今月の歌論・随感  【最新版】 【2003(平成15)年~2023(令和5)年一覧



  二〇二〇(令和二)年二月号    


   仲田紘基氏へ          四元 仰



 仲田紘基氏の提言「文語と口語の間」、真剣にして新鮮、おもしろく読みました。正岡子規もかつて言っています。「自己の信ずる標準に照して、可なるものを可とし、非なるものを非とするのみである」と。氏の見解は正しい。確立した自己があってはじめて書ける文章だと言っていいでしょう。少数派というより本格派だと言いたいところですが、ひるがえって考えると、当然のことを言っているにすぎないとも言えるでしょう。『作歌真』の精髄に絶えず触れつつ、みずからのことばのひびき、歌のしらべを追求しようとするわれわれにとって、あなたの提言は必然の要求です。
 課題は二つありました。ひとつは連体形の口語化、二つ目は係り結びの法則です。話をわかりやすくおもしろくするために係り結びの法則からとりあげてみます。テキストは岩波文庫本『佐藤佐太郎歌集』です。
 係り結びの法則は、文語文法暗記唄などでごく自然になじんでいるとはいうものの、おりおり混同があって、むしろ誤用がことばの自然の流れにそっているといえる場合があるのは、事実で、佐藤先生にもその例は見られます。言葉は生きて働き、時代によって移る場合もあるでしょう。『「なむ」「や」「か」「ぞ」連体形に結ぶなる「こそ」は已然に結ぶとこそしれ』は係り結びの暗記唄ですが、他に助動詞の接続暗記唄もあって、こちらは『「らし」「まじ」「らむ」「べし」「なり」「めり」は動の終止・形容・形動、ラ変は連体』ととなえて暗記したものです。混同・誤用・転化は容易に発生します。本来「来べし」であるものが「来るべし」に転化するのは、「か行変格活用」と「ら行変格活用」の連続のひびきの快さから自然に導かれたものだと言ってよいでしょう。
 さて、係り結びですが作品例として
  震災に生き残りしに死者追ひて自死する被災
  者ありとこそ聞く       戸田 佳子
の一首の結句が問題になっています。もっともな指摘だと思いますが、文法的にもともと已然形と命令形は同じ形をとっていますから、「ありとこそ聞け」では命令になってひびいてしまいます。『こそ』という副詞にもともと強意のはたらきがあるのですからそこをさけたのだと思います。表現上の心理的影響だと思います。
  やや遠き光となりて見ゆる湖六十年のこころ
  を照らせ『形影』
 佐藤先生の『形影』の一首です。結句をめぐって解釈の相違があります。「こそ」の省略による已然形止めと、表現上あきらかな命令形の解釈の相違です。渡辺謙氏としばらくやりとりしましたが結論は出ずじまいです。それにしても『已然形』と『命令形』が字面の上では同じというのは、まぎらわしいといえばまぎらわしい限りです。品詞のひとつひとつが、言葉のひとつひとつが、歯車のように組み合わされ、練磨されて、できあがったはたらきです。ひとつの品詞、ひとつの言葉が全体にはたらきかける意味をくみとるのが創作土の工夫であり、鑑賞上の楽しみです。
 ついで形容動詞の連体形の口語化ですが、もともと形容動詞という品詞が形容詞の語幹に「なり」「たり」の助動詞をくっつけただけのいわばつぎはぎの品詞ですから自立性、自律性に乏しい感じがします。その口語化ですから、ゆかたに靴をはいたようなだらしなさが感じられます。話し言葉ならいざしらず書き言葉としてはとうてい「語気迫り」というわけにはいきません。佐藤先生の作品にそういう用例がないのは当然だろうと思います。書き言葉や話し言葉の文体化の変革の歴史も二葉亭四迷や正岡子規その他多くの実験者たちを生みました。言葉は時代と共に移る生きものですが、表現の世界は広く、そして限りなく深い魅力をたたえています。軽い浅い美に足をとられることなく、赴くままに『作歌真』を究めていただきたい。「少数派」とは、ほこり高い言葉です。しかし、あなたもわたくしも少数派にはなりきっていない、そう思っています。”他に比類のない感情の領域「伊藤信吉」”が王様なら文法はその従者です。従者を思いっ切りつかいこんで、他に比類のない感情の領域の開拓にいどんでくださるようねがってやみません。





