今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2023(令和5)年一覧

 

  二〇二一(令和三)年十二月号    


   宅守と娘子の贈答歌群      土肥 義治


 万葉集の巻十五後半に、越前国府の武生に配流された中臣宅守と蔵部女嬬の狭野弟上娘子との間で交わした相聞歌六三首が収められている。七四〇年初に宮人の宅守は勅勘により近国流罪となり、新婚早々の二人は都と越前に別れ住むことになった。宅守の配流は政治的事件のためと考えられている。
 都に残る娘子が別れに臨み詠んだ歌から歌群は始まる。
  あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて
  安けくもなし
  君が行く道の長手に繰り畳ね焼き滅ぼさむ天
  の火もがも
 越前へ向う途中の宅守の歌が続く。
  あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道
  は行き悪しかりけり
  畏みと告らずありしをみ越道の手向けに立ち
  て妹が名告りつ
 越前の配所に到着した宅守は、都の娘子と交互に多くの歌を贈答した。当時、流人は妻を伴って配所に赴くことという規定が律にあったが、娘子は女嬬という現職にあったためか同行しなかった。まず、配所に着いた宅守の悲別歌から贈答が始まる。
  我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継
  ぎまし
  逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日
  までわれ恋ひをらむ
 宅守歌に答えた娘子の悲傷歌が続く。
  魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋のしげき
  に
  帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死に
  き君かと思ひて
  我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘
  れたまふな
 つぎの歌にて二人の贈答は終った。
  あらたまの年の緒長く逢はざれど異しき心を
  我が思はなくに(宅守)
  白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子た
  だに逢ふまでに(娘子)
 二人の再会について万葉集は何も語っていない。七四〇年六月の大赦に宅守は漏れ、「ほとほと死にき君かと思ひて」と詠う娘子の失望は大きかった。しかし七四一年九月の大赦の折に罪が解かれ都に戻ったようである。
 宅守は、七六三年に従五位下に昇進し貴族に列した。しかし、奈良時代の宮人の運命は過酷である。宅守は、七六四年の藤原仲麻呂の乱に連座し除名処分され歴史の舞台から消えている。





  二〇二一(令和三)年十一月号    


   連帯退会事件のこと       八重嶋 勲


 久々に、妻と秋田県乳頭温泉郷へ行って来た。温泉郷の中には八つ程の温泉があり、橅林の道で繋っている。その中に「黒湯」がある。黒湯に辿りつき、三十八年前ことを思い出した。古びた宿、湯気を立てて流れている谷間、向うに見える葛屋根の湯殿など周辺の風景は全く変っていない。
 菅原峻氏、菊澤研一氏と三人で一日この鄙びた黒湯で、入浴し休憩してきたのであった。菅原峻氏の歌集『いま、いづこにか』に、「赤き果肉」と題して五首があり、 第一首目 菊澤研一、八重嶋勲両氏に(一九八四年九月九日)
  雨しぶく道をいましめて黒湯とふ谷に下り来
  ぬ友とわれとは
 四首、五首目
  水をふく赤き果肉を匙に掬ふふたつの心ひと
  つの嘆き
  忘れゐし憂ひかへらんいたどりの花らしき降
  る雨に揺らぎて
 私の畑で採れた特大の西瓜を、谷水で冷やして、湯上りに、古い宿の二階の部屋で匙で掬って食べた。「ふたつの心」は菊澤、八重嶋、「ひとつの嘆き」は菅原峻である。「忘れゐし憂ひかへらん」は連帯退会のことであろう。
 連帯退会事件とは、昭和五十八年三月十六日に、歩道の高弟、長澤一作、菅原峻、川島喜代詩、山内照夫、田中子之吉の五名が揃って先生を訪れ「歩道」を退会し、新雑誌(「運河」)を創刊する旨告げたとのことである。
 この年の五月号の歩道通信「五人連帯退会の事」で先生が詳しく書いておられる。退会の原因として「「歩道」二月号の「及辰園通信」に、「歩道」には私の選を経ないで歌を載せる人が何人か居ると書いてゐる。その人の中には私の評価に合格しない人も出るやうになつた。私はその人の心をひきしめるために、「私の評価と違ふ場合があまり永く続いたら、退会して貰ふ場合もあるかも知れない」と言つてゐる(以下略)」。
 先生の第十三歌集『黄月』に
  忘恩の徒の来ぬ卓に珈琲をのみて時ゆく午後
  のたのしさ
  策略をしたる元凶は誰々と知りてその名を話
  題にもせず
 他数首あり、先生の収まりがたい無念の心境が表われている。
 なお、秋葉四郎氏著『短歌清話』の昭和五十八年三月十七日、十九日、四月九日の項他に、その顚末や、先生、志満夫人、洋子さんの心境、この事件の処理について詳しく述べられている。





  二〇二一(令和三)年十月号    


   三たび「作者を読む」      仲田 紘基


 紙上歌会となった昨年十二月の東京歌会の詠草に、次の一首があった。
  近くにて掘削工事の音ひびき今日庭木々に小
  鳥来たらず          阿部 洋子
 互選の結果、この歌に八点が入っている。私も票を入れたうちの一人で、こんな短評を寄せた。「いつもは小鳥が来て遊ぶ庭だが今日は姿が見えない。そういえば、響く掘削工事の音。日常生活でのひとつの気づき。」
 今思えば底の浅い感想だったかもしれない。同じこの歌に、実は秋葉四郎氏が次のような評価を与えている。
 「作者は病気等特別な条件で在宅するから、小鳥が来ないのは切実なこと。境涯を反映した詠嘆にて秀歌。」
 つまり秋葉氏は「作者」を読んでいる。作者阿部さんにとって、励まされ心に響いた言葉だったに違いない。
 作者について知ることは作品の味わい方にも深くかかわる。かつて「歩道」誌の「『星宿』合評」で、私が佐太郎の実情をよく知らずに十分な読みができなかったという事例がある。
  雲ありて日の照るゆゑにまぶしきか台風あと
  の秋涼の天          佐藤佐太郎
 この歌について、第一評者の辻田悦子氏が「この頃、白内障であった作者の目に映るまぶしさも、『まぶしきか』の疑問形に影響しているかもしれない。」と言った。佐太郎の情報を辻田氏はどこから得たのか。その点が定かでなかったこともあり、第二評者の私は、「ここでは『日の照るゆゑに』と限定的に表現しているのだから、むしろほかの要素を考慮に入れないのが短歌の味わい」だと述べた。
 これに対して、第三評者の波克彦氏が、白内障には光がまぶしく感じられるなどの症状もあるので、作者はそのことも頭に云々、と付け加えている。佐太郎の白内障はどうやら私が知らなかっただけのことかと思われる。
 それが周知の事実なら問題ないのだが、一般には、詞書を添えたり連作の形をとったりして読む人の理解を助ける。短歌が文学である以上、つまるところ言語表現に委ねることになる。
 書かれていないものは読めない。「作者を読む」というアプローチも「表現を読む」ことにほかならない。
 それゆえに、事実に引きずられ過ぎない読みを一方で心がける必要もあるだろう。






