刊歌集  平成13年(9月)~20年【作品】 【歌集一覧】 平成21~現在【作品】 【歌集一覧】


   歌集「樹氷まで」を読む  竹本英重



  戦争を知らぬ世代が古稀となる国の正月祝はんとする
 昭和二十年太平洋戦争が終結した。それから七十年、この年に生を受けた人も七十歳となった。戦中、戦争さ中を体験された者の感懐で、正月を「祝はんとする」語気にいろいろな思いが交錯しているのが解る。
 日本はその後、戦争紛争に巻き込まれること無く七十年平和裡に過ぎた。これは偏に、不戦を誓った憲法九条のお蔭と言える。
  しろたへの樹氷のあひだ人踏まぬ雪のつづきて雪の香のする
 樹氷は霧氷の一種。過冷却された大気中の微細な水滴(霧粒)が樹木などに凍りついてできる。気温マイナス5℃以下で、風上側へ羽毛状に成長する。気泡を含み色は白色。一首の景は蔵王山、白一面の世界。
 荒涼とした景に足を踏み入れた途端の感想が「雪の香」に空気、写象、マイナス5℃の世界が印象深く際立っていると思う。
  聞かざれば知らざれば日々安く逝く人との交流多くなりしが
 日本歌人クラブ会長、斎藤茂吉記念館館長等々、内外の人と人の交流が増える。交流が盛んになれば、種々の情報が否応無しに聞こえる。煩雑な雑事で日を送ることとなる。雑事に惑わされる事無く「歩道」の運営……作歌活動に専心したいものだ……という願望が背景にある様に思える。
  老いて見る夢の内さへなりふりを構はず働くわれのひと生や
 一首は、目覚めて夢を反芻しているところ。作者は、現役の頃から多忙な日々を送られた人だが、退職後も日本歌人クラブの会長、斎藤茂吉記念館の館長、歩道の運営に東奔西走して居るから、この歌の様な夢を見るのだろう。夢は目覚めても鮮明に覚えているものと忘れて仕舞うものとある。この歌は「なりふりを構はず働く」と言う語気から、現役で働いている頃のひとコマを混在した夢……と自分は思う。「われのひと生や」の詠嘆には、自省をも込められているように思う。
  風のなき沢の宵闇に共にゐて蛍のあそぶ蛍に遊ぶ
 「蛍」抄、房総平沢にて、一連九首の内の三首目の歌。蛍は、コウチュウ目(鞘翅目)・ホタル科に分類される昆虫。
 四、五句が眼目、助詞「に」の働きが注目される。蛍の側から言えば、恣に生を謳歌できる風の凪いだ闇夜。見る人の側から言えば、蛍の乱舞を心ゆくまで堪能している感じである。蛍と人とおのおのが、おのおのの生を平沢の地で養っている風情だ。
 一連のうち、
  競ひ合ふ蛍ら同時に光断ちむなしきときあり沢のよひやみ
にも心惹かれた。また、転校生に蛍を賤別に送った一首も惹かれる。この蛍の一連は甘美さとか感傷性が際立っている気がした。
  四月尽の(みさき)に立ちてさびしさや凪ぎわたる海凪ぎわたる陸
 島根半島北西端の岬、日御碕。碕は石英粗面岩の隆起海蝕台で、石英粗面岩、末端は波蝕をうけ、新しい海蝕崖もある。西部にある経島はウミネコの繁殖地。
 四十メートルの断崖から望見する日本海、高所から見れば余分な爽雑物がみえぬから「凪ぎわたる海」に見えるだろう。「凪ぎわたる陸」の遠望する街並みの景は稍意外に思われるが的確な描写(写生)に説得力が添う気がした。四句、五句の感想「さびしさや」に集約された。
  星砂にあそぶはをみな日本の島のうつくし女性うつくし
 西表島の珊瑚礁の浜で同行の人(女性)らとしばし心遊ばせて居るところ。「星砂」に甘美な語気があって、童話の世界、不思議な世界の中に誘われている様な錯覚を覚えさせられる。
 星砂(ロタリア目、カルカリナ科)は、原生生物。有孔中の殻、生きている有孔虫の殻内は原形質で満たされているが、死ぬと有機質である原形質が分解され、丈夫な殻のみが残る。形態が星や太陽を思わせ、幾何学的な形状は、生物学的な研究対象、鑑賞の対象としても広く愛好されている。
 有孔虫は単細胞生物としては大型の部類に入り、星の砂以外にも絶滅種のフズリナや貨幣石に代表され、肉眼的な大きさと云う。今と同じような星の砂の構成種となる有孔虫は鮮新世(五百~百六十万年前頃)から出現しているものもあり、星の砂には現生の有孔虫の殻と共に、数万年前のもの(化石)が混入している場合もあると言われている。
  老いし身に八月が来る佐太郎忌原爆服喪日戦争懺悔日
 八月は「歩道」創始者、佐藤佐太郎先生の黄月忌。世界で唯一日本は、原子爆弾の被爆国で広島は八月六日、長崎も八月九日に被爆した。そして太平洋戦争は敗戦と言う痛ましい結果で終結した。日本人に忘れる事の出来ない八月、作者には言葉にならぬものが去来している事が窺える。
  米国に敗れたる国日本を若者三割知らざりといふ
              八月十五日NHK特別番組
 事実の驚きである。
  いつよりか鰯雲浮く空となりその下はるか琵琶湖の青し
  「雲燦々」抄三首目の歌。羽田空港から松山に向う機上詠。鰯雲(巻積雲)は天気が崩れる前に現れる雲とあるが、雲の上だから十月の陽光が燦々と輝いている事が窺える。機上から見る琵琶湖と言うのが、印象鮮明。単簡で雄渾な自然が現出される。




  『樹氷まで』   秋葉四郎