  二〇一九(令和元)年十二月号    


   佐太郎短歌と送り仮名      仲田 紘基



  人の生は
の故に紙展て書たる文字に陶印を
  押す
 これは『天眼』所収の歌の改作で、秋葉四郎編『佐藤佐太郎書画名品集』にその直筆が写真で載せられている一首。あえてこれを取り上げたのは、送り仮名表記に対する佐太郎の姿勢がよく表れていると思ったからである。もしも標準的な送り仮名の付け方をするなら、「遊」は「遊び」、「展て」は「展べて」、「書たる」は「書きたる」となるはずのところだ。
 「標準的」と言ったのは、内閣告示による「送り仮名の付け方」が学校教育などのよりどころになっているからだ。戦前の「送仮名法」は少なく送るルールだったが、昭和五十六年に定められた現行の法則では、誤読を防ぐために多めになった。ただし、その「前書き」に、「この『送り仮名の付け方』は、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。」とある。
 当然のことながら、佐太郎には佐太郎の表記法がある。煩わしい送り仮名を極力省くことで、視覚的にも引き締まった格調高い作品世界を佐太郎は表象しようとしたのではないか。
 『歩道作歌案内』に「名詞には原則として送り仮名をしない。」という一項がある。例として「流れ」を「流」とするよう書かれている。しかし「流れ」と送るのが今の一般的な表記であり、必ずしもこれにしばられなくてよいだろうと私は思う。実は次のような例もあったりして、佐太郎自身が送り仮名の付け方は時により自在なのだ。
  ふく風のごとく寂しき渦潮の
流れの音は島に
  きこゆる(『冬木』)
 佐太郎の歌には、標準の送り方と異なる表記が多い。
  みづからのための精進
少くて病間残る半歳を
  経つ(『黄月』)
 「少く」は普通は「少なく」と送る。「すくなくない」を「少くない」と書くと「すくない」の意に誤読されやすいからだ。もっとも短歌の場合、定型詩ゆえにそんな心配は無用なのだが。
 困るのが音数で判断できない時だ。佐太郎は「満潮」に「みちしほ」とルビを付けた。「満ち潮」と表記すれば「まんちょう」と読まれる恐れはない。佐太郎にならうか、一般社会の表記にならうか、悩ましいところである。





  二〇一九(令和元)年十一月号    


   老齢化と「短歌甲子園」    八重嶋 勲



 この頃頓に老齢化、認知症等の理由で、短歌を辞める人が多くなってきた。「歩道」の会員が減少していく。一方、「歩道」でも百歳を超えてしっかりした文字で立派な歌を作り続けている方もおられる。かつては六十歳定年退職後に短歌を始める人が結構多かったものであるが、今では新しく短歌を始める人が少ない。これでは短歌が衰微していくのではないかととても心配である。
 ところで、平成十七年頃、岩手県盛岡市の観光課の職員から、元同市職員であった私に話しがあった。石川啄木を顕彰して盛岡市の主催で、全国の高校生を対象とした短歌大会を開催したいという。相談相手に、浪漫派歌人が良いだろうと「コスモス」の故柏崎驍二氏を紹介。そして平成十八年度から、第一回全国高校生短歌大会、通称「短歌甲子園2006」として開催。私は、第二回から第十三回まで携わった。
 今年八月、第十四回が、盛岡市で三日間にわたって開催された。全国から高校二十一枚が参加して熱戦が繰り広げられた。二日目は、団体戦の予選リーグ戦。先鋒、中堅、大将戦で二勝した方が決勝トーナメントに進んだ。三日目、決勝トーナメント戦で勝ち抜き、優勝八戸高校(青森県)、準優勝昭和薬科大附属高校(沖縄県)に決まった。また、個人戦は、前日歌題が示され投稿した短歌を会場で審査して、最優秀作品賞玉腰嘉絃(飛驒神岡高校三年)、優秀作品賞佐藤あやか(古川黎明高校三年)、特別審査員小島ゆかり賞は、國吉伶菜(昭和薬科大附属高校二年)。
 特別審査員に小島ゆかり氏を迎えた他審査員に淺野大輝、梶原さい子、斉藤梢、清水亞彦、田中拓也、藤井永子、本田一弘、山本豊、吉田史子等十三氏。
 「短歌甲子園」から巣立った、武田穂佳は、数年前の短歌研究新入賞に輝いた。「現代短歌」等中央誌で、淺野大輝、工藤玲音、戸舘大郎、工藤吹等が作品を発表、歌人として認められてきている。宮崎県で牧水を顕彰した同名称の「短歌甲子園」が聞かれている他、東京角川の「大学短歌バトル」等が開催。全国の高校生、大学生が盛んに「短歌」競技を競っている。きっとこの参加者は短歌の魅力を感じ、今後も短歌を作り続けるだろう。そしてわれわれの後を引き継いでくれるに違いない。





