日本現代詩歌文学館所蔵

歌 歴
大正二年 佐賀県生まれ
昭和七年 佐賀市龍黒中學校卒業
昭和十年 中央大學豫科卒業
昭和十一年 満州に渡る
昭和十五年 結婚
昭和二十一年五月 郷里に引き揚げる
昭和二十三年 「歩道」に入会、佐藤佐太郎に師事
昭和三十二年 永眠
昭和三十三年 歌集『夏燕』発行
歌集『夏燕』より
梅雨の雲みなみに流れゆく窓に日日草の花ひらきそむ
停電に黙しゐるときあはあはと誰か蜜柑をむく匂ひする
北空の静かなる位置に輝ける星見えながら眠りゆくべし
寒々と廊下を来れば硝子戸に肩をかしげしわが影うつる
追々に夕べの迫る寂しさに耐へつつゐたり妻を送りて
庭先をふれて通りし蛇売はとなり病棟に荷を下したり
夕光の壁にあかるき病室に酸素吸入器の沸きたてる音
漸くに心さだまる思ひして寒き日暮れに雨の音する
乳色の雲おぼおぼと冬空にうごきてこよひ心おちゐず
雪晴れてただに差しくる日の光まなこつむりて鶏ら憩へり
西日さすながき廊下はひつそりとしたるひととき痰壼白し
乾きたる赤松の幹がとほく見ゆ晩夏となりし光さびしく
ひと色に空くぐもりし夕ぐれにはかなく秋の蝉が鳴きいづ
四肢冷えてねむれぬ夜半にわが胸の充填球が鈍き音たつ
乱れたる吾の心もなぎゆかむ鶏舎よりいでし鶏が羽ばたく
時々のわが安息のごときものいま部屋にきく遠きかぜ音
衝動の如き痛みに耐へゐたり窓に野分の吹きすぐる夜半
混沌としたる意識に二日経て宵にラジオの時報ききとむ
血脈のいよいよ細りゆくときになべては清し過去もうつつも
曇り日のながく寂しき夕ぐれに息ふきながらミルク飲みたり
物煮ゆる音ききゐたり安息の中に記憶のよみがへるまで
風のむき変りて寒くなりしとき窓より見えて遠き夕映
愛憐の心うごきて妻とをり春の嵐のなぎし夕べに
胸さわぎなぎたる夜半のかかる時いづる涙をひとり耐へゐつ
一日が涼しく暮れて夕顔の花の香ぞする外のやみより
いまさらに奇跡を希ふにもあらず静かに今夜ただ眠りたし
一日のこころつかれて眠るとき熱に蒸れたる枕を返す
安らぎもなく経て来にし十三年貧しく生きし妻と吾とは
窓下に炊く朝飯のふく音をうつつに聞けばいのち生きたし
松くろく見えて静まる夜の空人は如何なる歓びに生く
緊張のこころほぐるる思ひして移りし部屋に三日経にけり
吾に来しばかりに妻はみづからの一生むなしく過ぎてゆくらし
妻と得しそのをりをりの哀楽も思へば遠しいまのうつつに
部屋の燈に光りて夜の時雨降るなべてはすぎてゆくものの音
掌のよごれて心たゆき夜にいで入る息をきく如く居り
冬ごもるけものの如く床に臥しけふ誕生の一日送りつ
朝床に静かになりて見てゐたり霜に濡れつつ光る冬木々
地の果に黒くしづまる冬の森空のあかねのうすれゆく時
消息の絶えて久しき妻と子を思ふこころのいとまある日々
信じ来し未来のこともつづまりは茫々として過ぎゆかんのみ
金鳳花咲く畑道に来て憩ふこの世の果にひそむ如くに
いきいきと冬の羽虫のいでて飛ぶ時雨の晴れし夕庭の上
一日のうち静かなる時ありて臥床に冬の黄の余光さす
恃むべきいのち淋しく生きのびて髪の油の匂ふ夜の床
かすかなる生の證のごとくにて蝙蝠傘を庭に乾したり
電燈の黄にともる下何するとなく吾が心安息を得つ
霧わきて忽ち青き夜のとばり如何に睦みて妻と子は居ん
崖の上わが外気舎に直接にひびきて夜の木枯は吹く
生涯のつひの病室と思ひつつ壁白き部屋に擔架おろさる
移り来て三日と思ふ硝子戸に面会謝絶の紙がはらるる
(松生富喜子抄出の二十首に香川哲三が三十首を追加)