杉 山 太 郎 


  

      昭和三十七年(四十歳)
        

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      『月下』のこと(加古敬子):クリック


                            


     
大正十一年   横浜市に生まれる
昭和五年    静岡県伊東市に移る
昭和十八年   応召(復員昭和二十二年)
昭和三十一年  「歩道短歌会」入会
昭和三十三年  「歩道」伊東支部第一回歌会開催
昭和三十七年  「歩道賞」受賞
昭和三十九年  「歩道年度賞」受賞
昭和四十一年  第一歌集『石浜』出版
昭和四十六年  平塚市に転居、翌年より鎌倉彫の技術を学ぶ
昭和四十九年  第二歌集『波音』出版
昭和六十三年  第三歌集『堆紅』出版、鎌倉彫を始めてからの生活を詠む
平成元年    神奈川新聞平塚支局短歌教室講師
平成三年    右記短歌教室終了、「歩道」湘南支部歌会開催
平成七年    第四歌集『黄髪』出版
平成十四年   第五歌集『月下』出版
平成十六年   永 眠


   『石浜』より (佐藤みちや抄出)
敬虔に祈りし記憶吾になし暁の風ききつつおもふ

洪水の日より幾日悲しみのただよふ如く黄に濁る海

石浜に湧く水ありて退潮の波しづかなるときに音する

一帯に硫気瓦斯たつ焼山の裾にただちに寄する白波

この磯の潮の底ひに貝立てて泳ぐ鮑の群みゆるとぞ


   『波音』より
ひとつひとつ手にあらためて紺匂ふ春の絣を店頭に積む

朝雲をいでて眼下のはるけきに見ゆる曠野は即ち砂漠

つきつめし一つ結束うべなひて心は通ふわが子とわれと

風邪の熱とれずあゆめば花眩し木蓮の白桃のくれなゐ

逆光に壁くらく立つ工場群河口のひろき水をへだてて


   『堆紅』より
朱うるしを引きつつ思ふいひ難きあはれは深きその色にあり

六月の雨うそ寒き一日にてつかふうるしのつよき香に酔ふ

一時の心なごみてわが使ふ津和野の和紙は手にあたたかし

人の世もまた美しとおもふまで安らかにして今日街を行く

百日紅枝にあふるるくれなゐのひかり楽しきころとなりたり

老いし掌に手形をとりて嘆きたるきみの晩年の歌悲しけれ

沖に立つ潮のうねりがおもむろに光の束となりてちかづく

いましばし生きて努むるほかなしと夕べ出で来て秋鯖を買ふ

   『黄髪』より
過去の何を惜しまん午後早くふしどをのべて息喘ぎゐる

高積雲全天にみち街上の冬の大気を統べてかがやく

たたなはる峰はすなはち乾坤のさかひ音なく夕ぐれてゆく

ほしいまま生きて過誤なき老ならず黄髪風に吹かれて歩む

いましばし世にありたしといふ願ひ持ちて或る時不意に終らん

三月と妻の言ふとき救ひあり朔日晴れて陽光まぶし

老鈍の浅きねむりに聞こえゐしあかつきやみの風とほざかる


   『月下』より
晨星のまたたくごとき哀歓を記しとどめて一年経たり

永き暑気やうやく終り立秋の頃より待ちし白萩の咲く

人の世を再度生きたるごとき過去その転生も終末近し

沈む日を讃ふる声が路上よりきこえて吾をよみがへらしむ

計り得ぬ明日を侍みて路地を行く老の形影さむき昼すぎ

歩みつつしばしばおもふ人の世の善悪生死万象は夢

安住は形ならずとかつて言ひ老おとろへしいままた思ふ

人煙に遠き海の辺あゆみをり死は一切の迷妄を断つ

いづこにて終るも定めかく言ひて汝と連立つときの安けさ

物の音全く絶えて夕づくとおもひゐしとき雪の降り来つ

土低く日を受くるもの花に似て花にあらざる葉牡丹二つ

折にふれ死後の始末をいふ吾と言葉返さずうなづく妻と

屋前にそばだつ山にただ白きかがやきとして夕日かたむく


   『月下』以降
    平成十四年
方円に従ふ水のごとき日々天為を待ちて人を侍まず

春秋の夢を重ねし百年のその終末を人たたへいふ(姉)

悪意なく永らへたりといふ意識ありて孤独に路地を往来す

感情の無限を思ひ亡き人を偲びてひとり厨にゐたり

わが庭につづく堤も對岸のつつみも桜声なく開く

砲弾の炸裂したるごとき日が富士南面にしばしとどまる

虚しさに耐へつつをれば哀れ哀れみんみん蝉が声絞り啼く

    平成十五・六年
なが雨に萩終る頃老二人病みて互ひに立居きはまる

文明を好まず智者を好まずと言ひし古人に一日親しむ

車より降りてたちまち転倒し愕然として立ち上りたり

病みながら生き永らへし八十年人あやしまず吾はおどろく

観念の無限にまどひ苦しむかうつつに遠ききぞの夜の夢

死を思ふのみにつまりは何もせず日の刻々をただ借しむのみ

白梅の咲きみつる白此岸とも彼岸ともなき花の明るさ

生立ちに依りておほよそ定まりし日の要約を運命といふ

老病を当然としてなげくなく成行のまま医をも侍まず

限りなき時空を保ち近づきし星を賛へて夜々仰ぎ立つ

苦しみのなき死を願ひ死に至るまでのはかなき命やしなふ

一滴の涙に勝る言葉なし茫々としてしばしおもへる

歩むこと叶はずなりて百日の時を失ひ心失ふ

ありがたく晴れわたりたる冬の日が朝ひとしきり臥床にとどく

くれなゐの透きとほりたる断片となりし冬日が今山に入る

われの血を継ぐ唯一人向ふより花を抱へてをみなごが来る

沈む日の光を返す雲が見え表情のなき白き月見ゆ