佐  藤  佐  太  郎  抄





二〇二一(令和三)年三月号(その一)  


 由 来

 
上目黒のお宅を訪ねたとき、歩道に連載中の「及辰園往来」のコピーの綴りを所持していた。「それを置いてってくれ」と先生は言われた。帰ってから自用のを再び作った。
 昭和五十一年五月一日訪問。先生は封筒から『及辰園往来』(求龍堂・四月二十日刊)を取り出し、「君が言って来たのを書いておいた」と、本を下された。赤い見返しの次の頁に、「愁思縁餘寒 衰容非疾病 今日復春分 辛夷百苞立 佐藤佐太郎 与菊澤研一君」。及辰園主の角印を押すとき私は、天地を逆にしてしまった。思えば何にでも落款を要するものでもなかろう。ここに()とあるのだから。
 題字は先生の墨跡である。この日B5版のコピーの綴り携えていた。歩道に掲載された短歌・随筆・表紙二・歩道通信の「往来」「私暦」、他の雑誌・新聞等に発表された諸作、先生に関する諸家の文章・記事の類を複写して冊子を作っていたのである。冊子のはじめに白い紙を付した。揮毫されるとき、「何と書けばいい」と言われた。「今日は天気がいいから散歩しよう」。蛇崩の道に山茶花が咲いていた。昭和五十二年十一月十三日のことである。
 この日は六十八の生日にあたり、午後、講談社刊『佐藤佐太郎全歌集』の出版祝が京王プラザホテル「南園」で開かれ、十余人が招かれたのであった。(題字先生)




二〇二一(令和三)年四月号(その二)  


 『短歌入門ノオト』の表紙

 
昭和二十年代、心的葛藤の渦中にあって、『斎藤茂吉秀歌』『短歌入門ノオト』を読み、二十七年八月歩道に入会した。ノオトは再販で帯文・高安國世。先生が高安に執筆依頼する訳はない。書評を読んだ伊藤禱一が転用したのだろう。初版本は二十余年後、大阪の古書店から入手。初・再の間に『帰潮』が出て二十七年五月、第三回読売文学賞詩歌賞を得た。因に第一回斎藤茂吉『ともしび』、第二回高村光太郎『典型』である。
 ノオトの再販本にかけたカバーが擦り切れたので外すと、裏に「表紙絵 小田野直武筆」とある。鼡色の地にモノクロの枇杷図だ。幹の尖端の花を囲む六葉、右上に蕾と三葉、左下に花芽と五葉。天頂の葉脈の鮮やかな広い葉と、左右に伸びた長い葉が図を引き締め、風格と気韻を象っている。緑の地の初版より数等上である。一月号から替った歩道の表紙絵、燕子花が同然の風韻を蔵し、ここにも佐藤佐太郎絵画の特質を認めることができるであろう。
 秋田八代藩主、曙山佐竹義敦の家臣、小田野直武(一七四九-八〇)は角館に生まれた。ゲーテと同年である。鉱山の調査に見えた平賀源内に画才を見出され、自身絵筆を握る藩公に召されて江戸詰となり、出府して間もなく、杉田玄白の『解体新書』に挿画を描く。秋田蘭画の一派は司馬江漢に先行する日本洋画の魁で、直武らを江湖に広めたのは平福百穂であった。




二〇二一(令和三)年五月号(その三)  


 平福百穂

 
武士・画家小田野直武と同じ秋田県角館に生まれたのが両家・歌人平福百穂(一八七七―一九三三)である。『赤光』の挿絵通草のはなも、昭和二年創刊岩波文庫の、正倉院御物をあしらった装頓も百穂で、文庫本の典型を作った。ついでに、この文庫の『佐藤佐太郎歌集』は作品を増補改版すべきではないか。
 このころ先生は岩波の小売部にいた。神保町のランチョンで麦酒を飲んだとき、岩波入店の動機をたずねると、何ともない、店員募集の貼紙をみて出かけたという。当時の店員は小林勇ら二十人ほどである。
 同二年、百穂歌集『寒竹』が古今書院から出た。五年、岩波から百穂著『日本洋画の曙光』が三百部限定で刊行された。収載された直武の枇杷図が二十年後『短歌入門ノオト』の表紙になったのである。あるいは二十四年田沢湖に遊んだとき、直武旧居で原画を眼にしたものか、随行者が現存しないので不明だ。
 アララギの発売所、岩波に佐太郎がいるのは斎藤茂吉やアララギにとって貴重だった。著書の殆どが佐太郎の製作にかかっている。たとい岩波以外からの出版であっても。
 八年十月二十一日、竹尾忠吉歌集『平路集』の表紙画の督促のため、三宿の白田舎を訪ねている。二日後百穂の次兄が急逝、秋田に帰郷した百穂は二十四日突然発病し三十日に歿した。九年四月、アララギ平福百穂追悼号に先生は「最後の訪問」を書く。転載するのがいいと思うからコピーを同封する。