  二〇一九(令和元)年十月号    


   文語と口語の間        仲田 紘基



 佐太郎は「私達の前には文語も口語もない」(『純粋短歌』)と言う。また、短歌が「詠嘆の形式」であるゆえに「文語を用い古語を用いるが、同時に新しい工夫を怠ってはならない」(『短歌作者への助言』)とも言っている。言葉は時代とともに変化するから、口語(現代語)をどう浄化して用いるかは、作歌に携わる者に絶えず工夫を求められる課題でもあるだろう。
  原木の間にかすかな流あり夕べ貯木場潮の引
  くらし
 中村達歌集『測深鉛』より。この歌の二句の「かすかな」について、口語的な言い回しなので「かすかなる」としたほうが格調高くなるのでは、と私は中村氏に感想を伝えたことがある。氏は「自然にその時こういう表現が出てきた」としながらも、佐太郎の作品にはない言い方だと付け加えられた。一首の声調にもよることだろうが、最近は佐太郎の時代と比べて、形容動詞の連体形にこのような口語調が多く見受けられるようになった。
 かつて佐太郎が自身の歌の「来るべき眠」という表現について、「文法的には誤かも知れないが許容されていい自然さがある」(「歩道」昭和四十四年七月号)と述べていたのを思い出す。終止形「来」に接続するはずの助動詞「ベし」が連体形「来る」に続くのは確かに誤りだが、これを口語文法で考えるなら「来る」という動詞の終止形だ。つまり「来るべき眠」と言って不自然さを感じさせないのはそこに口語的な受け止め方が働くからではないのか。「すべし」「するべし」が文法上の正誤の問題ではなく、文語調で言うか口語調で言うかの違いなのと似ている。
  震災に生き残りしに死者追ひて自死する被災
  者ありとこそ聞く
 戸田佳子歌集『眼鏡と篁』より。この歌を目にしたとき、私は結句を無意識に「ありとこそ聞け」と読んでいた。それは戸田氏が文語的な表現を大事にする作者だからでもあった。「こそ」のあとの文末を已然形で結ぶという「係り結び」。しかしこれは現代の言葉にはない現象だ。口語になじむ者には不自然に感じられる約束事だろう。口語化の流れの中で文語の格調を保つ最後の砦だと私は思いたいのだが、こんなこだわりを持つ私のような「歩道」会員は、もはや少数派なのだろうか。





