大震災と私(6) ―詠い残し書きのこす―
故郷女川町 大貫 孝子
地図見れば陸の果てなり三陸の小さき入り江
わが故郷は
東北の太平洋に面し、リアス式海岸といわれる三陸海岸、その南端に牡鹿半島があり、そのつけ根にあたる所に、私の故郷女川町がある。天然の良港の町として知られてきた。ロ―カル線石巻線の終着駅、駅に降り立つと潮の香が私をつつんだ、これが私の故郷……地図を見ると点のような小さな町である。今年三月十一日の大地震、大津波で壊滅した町といわれ人口の約一割が亡くなった。その中に私の父母、伯母、叔父夫婦の親族五人が含まれている。
女川町は海辺の町と言えど、私の家は海岸から、一キロ程離れた山峡にあり、明治以降の津波では襲われたこともなく、ここまでは津波は来ないだろうと、伯母が避難して来ていた程、安全な場所だった。私のその安心も、不安に変わっていった。故郷の誰とも何の連絡も取れない私は、ひたすらテレビのチャンネルを変えつつ、故郷が映るのを探して、テレビの前を離れられなかった。大地震、大津波より二夜明けた日曜日、快晴の空からの上空写真「壊滅の女川町」と十秒程映されたが、私の家の辺りは映らなかった。
五日目に漸く、故郷にいる姪と携帯電話で連絡が取れ、聞いた言葉は、父母が「行方不明」という言葉だった。きっと避難所にいると信じていた私は、一瞬時間が止まったように感じた。そして窓辺に行き、子どものように声を上げて泣いた。その翌々日、福島に住んでいる弟がやはり同じ言葉を言った。「姉さんには、ショックになるからすぐには言わなかったが」と女川の避難所を探してどこにもいなかったことの報告を受けた。
父母、伯母、叔父夫妻が行方不明と聞いて、私は一日も早く故郷へ行きたかったが、交通手段もなく、ガソリンもなし、インタ―ネットで災害支援バスが深夜運行を始めていることを知り申し込んだ。避難所に待避している叔父叔母たちのために食物や衣類を持ち、上野発仙台行きの深夜バスに乗った。バスの乗客たちは無言だった。バスは四台連なり、隅田川を越えた。隅田川は、いつもと変らずに、きらびやかな街のネオンを映していた。
深夜バスは順調に北上し、白河辺りから雪が降り始め、福島中央辺りから本格的な雪になり、国見を越え宮城県に入ると大雪で一面雪の原、たちまち自動車は雪を積むようになった。深夜バスは夜明けを待つために、菅生パ―キングで時間調整をする、同じように夜明けを待つ自衛隊や民間の被災地への支援物資を積んだトラックで、パ―キングは空き地がなく、降る雪の中静かに並んでいた。故郷に着いたのはその日の午後だった。
去る十月一日、漸く、父が総代を勤めた町の曹洞宗の寺で、葬儀を行うことができた。ご参列いただいた方に、お礼のことばに添えて、弟の詩と私の次の短歌を添えさせていただいた。
兆し来る悲しみに堪へ壊滅の故郷歩む我の老
いつつ