  最後の訪問          佐藤 佐太郎
 昭和八年十月二十一日の午すぎ先生(編者註、平福百穂)を訪問したのは、歌集「平路集」の装幀を御願してあつたが、本文の校正も大分進行したので御催促にあがつたのであつた。私はそのとき額に表装した寒牡丹の絵を抱へて行つた。この絵は昭和六年「門問春雄歌集」の表紙書を頂きにあがつた折に頂いたもので、其日は来客があり二時間近く待たねばならなかつた。縦長の木枠に絹を張つて寒牡丹や柘榴や蜀黍や佛像の絵などが描かれてあつたが、そのなかの蜀黍の絵にきめられ、葉の蔭から実の房が見えてゐるところに更に色を加へられた。私は暫く逡巡して居たが寒牡丹の絵を頂けませんかと言つた。先生は花のところに少し筆を附けられ、これも御持ちなさいといつて柘榴の絵も一しよにナイフで切つて下された。
 牡丹の絵には署名がなかつたけれど、未完成のものに署名まで御願ひするわけにゆかなかつた。私は電車のなかで、先生は永く待たしたことを済まない御気持で居られ、それで此絵も簡単に頂けたのだらうと思ひ、偶然に恵まれた幸幅を感謝した。其後「寒牡丹」は或人が額に仕立ててくれ、判を押して貰ひなさい、表装しましたからと持つてゆけば嬉んで押してくれますよ、といつた。折々は署名して頂いて置いた方がよいと思ふこともあつたが気が臆せて駄目だつた。それを抱へて私は電車に乗つた。多摩川電車を下りて通りから右に折れた処で暫く立止つて心を鎮めようとした。それから引返して角の煙草屋でバツトを一箱買ひ、額は一時そこに預つてもらつて漸くほつとした気持になつた。
 そのとき応接室に出て来られた先生の顔は何となく蒼白のやうに見え、いつも血色のいい顔をして居られたから直に私の注意をひいたのである。椅子に落着かれてから、先生は両の掌で顔を洗ふ時のやうな動作で、顔を撫でられた。大きな眼が殊に目立ち、眼が稍赤味を帯びて居られたと思ふ。いつか新聞の消息欄は先生が病気のため帝展に出品されない事を伝へて居た。私は『御愛りございませんですか』といつた。先生は『どうも難有う』といはれた。私は顔色の事をいひ出さなかつたから不手際な挨拶はこれで終つた。要件を御願ひすると、三四日のうちに考へて置きませうといふ事だつた。いつも装幀は御目にかかつて御願ひしてから、二度ぐらゐ電話で御催促して最後に頂きにあがるやうになつてゐた。先生は非常に御忙しかつたからいつもさういふ順序をふんで表紙絵を頂いたのだつた。
 先生は帝展の事を話され『若い人にいいのがありますね。特選はやはりいいです。二つ三ついいのがありましたですね。』と言はれた。又『日本書は浅薄だから西洋書を取り入れる事も必要だしいろいろ行き方があるわけですね。わたくしなどは力が弱くてかなひません』ともいはれた。数日前の読売新聞に「玄明」といふ絵の批評があつたので御話しすると、『いつですか』『何新聞ですか』『誰が書いてゐますか』かういふ問を続けて発せられ、『羽をひろげてゐる絵でせう。鵜飼の始るところか済んだ後かのようであつたですね』『ああいふ意味を持たせるからいけないのですね。鵜なんか大き過ぎますね』かういふ事もいはれた。
 それから歌のことも話され、私がアララギに歌を御出し下さるやうにいふと『いやあ、わたくしなんかとても古くて駄目です』と笑はれた。又、西洋の時の歌は手帖に書いてあるがなかなか纏まらない、いつか十首ばかり半紙に清書して斎藤君に見てもらふつもりで居たが、其紙が見つからない、絵の反古を入れる籠があるから何かの時にそれに入れて捨ててしまつたかもしれない、西洋の歌でも出して居るうちに又作れるやうになると思ふが、どうしても見当らない。といふ事をいはれた。
 話の合間に先生は『煙草はどうです。上の方は湿つてゐるから』と箱の底の方から一本とつて、それを軽くふかされたりした。そんな時でも先生の蒼い顔には変に張りがなかつた。
その日は三十分程で先生の宅を辞し、煙草屋から額を受取つて帰つた。
 私は仕事の関係から割合に多く先生に御目にかかる機会に恵まれてゐたのであつたが、其翌々日に令兄の急逝に会ひ秋田に帰郷された先生は、その地に(にはか)に病を得て遂に起たれなかつたのである。  (「アララギ」平福百穂追悼号S九四月号)




二〇二一(令和三)年六月号(その四)  


 『帰潮』 読売文学賞


 第三回読売文学賞は昭和二十七年五月五日の新聞に発表され、佐藤佐太郎第五歌集『帰潮』が詩歌賞を受賞した。私の日記をみると五月六日祝意のはがきを出している。
 小説・戯曲・文芸評論・詩歌・文学研究五部門共通の選考委員は豊島与志雄・辰野隆・宇野浩二・折口信夫・久保田万太郎・正宗白鳥・小林秀雄・小宮豊隆・青野季吉・佐藤春夫・広津和郎の十一名である。佐藤先生は、「宇野・折口・佐藤春夫は前から知っていた。小宮豊隆は家内の父(伊森賢三)の学友だ」と言われた。現今の詩歌の賞は精精三名で雲泥の差だ。
 選考経過、投票は『帰潮』、三好達治『駱駝の瘤にまたがって』が各四、『窪田空穂の諸作品』一、棄権二で、佐藤、三好の作品で再投票となり、佐藤六、三好四、棄権一で『帰潮』に決定した。先生の話。三好達治のは後で日本芸術院賞になったから(二十八年二月十日発表)、運はわからないものだ」。「私は実作で応えた」という受賞のことばから抄記する。
 「この短い詩は千数百年の伝統の中に磨きをかけられて、今日では詩としてほとんど極限の形を現わすべき時期に来ている。その短歌としてのぎりぎりの形はどういうものであるかという事について、私は私なりの信念を持って実作を追及して来た」。