大震災と私

大震災と私(3) ―詠い残し書きのこす―  




   東日本大震災     猿田彦太郎


 平成二十三年三月十一日、私達は通常に菓子の店を朝の八時三十分より開店し、穏やかな雰囲気で妻と私は店番に立っていた。
 息子達は仕事場にて菓子作りに励んでいた様子である。昼の食事も済みほっとして腰を下した一瞬、地鳴りを感じた。これはと思っていた所地震が起こり始め、だんだんと揺れが大きく上下左右に躰がおどる様に揺れ、店の戸柱に身を寄せながら、妻は恐怖の声にて騒ぎ立てていた。店の棚より菓子袋が落ちる。飾り物の焼物を土間にひとつ下すのが精一杯だった。工場内では積み上げて置いた箱が倒れ落ち、器具のボールなどの転げるけたたましい音がして、息子らも右往左往しているのが戸越しに聞えた。
 店内はそれほどでもなかったので外に出て見ると、電線が大きく揺れながら接する音が聞こえる。自分達の二階の住まいに上って見ると七部屋の引戸の全部が廊下や部屋内に外れて飛んでいて足の踏み入れ様もなく、食器棚や、書棚は前に倒れ散乱し、テレビなども粉塵を深く被っていることにわれながら茫然自失し、立ち尽す限りであった。
 今朝までの暮しとは一変して食事場、寝室和室を土足で歩くなどとは思いもしなかった。家族全部の安全を確かめてからアパートの住民十二世帯三十人が気掛りとなり、出向いて行こうとすると、その道は大きく地割れしていて下水道管が地上一メ―トル程も高く突き出でて誠に地獄を見る様である。
 往く道の両側のどの家も屋根瓦が落ち大谷石の塀、ブロック塀とが住宅街へ向いて崩れていて歩くのもままならない状態だった。
 それぞれの家の人達が道に出ていてただ黙り込んで立っている。
 ようやく自分の持つアパートに辿り着いて見るとやはりブロック塀が大きく崩れている。幸にして建物は鉄筋コンクリート建のため傷みはなかった。住人らも安全であった事に胸を撫で下した。家に帰る途中夏蜜柑の熟している家の側を通って、地震の大きさをまざまざと知った。夏蜜柑の木の元に落下した黄の実が敷くごとくあったのである。
 然(そ)う斯(こ)うしている内に夕暮となり停電である事に改めて気付いた。断水となっているため食事は日のある内にと有る物を土間にて食べる。嫁ぎ先の娘より何度か炊出しが届き食には不自由は無かった。
 蝋燭の明かりを灯し神妙な心持ちで早々と食事を切り上げることが幾日もつづいた。食後は寝に付くのであるが、部屋には入れず、子供達とは別々の自動車の中に仮眠に入る。
 孫達はキャンプでもするかのようにはしゃいで寝ようとはしない。三月の寒さの中では眠れず時々車外に出て足腰の屈伸をした。東海村一万世帯の電気外燈が一切燈らず深刻な状態であることにきびしい思いが走る。
 また街全体が暗闇のため全天の星の輝きが増して綺麗に見えることに感動を覚える。地震の様子は自動車のテレビにて知る。自分達よりも東北地方に起きた大津波に唖然とするばかり、涙の止まらず只々映像に見入るばかりであった。長い長い夜が明けて朝の顔を洗う水の無い事、トイレにて用を足す水の無いこと、今始めて水の大事さを知る。
 トイレの水の使用量は一回に四リットルの水を要する。幾度かの使用を重ね一度に流す以外には無い。水は孫の通っている保育園まで息子が貰いに行き、運んで十日間を過ごす。
 電気が通らず、完全に店も工場も仕事にならず毎日がむなしく過ぎる。自動車の中での生活が続くなか自棄(やけ)になり自分ながらに忌酒と言い、夕方は酒にて気を紛らす日々がつづいた。
 二週間ほどの内に工場の機器の設置が終わり、店舗周りの保護柵が出来上り、品数の少ないながらも十五日間の休業の末、再開店の運びとなった。
 今なお、八か月の過ぎながら全部の復旧が出来ていないもどかしさがある。それにしてもこの度の大震災は末代まで残る大きな出来事であり、その証として書き記すこととした。
  ずんずんと地震の前の地鳴りしてそれより甚
  だ強く揺れたつ
  震災に遇ひたる十日自動車に寝起きし月の光
  を浴びき
  生活道路主要道路の陥没の幾所越え婚家にし
  ゆく
  天候のくづれに早も風吹きて一夜の荒ぶ音に
  眠れず
  屋根瓦の落ちて割れしを片付くる近隣の家の
  その音きこゆ
  震災に店を護りし「お福さん」人形さながら
  の妻を見たりき
  震災に遇ひし家並の粉塵をまとひ来靴跡客残
  しゆく