  二〇一九(令和元)年九月号    


   源実朝の秀歌         小堀 高秀



  箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島
  に波の寄る見ゆ       (金槐集雑)
 この歌は源実朝が二所詣での折に、箱根権現参拝を終えて、伊豆山走湯権現に向うために、箱根から鞍掛山にかかるとき、伊豆の海に浮かぶ初島を見ての歌である。青々と広がる伊豆の海が、突然視野に入ったときの感動を、雄渾率直に表現した万葉調の歌で、情景一致の高雅な秀歌と言えよう。
 実朝が初めて歌を作ったのは十四歳とされているが、享年は二十八歳、生涯の歌数は七百三十六首で、そのうち金槐和歌集に七百十六首とされている。勿論、伝本により歌数は異るが、それは学者たちの論議であろう。
 実朝の師である藤原定家は八十歳、その父俊成は九十歳、西行法師も七十三歳まで生きて歌道に精進している。それに比して実朝の二十八歳の生涯はあまりにも短く、ようやく歌の道の緒についた程の齢である。実朝をして天命を全うさせ得たなら、如何なる大歌人が生まれたであろうか、惜しみて余りあることであった。
 冒頭の掲出歌は、この頃は本歌取り全盛の頃で、意識的に古歌、先人の歌句や、発想を取り入れて歌を作ることが盛んであった。実朝の歌にも当然それがあった。古歌のどれを如何様に取り入れるかは、歌人それぞれの力量の定めるところである。「箱根路を」の歌について見れば
  逢坂を打出て見れば近江の海(しら)木綿(ゆふ)花に波た
  ちわたる        (万葉集巻十三)
を本歌としているが、次の歌
  ()(はつ)(やま)うち越え見れば笠縫の島こぎかくる棚
  無し小舟     (万葉集巻三高市黒人)
も学んでいると言われている。万葉集二首とも力のある万葉前期の趣を深く待ったものであるが、実朝の「箱根路を」の歌もそれに拮抗し得る歌であろう。歌柄が大きく、伸びやかで、本歌に比して萎縮するところがない。
  たまくしげ箱根のみうみけけれあれや二国か
  けてなかにたゆたふ      (金槐集)
 「たまくしげ」は箱根にかかる枕詞。「けけれあれや」は「こころあれや」の一種の訛言葉である。一首の意は斎藤茂吉釈によれば「この箱根の湖水は何か(こころ)があるからであろう。このように二つの国(相模、駿河)にまたがつていづれかに附くこともせず、その中ほどにためらつてゐる。」の如くである。
 つまり当時の人々なら当然「心あれや」とすべきところを「けけれあれや」の訛言葉を用いることによって、より素朴に力感のある表現になったということができる。茂吉もこの歌を金槐集第一等の歌、愛誦してやまないと激賞している。
  大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて
  さけて散るかも
 この歌は従来、三浦三崎の荒磯を見ての歌とされているが、二所詣での折の伊豆山海岸との意見もある。またこの歌には「荒磯に波の寄るを見てよめる」の詞書があるが、大海の磯にとどろき渡って寄せて来る波を「われてくだけてさけて散る」としたところは、真に強烈雄大な光景把握であろう。波の有様を三つの動詞でたたみ込んで、波の躍動をたくみにとらえている。