  二〇二一(令和三)年九月号    


   遣新羅使人の歌群       土肥 義治


 『万葉集』の巻十五に、阿部継麻呂を大使とした遣新羅使人の歌群一四五首が収められている。奈良時代は唐、新羅、潮海との交流が盛んであり、遣新羅使を計十一回都から派遣し、新羅使節が二十回以上も日本を訪れた。
 国際交流の窓口であった大宰府の管内において、七三五年に天然痘とみられる感染症が流行し、その危機は平城京にも迫った。七三七年には再びパンデミックが起き、日本人の四人に一人が死亡したと推定されている。そのような時代背景をもった歌群である。
 遣新羅使一行は、七三六年六月に使人八十人と水夫四十人ほどが乗船して難波津から出航した。まず、見送る妻らの歌から物語が始まる。
  君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息
  と知りませ
 瀬戸内海を進みながら、海路途中の国々を寿ぎつつ郷愁歌を詠んだ。
  海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れ
  かねつも
  我が命を長門の島の小松原幾世を経てか神さ
  びわたる
 周防沖で突然逆風に遭い、一夜漂流して豊前の海辺近くまで流された。
  大君の命畏みて大船の行きのまにまに宿りす
  るかも
 一行は大宰府の外港那の津に到着し、筑紫の館に逗留して七夕歌を詠んだ。
  ひさかたの月は照りたり暇なく海人の漁りは
  燈し合へり見ゆ
 途中の壱岐にて一人が鬼病により命を落とした。その死を悼む挽歌がある。
  世間は常かくのみと別れぬる君にやもとな我
  が恋ひ行かむ
 対馬の港に着き、新羅へ渡る準備を終えて釜山に向け九月中旬に出航した。
その折に詠んだ大使の歌がある。
  玉敷ける清き渚を潮満てば飽かずわれ行く帰
  るさに見む
 しかし、新羅政府が大使らとの交渉を拒否し、任務は失敗に終わった。直近の新羅使節を大宰府にて追い返していたためであろう。帰国途中に大使は対馬にて死亡し、副使の大伴三中も発病し奈良に入ることができなかった。
 七三六年三月に使人三十人が拝朝したとの記録がある。おそらく半数以上の使人が罹病か死亡したのであろう。今日の東アジア情勢に千三百年前の状況と相通じる政情を感じる。





  二〇二一(令和三)年八月号    


   歌謡曲と『枇杷の花』     菊澤 研一


 昭和は戦前も戦後も歌謡曲が全盛だった。戦が敗れて兵士が帰還し、開戦の批判、左翼運動が極まる反面、娯楽は主に映画・ラジオ、クラシックの人人が軽音楽と軽く見る商業音楽の時代で、テレビの出現が流れを助長した。
 昭和二十七年『短歌入門ノオト』を読んだ。「作歌の意義と作歌活動」で歌謡曲に言及して風潮に反応する。
 「今日盛に歌はれる歌謡曲のやうなものは、本当の詩ではないので、ああいふものが何十万、何百万人の間に浸透して行っても詩の大衆化にはなりません。―淺い不健康なセンチメンタリズムに終始して、人間の奥底から出て来るやみがたい感動がありません。歌詞だけについて私は言ふのですが、かういふものは人間の精神を弱め低下せしめるものであります。然し文学、詩といふものは精神生活を高め、深くするものでなければなりません」。
 ここまで書いて、昨六月一日は日本エッセイスト・クラブ賞が決まったはずと思い、新橋の事務局へ電話した。
 ①さだまさし『さだの辞書』岩波。
 ②柳田由紀子『宿なし弘文』集英社。
 ①は「図書」連載中に読み、本も所持、②は本屋に一冊あるというのですぐ出かけた。この時間が楽しい。
 辻邦生が長いパリ滞在から帰って来て、シンガーソングライターのさだまさしと中島みゆきに注目し、日本の歌謡曲も変化するだろうと、五十五年「波」に書いた。以後四十年、現実はどうか。辻も亡くなって二十二年だ。
 短歌作者は、音楽でいえば、作詞家・作曲家・歌手を内部に住まわせていなければならない。三位一体の力を一首に傾注しなければならぬ。
 佐藤先生の『枇杷の花』は四十四年刊。再版の後記に「〈言いおうせて何かある〉といった芭蕉の言葉が思われる。私の雑文などには言いおうせたというところもないだろう」という随筆集は同年、第十七回エッセイスト・クラブ賞の候補になった。会員等からの推薦百点。選考委員、今村武雄・扇谷正造・坂西志保・干葉雄次郎・古谷綱武等十七名。五度目の最終選考で知名の作家ゆえ敬遠され、坂東三津五郎の『戯場戯語』他二点が入賞した。





  二〇二一(令和三)年七月号    


   留意事項           長田 邦雄


 短歌の素材は風景、時事、事件、何でもかまわない。しかし、それを表現する言葉は細心の注意を払わなければならない。このような主旨を常に話されていたのは佐藤佐太郎先生である。
 私の手許に「歩道作歌案内」という本がある。内容は佐太郎先生の歌論からの抄出、茂吉百首、佐太郎百首があり、仮名遣便覧などの項目がつづく。特に仮名遣便覧には「歩道の歌稿は歴史的仮名遣による」と記されている。
そして、最終項目に「留意事項」がある。「歩道」に作歌の場を求める人にとって大切な項目であるから、それらを少し抜き出してみる。

○名詞は原則送り仮名をしない。
 流れ→流 夕映え→夕映 光り→光 曇り→曇 老い→老
○作歌上使用してはいけない言葉
 山路で拾ふ ゆふべを帰る 春めく 初孫 初雪 初釜
 乙女(おとめ)→をとめ 少女
 娘(こ)→むすめ
 夫(つま)→をつと
 息(そく)→子 むすこ
○語感の悪い言葉は使わない
 特に名詞は注意する
 坐(ざ)す→すわる
 面(おもて)→顔
 ダンプ リハビリ ブル等の略語
○間接的、遊戯的、通俗な言葉は使わない。
 雪が舞ふ サラダ記念日 雪化粧 ビルの谷間 激動の時代
○カタカナ語は安易に使わない
 ピンクのバラ コバルトの空 ハウス(ビニルハウス) ホーム(老人ホーム)
○なるべく普通の字を使う
 佇つ→立つ たつ
 想ふ 憶ふ→思ふ おもふ
 聴く→聞く きく
 観る→見る みる
○その他
 桜木→桜の木 折々→をりをり
 没り日→入日
○身内の者に敬語、丁寧語を使わない。
○差別と誤解を受ける言葉は使わない。

