる者をわれは羨しむ
わが内にもつ敗北感もやうやくに老の活力と思ひ生きゆく
とめどなく光をはこぶ夕波は入江の青き葦群に消ゆ
ゆるやかなわが寺の坂半ばにてひととき憩ふまでに衰ふ
わが寺に最後と心に決めて打つ鐘の余韻が躰に沁むる





  能登半島他          井波 紀久子


二階家の隠るるまでの風垣は能登の幾冬越え晒さるる
発電所の排水に養ふこのひらめくらき水槽に張り付き沈む
塩田の砂より滴るみしほとふ濃度ある汐その色うるむ
沈丁花の香にたつところ献体の父の枢をかつて送りし
縄文の遺跡発掘の赤き土に隣りて春耕の人らしづけし
剪定をきつかけとして薔薇の木は目醒めし如く新芽みなぎる
雪覆ふ白山はくさん近しさへぎりのなき頂上の雪のかがやき
残雪の尾根の斜面にさながらに雲の如くに山こぶし咲く
雪解の白く濁りてゆたかなる滝水氷塊とともに落下す
放水のなきダムの谿初夏の日に鳶巡りをりはるか眼下に





  高層病棟           岩前 洋子


二十年経て潰瘍に苦しめど放射線治療に今日の命あり
この家に癒えて帰る日何時ならん春の庭草丹念に引く
独り暮らす夫のために保存食作るなどして家を出で来し
潮退きて石蓴見え来し潟の上餌を獲る鷺のかがよひて立つ
数本の管にて拘束さるる吾に孫は戸惑ひ物言はず立つ
鉛板のごとくなりしが移植後の皮膚にあたたかき血流感ず
易き死のあらば死ぬべく無惨なるわが手術痕見つつ思へり
黒雲の伴ふ怒濤の音ひびく高層病棟海近くして
慌しく入院せしが蒔きし物帰り来し庭に押し合ひ芽ぶく
宵宵に白き花咲く月見草おのづ生ひゐる庭のしたしさ





  阿蘇カルデラ         大津留 敬


逆しまに大観峰をくだり来るつゆ雨雲の先端速し
つゆの雨今し晴れつつ北向山原生林の緑は深し
白々と山の狭霧の湧き出でて馬も黄菅もたちまち見えず
輝きて雲海沈む阿蘇谷の雲のはたてに雲仙岳見ゆ
防火線越えて勢ふ野火の火が杵島ケ岳の頂を焼く
野火過ぎし黒きなだりにいくたびもつむじ風立つ灰巻き上げて
音もなく空にただよふ山焼の白茅の灰は阿蘇谷に降る
朝よりの野火しづまりて阿蘇谷の空に漂ふ灰限りなし
千年の時世を継ぎて氏子らの振る藁の火に阿蘇大社映ゆ
老椋の梢にまとふくれなゐののうぜんかづら花咲き盛る





  春の土            小田川 芳子


地下足袋に踏む土温し籠りより出でて耕す春の畑は
不況ゆゑ売れ滞る菠薐草はうれんさうを日暮の畑にわが刈り捨つる
宮森に染み入るごとき夕映の静かなる頃畑道帰る
朝霧のとどこほる峡田近づけば起こされし田泥底ひに光る
吹く風に体支へて春の田に畦シ―ト張る夕暮るるまで
広々と続く水張田ひかりつつ朝より寒く雨降りてをり
灯の並ぶ午前四時頃高速路を野菜売らんとわが車ゆく
明日売らん筍ゆがく庭なかに甘き香のするたぎつ釜より
高層のビルデイングのひま雲移り静かに東京の空あけてゆく
三十年商ひ続けおのづからそれぞれの客われには親し





  砦 跡            近藤 清子


みち潮に海峡ふくらみ波の間にわが待つ渡船時にかくるる
来島がひとつの城といふ仮説あり高き断崖を擁壁として
築城の石を抱きて百年余落実に染まるもちの樹下は
石積のあらはに残る城砦に落ちゆく潮の鳴る音きこゆ
海に出る日にさきがけて石鎚の峯の積雪くれなゐに染む
立春を過ぎし光に陽炎の影が窓隔てベツドにゆるる
日脚伸びし実感として病院の配膳にほふ夕日の差せば
雲間もるる朝の光に出航を待つ舟あかし焔だつごと
山肌を持ち上ぐるまで石蕗の殖ゑしなだりは光明るし
ひなびたる海辺の村に浜大根淡き紫吹かれて寒し





  御田植祭           坂本 信子


御田植の神事はじまる水張田にあきつ群れ飛ぶかぎろひのごと
夏雲の影おもむろに移りつつ神おはす山青くそばだつ
御田植の神楽の音のきはまりて泥田に人も馬も昂ぶる
容赦なく泥蹴ちらしてまのあたりわれ襲ふごと馬の近づく
鞭のおと乗り手のかけ声するどきに泥しぶきあげ馬駈けめぐる
見る人も暴るる馬もひとさまに御田植祭の泥の香のなか
ほしいまま泥田に暴れ引き上ぐる馬も人らも息まだ荒く
いましがた泥田に暴れ引かれゆく馬のたてがみに泥の乾ける
したたかに馬の荒らしし神田の畦に綱はり田植はじまる
催馬楽の歌ゆるやかに流れつつ少女ら植ゑし苗のそよげる