  二〇一九(令和元)年八月号    


      山谷英雄氏へ

   ―薩摩慶治氏の死―       菊澤 研一



 「運河」六月号に山谷英雄氏の「長澤一作のうた〈その周辺〉」を書いた「私は常に先生の側にいたので、先生がそれぞれの死に遭遇して悲しみ、あるいは沈痛な思いをながく抱いていたことを知っている。たとえば薩摩慶治氏は、佐藤佐太郎の門人で佐太郎への金銭的な支援も多かったひとりであったが、逝去された氏に対して、佐太郎は会葬に参列することがなかった。このことについて先生は〈あんなに先生(佐藤佐太郎)に尽したのに弔問にも行かないとは〉などと言って佐藤佐太郎の門人に対する行為を難じてもいた。私はこの時はじめて先生が師の佐藤佐太郎を批難することばを聞いた」。
 これは事実と異なる。私の当時の日記と手帳から抄出して証明しよう。
 昭和四十九年五月七日。火。晴。長澤氏より電話。薩摩氏昨朝他界、肝臓。明後日社葬。佐藤先生列席予定。明日の日経、毎日に出る(広告)。
 五月八日。水。晴。打電薩摩太郎氏『葦洲』『高槻』を配して弔歌。
 五月九日。木。小雨。薩摩慶治氏葬儀、於大阪。南伊豆沖地震、東海道新幹線不通四時間。
 五月十一日。士。晴。佐藤先生へ上京予定を報ず(十六~十九日)。長澤氏より電話。薩摩氏葬儀におくれた(地震)、そういう運命だったんだ。
 五月十六日上京、富士通用務。十七日夕、富士化学。長澤、川島喜代詩氏と人形町に会す。稲葉正次結婚式、於大阪、佐藤先生出席とぞ。志満夫人へ電話。
 五月十八日。土。晴。午後及辰園訪問。佐藤先生談摘録。歌碑は観音正寺にも建つ。薩摩さんが亡くなってから建つことになった。薩摩さんは気の毒よ。あの人のことと赤城さんのことは〈及辰園往来〉に書いてもいいな。書くことが沢山ある。お葬式の日は新幹線が事故で四時間おくれた。赤城さんが気を効かして時間をおくらしてくれたが間に合わなかった。祭壇は外さずにいたし、僧侶も一人残っていた。何年に一度という事故がこういうときに起きるのが不思議だ。弔辞を書いて行ったがそのまま祭壇に供えてきた。〈五紀巡游〉が記念になったな。これからはこういうこと(死)が多くなるだろう。長生きをしてやるべきことが沢山ある。






  二〇一九(令和元)年七月号    


   老・死・その後         長田邦雄



 以前、Tさんより私の作品に「老」を扱ったものが多いことに「まだ老いる年齢ではありませんよ」という手紙を頂いた。そのころは私も若いつもりでいたし、仕事上若さを前面に出してもいた。その反面、私の内部に「老」へのあこがれがあり、老いる願望もあった。
  さく薔薇の土に影おくかたはらに老いて愁の
  多きは何か
  ひといきにビールのむとき食道の衝撃にも老
  いて弱くなりたり
 「形影」にある「老」の作品である。それから十年、先生七十歳以後の「星宿」の後記に「歌は境涯の反映(中略)あまり窮屈ではなく、何を詠んでも、作者の影がさしてゐればいい」といわれた。この言葉は今の私の作歌を支えている。
  近く死ぬわれかと思ふ時のあり蛇崩坂を歩み
  ゐるとき
  幸に非常の病まぬがれてより十五年老いて死
  を待つ
 みずからの「老」を真正面から捉えて誠実に冷静に自身を凝視している。「老」「死」をこれ程端的に率直に表現していることに当時愕然とした。
  わが死後の記念のために意識して幼子の頂な
  づることあり
  門いづるをとめの姿二階より見ゆ死後かくの
  如き日を積む
  杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと
  何時人は言ふ
 当時、私は三十代であり、自身の「死後」について考えることはなかった。
 ようやく七十年の生命を重ねて、先生のいわれた「未到の境地をのぞきみる気持で作歌しようとした」(星宿後記)という年齢に私はなった。だが、生来愚鈍な私にその世界が見られるわけはない。ただ私のいなくなったのちに、妻、娘夫婦、孫、友人、知人の日常に私はどう位置づけられるのか。記憶の中に埋もれてしまってー向にかまわない。
 自身老齢になって、先生の作品は納得出来るし先生の声が聞こえる。「老」は背負っているが、その作品の語感、語気、声調は老いてはいない。それこそが作品の力なのだ。自身そういう作品を一首残したいと、このごろ思っている。