 いわれてみれば、どれも当然の事項と思うが、改めて確認したい。





  二〇二一(令和三)年六月号    


    暁風一首           佐保田芳訓


  昭和四十九年四月、奈良県当麻寺で佐太郎先生の歌碑の除幕式があった。当日、新幹線で佐太郎先生は向かわれたのであるが、私も同行させていただき新幹線に乗った。その車内のことで、佐太郎先生が東京駅で買ってくださった弁当を食べた。同乗していた熊谷優利枝さんの発案で、食べ終った弁当の包装紙の余白に先生に揮毫して欲しいと筆ペンを取り出し、申し出たのであった。先生はこころよく受けて下さり
  暁の海よりおこり海を吹く風音さびしさめつつ開けば
  わがからだ寒にあたれば宵早く臥して鯛の腴を食ふこともなし
 私は二首の歌を書いて頂いた。昭和四十九年一月の三重県答志島での作品で、歩道に未発表の新作であった。私は東京歌会の詠草を刷っていて、日ごろから先生の新作をいち早く見ることが出来ていたが、この答志島の作品もその時の気持と同じで感銘した。
 『答志島で一泊したが諸君と夕食しながら私は具合が悪くなって、海の珍味を前にしてろくろく箸もつけず臥床した。翌日の歌会でも私は発言せず、東京に帰った。』
 これは先生の昭和四十九年三月号の通信である。
 翌朝、答志島に目覚め、伊勢の海に起こった明け方の風が、菅島水道を吹き抜けてゆくのを聞いたのであった。当日、答志島に同宿していた小久保勝治は『暁の海に起こりて海を吹く』は自身いくたびか聞いているのであるが、表現の鮮やかさは前人の未だ言っていない新しさがあると、文章に書いている。
 先日、いつも佐太郎先生の色紙や歌集を購入している古書店から連絡があった。佐太郎先生の書幅の大きさは長さ一八〇センチ、幅五〇センチある。桐箱の裏には、暁風一首とあり、裏には、昭和五十一年夏日 佐藤佐太郎自題と落款がある。昭和五十一年当時、佐太郎先生は六十七歳で、まだまだ元気で、海外旅行もされていた。墨痕あざやかな 書幅を書斎に掲げてながめていると、かつて新幹線でのやり取りを懐かしく思い出すのである。






  二〇二一(令和三)年五月号    


    平成大震災十年        秋葉 四郎


 この日この時のことを私は忘れることはない。東京五反田駅を降り、駅前からすぐ近くの日本歌人クラブの事務所に向かっていた。三時からの会議に参加するためである。この時、平成二十三年三月十一日二時四十六分、東京を最大震度七の大地震が襲った。目の前のビル群の上端が大きく揺れ崩れ落ちると思わせた。異様な雑音が方々からする。直ちに会議は中止、銘々帰路につく。電車バスの交通機関がすでにマヒし、全て歩くしかない。私の孤りの彷徨十一時開か始まる。
 先ず品川駅まで歩き、私の乗る総武線復旧のないことを知る。同時に駅のオーロラヴィジョンに映る東日本大震災現地の災害状況の壮絶さを見て驚愕した。とにかく私も家に何とか帰らなければならない。周辺状況のよくわかる中目黒駅前まで歩き、居酒屋で食事もかねて時を過ごす。午前一時頃に回復した銀座線に乗った。駅ごとに長く停車しながら銀座駅で降り、行きつけの一つ終夜営業の店を目指す。店は閉店だったがよく知る女性店員が残っていてタクシーを拾ってくれ帰路につけ、夜明けの六時半ごろ家に帰りつくことができた。幸い東京が停電せず、携帯電話が正常に働き、家族とも友人とも連絡がとれていたのは救いだった。
 この大震災で「歩道」会員の被災者は多かった。編集人として直ちに、被災者の思いは当然、それを心配する会員同士の声も重視し、毎号特集を続けた。これは顧みて結社誌として大切なことだったと今も思う。結果として、二年後の平成二十五年三月十一日発行の歌集『平成大震災』(いりの舎文庫)を刊行し世に残し得ている。少しは誇りにしてよいのではあるまいか。私は「あとがき」に書き残している。「今、事実を重んじ、経験を大切にする抒情詩短歌、純粋短歌を究めんとする結社「歩道」が、この平成の大震災をかく詠いかく書き残していることは、決して小さいことではないように思える。(略)少なくとも後の世の人々にいささかの遺産になるのではあるまいか」。
  怖れつつ棺を開けて水の浸む野良着を見れば
  確かに父なり          大貫孝子
  窓破れ屋上に物の上りたるわが家の無残こゑ
  あげて泣く           中村とき
           (『平成大震災』より)





  二〇二一(令和三)年四月号    


    詩的真実と科学的真実     土肥 義治


 二つの真実の意義と歴史を考えたい。自然のなか逞しく生きた古代人らは、山、川、海などの自然物や雷、風などの自然現象のなかに棲む八百万の神々の意思を理解しようと、目的論的自然観に立ち全霊にて自然の事物や現象を観察した。自然変化の折々に現れる神々の意思を逸速く知り、起りうる災厄を予測することが農業を営む生活者にとって極めて重要なことであった。
 このように、古代人と自然とは一心同体であった。自然の移ろいの本質を求め感得した詩的真実を詠う優れた叙景歌が万葉集に多数ある故であろう。
 また、生活に余裕のある貴族は、自然の事物を借りて自己の心情を詠じた。万葉歌人のなかで大伴家持は、自然や季節に対する感覚がとくに鋭敏であり、優れた叙情歌を多く残している。景情融合の春愁歌二首(巻十九の四二九〇と四二九一)を紹介する。
  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも
  わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも
 春霞の夕べに鳴く鶯の声や群竹を吹く軽風の音に詩的真実と余情がある。
 さて、自然科学は西洋において進展した。キリスト教徒にとって、唯一神が創った地球上の自然を観察し理解することは、神の目的や意思を知るために重要な課題であった。十七世紀の科学革命は、アリストテレス以来の知覚経験に基づく現象記述の自然学を否定して、自然現象の普遍的な法則を数学的に表現することを目指した。
 ガリレオは神の創った自然は数学的記号にて書かれていると主張し、デカルトがアリストテレスの経験的自然学に代わる数学的自然学の理念を打ち立てた。現代の自然科学は、自然学から神学を分離し、自然現象自体の普遍的構造を数学的に解析し記号記述している。科学的真実とは、自然現象における因果関係の数学的理解である。
 纏めると、詩的真実は主観的な実相観入体験により感得した直観であり、科学的真実は合理的思考により得た自然界の客観的な法則である。
 筆者は、半世紀近く研究室にて科学的真実を追い求めてきたが、最近は詩的真実を求めて自然のなかを彷徨し景物を指向的に観察している。