  廃 墟            鈴木 真澄


黒海の闇の上過ぎイスタンブ―ルの街の灯青く盛り上りくる
うつつなく廃嘘めぐりてまのあたり雲なき空の夕映の紅
石の間の草群しづかに湿り帯び廃墟の町のはやも夕づく
礼拝にモスクに向かふ人群のうちにてこころつつしみ歩む
アナトリア冬の平原家畜見ぬは住居の地下に囲ひ飼ふとぞ
個々の家いまだ点らずつつましき村に平原の寒気のせまる
中世の声の聞こえてくるごとし夕闇せまる石壁のあひ
洞奥に残る壁画の冷えびえと見えつつ青し雪の反映
岩窟の住居の跡が無数にてゼルベの谷に雪降りしづむ
異教徒の迫害のがれ地下深くうがちて三千の民住みし跡





  鞄の黴            清宮 紀子


生徒等の声にも涙もろくなり退職近き日々過ぎて行く
離職にて受けし花束たづさへて父の墓参に母とわが行く
午後の散歩花の水遣りするのみに退職初日たちまち終る
職退けば先づ腕時計無用にて荘々とわが一日暮れたり
職退きしわれら夫婦の共有の時間すなはち夕べの散歩
離任して携帯電話かくることまた受くること無し明暮は
世界的SARS続けば旅行社に勤むるわが子危機迫るらし
午後三時すぐれば昼の静けさにひたすら眠し母のかたはら
食事ごと夫と共に居ることにやうやく慣れて一月過ぎる
おのづから曜日の感覚なくなりて午前も午後もおほよそに過ぐ
使はずになりたる鞄二月  ふたつきの過ぎて黴さへ生えゐるあはれ





  暦 日            原田 美枝


姑を目守り一夜をすごしたる朝梅雨晴の光まぶしも
頭の傷癒えて帰らん姑と寝台タクシ―にわれもまどろむ
目の前の食物を認識せざるまで痴呆の症状姑にみる
雨の予報聞きて急き立てらるるごと芋を掘りをりタ暮近く
内の憂遣らはんとして秋暑き朝早くよりわが化粧する
この家に惚けし姑目守りゐることも縁とわれは肯ふ
朝のなきことを願ひて眠るまでわれの疲はここにきはまる
子の為に長く生きんと言ひゐしが一人の子さへ忘れて久し
惚けたる姑なれど稀々に心通へばそれのみに足る
惚けたる姑目守り逝く日々もわが生のうち縁のふかく





  ◇◇選考経過◇◇


 ことしは応募作品四十篇について、作者名を伏せたものを選考委員の、香川美人氏、吉田和氣子氏及び秋葉四郎が回覧し、各選者それぞれ十篇づつを選出し、それを持ち寄り去る九月五日発行所において、選考会議を開いた(香川氏は書類参加)。各選者の投票結果は別表の通りで、今年も二人以上が推薦した作品(表中★印)が丁度十篇になつたので、それを候補作として主宰に提出し、主宰の最終選考にも立ち会つてその都度意見も添へつつ、最終選考に当たつた。(秋葉四郎記)





  ◇◇佐藤志満◇◇


 候補作として推薦のあつた十篇について検討したところ、今年も群を抜いて優れた作品はないやうに見えた。その都度選考委員の意見を聞きつつ、候補作十篇を丁寧に再検討した。その結果戸田佳子さんの「防犯センサー」と大津留敬氏の「阿蘇カルデラ」が残り、この二作について何度も読み、最終的に戸田さんの「防犯センサー」三十首が今年度の最も良い作品と判断し、今年度の「歩道賞」を贈ることにした。新東京国際空港の管理を任務とされてゐる御主人との関係で、戸田さんの家には防犯センサーが巡らされ、警察官の巡回を常に受けるといふ特殊な生活下に在る。さういふ自身を点景にしつつ詠嘆し、意外性の在る一連になつてゐる。表現には更に努力の余地があるやうにも思ふが、とにかく意欲作であり力作である。さうして顧みれば戸田さんは何年か「歩道賞」の候補となつてゐるから、累積された力量も窺へる。社会人として大学院に学ぶなどの積極的な生き方も作品に及んでゐるやうに思ふ。





  ◇◇受賞の言葉◇◇  戸田佳子


 このたびは歩道賞を賜ることになりまして本当にありがたく存じます。「歩道」に入会させていただいて三十年目の今年、このやうな日本一の賞を頂けることに感慨を覚えます。ある年から積極的に勉強しやうと歩道賞に応募するやうになりました。毎年そのためにテーマを持つて三十首まとめることを課題としてきました。今やうやくその課題をはたしたやうな気持がいたします。
 「防犯センサー」は夫の仕事上の関係からわが家が警察の警備の対象になつた日々を題材にしたものです。今は慣れましたが当初は緊張の日々でした。
 この受賞を支へにまた励みながら、佐藤佐太郎先生門下の一人として恥づかしくない歌を作るやうこれからも努力して参りたいと存じます。
 歩道賞を下さつた佐藤志満先生、並びにご推薦下さつた選考委員の皆様に厚くお礼申し上げます。最後に志満先生のご健勝と歩道短歌会の益々のご発展を祈念いたしまして受賞の言葉といたします。

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