河 原 冬 蔵 



                     

明治四十二年   東京に生まれる
昭和二十六年   「歩道」入会
昭和四十年    「歩道年度賞」受賞
昭和四十九年   「歩道賞」受賞
平成四年     永 眠


・歌集『離合』(昭和三十五年刊行)
・歌集『昼夜』(昭和四十年刊行)
・歌集『人境』(昭和四十六年刊行)
・歌集『石火』(昭和五十二年刊行)
・歌集『傾命』(平成六年刊行)
・『斎藤茂吉―その歌と解釈』(平成六年刊行)
・『世界への旅』(平成六年刊行)


  『離合』より(由谷一郎抄出)
白魚を箸に挟めばあはれあはれありとしもなき腹のくれなゐ

鬼子母神に向ふ万燈の音きこゆはや宵々の寒くなりつつ

暑き日の暮るるを待ちて街に出づ倖ありといふこともなく

泣く妻に縋りて吾を見るをさな幼にわれは如何に映らん

別れ住む妻の舞台を見終りて靄さむき夜の街かへり来る

過去になき安けさとおもふ厨にて玉蜀黍を妻と剥きつつ

別れ住む幼もいつか避けがたき人の別離を知ることあらむ

水桶に泥鰌こもごも浮かびつつ人に食はるるさまならなくに


  『昼夜』より(芝沼美重抄出)
母の死を言にいだして願ふまでながき歳月苦しみて来し

曇り日に翳を持ちつつ飛べる鷺若葉せん木に降り来て白し

冷やかに吾は見てをり風呂に入る母が這ひつつ茶の間を通る

みぎはには杉の落葉のたまりゐて氷らむとする湖のしづかさ

ひぐらしの鳴く草山にむらがりて紫陽花咲けり青のさやけく

別れ住むをさながわれを父と呼ぶその当然のいたく身に沁む

死に近き母が吾を見て過去のこと詑ぶれば俄かに涙溢れいづ

隣り家をこはし終りて音もなき寒きゆふべに降りいでし雨

わが死後の街のさまなど思ひしがこころ惜しまむ何一つなし

なまめかしき夢より覚めて苦しみの暫し紛るる如くゐたりし

病むことは罪にあらねば病み易き妻に苛立つこころ鎮めむ

この夜半に覚めて厠にたちしとき死より目覚めし如き寂しさ


  『人 境』より(由谷一郎抄出)
絶えまなく怯えしけふも過ぎにきと眠りに縋るごとくわが臥す

若葉して鉢に群れ立つ小さきそろ風吹けばそよぐ林のごとく

鬱病のくすりをのみし為ならん起居のひまに吾はよろめく

香薬師めぐりて立てる神将のそれぞれの前にゆるる蠟の灯

亡き人の盆栽をせりにかくること「土払ひ」と云ひけふ市がたつ

「歓びのなければひと日も生き難し」老いて豊けきゲーテの言葉

谿に湧く霧が木の間を移りつつ石水院の庭に降るあめ

五目竝べして帰りゆくわれの子よわが亡き後に思ひいでんか


  『石 火』より(由谷一郎抄出)
愛恋のおもひを断てば寂しけれど老いづく日々の安けさかへる

癌を病む友が日ごとに励むさま世の虚しさを忘るるに似つ

健康のため街なかを歩みつつゆく先に小さき目的を置く

この寺の子供合葬碑の前にたつ子供とは遊女のことにて哀れ

仲見世に妻と来りてたまたまに仔猫のための鈴ひとつ買ふ

死を思ふことがあたかもわが生を支ふる如く日々過ぎてゆく

伊太利にゆくといふ子と対ひつつこの寂しさは老のさびしさ

久々に見れば気狂ひしすし屋の妻気狂ひしまま老いたる哀れ

ケ―ベルの十字の墓は簡素にて公孫樹の花の青く散り敷く