  二〇二一(令和三)年三月号    


   長塚節の『土』を読む      八重嶋 勲


  節の父源次郎は、県会議員を五期務めたが、裁判事件等が起り、節は心痛した。父の政治運動の借財整理に心労。その一方途として屋敷に炭窯を築いて炭焼きを始めた。方々見学する等してその改良に熱中。そこで得た写生文「炭焼きの娘」は散文の出世作となった。四百字詰二十三枚程の短編である。
 その後の小説『土』は大長編。六百二十五枚にも及ぶ長さに先ず驚く。因みに、左千夫の『野菊の墓』九十枚、子規の『病床六尺』は三百六枚である。
 『土』の書き出しを引いてみよう。「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけて又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつつ目叩いた。さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終つたかと思ふ程静かになつた。泥を拗切つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然とひつついて居て空はまだ騒がしいことを示して居る。それで時々思ひ出したやうに、木の枝がざわざわと鳴る。世間が俄に心ぼそくなつた」。そして、本文に入っていく。天秤に豆腐を担ぐ行商の母三十二歳のお品、十三歳の娘おつぎ、三歳の息子與吉。出稼ぎから時々帰ってくる夫勘次、野田の醤油蔵に住込みで働き、後同居の七十一歳の祖父卯平の貧しい生活の物語が始まる。明治年間の茨城県鬼怒川辺の農村部が舞台。会話は全て茨城弁。小説は二十八節から成る。時々前出した情景描写を挟み物語が展開する。
 四節で母お品が、酸漿の根を使った二度目の堕胎で破傷風に罹り、貧しいうちにも医薬を尽くすが死亡。生活の中心の主婦を失った、その後の一家の悲惨な暮しを如実に描き出した小説。
 小規模の田畑を耕し、いろいろな仕事で賃金を得、隣家から借財などしながらの貧しい生計。父は、働き者だが、ある時他家の稲束や玉蜀黍等を盗み、おつぎが証拠隠しをして取り繕う。おつぎは二十歳の年頃、父は近づく若者らを異常に警戒する。祖父卯平が居眠りの間に、與吉の火遊びにより家が全焼。東隣家にまで延焼。卯平、與吉火傷。卯平が雪の中で凍死寸前となる。等々目も当てられない凄惨な生活を克明に描いている。徹底した写実克明な描写力に感動した。





  二〇二一(令和三)年二月号    


   「来る」か「来たる」か     仲田 紘基


 「来る」は「くる」とも「きたる」とも読める。「くる」と読めば「来(く)」という動詞の連体形。これを「きたる」と読むときは「来(きた)る」という動詞の終止形である。
 問題なのはこれを必ず「きたる」と読ませたい場合だ。ルビがなければ「くる」か「きたる」かわからない。誤読を避けるためにわざわざ「来たる」と表記する人さえいる。もっとも、「来たる」とも書く、とする辞書(三省堂『大辞林』等)もあるから、この表記を誤りだとも言えないのだが。
 秋葉四郎氏の『大人の短歌入門』(角川書店)に動詞「来(きた)る」の懇切な説明がある。そこでは「現在目の前に『来る』という臨場感を演出」するのに効果的だと言い、そのシンプルなよさが強調されている。「来(く)」ではなく、「来(きた)る」の用いられた歌が「歩道」誌にも多い。
 ところで、「来(きた)る」と混同されやすい表現として、動詞「来」に助動詞「たり」の連体形「たる」の付いた「来たる」がある。
  わが来たる浜の離宮のひろき池に帰潮のうごく冬のゆふぐれ
 佐太郎の名歌。この「来たる」は、文法的に言えば、助動詞「たり」によって来るという動作が完了し、その結果が存続していることを表す。
 気になるのは、このように「来たる」とすべきところまで「来(きた)る」としてしまう例を見受けることだ。最近の「歩道」の掲載歌から拾うと、例えば次のようなものがある。
  遭難碑辿りて来る八甲田山揺るがして地吹雪の立つ
  三日ぶりに来る目黒の能舞台地謡の前アクリル板立つ
 これらの歌の「来る」は音数から推測して「きたる」だろう。佐太郎の歌に照らしてみてもここは「来たる」としたいところ。今その場所に来て(完了)、そこにいる(存続)のだ。もとのままでも文法上は正しいが、この「来(きた)る」という動詞自体には「過去」や「完了」の意味がない。「過去」にするには「来りし」などと続ける。例の「たり」を接続して「完了」「存続」の意味を持たせることもある。
次の茂吉の歌はその例である。
  置きざりにして来りたるものありと思ひいづれば京の夢ひとつ






  二〇二一(令和三)年一月号    


   茂吉真筆の力          秋葉 四郎


 斎藤茂吉記念館の館長をさせていただき永くなるが、このコロナ禍には閉口している。本来は月に数日ずつ通い毎回茂吉真筆に触れて、新鮮なエネルギーを実感し、自身にカツを入れて帰るのが常であったが、コロナ禍の今年は八か月に二度ほどしか行くことができなかった。
 六月に久々に理事会に参加できた時は早々と上山に向かい、宝泉寺の茂吉の墓をお参りし、墓地から月山を遠望したり、蔵王を仰いだりした。墓地に植えられていたあららぎが枯れ、後継のあららぎに赤い実がついていることに感動したりして茂吉記念館に着いた。
 挨拶もそこそこに常設展示、特別展示を見巡る。
 茂吉記念館の展示は全て真筆で、もともとは茂吉自身が大切にしていたものを、斎藤家の御遺族が更に大切に護ってこられて、今全て御寄贈いただいているから、心打たれるものばかりである。その上に、山上次郎氏のような茂吉資料収集家のものも凡そ寄贈を受けているので、思いがけない作品にも出会える。会議の前、後に時間を惜しみつつ私はその本物に浸った。
 多くの文学館と違い複製のもの、写真版などは少なく、わが茂吉記念館はいわば全て真筆で、間違えたところを巧妙に修正しているところなども楽しく、茂吉の息遣いさえたっぷりと感じ得るものである。
 彼の戦時下、青山のお住まいも病院も昭和二十五年五月の東京空襲で全焼している。然るにこれだけの資料が残ったのは、茂吉が疎開に携えて守ったからである。どのくらいの量であったか。三年後昭和二十二年十一月に大石田から東京に帰る時、十トン貨車にて五十五個の荷持だったということがはっきりしているから、想像に難くない。
 「歩道」の皆さんにはぜひ何度かご覧いただきたいと願っている。多くの方が維持会員等になっていただいているが、ぜひ会員となって親しんでいただきたいところである。
 斎藤茂吉記念館所在地及び電話
〒999-3101 山形県上山市北町字弁天1421
   (電)○二三-六七二-七二二七






  二〇二〇(令和二)年十一月号    


   及辰園先生尺牘         菊澤 研一


 佐藤先生に師事して六十八年になる。といって短歌が思うように作れるわけでもない。辛苦してようやく作品を送った後は、放心して麦酒を飲みたくなる。これが数年の相だ。
 入会する前にはがきをいただき、「御手紙拝見致しました。〈歩道〉へ御加入の由、よろこんで御迎へします。貴兄はまだ御若いしするから特に辛棒づよく一生の為事として短歌を追及されることを希望します。時々の小流行にまどはず、斎藤先生の歌論、実作を目標として進む事が根本です。歌はなるべく毎月休まず御送り下さい。八月八日(昭和二十七年)佐藤佐太郎」とあった。
 ついで、「御入会歓迎いたします。九月号別便で御送りいたします。歌なるべく休まず御送り下さい。歌は辛抱づよく気永に勉強する事が必要です小成に安じないで一生やり通す覚悟で御勉強を祈ります。八月廿六日 佐藤佐太郎」が届き、翌月、「今日は久しぶりに西谷兄(茂吉門・京都府・旧姓高柳・秋田県六郷町生)が寄つてくれて種々話をしました。歌は才能があつても長つづきしなければ駄目ですから、辛棒づよくやる覚悟でゐて下さい。盛岡には片山新一郎君や森山耕平君が毎月歌会をやつてゐます。九月廿一日 佐藤佐太郎。○菊沢君、御元気ですか、今日は上京、斎藤先生を訪ね、午後から歩道短歌会に出席しました、廿五六人の出席でなか〱盛会でした。貴君のことも話題にのぼりました。私は明後日帰京します。西谷得宝」という寄書が届いたのであった。
 作歌を志す少年に対して、将来の示唆を与えるとはどういうことか、今にして思えば「辛棒づよく一生の為事として」だけは守り得る感じがする。
 『純粋短歌』の要諦である「火に於ける炎 空に於ける風」「一瞬間一断片」また「暦日短促」「地以上即天」「氷雪為心」等の言葉が痛切にひびく。
 私は先生の無限の策励と慈悲に槌ってこの詩型に依存してきた。先生の歿齢を越えて十一年、終点は目睫に追っていても作品を送るとき、先生の眼を意識しないことはない。先生ならこの素材をどう扱うか、どう表現するか、どう評するであろうか。生死先生に対うときの緊張が作歌を永続させてきたのである。感謝はただここにある。







