杉本康夫歌集『遠街』 波 克彦
歌集『遠街』は杉本康夫さんの第二歌集であり、第一歌集『低丘』の後の平成十六年から平成二十五年までの作品六百四十首を収めてなる。作者が五十六歳から六十五歳という、職業人生の後期の作品である。本書は人生の一大節目である還暦でありまた定年を迎えるまでの作品数に比べてその後の作品数が三倍あり、また、日常の矚目を歌材とする作品が全体の六割を占め、次いで父母妻など家族にかかわる作品が四分の一を占めていることが特徴である。このように身近な対象に日々目を向け、素直な気持で写生・生活短歌を信条として作歌を続けてきた作者の実直な作歌姿勢に讃を送りたい。
日常の生活圏の中で捉えた対象を見事に写生短歌として結実させた作品が多いが、とりわけ印象の強い優れた作品を次に幾首か抄出する。
春の兆し溢るる道に苞光る辛夷の枝は簡潔に
して
休日は人に関はることもなく一日畑に菜の種
を蒔く
駅ホームに入りしばかりの電車よりなまあた
たかく鉄粉匂ふ
暮れ方となりし曇日雷が音ともなはずたびた
びひかる
段畑のごとくに土の均されて山は消えたり森
は消えたり
夕焼を見つつ歩めばゆるやかに登りとなりて
四肢暖まる
久々に地下街に来て迷ふなど戸惑ひしこと一
つにあらず
時ならず黄砂降る空みはるかす多摩の山なみ
茫々と見ゆ
まちあかり丘より見えて電車よりこだまのご
とく警笛聞こゆ
雲の端山の起き伏しあきらかに丘陵のうへ空
晴れてゆく
冷えしるくなりて色づくななかまど街路樹ゆ
ゑに簡素につづく
意識とは反比例して老いゆくかわが散策も短
くなりぬ
寒にやけて杉森あかく見ゆるうへかたちまど
かに昼の月見ゆ
歩まんと出でてかがやく花にあふ紅白の梅い
づれも親し
春ちかき空低くして半晴の一日は寒く遠街暗
し
このように抄出した作品は解説を要しない。簡潔で声調が通り心が洗われる思いがする。
次に抄出する、母父を想い妻を思い、またともに歎き、憐み、感謝した家族を歌材とする作品に心を打たれる。
煮こごりを一人食みつつ涙出づ垂乳根の母危
篤と聞けば
妻が居てその母が居て休日の一日倹しく夕餉
終へたり
衣食さへおぼろとなりし老母の屈託のなき顔
が微笑む
時として二人の老後いふ妻を励ます如くわれ
慰める
日日のなかに平安得しときは母妻われと分か
ちあふべし
もはや言葉交せぬまでに衰へし母の眼の涙を
ぬぐふ
入所する施設のパンフ見つつゐて寂しきこと
を妻われに言ふ
食卓の妻の隣に会話なくただひたすらに母飯
を食す
元気なる母の立居も微笑もこころにとめてわ
れは見送る
月一度の母に関はる面談を終へたる妻の悄悄
として
こころなしか妻ふるへつつ母親のはとぼり残
るみ骨を拾ふ
亡き母の録音の声聞くときに妻の声もありい
づれも寂し
感謝せんと思ふことがら限りなし妻をし頼む
過去も未来も
最後に、定年や還暦を過ぎて、自責、諦念を経て人生を前向きに生きんとする作者の心根に触れる作品を数首抄出して本稿を閉じる
わが勤め残り少なくなりしゆゑ人に接して喜
怒口にせず
支へられ励まされつつ勤めきて今朝退職の辞
令を受くる
辞令受け席に戻れば片付けしわれの机に決裁
積まる
折りにふれ団塊世代といはれたるわが来し方
に後悔はなし
職辞すと心に決めて夜業の日足冷えながら仕
事に励む
身辺の煩はしきを先送り先送りしてわれ老いて
ゆく
積極も消極もなく日々をつむ病みたる後に得
るものありて