平成二十年歩道賞            



  ☆   天 草        荒木精子





  ☆   母          波 克彦







  天 草                 荒木精子


天草の島を離れず九十五年衰へて病む母の辺に来つ
台風の余波吹きとほる島の田は取入れ近き早稲の香のする
段なして海に真向ふ島の墓処 供花明く―げ  るく孟蘭盆に入る
つつがある母にそひをればぺ―ロンの遠き銅鑼の音が聞こゆる
雨はれて朝かがやく入海に崎津教会の鐘鳴りわたる
視力弱きわれを癒さん海の碧果てなく深し古里ここは
ゆく夏の天草洋の沖遠く飛魚の群ひかりつつとぶ
語りつつまどろみてゆく老母やしばらくの生楽しみたまへ
夕凪ぎし海しろじろと光り展べ秋の蝉なく岬の道は
冷えしるき朝の漁港三和土にならぶ秋鯖の眼すみたる
わが船の後に前にたはむれて躍る海豚の体がひかる
向うへたと呼ぶ島裏に捨てられし墓ありかすかに十字架のこる
その長き光茫は海を渡りゐて秋の夕日のいま入らんとす
新冬の朝のまぼろし海なかに浮き上りたる島々が見ゆ
海恋ふる母を背に負ひたつ窓に冬小波はかがよひやまず
流れ来て砂嘴さしに根づきし浜沈丁冬のひかりに花香り咲く
渡り来て安らふ鴨か干拓の夕日あまねき池にただよふ
島の波止に堆く積む陶石の朱あざやけし時雨にぬれて
曇りたる沖にかすかのあけ  ちてひた荒れし冬の海くれんとす
さむざむと暁に覚めとどろける冬海の音老母と聞く
かすかなる砂嘴さしの平にかたまりて水仙の咲く風に匂ひて
海光の差す病室にながく臥す母はいつしか言葉忘るる
海崖をおほひなだるる寒菊の黄の色おぼろ冬の入日に
この宵は月の明るし母覚めて帰らんとするわれを目に追ふ
海苔粗朶にひたひたと寄る夕潮の音のかそけさ寒明けのころ
先駈けの四羽の鶴が帰りゆく今日立春の天草の空
日もすがらまどろみをりて夢現の境にいます母と思はん
初午を祝はん島の蛇踊りがうねりつつゆく海沿ひの道
来ん春のあこがれのごと黄にみちて青文字の咲く海のひかりに
島間のせまき運河をひびきつつ差し上りくる春の潮は


  母                   波克彦


一時帰国し疲れ癒やさんと来てゐたる宿にし母の訃報が届く
危篤といふ報らせ無きまま母の逝くはらから一人も看取ることなく
あかつきの新幹線にてわが着けば病室に母既に冷たき
かつて見しことの無きまで安らけき顔にて亡き母さながら眠る
眼開け今に起きんかと思ふまで亡き母の顔かすかに笑まふ
カテ―テル治療に堪へし母思ふ今や痛みの無けんわが母
四日前に見舞ひ喜びくれし母唐突に独り病院に逝く
食ぶること患者の務めと病む母に諭しきは四日前にありしか
ひと月後に帰国し再び会ふことを言ひて別れき最期の言葉
二時間前まで看取りゐし姉と妹と母の側離れしことただ悔やむ
亡き母の歌集をあらため読み居れば熱き思ひにわれはをののく
十八のわが上京を若き母永久の別れと詠ひ残せり
ドイツより一時日本に立ち寄りて母見舞ひしを慰めとする
この家に戻りし母の亡骸を迎ふるごとく蛙しき鳴く
母の遺影抱きわが乗る霊柩車向ふはたてに夕日はまどか
機械的に棺は入りて火葬炉の扉が閉まる人ははかなし
熱き熱き御骨を拾ふわが孫の小さき眼にも悲しみの見ゆ
空港より電話掛くるを常とせし母亡き空白もちて旅立つ
帰国するたびに成田より電話にて無事伝へゐし母今やなし
常祈りくれゐし母はいまは亡く寂しき空と思ひ飛びゆく
寂しさはいよいよ募り米国に向ふ機内にわが身は虚ろ
母逝きてのちアメリカに戻りゆくわが新しき生と思ひて
母は亡し母は亡しとぞ諦めてシカゴに向ふ機内に眠る
機内にて眠りより覚め母の亡きこと思ひ出づ寂しきものを
国際会議のために着きたるシカゴにて亡き母悼むごとく雨降る
無線にて結ばるるごと母とわれありしにつひに独り漂ふ
母のなきわが戻りたるアレクサンドリア夜半の遠空雷鳴り渡る
常離り住みゐしゆゑか母逝きし実感あはく日々の過ぎゆく
幾たびも母亡きことを繰り返し自らに言ひひとり飯食ふ
母の勧めに依りて始めしわが作歌今にし続く宝のごとし