  二〇二〇(令和二)年十一月号    


   二二が四            長田 邦雄


 最近出版された秋葉四郎氏の『茂吉からの手紙』に収録されているのは、永井ふさ子、結城哀草果、杉浦翠子、山口茂吉、原阿佐緒、佐藤佐太郎、河野多麻、そして次男の北杜夫である。それぞれの人物には大いに興味をいだかせるが、その中でも私は佐太郎先生に宛てた「茂吉からの手紙」がとりわけ興味深い。その文面は若い弟子に対する茂吉の愛情があふれている。
 秋葉四郎氏はその解説に佐太郎先生の「茂吉随聞」(岩波書店刊「佐藤佐太郎集」第七巻7頁)に依って読み解いている。
 古泉千樫の「鷺の群かずかぎりなき鷺のむれ騒然として寂しきものを」に対して茂吉の言葉「芸術は二二が四ではおもしろくない。もうすこし濁らなけくては・・・」。短歌を芸術の一ジャンルに分類して、短歌とは何かを解いている。千樫の作品のどこが「二二が四」なのか。どうすれば「もうすこし濁る」のか。茂吉のいわんとしているところを若い佐太郎先生は間違いなく受けとめた。「啐啄同時」である。昭和六年「軽風」時代、佐太郎先生二十二歳のころのエピソードである。
 一首の作品を成す時、全体の調和を考えてしまう。また、作歌年数の少ない初心者は世間の常識に起因した作品を成してしまう。茂吉のいう「芸術は二二が四ではおもしろくない」という言葉は短歌は科学のように明確な解答を欲していないということだ。
 人間の感情は複雑で混沌としているから、作者の真実の声を作品に結晶することは数式のようにはいかない。調和とかバランスとかを考慮する余裕などないはずだ。ひたすら一直線に進むことしか解決策はないだろう。
 しかし、「いうは易く行なうは難し」で誰もが苦労をしながら日々精進している。わずか三十一音の短歌に茂吉が生命を懸け、佐太郎先生は生涯歌人をつらぬいた。短歌はその代償たり得るのだ。間違いなく「二二が四」ではない作品にその魅力がある。そこに作歌者の喜びがある。
 茂吉、佐太郎先生の彫られた深い轍のうえをおどおどと歩いている私は、この一言を頼りに今も苦労している。






  二〇二〇(令和二)年十月号    


   那智の滝            佐保田 芳訓


  先日、岩波文庫の『日本近代随筆選』を読んだ。三人の選者によって編集された随筆集である。森鷗外の「サフラン」や幸田露伴や永井荷風、等々の随筆が載っている。その中の斎藤茂吉の「遍路」を読んだのである。四〇〇字詰九枚程度の短文であるが、斎藤茂吉の文章に感銘した。斎藤茂吉の年譜によれば、大正十四年、八月三日から、岡麓、土屋文明等と奈良、高野山に遊び、文明、武藤善友と熊野大雲取を越えて、十日帰京したとあり、随筆「遍路」はその時のものである。茂吉はこの熊野越と題して、三十首の歌を作っているが、時事日報の依頼をうけ、随筆も書いたのであった。
 「この山越は僕にとっても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによった。(しか)も偶然二人の遍路に会って随分と慰安を得た。なぜかというに僕は昨冬、火難に遭って以来、全く前途の光明を失っていたからである。すなわち当時の僕の感傷主義は、曇った眼一つでとぼとぼと深山幽谷(しんざんゆうこく)を歩む一人の遍路を忘却し難かったのである。」
 と書いている。青山脳病院全焼ののちの苦難の茂吉の心境が反映している。
  目のわるき(へん)()が鳴らす(すず)()一山(ひとやま)かげになりてきこえず
 この山越では二人の遍路に会って言葉を交すのであるが、そのひとりである。
 昭和四十三年、佐太郎先生は那智勝浦を訪れている。
  ()(とせ)経てふたたび来れば移りゐる雲ひとつ那智の滝のしづかさ
  高きより光をのべて落つる滝音さやさやとさわかしからず
  冬山の靑岸(せいがん)渡寺(とじ)の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ
 那智の滝において三首作っている。「冬山の青岸渡寺―」の一首は多くの人に親しまれた佐太郎先生の名歌である。『及辰園百首』にも入っている。
 「『風にかたむく那智滝』といふ句はその場で出来た。多年短歌の習練を積んで来たが作るときは表現に苦しむ。しかし稀にはこのやうに簡素な表現がたちどころに成ることもある。」と語っている。
 この歌に触発され、上田三四二は那智の滝におもむき歌を作っている。
 「作者は折からの冬景に、風を受けて滝がうつつに傾くのを見たと感じたのである。『風にかたむく』が見どころだが、作者自身の心もその時そこでかすかに傾いた。」
 この一節は大岡信の『折々のうた』の解説である。三句目の「庭にいでて」の字余りも問題になった所であるが、佐太郎先生は意識して使っている。
 さて、斎藤茂吉の随筆「遍路」についてであるが、斎藤茂吉も那智の滝を見ている。
 「那智には勝浦(かつうら)から馬車に乗って行った。昇り口のところに()いたときに豪雨が降って来たので、そこでしばらく休み、すっかり(あま)(しよう)(ぞく)に準備して滝の方へ行った。滝は()(ごん)よりも規模は小さいが、思ったより()かった。石畳の道をのぼって行くと僕は息切れがした。」
 「遍路」冒頭の一節であるが、旅の出発点であったので、滝をながめる時間がなかったのであろう。茂吉は「規模は小さいが、思ったよりも好かった。」とやや通り一遍の感想で終っている。大岡信の言葉を借りれば「心が傾か」なかったのであろう。
 斎藤茂吉、佐太郎先生の作歌の態度は「実相観入」である。当然我々も目標としている。佐太郎先生は、かつて、写生に徹すれば、短歌の素材は向うからやって来ると言っていたが、那智の滝は佐太郎先生にとって、またとない遭遇であったと思う。





