橋 本 善 七 





                     
明治三十六年   三重県に生まれる
昭和三十九年   宮中歌会始に詠進歌入選(お題「紙」)
昭和四十年    歩道入会
昭和四十三年   「毎日歌壇賞」受賞
昭和五十年    「歩道賞」受賞
昭和五十五年   歌集『庭燎』出版
平成二年     歌集『冠緒』出版
平成二年     永 眠(八十七歳)


 『庭燎』より(濱口美佐子抄出)

烏賊つりの(あかり)にてりて音もなき闇の夜の潮かすかににほふ

星空の沖にかたむく闇の夜を羅針(はり)たててわが熊灘越ゆ

海胆の籠手送りにして海女たちが夕映ながき岸に揚げをり

浜納屋のうち暗くしてかすかなる気配がこもる海胆の堆積

玉筋魚(いかなご)の汁したたれる籠を積むゆふべの海のかがやき寒く

さやさやと吹く西風に椎の木の花は光をひきてこぼるる

憩流となりて魚群(なむら)の消えゆきしはざまの湖に鷗ただよふ

かしこみの声おこるなか筵道(えんだう)布単(ふたん)の上を渡しまゐらす

み霊代奉持し渡る覆面の息もれてわが眼鏡のうるむ

渾身に力みて開く新殿のみ扉のきしり(かひな)にひびく

下げ潮に頭揃へてさかのぼる鯖らはげしく尾をふりにふる

潮しぶき吹きあげてくる丘のなだり枯れし浜うど幹ごとゆるる

岩むらに砕くる波のもみあひて目のあたり顕つ白きかがやき

霧のなかおぼろに黄色かがやくは対岸の島麦うれてゐる

海霧のはれゆく島はうれ麦の輝きて暑くなるま昼どき

夕焼の浜の広場にしとど濡れし心太草(ところてんぐさ)ほされてにほふ

蜩のひとつ鳴きいでし朝まだき金柑畑に花ほのかなり

竜巻の先端海にふるる直ぐしぶきを噴きて潮巻きのぼる

海の面に触りつつ移るたつまきの根元くぼみて巻く渦黒し

月のかげ踏みつつぞゆく古のありのままなる山の辺の道

三尺の幅のしろたへすがやかに三輪素麺をさらす日に会ふ

解禁の旗のあがるを磯に待ちたむろする海女しろじろと見ゆ

たちまちに音あらく降る夕立の雨のしぶきが海面を移る

ほの白く神遷るときひとしきり柏手の音闇にわきたつ

幾万のわれらが持ちし白石のいまや庭燎に煌くらんか

雨返しの西の風いたく吹き荒れて夕明りに顕つ海の白波

健康のためおきがけに七合の水のむことにも慣れゆくあはれ

残年を健かにあらんと幾つかの戒をまもればときをりさびし

力ある春の落葉を朝ごとに掃くはたのしき樟の樹の下

竿に吊り空にかかげし干章魚(ほしだこ)の夕日に透りさながら明し

ゆるやかにする墨の香や老いぬればかすかなるものに思ひの深む

神妙に電話をききてゐし妻が唐突に明るき笑声たつ

神島と伊良湖岬の間に見えて青みわたれる渥美大山

ひたすらに風吹き荒れし夜の明けて黒き実をしく樟の木の下

突堤につらなりて鯖をつる子らの顔あかあかと夕映のなか

ずつしりとテトラポツトを積む船が曳航されて神島へゆく

渚べに砂を被りて堆き荒布を踏めばほとぼりのあり

うづたかく積む天草にゐる夜光虫夜風にふれて光の震ふ

開き章魚竿に吊りあげて干されある浜の向うの夕山は照る

乗り出でてひとり釣る夜に鳴き出でし蟋蟀は舟の板敷の下

日拝に通ふ浜の道神島の遠く見ゆる日近く見ゆる日

暖き今日を生日(いくひ)と嫁ぎゆく娘にそひて海わたり来ぬ

高らかに大祓詞(ことば)となへつつみづからの声こころの弾む

日拝に来たるついでに掃く庭の老松に今朝も鳶がゐて鳴く

冠の緒を替へるなど斎館に明けくる年を待ついとまあり

ただよへる眠りと思ふみどり児の手があやつりの如くに動く

潮の色すずしく昏るるころほひに突堤に出でて幼と歩む

海こえてつぐみの群の来るころか岬に海桐花(とべら)の実がうれ始む

神に仕へ老いぬるわれや交はりの淡くなりゆくことも安けし

つれあひと俗にいふ言葉の味はひが老いて漸くこころにひびく


 歌集『冠緒』(由谷一郎抄出)

船生簀に乱れまひ込む夜光虫かよふ夜潮に青く光れる

さやさやと朝潮寄する禊場の浜に降りたち褌をとりかふ

大群の一文字せせり明けてくる海のうねりに乗りて漂ふ

大祓の人形流しに海までの道切幣を撒きつつぞゆく

築岸の船にて祓をするわれに崎の桜の花ちりかかる

世帯主の欄に自らの名を書きて妻とのくらしあと幾年か

いささかの夕餉の酒に老われの湯掻き海鼠の酢の香にむせぶ

わがからだ漸く枯れてつつがなく八十五歳の年逝かんとす

みづからも病むが如くにわれのためつくりし粥を妻も食ふなり

晩秋の日光おだしき斎館の縁に硯の面を研ぎをり