歩道賞候補作(氏名五十音順)




  朝の雨                 遠藤那智子


ひるすぎの部屋暖かくとどこほる意欲覚めんか珈琲を飲む
飲食のをりふし呑み込み誤差ありて苦しきまでに長く咳をり
年齢を問はるればときに黙しをり数へて未来の湧くことのなく
風凪ぎし朝の入江は寄る波のさまさながらに天草なびく
加齢による腰痛と医師の言ひたれば八十歳のわれ納得す
鮮やかに木漏日地に置く椰子林その実の落つる音ひびき合ふ
病棟の廊下にひびく音やさし点滴の人わが前を過ぐ
廻診のとき待ちをればわがうちになす術のなき不安湧きくる
医師の言葉に一喜一憂われのせず窓外は雨杉の葉を打つ
草茂る北緯三十八度線非武装地帯秋日あまねし





  里山折々                杉本康夫


丘畑に象徴の如く立つ桜花過ぎてなほ名残をとどむ
木々若葉みなひかりつつ目に映るしづけき午後の林を歩く
木苺の実が熟れしゆゑ児等の声弾みて聞こゆ里山の道
春日差す峡田にわれは深々と腰を沈めて一人芹摘む
やうやくに寒さ明けゆく兆しゆゑ馬鈴薯種を選別し置く
馬鈴薯に土寄せしつつ思ひ出づ垂乳根の母稚けなきわれ
渡り近き鶫一羽が畑中に降りて小走りにわが前を過ぐ
陽炎の立つ丘畑のひとところ驚くほどに蚕豆育つ
ゆるやかに丘畑つづく家の庭刈りて間もなき胡麻乾してをり
雷鳴りてにはかに近き夕立は雑木林に音たてて降る





  明け暮れ                角田悦子


何気なく医師のもらしし夫の余命その五年後の今日は生日
病み臥せる夫にあれど居るのみにわれの心の日々に安らふ
かく臥して痛なき躰仕合せと自ら励ます今朝の夫は
父逝きし齢になりしといふ夫その生き写しにとまどふわれは
診察の窓にみる丘芽吹き前の櫟に残る枯葉日に照る
魘さるる自らの声に夜半覚めし夫と共に寂しむわれは
信州のはらからの声待つ夫今宵電話にて雪を問ひゐる
安静を医師より言はれしわれなれど旱ける庭に水撒くあはれ
ジヤムの瓶開けんわが手の腑甲斐なく頼める夫はなほたどたどし
向山の造成のさまわが家よりつぶさに見えて音の聞こえず





  スペイン処処              鹿島典子


たたなはる青き丘畑オリ−ブの茂りしづけし朝靄の中
通り雨過ぎて静もる山麓の広野いちめん無花果の畑
谷隔つ丘にそびゆるイスラムの城砦夕日に燃ゆる紅
木々深きアルハンブラに夕迫り冷気まとひて城内めぐる
城壁に沿ひて歩めば糸杉の梢に白し昼の半月
見はるかす丘洞窟の家々に夕べ乏しきあかりの点る
立ち並ぶ風力発電塔サハラより吹く熟風にひたすら回る
ただせまきユダヤ人街の路地のうへ聖堂の鐘ひとしきり鳴る
おもむろに大き落日沈みゆくラ・マンチヤの丘の風車を染めて
風絶えしぶだう畑は暮初めて遠き棚雲夕映の中