  二〇二〇(令和二)年九月号    


   新しい生活様式         波 克彦


 百年に一度ともいわれる新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)により六月初めの時点で既に世界の感染者数は六百万人を超え死者も四十万人に迫り、感染は拡大の一途で未だ終息の兆しもない。筆者は三月下旬から米国法律事務所員として自宅でのテレワークに切り替えて業務を行って来たが四月に入って緊急事態宣言が発出される直前には郷里の丹波篠山の生家に居を移してテレワークを続けている。
 四月に緊急事態寡言が発出されて一か月半後に宣言が解除されたが感染拡大の第二波、第三波が来ることが確実視されている。今回の新型コロナウイルス感染を予防するワクチンも治療薬も未だ開発途上であり、それらの予防薬や治療薬が開発され実用化されてもパンデミックを抑えていくには少なくとも数年はかかるし、公衆衛生面での対応が遅れている貧困国や途上国ではそれらの予防薬や治療薬の確保には経済面での大きな障害が立ちはだかっていて世界的流行の早期の終息が一層困難になってくると考えられる。
 ウイルスはそもそも太古の昔から自然界に存在し生物と共存し(というかウイルスに端を発した病気で生命を絶たれなかった生物が地球上に生を繋ぎ)、ウイルスは変異を繰り返しながら幾たびも生物に影響を及ぼしてきており、現存生物は各種のウイルスと共存して今日に至っている。
 五月の国の専門家会議に於て、新型コロナウイルス感染拡大が終息してもウイルスが無くなるわけではなく、人は新型コロナウイルスと共存しつつ生きていくしかないことを認識した上で、従来の生活様式にただ戻すのではなく、「新たな生活様式」を考えて実行することが提言されている。
 社会でテレワークが多くなるとともに従来の勤務様式自体が見直されるようになった。外部での面談による会合や集まりの多くがZoomやTeamsなどインターネットを使ったテレビ会議に替り、更には懇親会や飲み会もインターネット飲み会などと称される方法により行われるようになった。某大手総合電機会社は勤務様式自体を在宅勤務を基本とすることに転換することまで表明している。音楽、文学などの芸術活動でもインターネッ卜による活動が始まっている。
 わが歩道短歌会においても、緊急事態宣言期間中は編集作業もテレワークでできることはテレワークにて行い、東京歌会も集会による歌会から紙上歌会に形態を変えて継続している。
 コロナウイルス問題が終息したのちもインターネットにより繋がる方式が新しい生活様式として定着していくであろう。ただ、インターネットにより繋がっている会合などの行動様式が克服できない点があることに気付いている人は少なくない。それは、インターネットによる繋がりでは視覚、聴覚による事物の認識はできてもその他の感覚(嗅覚、味覚、触覚、痛覚、温感、体感という八感のうちの六つの感覚)による認識ができないことである。
 しかし、そのことを短歌の世界について考えてみれば、例えば写生短歌は、「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」(斎藤茂吉)を旨として作品が作られているから、出来上がった短歌作品の一首一首には、すでに八感のうちの幾つかの感覚に基づき認識された事物が一首に詠われている。その一首を視覚的に鑑賞するだけで、それが紙媒体によるものであってもインターネットなどの電磁気的媒体によるものであっても、一首に凝縮表出された事物を視覚、聴覚に加えて八感のうちの他の感覚も加えて鑑賞できるものであるという特長が備わっている。
 新しい生活様式という観点から歌会を考えてみれば、コロナ禍により集会での歌会が開けない状況下で東京歌会が行っている紙上歌会は、短歌のもつ前述の特長ゆえに十分に歌会の目的を果たしていると言えよう。しかし紙面の制約から、集会での歌会での批評をつぶさに掲載することはできない。従って、先に「歩道」平成三十一年四月に「歌会」と題して書いたように、東京歌会では佐太郎・志満先生に続く正統写生短歌の真髄の一端を秋葉四郎氏から指導いただくことができる。新型コロナウイルス問題が終息した暁には、また集会での東京歌会が「新しい生活様式」に引き続き組み入れられて、参加者の写生短歌の道への邁進に大きな支えとなることを期待したい。





  二〇二〇(令和二)年八月号    


   万葉歌人の実相観入       土肥 義治


  詩文、芸術、科学、技術など広い分野の創作活動において、先ず作者の心を対象の事物に深く潜入させ、感性にて独自の心象風景を形成する。次に、その客体の主観象を理性により客観化し、それを具体表現して他者の共感を得る作品を創造している。
 短歌の実作にあたり、斎藤茂吉の言う「実相に観入」とは、心眼にて実相を把握して主客を一体化させることであろう。万葉入は、自分の体から魂が遊離して他者に乗り移る遊離魂の発想と信仰を持っていた。感嘆した現象の人物や自然に魂を観入させる優れた感受性を持っていたと思う。
 ここでは、万葉歌人の実相観入法を具体的に観てみたい。言うまでもなく、万葉集には西暦六二九年から七五九年までの百三十年間に詠われた和歌四千五百余首が載っている。万葉百三十年間は四期に区分でき、各期の代表的歌人の短歌を取り上げて鑑賞したい。
  三輸出をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠
  さふべしや
 第一期歌人の額田王が、天智朝遷都のために近江に下った際に、途中の奈良山から大和の国魂が宿る三輸山を眺め詠った歌(巻一・一八)である。無情な雲への強い呼びかけに、古里惜別と三輸出鎮魂の切情が漂っている。
  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいに
  しへ思ほゆ
 第二期歌人の柿本人麿が近江の荒れ果てた旧都を訪ねた時の歌(巻三・二六六)であり、干鳥への呼びかけと荒都への深沈たる観入が印象的である。近江朝の鎮まらぬ霊たちが千鳥となり群れ鳴いていると人麿は感受した。
  ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川
  原に千鳥しば鳴く
 第三期歌人の山部赤人が聖武天皇の吉野離宮行幸の際に従駕し詠んだ歌(巻六・九二五)であり、千鳥の鳴く清々しい川原の夜の心象風景を詠うことで神聖な吉野を祝福した。
  うらうらに照れる春日にひばり上り心悲しも
  ひとりし思へば
 第四期歌人の人件家持の春愁詠の一首(巻十九・四二九二)であり、雲雀の鳴き声を聞きながら朝廷政争の重圧による傷心を独唱している。この景情融合の叙情歌は、孤独な自我を詠う秀歌として近代になり注目された。






  二〇二〇(令和二)年七月号    


   佐藤佐太郎の長塚節研究の書   八重嶋勲


 佐藤佐太郎著に『長塚節』という研究書がある。雄鶏社から昭和三十四年一月二十五日発行された二五三頁の本。
 後記に、「私は作歌生活の初途において長塚節の影響を多く受けた。斎藤茂吉先生は直接の師であるから茂吉の影響は勿論だが、茂吉についで影響を受けたのは節であった。節の歌の細く冴えて沁みとおるような声調を私は今でも愛してやまない」と書かれている。
そして『長塚節全歌集』(宝文館)を編集したとも書かれている。
 『長塚節』は、節の生涯・鑑賞篇・歌集篇・歌論篇・小説篇・年譜が収められている。関東平野を清く豊かに流れる鬼怒川に沿って櫟林に囲まれた一僻村の豪農長塚家の長男として明治十二年に生れた。県立水戸中学校在学中に脳神経衰弱様の病気で中途退学。この病気は生涯根治しなかったという。
「日本新聞」で子規の和歌革新の歌論「歌よみに与ふる書」を読み共鳴、明治三十三年三月、初めて子規を訪ね持参した歌数首の批評を受け、子規の枕頭において線香を点して共に矚目即詠を作ったという。四月子規庵歌会に出席、伊藤左子夫、岡麓、香取秀員等と識った。以後しばしば上京、子規を訪問、歌会に出席し、子規の感化に随順して作歌に励み、最も敬虔な子規門下の一人となった。また、子規入門は同年で、節の十五歳年長の三十五歳の左千夫と交渉。子規門で特に作歌に熱中、頻繁に往来し互いに刺激し合った。明治三十五年、子規が歿した。翌三十六年六月、節二十五歳。根岸短歌会の機関誌「馬酔木」発刊。編集同人。七月、八月関西に遊ぶ初の大旅行。以後日本各地を訪ねた。
 明治四十一年、小説を書き出す。「芋掘り」から「土」までの二年間だった。
 明治四十四年十一月、全治困難な咽喉結核が判明。大正三年九州旅行に出かけ、この頃から名歌の連作「鍼の如く」を作り初め、五回にわたって発表。
 大正四年二月八日早暁、福岡県の大学病院隔離病室で逝去。三十七歳。
 後記に「短歌はー首にながれている声調・語気というものが大切である。それはどのようなものでなければならないか、その最も美事な例が長塚節の歌にあるだろうと思う」と書かれている。