   サンフランシスコにて     多田隈 良子


 今年の三月十日真夜中近い時であった。私達は日本の船クリスタル号でパナマヘの旅を終え帰宅したばかりである。入浴しながら楽しかった旅の思い出に浸っていたら、息子の報せで日本で大地震があった事を知った。
 あわてて身じまいをし千葉の妹に電話をした。漸く通じて話した所、千葉の方はたいした被害はなかったが、ものすごい揺れ様で妹は庭にある松の大木につかまり身を支えたと言う。東北の被害が凄かったと聞き、早速、私の故郷秋田の親戚、友人等に電話を入れたが、被害はなかったものの今迄にないひどい
揺れ方で恐ろしかったと話してくれた。私は日本テレビに入会しているので、毎日の様に日本のニュースを見る事が出来る。早速次の日から朝昼となくテレビにかじりついたがその悲惨さに目をおおうばかりであった。一瞬にして波に飲みこまれた集落、そのすさまじさに心がおののいた。
  集落が津波にのまれし一瞬をテレビに見つつ
  心をののく
 夫を失った人、妻を失った人、親を失った人、子を失った人々が廃虚と化した海辺に、又自分の家のあった場所に茫然と立ちつくす姿は涙なしには見られなかった。
 此方の英字新聞でも一面に取りあげられた。その記事の中で興味をひいたのは「日本人の立派な国民性」として書いてあった記事だった。
 大惨事に直面しても暴動をおこす事もなく泣き叫ぶ事もなく淡々と耐ゆる姿は稀有なる国民だとあり、白人の友人達も見舞の電話をくれるたび、皆同じ事を言ってくれた。米国に住む日本人として嬉しい事だった。
  災害に淡々と耐ふる日本人稀有なる民と白人
  たたふる
 私達の教会でも日本の為に何かしたいと思い七月十日義援金の為のコンサートを催した。
 いたらないながら私もプロデューサーとして近辺に活躍している日本人のオペラ・シンガー、ピアニスト、日本舞踊の先生、タイコグループ、コーラスグループにもお願いして出演してもらい、数千ドルの収益をあげる事が出来た。他にもサンフランシスコ・シンフォニーメンバーの倉方夫人がコンサートをし、又、友人夫妻(御主人は新潟出身、奥様は秋田出身)も自宅の広いお庭でガーデン・コンサートを催し、私達も参加させていただいた。二万ドル近い収益を日本に送る事が出来、いささかなりと日本の復興に役だてて下されば嬉しいと思っている。
 又、サンフランシスコから一時間余のサラトガ市の教会の牧師は私達の知人であるが、日本人の少ない処であり「日本人について、又日本の文化について」話してくれと頼まれたので、出向いてスピーチをさせていただいた。日本古来からの「短歌」についても話す事が出来た。今回の津波で日本人に対しての関心が高まった故であろうかと思う。
 大震災後、已に半年以上経ってしまったが、未だ避難所で生活している人々も居ると聞く。心が痛む。原発事故、瓦疎の片付け、新しい町造り等、復興には未だ未だ時間がかかると思うが第二世界戦争後、奇跡的に立ち直った日本、不死鳥の様に再びよみがえる日の来る事を信じている。
  幼稚園の卒園式に子の遺影抱き来し母よ涙し
  て見る
  生きのびてはたして幸かと避難所に語る老人
  の言葉かなしも
  災害に瓦疎と化せし集落に牡丹咲き初む光の
  如くに





   東日本大震災に寄せて     福士修二


  真夜中に起る地震にをののきて嘆く恐怖はい
  つまでつづく
  こはれたる家など一気に黒き津波押流すさま
  を伝ふテレビは
  大震災の余震のつづく朝にして庭の連翹花あ
  また咲く
  彷徨へるごとくに川を流れゆく灯籠の灯よ今
  年は多し
  夏の夜の街につづきて震災に遭ひたるねぶた
  轟きて行く
 大きな被害の中心であった東北地方の皆さんの苦痛、悲しみや嘆きは計り知れないものがあります。それを思い、被災の現実から目を離さない。だから同時に復興してくるものに、心がおどる思いをいだきます。
 未曾有の国難がつづいた四月二十九日、新幹線青森、東京間の全線が開通しました。日本が世界に誇る新幹線の自動制御は、新青森、東京間のどこで電気回路の故障が生じても、安全のために新青森、東京間の全列車は運転が停まることになっています。四月二十九日は、三月十一日大惨事以来の故障がなおって、晴れて列車の運転が出来た記念の日であり、喜びの日でありました。
 これからは、被災者の皆さんを毎日運び、少しでも幸せを運ぶこととなりましょう。