  二〇一九(令和元)年六月号    


   客観写生            佐保田芳訓



 作家加賀乙彦は自身医者であり、小説を書く体験から同業の先進の人々の事を描き『鷗外と茂吉』という本を出した。その本の中には鷗外、茂吉、木下杢太郎、水原秋桜子、上田三四二、藤枝静男、など医者であり文学に業績を残した人が語られている。加賀乙彦は茂吉の「実相観入」について、
 「実相に観入、すなわち写生という行為は、単に対象を客観的に写しとるだけではなく、対象の本質を深くさぐりだしていこうとする主観的姿勢をも指しているので、ぼくなどがわかる用語で言い換えれば、対象をよく観てそこに真実を透視する、堅実なリアリズムの手法であるということになります。」と解説している。我々にとってことさら新しいものであるとは思えないが私は同感して読んだのである。
 またこの本の中で、加賀は産婦人科医であり俳人の水原秋桜子についても語っている。水原は茂吉の歌集『赤光』を読み、圧倒され、「死にたまふ母」の連作を全部暗記した。と記している。短歌にも心はゆれていた水原であったが、結局は俳句一筋の道をたどるのである。その俳論「文芸上の真」は、茂吉の解く「実相に観入」するというのと同じであると加賀は指摘している。
 「―芸上の真―は、言うまでもなく文学において絶対に必要なるものである。これは決して自然そのものではない。『自然の真』が心の捉え方の確かな芸術家の頭脳によって調理されさらに技巧によって練られたところのものである。」と水原秋桜子は言っている。水原は「ホトトギス」で自らの実力を発揮した俳人であるが、高浜虚子の「客観写生」にあきたらず袂を分ったのである。
 「私は敢て客観写生ということを言う。それは、俳句は客観に重きをおかねばならぬからである。俳句はどこまでも客観写生の技倆を磨く必要がある。」
 高浜虚子の言葉である。俳句と短歌の違いはあるものの、写生において主観、客観の問題は永遠の課題であるだろう。
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
 正岡子規の奈良の句である。子規は我々の信奉する「写生」の源流である。
この一句、旅の宿での夕食の後、御所柿を食べている時、東大寺の鐘を聞いた。写生において主客は作者の感性に帰着する。





  二〇一九(令和元)年五月号    


   江畑耕作さん一周忌       秋葉 四郎



 間もなく、昨年五月五日に逝去された江畑耕作さんの一周忌がくる。その五月十三日に行われた葬儀には、私は、茂吉記念館の仕事と重なって参加できなく、葬儀の前日に伺ってお別れをさせていただいた。後継の長男稔樹さんが迎えてくれ、風貌も話し方も耕作さんそっくりの医師として大成されていて、晩年の耕作さんの日々、大往生のことなどを語ってくれた。殊に晩年も身近な友らと歌会を楽しみ、歌を最期まで愛し、穏やかな死を迎えたという。氏は千葉大学の医学徒時代から佐藤佐太郎先生に師事し、終生「歩道」に所属した歌人であり、医師であり、『記紀歌謡が語る古代史』に代表される研究家であった。ライオンズクラブのガバナーとして夫人と共に世界を巡ったこともある。
 殊に、昭和五十年、脳梗塞治療の師佐太郎を開業した千葉県銚子市の恵天堂医院に迎え治療にあたってくれ、晩年の佐太郎を健康状態に導いてくれた。
佐太郎も心から感謝し大作、「銚子詠草」(毛筆一巻)四十三首を門人の江畑さんに贈っている。内の数首
  ただ広き水見しのみに河口まで来て帰路とな
  るわれの歩みは          佐太郎
  よみがへる力を得つつ帰るべき時となりたり
  あなかたじけな           ″
  廬山にて酒許されし淵明の場合をおもひ酒の
  みゐたり              ″
殊に最後の歌は、入院中の師に酒を許可し、いわば自覚と自然治癒力を高め、治療の成果を上げた。人間江畑耕作さんを暗示する対応だったと言える。
 江畑さんを詠った佐太郎先生の歌はそのあたりをしっかり見ている作である。例えば第一歌集『草原』の序歌に
  学生のころに詠みたる歌いくつわが記憶にも
  ありて親しき           佐太郎
  われの知る君は医として常人(つねひと)をこゆるはげみ
  の日々を積みにき          〃
があり、「銚子詠草」には
  長閑の人をあはれむ院長がいり来て部屋に昼
  灯をともす             〃
がある。生前の江畑さんをいきいきと偲ばせてやまない。