  二〇二〇(令和二)年六月号    


   教へし子            仲田 紘基


  十年ほど前に「歩道」誌に次の一首が載った。
  教へし子の名の記されし産直の大根買ひぬ懐
  かしければ
 実はこれは私の作品である。ただし原作の初句は「教へ子」であったのが「教へし子」と添削されている。
 添削の背景についてはのちに知ることとなったが、当初は誤植かと目を疑った。字余りになってしまったし、これでは私の意識の持ち方に乖離が生じる。教師として私が教えた当時は確かに子供だった。しかし今はりっぱに農業を営む人だ。その成人した人の「名」が記されていたのである。
 一語の名詞「教へ子」をくだいて言い換えたのが「教へし子」で、「教へ」「し」「子」の三語になる。「教へ子」が短歌に詠まれる時はすでに成人であることが多い。つまり「教へ子」は「教えた人」なのだが、「教へし子」と言えば「教えた子供」である。
 その後しばらくして、私は思いがけず次のような一首に出会った。
  教へ子は教へ子にてよし教へし子などと言ひ
  換ふる語感を疎む
 これは「歩道」の古い仲間である島原信義氏の作品。私の歌に対する感想のようにも見える。
 私の先の歌はあとに残すほどのものではない。それでも初句を「教へ子」に戻してあえて歌集に収めた。添削された形が私の「語感」だと思われることに耐えがたかったからである。
 上屋文明が教え子という言葉を激しく嫌ったと平成二十一年に清糊口敏の文章で紹介された。その賛否が新聞の投書欄に寄せられたりもした。「尊大な物言い」「高慢な気風」を感じさせるという言語感覚に共感する声や、その言葉を使う人の意識の持ち方次第だという反論など。どちらもよくわかるが、私自身は、一首全体の中で「教へ子」という言葉に教師の不遜が感じられなければいいのでは、と思っている。
 もっとも、文明のように言葉自体がだめというのでは話は別になる。大成した人に対して「教へ子」を避けて代わりに「教へし子」などと言えば、自分が教えたことがかえって印象づけられ、相手を子供呼ばわりすることにもなるだろう。一語の言い換えで解決出来る問題ではない。





  二〇二〇(令和二)年五月号    


   「歩道」の未来         秋葉 四郎


 日本現代詩歌文学館の研究紀要14号に私は「『平成』三十年、その光と影」―一結社の作歌活動・作品から結社の未来を探る―という小論文を発表した。
 「〈特集〉平成を振り返る―時代の変遷と詩歌」というテーマに応じたものである。平成三十年に限定されたテーマだから、昭和二十年五月「歩道」創刊から、昭和五十三年までの、主宰佐藤佐太郎の全盛期の活動が抜けていていささか自ら物足りないものがある。
 そこで昭和期三十年の私が重視する活動を箇条書きしておきたい。歌論として発表してあることと重なるところもあるが、容赦願う。
 第一は、「歩道」が第二次世界大戦後の社会不安、貧困等の中で、作歌によって会員に力を与えてきたことである。例えば結核が青年病であり、国民病であり、つねに国民の死因の首位を占めて来た。戦後は貧困と食糧難が拍車をかけて、昭和三十年ころまで、有為の青年男女が国立の結核療善所に隔離治療を受けていた。その入所者の多くが、抒情詩短歌や俳句に心を注ぎ、抒情詩の力を生きる支えにしていた。結社誌「歩道」は結社理念「純粋短歌」の実践によって一縷の光を掲げ進んできたのである。
 やがてその貧困時代が過ぎ、高度成長期、そのバブル崩壊期をも迎え人々は精神的、文化的渇望を満たすものを求めた。それを満たすものが「歩道」にはあって、天才歌人佐藤佐太郎のもとに共感し合って、変遷の多い時代に心を満たし、作歌とともに難局を生き抜いてきた。こうした根源的な力が抒情詩短歌にあり、「歩道」はこれを貫いている。
 今厳しい高齢社会を迎え、新たな困難にぶち当たっている。現実を現実として受け入れ、正岡子規のように阿鼻叫喚しつつ痛みに耐え、残された時間の中で、可能な仕事を果すこともあり得る。
  二十五年前の写真にうつれるは皆病者にて亡
  き人もあり            佐太郎
 『天眼』にある歌で、柏崎療養所での写真。涙と共に回顧している。
 佐藤佐太郎の「歩道」の作歌はどんな時代にも生きる力を与え、更に与えつづけるに違いない。





  二〇二〇(令和二)年四月号    


   高青邱のこと          菊澤 研一


  夜の海暑さが残る砂の上月の明かりが心も照
  らす             小井田優楽
 2月4日、第14回盛岡市小中学生短歌・俳句大会の表彰式に出た。中学生の部の特選にこの歌を取った。「夜の海の」とすればなおよく、「の」の多出も気になるようでならない。作者は背の高い、濃紺の制服の二年の女生徒である。私は敗戦直後、同じ年頃に作歌をはじめたことを思い出した。
 昭和44年「文藝春秋」新年号に佐藤佐太郎先生の「白渚日常」7首が載った。安房白浜の作である。
  時じくの筍のびし渚村髪種々とふかれてあゆむ
 同年3月17日、永言舎を訪ねたとき、先生はいわれた。「支那の高青邱の詩に〈種々たる髪を吹く〉がある。それを髪種々と転用したんだ。判った上で使っている。高青邱は30位で死んだが(一三三六~七四)、向うの詩人は修飾していうから30でも髪種々なんていう」。
 壁に志満婦人絵、先生讃の枸杞の芽の歌の色紙が掲げてあった。「枸杞ではこんなことがある。あれは精力がつくんだが、支那では寺に植えているところがあって変だという。あるべき所に植えているようには思われない。ところが道ばたに植えると、人が取って食べるので絶えてしまう。保護するためには寺に植えておけばいいわけだ」。
 同年「短歌研究」7月号に、還暦を記念する「五紀巡游」50首が出た。
  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年の心を照らせ
 私の所持する岩波・中国詩人選集の『高啓』には「髪種々」はない。当時の勤務先の図書室に「漢詩大系」があって『高青邱』を見つけた。


