刊歌集  平成13年(9月)〜20年【作品】 【歌集一覧】 平成21〜現在【作品】 【歌集一覧】


  自負と専心の歌集―『眼鏡と篁』   香川哲三


 『眼鏡と篁』は戸田佳子さんの第四歌集であり平成二十年から二十四年までの作品六〇三首が収められている。旺盛な活動を続けている戸田さんの息吹が随所に感じられる歌集で、私は一気に最終頁まで読み進んだ。好感を持った歌集名も、一巻を通読すれば、氏の生活が凝縮された必然性に基づいていることに気づかされる。
  なにがなし人に疲れて帰り来し部屋にともあ
  れ眼鏡をはづす
  悲しみの湧きくるままに庭に立つ風音昼の空
  にひびきて
  一週間へて見るさくら葉のしげり影濃し木下
  闇のさびしく
  午後四時を過ぎてたちまち暗き庭心よりどな
  く雨戸を閉ざす
 人は誰も様々な要因を背にして、日々労苦を重ねているのだが、これらの作品一首一首には、そうした人の息づかい或いは心音のようなものが捉えられて居て深い余韻がある。それは「眼鏡をはづす」「雨戸を閉ざす」などと言つたかすかな所作の中に、抜き差しならない生の重みが表象されているからにほかならない。加えてここには、孤寂たる陰影に縁取られた詩情がある。
  砂糖黍の冬花島のいづこにも高々と咲き朝日
  にひかる
  プカキ湖になだるる氷河影の濃し冬青天の広
  がれる下
  眼前のサプライズ氷河青深くただにしづまる
  海になだれて
 前掲の日常を対象とした作品群とともに、本歌集の骨格をなすものとして、国内国外における羇旅詠がある。多くは作歌そのものを目的とした旅であったから、当然力が入っているし、見るべきものを見て迫力がある。一首目の鮮やかな構図、二首目の澄んだ色彩感、三首目の裁断の見事さなど、あたかも現場に居るような鮮明さがある。
  震災より九日はやも死者七千われさへや心ふ
  さぎてすごす
  震災に生き残りしに死者追ひて自死する被災
  者ありとこそ聞く
  わが一生(ひとよ)に解決なからん原発の事故
  に因りたる放射能汚染
 次に大震災を詠じた作だが、関東在住の戸田さんは、そのとき多くの同胞が感じ或いは見たことを、作者の心の奥深く受け止めて真率に思いを述べている。歩道にあって長く修練を積んできた人らしい誠実な作歌姿勢が、自ずからこうした深い詠嘆をもたらしているのだろう。
  目の前の朱き鋼(はがね)は千二百度放つ熱風
  わが顔おそふ
  長々とエスカレーターに下りゆくうつつ心の
  よりどころなし
  質量の起源と聞けばわれさへやゆゑなく親し
  ヒツグス粒子は
 本集には更に、現代における新しい素材を対象とした意欲作がある。一首目の堂々たる声調、誰もが感じながらもこれまで作品化されてこなかった二首目の内容、自己に引きつけた手際が秀逸な三首目など、何れも新鮮な感動を呼ぶ。作者は今、歌人としてまた大学講師(短歌入門講座)として活躍を続けている。『眼鏡と篁』は、そうした氏が日々蓄積してきた力量を遺憾なく発揮し、作品世界の広がりと詩としての充実を随所に具現した、自負と専心の一巻である。