松 生 一 哲 



                    

大正四年    石川県に生まれる
昭和四十年   「歩道」入会
昭和五十三年  歌集『氷海』刊行
昭和五十五年  「エジプト紀行」三十首にて「歩道賞」受賞
平成十一年   永 眠


   代表作品(松生富喜子抄出)
月の照る夜の道に遇ふ地震ありて樟の並木のしばらくさわぐ

山上に氷河崩るる遠雷のごときひびきを山峡に聞く

俯瞰する沙漠のなかに山ひとつ襞幾重にも雪のかがやく

急速に冷えてゆく夜の沙漠にはピラミッド一つ月にかがやく

ひろびろと咲く菜の花のうらがなし遠き世テ―ベの栄えし処

日の入りて夕映ながきナセル湖の空に満月の照るを仰ぎつ

四千粁上流にしてただひろし黄に濁りゐるアマゾン河は

白松の樹々にとよもす風の音聞きて景山の石階昇る

長江をへだてし向う秋の日に黄鶴楼がおぼろにけぶる

氷塊の流るる海に黒鴨の鳴く声ひびく笛のごとくに

流氷のとざせる海にをりをりにたつ地吹雪の音をさびしむ

飼育する揚羽の幼虫新しき山椒の葉をむさぼりて食ふ

この庭の花に飛び交ふ揚羽蝶わがいつくしみ飼育せるもの

その子らに患者が告ぐる臨終の言葉をわれもつつしみて聞く

同年の患者の来ればゆゑもなく心和みて診療をする

風音か電車の音かあいまいに春あかつきの臥所にゐたり

故郷の生家こぼたれ海鳴の寂しくひびくその跡に立つ

慈しみし二人の弟逝かしめて生家の跡にわれはいま立つ

友ら逝き悲しみ多し寒に入りわれ幾度も弔電をうつ

連休の日々のさびしさ妻とわれこもごも知人の葬ひにゆく

腎病みて入院したる五十日わが診し患者三人逝きたり

五十日病みゐたる間にこぼたれしわが家跡の土の香さびし  (自宅改築)

わが庭におかれし榾木冬旱に椎茸ひとつ芽吹けるあはれ

去年の冬先生診療なしし日があはれ最後の別れとなりぬ


   歌集『氷海』より(榛原駿吉抄出)

この湖にかたむく氷河波のごと襞かがやきて対岸に見ゆ

つらなめて鶴帰りくる荒崎の空たえまなく夕べさわがし

紺青の海より照りかへる光あり丘の神殿あゆみてまぶし

眼下のシベリヤ原野凍てつきて風痕の襞わびしく光る

冬の夜の山を焼く火にわれの見る興福寺の塔ながく明るむ

日のいづるさきがけとして青き靄はれし氷海の上の明るさ

故郷に父に代りて患者診る吾はおのづから方言となる

あらかじめ準備されたる父の写真病み臥す父は怪しまず見る

独り臥す患者のあればアパ―トの鍵あづかりて日毎診にゆく

暴力団におそはれし患者おどおどと手提金庫を持ちて入院す

治療に来しこの盲人は立ちざまに鼠を踏みて噛まれしといふ

重症の患者死なしめ悲しとも安しともなくしばらく眠る

常まとふわれの寂しさ自らが病みて手術をやめし時より

悪しざまに言ひし夫の死にてより隣家の妻は老耄となる