  二〇一九(平成三十一)年四月号    


   歌 会             波 克彦



 佐藤佐太郎先生が昭和六十二年(1987年)に他界されて今年は三十三年目になる。また佐藤志満先生が平成二十一年(2009年)に他界されて今年は十一年目になる。私は両先生がご存命中東京歌会に出席して、先生が出席者の作品をどのように批評されるかに集中して歌会の数時間を過ごしていたので歌会が終ったら緊張が一気に解け、豊かな気持で帰路についた。
 両先生が他界された後の東京歌会は秋葉四郎氏が懇切なる批評をし、出席者は改めて歩道会員であることに喜びと誇りを感じて帰路についている。私も勿論その中の一人である。
 昨年の東京歌会で秋葉氏が批評にあたり述べられた金言を以下に紙面の許す限り簡略に挙げてみる。
○ 「杖ひきて蛇崩道を歩みゆく先生の……」について、「杖ひきて」は自分のことなら良いが、先生のことなら良くない。先生には「衰老」と自分で謙遜して言われた歌はあるが、他人のことを言うのでは良くない。(平成30年12月)
○ 「夕映のひつぢ田の空にくの字なし高く……」について、「空に」は「上」など字余りでなく定型を守るようにした方が強く響く。(平成30年11月)
○ 文章で5W1Hというが短歌もそれが基本になる。(平成30年9月)
○ 「震災後年々さびし孟蘭盆のふるさとに……」内容が重く切実でこのように詠えたら十分。しかし「さびし」は感情を焦つて上に出しているが、いきなりもつてくると思いがうすくなる。(平成30年9月)
○ 用言が多すぎごたごたしている。単純化には用言を少なくすること。(平成30年8月)
○ 歯切れ良く言うのは佐太郎(歩道)の目標である。(平成30年8月)
○ 言葉には自分の坐り位置がある。(平成30年8月)
○ 「……夏台風炎暑にくらみ逆走せしか」について、実相に観入をすると「炎暑にくらみ」は茂吉も佐太郎も認めないであろう。再考を要する。(平成30年8月)
○ 「……良しとし納税申告書けり」について、助動詞「り」は過去から膨大な数の使用例があるが古い感じがする。
 「申告をする」とか「申告を書く」と現在形にした方がよい。(平成30年1月)
 このように東京歌会では佐太郎・志満先生に続く正統写生短歌の真髄の一端を指導いただくことができる。歩道の全国大会が開催できなくなって久しいが、歩道誌の通信欄に毎月東京歌会の開催日と会場を掲載しているので、全国の歩道会員は東京や関東近郊に旅する機会があれば、その開催日に合わせるようにして上京して是非東京歌会に出席するとよい。東京歌会の事務局宛に歌会用詠草をあらかじめ送るなどして(詠草は無くてもよいが)出席したい旨連絡して積極的に参加するとよい。秋葉氏や出席者による東京歌会での活発な批評に接してその後の歩道支部における活動の活性化の一助としていただければ幸いである。





  二〇一九(平成三十一)年三月号    


   蘇東坡に因む話        青田 伸夫



 或る面会日で佐藤先生が私に向かって「若い者が漢詩なんか読むな。私は別だがな」とぽつりと言われたことがある。返事が憚れたので、黙っていたが「漢詩を読まなければ先生の作品の理解ができなくなるのでは」と思案した。
 先生は蘇東坡がお好きだが、私にも東坡の好きな短詩があって、それは「春夜」と題した七言絶句である。


  (しゆん)(しよう)一刻(いつこく)(あたい)千金(せんきん)
  (はな)には清香(せいこう)()り、(つき)には(かげ)あり
  ()管楼台(かんろうだい)声寂寂(こえせきせき)
  (しゆう)韆院落夜沈沈(せんいんらくよるちんちん)


 中味の濃い詩なので、先生の解かれる蘇東坡はかならず傾聴しなければならないと思った。
 その後、自分なりに漢詩などを読むうちに斎藤茂吉の「手帳五十九」のなかに漢詩人を批評したものがあって、おもしろく拝読した。
 その大要は次の通りである。