   不明月湾
 木葉秋
脱 霜鴻夜猶飛  (たちまちに)
 扁舟弄明月 遠
青山磯  (わたる)
 明月處處有 此處月偏好
 天濶星漢低 波寒芰荷(きか)老   (ひろくして)
 舟去月始出 舟廻月將
  (しづまんとす) 
 莫吹種種髪 但照耿耿心
 把酒
水遷 我宿湖裏  (らいす) 容(ゆるして) 
 酔後失清輝 西巌暁猿起


 集中の「贈羣上人」には「風にかたむく那智の滝見ゆ」の素因「高風揺飛泉」もある。序にいえば森鷗外は高青邱の同情者で、訳詩もある。
 冒頭の生徒はまず辞書を引き、つぎに先生に教えを請うのがよいと思う。






  二〇二〇(令和二)年三月号    


   思いつくまま          長田 邦雄


 佐藤佐太郎先生は昭和六十二年八月八日にその生涯を終えられた。十日に志満先生をはじめご家族の皆様と許された少数の会員が出席して斎場において荼毘に付された。はげしく暑い日であった。
 あの日から三十余年が経った。現在は先生にお会いすることなく、声咳に接することなく「歩道」に勉強の場を求めた会員が多くなった。先生の追求された作歌の奥義を「歩道」の全会員がそれぞれの力量に応じて実践をしている。
 さて、私が会員になった五十年以上前は先生とお会いする機会が多くあった。月一回の面会日、月一回の歌会、年一回の全国大会、年一回の年末歌会などである。
 当時はまた、秋葉四郎氏を中心に佐保田芳訓氏、故室積純夫氏などと多くの若い会員が「青の会」というグループを作って先生の勉強会を行なった。先生も私達の活動を喜んで下さった。そしてその折々に先生を囲んで楽しい時間を過ごした。私達のように先生と密接な時間を持てない現在の会員は寂しい思いをしているにちがいない。もちろん、先生が残された歌集や著書が手許にはある。これらからは先生の声が語りかけてくれるように聞こえてくる。そこで私は思う。
 先生みずからの作品の朗読、講演会の講演、歌会の作品批評、もっとプライベートに食事会の雑談等など先生の声は残っていないだろうか。もし、それらを保存できればより身近に先生を感じられるはずだ。
 同じように先生の真影は多くの会員がそれぞれのカメラに収めているだろう。旅先や海外旅行での写真、全国大会のスナップ、歌碑除幕式の様子などたくさんあるだろう。
 「斎藤茂吉」の写真集を私は持っている。「佐藤佐太郎文学アルバム」という写真集があれば、先生の姿も身近になる。もちろん、動画もあれば貴重だ。先生の姿と音声とまとめることが出来れば、先生の作品をより厚く深く理解出来る。個人的には先生の写真集を「撫づるごとくに」手に取りたいと思っている。






  二〇二〇(令和二)年二月号    


   讃嘆の声            佐保田芳訓


 佐藤佐太郎の作歌信条は、写生を根本とした「純粋短歌」である。佐太郎は十代で短歌を作り始めているが、初期の頃より詩を希求している。短歌一首において何が必要で何がいらないか自覚して作歌していたのである。十代の頃の詩人山村暮鳥との出合は佐太郎短歌の原点であると私は思っている。「真実であれ。真実であることを何よりもまづ求めろ。」暮鳥の詩集にある言葉である。「実相に観入して直観される『真実』は、一つの感情価値である。それは実在をゆがみ無く観得たときに感ずる意識の充足である。」佐太郎の純粋短歌にある一節である。初期の頃より暮鳥のごとく真実を求め続けたのであった。
  暮方にわが歩み来しかたはらは押し合ひざま
  に蓮しげりたり
 佐太郎の歌集『歩道』にある一首である。平成三十年十二月、コレクション日本歌人選として『佐藤佐太郎』が出版された。著者は大辻隆弘氏で、佐太郎の五十首余りの歌を評論している。その中に取り上げられた歌である。
 「仕事からの帰り道、私は池ぞいの道を歩く。池から生えた蓮の茎と葉が闇のなかで押し合うように揺れ合っている。その生々とした気配が私を不安にする。」大辻氏の解釈である。最後の不安にするの部分は、はたしてそうだろうか、佐太郎は蓮がこれ以上はびこる余地がないほど茂っている事に感動したのである。この一首の蓮の表現について、佐太郎は自註で志賀直哉の小説に同じ描写があるとあった。
 「遠い百姓家に咲いてゐる凌霄花が雲を洩れてさす陽を受け、遠いのに度強く眼に映つた。小さな貯水池に密生した菱の葉がそれ以上はびこる余地がない為めに他の葉を水面から押上げてゐるのを見た。」志賀直哉の小説『菰野』の一文である。佐太郎と志賀直哉の視点が同じなのが面白い。コレクション日本歌人選の中で大辻氏は佐太郎の歌を評して、憂鬱・不安・疲労などと佐太郎の短歌のいくつかを、その心情を指摘しているが、佐太郎自身そんな思いを抱いて短歌は作っていない。
 「私は何時ごろからか歌は『讃嘆』の声であるだろうと思つた」と『しろたへ』後記で言っている。短歌において真実を希求し、ゆきつく所は讃嘆である。






  二〇二〇(令和二)年一月号    


   推 敲             波 克彦


 一首を作ったその日に推敲することは勿論であるが、翌日や数日経って再びその歌を読んでみて、更に充実させることができないかと思考を廻らすことによりその一首をより高めることができる。
 『短歌清話』(秋葉四郎氏著)には随所に佐太郎先生の作歌の推敲過程が記録されている。次に一例を短歌清話の記述に従い紹介する。

  海のべの風はやくして晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  熊野路の海のほとりは(に)晴れながらしぶ
  きの如く雨の降りくる
  風はやき熊野の海のしぶきかと思ふ晴れつつ
  雨ふる時に
  海に立つしぶきの如く晴れながら雨降ること
  のあり熊野路は
  はや風に海のしぶきに似る雨のふることのあ
  り熊野路にして
  熊野路の海のほとりは晴れながらふる雨風に
  とぶ飛沫あり
  熊野路の海のほとりは晴れながら雨ふる雲の
  わたることあり
  海のべの木草かがやき晴れながら雨ふること
  のあり熊野路は

 通信には更に次の言葉が続く。「歌ができて私は思った。『どう考へても原案以上にはならない』(メモ)として投げてしまはなかったから、この改作が出来たのである。ぎりぎりまで努力しなければならないのだ。どう考へても満足できなかったのは、大切なものが言へてゐないのだが、それが何であるか、わからなかった。見ることは作歌の時にもつづく」。
 以上は短歌清話からの引用である。先生の歌は一字一句が徹底した推敲の上に選ばれている。なぜその字その句が用いられているかを深く考えて鑑賞することが重要である。この一首が完成するまでの推敲の変遷をつぶさに見て、一宇一句が推敲により更に輝く一首に変っていくことを読み取ることができるかどうかは読み手の力量にかかっている。そして自分ならその状況にあればそのように作れるかを考えてみることが大切である。そのように考えを廻らすことにより、一首に込められた本質がわかり、自分の作歌能力が高まる。