大震災と私201202

大震災と私(5)   ―詠い残し書きのこす― 




   茨城の震災        齋藤 すみ子


 三月十一日午後二時四十六分、東海村は震度六弱の地震におそわれ地鳴りとともに突きあげるような揺れと長い横揺れが続いた。自宅二階にいた私は柱にしがみつくのが精一杯で身を振りきられそうになり顔面をしたたかに打った。屋根の瓦が何枚も音を立てて落ちるのが窓から見え、家を囲む石塀は一瞬にして倒れた。佛壇の花瓶や香炉の灰が飛び散り台所の食器類が砕け書棚の本や書類が散乱し足の踏み場も無い状態であったが、迫り来る夕闇の中で余震を恐れ近くの甥を頼りその店の駐車場に避難した。
 村内に住む娘達は常には三十分程の通勤距離を四時間かかったと夜の九時過ぎやっと一緒になることができた。周囲の住宅、マンションから逃げ出した多くの人々がスーパー駐車場で余震におののきながら夜を明かす姿が見られた。月々歌会を共にしている友人のKさんは前日の十日にご主人を亡くされ、悲しみのなかで激震に遭い葬儀場も被災したため一週間後に家族葬をされたという。ご心痛いかばかりであっただろうか。
 水道、電気が断たれ煮炊きも暖をとることもできず、村の給水車からの支援は長い時間並びペットボトル二本ということもあった。電気は三日後に点いたが水道の復旧には二週間近くかかり、日常の非常備蓄の大切さを思い知らされた。
 自宅の前を走っているJRの電車もとだえ復旧には一月以上かかった。隣の勝田駅から那珂湊方面への常陸海浜鉄道は五ヵ月以上不通となり、通勤・通学に困難をきたした。ガソリンスタンドには昼夜を問わず車が長い列をつくった。村内の生活道路や海岸通りの国道などにも深い亀裂や大きな段差が生じ、通行止めや片側通行は今も続いている。
 東海村の海岸沿いには日本原子力センターの諸々の施設があるが、その一つ日本原子力発電東海第二発電所(百十万キロワット)は地震発生から三十分後、高さ五・三メートルの津波に襲われ、外部電源が途絶え非常用発電機も一部海水をかぶって使用ができなくなるなど原子炉の冷却作業は困難を極めた。十五日午後になってやっと「冷温停止」状態にこぎつけ危機を脱した。まさに綱渡りの三日半であったと知った。
 その後、時がたつにつれ県内の地震・津波の被災情況がわかり、その被害の大きさにただただ驚くばかり。日本三名園の一つとされる水戸の梅の偕楽園は地盤の崩れや地割れが起こり、二百種三千本の梅の今後が心配されている。
 折りしも観梅の季節だったが閉ざされた名園の梅樹は余震に揺らぎ、痛々しい限りである。徳川斉昭によって藩校として建てられた弘道館(国重要文化財)は損壊が甚だしく復旧の目処は立っていない。
 また磯節で有名な大洗港や那珂湊港も大きな津波に襲われ、岸壁には夥しい数の漁船が打ち上げられ重なり合い、そのなかに何台もの乗用車が混じり惨憺たる有様であった。波をかぶった家々に人声はなく、黙々と泥を流し、後片付けをする姿が痛々しかった。
 福島との県境、北茨城の平潟港は六メートルの津波にあい被害は筆舌に尽くし難い。景勝地として知られている岡倉天心が建てた五浦の六角堂は跡形もなく海に沈んだ。
 県南地方の神栖、水郷潮来などでは液状化現象に悩まされ新しい住宅団地の家々が傾き下水道の一応の復旧に三ヵ月余もかかるなど困難は今も続いている。
 震災から早くも半年が過ぎたが生々しい傷あとは未だ各地域に残る。毎日のように地震が続き、一瞬立ちすくむ強い余震もある。我が家の補修もまだ十分ではないが、近隣の屋根に張られたブルーシートと土嚢は一向に減ってはいない。しかし、東北の被災地の人々が復旧に頑張る様子に勇気付けられ、多くのことを学んだように思う。
 茨城ではほうれん草やメロンなどの出荷停止、茶摘みの禁止など私の人生でも初めて経験する強権発動があり、その間にも海産物や土壌に至るまで放射能汚染は進んだ。風評被害をを恐れた農家は特産品の干し芋となる甘藷の作付けを控えるなど深刻な状態になった。汚染稲藁を飼料とした肉牛問題をきっかけに茨城県は全頭検査を実施、新米には全生産地で放射能検査をするなど今後の食生活、暮らしに不安は増すばかりである。
 平成十一年九月三十日のJCO臨界事故では従業員二人が放射線を浴びて命を失った。東海村と周辺市町村十万の人々は祈るような思いで室内退避の時を過ごした経験がある。「二度とあってはならない」と誰もが思ったことである。私自身はそのような体験をしながら日常の暮らしの中で原子力問題とどう向き合ってきたか、東海第二原発の近隣に暮らすものとして原子力のありようについて真剣に考えねばと切に思う。
  この国に原発五十四基とぞ被災してより知りたりわれは
 日常が平安に過ぎると災害への備えも余り気にせず、近隣のおつき合いもつい希薄になりがちであった。しかしこの度の災害はいかに近隣知人が心強い支援者であり協力者であるかをつくづくと思い知らされた。雨の日風の日など昼夜を問わず屋根のシートを張り直し土嚢を積み上げてくれた。井戸水をわけ合い「古いものだが、よかったら使って」とガスコンロに石油スト―ブなど持ち寄ってくれ萎えた心も元気を取り戻すことができた。温かい絆を大切にしていきたいと思う。
 被災当時はわが庭に咲く梅を見る余裕もなくいつ散ったかさえわからない暮らしであったが、今は多くの人々に助けられ静かな日常が戻りつつあり感謝の日々である。
 激震の日から半年、秋が近づき台風の季節になった。雨に悩まされ修繕を待つ家屋が茨城県内だけで十五万件以上残されているという。紀伊半島では豪雨による深層崩壊など大災害も起きている。苦難に生きる人々とどう向き合っていけるか、もう若くはないが残された年月多くの社会問題と真摯に向き合っていきたいと思う。