  明 暮                 門裕子


ほとびたる雪に覆はれ藻岩山あはあはと見ゆ朝光の中
わだかまる思ひを如何に遣らはんかひとまづ立ちて部屋の掃除す
やうやくに寒さつのるか夕刻より月まのあたりの雪道てらす
ただ一つわがよりどころなる夫老いたる父母と共に暮して
さまざまの思ひをもちて道歩む閑寂に差す冬日を見つつ
父の病む足老いづきて悪化せんひびく足音階下に聞こゆ
街中の空地に積る雪の上ほしいまま伸ぶビルデイングの影
闊達に遠く過ぎし日話す母鬱病みゐると思はれぬまで
数十台並ぶ除雪車の回転灯夜のひそけき家並てらす
雪解けの水に川幅広がりて水の流は光を流す





  落涙点々                長田邦雄


生命あるものやがて死にいたるとぞ知りをり知りて受け入れ難し
梗塞によりて言葉を失ひし父の顔近く妻がはげます
今生命あるは有難きとわが妻は昏睡の父をさすりつつゐる
死に近き父が娘を心配す商人われに嫁ぎたるため
父と子の縁を得てより三十年その十年を父は病み継ぐ
片方の肺のみに呼吸する父よ青天は窓に満ちて明るし
成すべきを成して悔なき一生ならん父おだやかに臥しゐるあはれ
梗塞に此岸彼岸の境なく父は居りたり青天の午後
快晴の光の届く部屋父に彼岸に移る時近づきぬ
ゆるやかに時過ぎて昼たちまちに時止まりたり父休するか





  心 象                 福谷美那子


ひと日ひと日育みてゆく愛ならん洋梨一つ嫁と分け合ふ
寺庭の絵馬読みゐつつかぎりなく現身の苦に触るる思ひす
氷砂糖ふくみて喉を潤せり湿り気多し梅雨近き昼
忘れがたき色とし言はん朱鷺と き一羽光さす中片足にたつ
手紙みて厳しく批判したる子よわが哀しみの幾年癒えず
固まりを吐き出だす如子に詫びて心安けく眠りに入る
粉雪の雨に変りて庭を打つかすけき音を聞きつつ眠る
わが嘆き聞きてはくれぬ夫とゐて再び長き沈黙続く
樹氷のごと輝く欅駅広場日没近き明るさのなか
蝋のごと固き辛夷の花芽立ち空寒々と湖水につづく
          (「蝋」は原作では旧字体)





  エリカの花               宮川勝子


夫逝きてのち病みやすく過しをり孤独といふは病を招く
いくばくか寒さゆるびしこの朝重きギブスの手を卓に置く
貸店舗になせしわが店立ち退きていかにすべきかたづきを思ふ
空店舗となり三箇月折々に来りて覗く広き空間
ギブス外し日々リハビリに通ふ道樹木剪定の音いさぎよし
骨折の癒えぬがままに風邪をひく外の面は叩く如き風音
台風の残してゆきし黒き雲見つつリハビリ終へて帰り来
貸店舗の契約終り緊張のほぐれしならんひたすらねむし
ほのぼのと朝の光の及び来て骨折予後の右の手疹く
修道院めぐりて咲ける芥子の花見つつ行く予後のわが足重く





  ◇◇選考経過◇◇
 今年度の応募作品四十三篇について、作者名を伏せたものを選考委員の、四元仰氏、松生富喜子氏及び秋葉四郎が回覧し、各選者それぞれ十篇づつを選出し、それを持ち寄り去る八月二十七日発行所において、選考会議を開いた。各選者の投票結果は別表の通りで、二人以上が推薦した作品(表中★印)十篇を候補作として例年のごとく主宰に提出した。今年も主宰の最終選考にも同席し、その都度意見も添へつつ、最終選考となつた。(秋葉四郎記)