   「震災を経て」・ある友より    福谷 美那子


 私の住む神奈川県は、幸い震災(東日本大震災)の被害も少なくほっとしていたところ、宮城県の友達から一通の手紙が届いた。そこには、被害を受けた状況がつぶさに書かれていて、読みながら目頭が熱くなった。彼は福祉活動でお世話になったカトリックの修道士(長野県在住)である。

 ご心配いただきありがとうございます。早速ですが、当時の状況を少しお話したいと思い、机に向かいました。月日が経ったとはいえ、心の傷は癒えず、思いもかけない天災に怒りすら覚えております。
 母と妹は避難所である宮城県女川町立病院に避難したのですが、津波の高さは想像を遥かに越えて、病院の二階にまで及びました。そこで避難していた人々と共に海に流されてしまいました。
 私は父とともに遺体を捜す日々がしばらく続きました。女川の避難所のすぐそばに遺体安置所があり、行方不明者を捜す人で一杯でした。しかし、時間がたつにつれて判別が難しくなってきたのです。
 特に海に流された方々は遺体の損傷が激しく、全裸で見つかることが多いため、特徴を掴むことが困難でした。このような状況の中でも、多くの人たちは、「何とか見つけてあげたい」という思いで必死に身内を捜してい
ました。その光景を思い出すと今でも胸が締め付けられます。
 震災から三ヵ月が経っても私は母と妹を見つけることができません。致し方なく父と相談の上、死亡届を出すことにしました。七月二日、カトリック教会において、主任司祭司式のもとに葬儀を行いました。
 震災が起こった、この事実は私の人生の中で、これほど衝撃的で辛い出来事はありませんでした。しかし、この様な大変な状況のなかにも、愛のエピソ―ドが沢山ありました。命がけで人々に避難を呼びかけた防災担当者。女川町で働いていた中国人研修生二十名を避難させるために、家族を見失った方など、大災害の前に見せた、自己犠牲の精神は人間性の素晴らしさを伝えることと思っております。
 この体験を通して、私は人生のなかで何が大切なのか見出すことができると信じています。被災者にとって、失うものはたくさんありましたが、失うことによって気づかせて頂くことがあると思います。
 命の尊さ、家族の絆、互いに助け合う心など、それは神の愛に繋がることです。
 これからも、神様のメッセージを見つめていきたいと思います。

 大きな災難に会った人にしては、いたって冷静な文面に私は驚き、それだけに悲嘆の念は深かったであろうと思うと、胸が痛んだ。おおいかぶさってくる悲しみに、きちんと結論を出してからでないと、手紙を書く気にはなれなかったのかもしれない。封筒の中には、家族揃って新年に撮った写真が入っていた。
 どのお顔も幸せそうに笑っていた。
  強震に母と妹亡くしたる友の手紙に言葉失ふ