  ◇◇佐藤志満◇◇
 候補作として推薦のあつた十篇について、その都度選考委員の意見を聞きつつ丁寧に再検討した。その結果、選考委員三人が推してゐる二篇、荒木精子さんの「天草」三十首、波克彦氏の「母」三十首が群を抜いて居た。荒木さんの作品は郷里天草に高齢の母を看取る歌で、天草の景観を点景としつつ境涯の籠る、力作であり、波氏の作は、アメリカに仕事の拠点を築いて活躍中に迎へた母の死を、切実且つ精深に詠つた大作である。どちらも読みごたへがあつた。十分に検討した上でも結局甲乙つけがたかつた。波氏は二度目の受賞となるから、当然勘案されるが、それを考慮しても、歩道賞に相応しいと判断し、今年も二人に「歩道賞」を贈ることにした。荒木さんはこの数年毎年候補になつて居た作者であり、その努力に心から敬意を表する。波氏の二度目の受賞は後に続く会員に勇気を与へることにもなるだらう。





  ◇◇受賞の言葉◇◇   荒木精子
 この度は、歩道賞入賞のお知らせをいただき、望外の喜びに浸つてをります。「天草」の三十首は、私の古里である天草島の四季の移ろひと、老いて病む母のことを詠んだ連作です。母の看取りに度々出かける古里の海、山への思ひ、余生短い母との絆を書きとめた、私にとつて大切な、記念すべき作品です。この作品に対しての受賞は、まことに感慨深く、心より感謝申し上げます。
 歩道に入会させていただきましてから、三十余年、ひたすら佐藤佐太郎先生のお教へに導かれ純粋短歌をめざして参りましたが、これを機に、さらなる歌境の深化につとめる覚悟でございます。
志満先生をはじめ、ご推薦下さいました選考委員の皆さまに、厚くお礼を中し上げます。


  荒木精子小歴
昭和十一年熊本県生
昭和五十三年三月歩道入会







  ◇◇受賞の言葉◇◇   波克彦
 この度二度目の「歩道賞」を受賞することになつたとのお知らせを現在米国に居を構へてゐる小生に戴いたのは八月の末であつた。平成十二年に「執務室」三十首により「歩道賞」を戴いて八年が経つたがその間に作歌に些かの進展も見られないまま年月が経過してゐたため、再度「歩道賞」に応募するなど小生にとつては考へられないことであつた。しかし小生が短歌に係る端緒となり歩道に入会して佐藤佐太郎先生のご指導を仰ぐことを勧めてくれた母(「ポトナム」元同人の波々伯部美砂)が今年四月に他界したことは小生の作歌にとつての大きな一区切の事象であつたから、何とか歌として記録に留めて亡き母への鎮魂と謝恩にしたいとの思ひで作歌した結果数十首になつたので「歩道賞」に応募したのである。選考委員の方々のご推挙をいただくことができただけでも有難いことであるのに志満先生が「歩道賞」に採つていただくといふ光栄に浴することができ、何と感謝してよいか言葉も見出せない位である。心から深甚の感謝を申し上げる次第である。二度の「歩道賞」受賞は小生が初めてのやうであるが、既に受賞されてゐる多くの諸先輩方も是非毎年「歩道賞」に応募して歩道会員に優れた作品をもつて範を示していただけることを期待したい。志満先生のご健勝と歩道短歌会の益々の発展を祈念しつつ、御礼の言葉とする。


  波克彦小歴
昭和十九年 兵庫県生
昭和三十七年 兵庫県立篠山鳳鳴高校卒業
昭和四十六年 東京工業大学大学院博士課程修了(工学博士)。同年昭和電工鞄社。同社知的財産部長、上級技監(常務執行役員)、顧問を経て平成十九年末に同社退社。
現在米国大手法律事務所勤務。
昭和五十三年 歩道入会。歌集『赤き峡谷』がある。






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