「○蘇東坡と韓退之等(について)○唐詩は気品高く、大きくぼっとりしている。手厚い。宋の詩は巧、新にして鮮である。すっきりとして、やや薄い。○蘇潮韓海という熟語があるが、全くその通りであって、東坡は潮流であり、韓退之は海である。韓は堅い。東坡は(さか)んであって、時に或いは飄渺の趣がある…○東坡は大きくして茫洋際涯がない。東坡は()(せん)なる才に駕し、…○唐に李白・杜甫、宋に東坡、陸放翁。」


 東坡の批評が入ったすぐれた文章と思うので、その後何回も読み直し、ノートにも転記しておいた。
 先生の話される東坡の人物像を大きく把握したすぐれた文章と思う。時々思い出しながら、漢詩集を読むと有効なのではなかろうか。

 平成の年号が近々変るという時期である。しかも活字不況の声も上っているが、詩の存在理由は変ることはあるまいと思うのである。





  二〇一九(平成三十一)年二月号    


   選歌選評について       八重嶋 勲



 昨年六月、日本歌人クラブ創立七十周年記念「シンポジウム」が、盛岡市で開催された。その一つに「実作ワンポイントアドバイス」があり、三枝会長、長澤ちづ・三原由紀子中央幹事に混じり地元の私もアドバイザーを務めた。応募作品を批評、添削の指導を行うもの。四十首中八首が私の担当。勿論作者名は分からない。綿密な批評を行いながら添削を行った。全部終わって作者名を見て驚いた。なんと辛口に批評添削した作品が、会長、中央幹事の作品が五首も入っていたのであった。
 「歩道」の観点からの批評、添削をしたのは、どうも見当違いではなかったかと冷汗三斗。とてもにがく苦しい思いをした。
 最近の歌壇の在り方は、浪漫や現実的、前衛的な心象、心情を述べる流派が大きな勢力を占め、写生・写実派は蚊帳の外の感である。どの短歌総合誌等を見てもそう思う。
 そういうさまざまな流派の中での批評や添削は果たしてよいものであろうか、という疑問を強く感じている。
 しかし、われわれは、子規を源流とする、茂吉、佐太郎の歌論、短歌の写生・写実の重厚な調べを胸に、確かな信念をもって、決して挫けることなく前に進まなければならない。
 『短歌清話』に、佐藤佐太郎先生が「歩道」の選歌について、編集委員に次のように示した、とある。

 「選歌心得」
一、驕ル心ヲ以テ他ノ歌ヲ見テハナラナイ。
一、実質ノアル歌ヲ見ノガサヌコト。
 欠点ガアツテモ光ツタトコロノアル歌ヲ採ル。
一、取捨ニ迷フ時ハ茂吉或ハ佐太郎ナラ如何卜思フノガヨイ。
一、加筆ハ少ク。
一、仮名遣ヒハ看過セズ直スコト。
   昭和四十三年二月 佐藤佐太郎

更に昭和五十四年新秋に示された、もっと具体的な「選歌緊要條條」がある。
 現在、「歩道」毎号の選歌は、編集委員のみならず作品欄の人が相当数携わっているようである。
 私は「歩道」の選歌のみならず、冒頭のような流派を超越した短歌大会等の選者や評者、選歌においても、この「選歌心得」「選歌緊要條條」を念頭に行っていこうと思うのである。





  二〇一九(平成三十一)年一月号    


   再び「作者を読む」      仲田 紘基



 昨年の本誌二月号で「作者を読む」という姿勢の大切さについて述べた。その時に触れる余裕がなかったが、私には心に懸かる一つの論考があった。樫井礼子氏の「短歌作品の背景」と題された文章だ。次のように言う。
 「作者やその作品を深く研究する場合などには、背景を知って作品を味わうことも大切であるが、独立した一首として純粋に読み取ったほうが、その歌の世界に広がる詩情に浸る醍醐味を得ることができる。」(「歩道」平成二十七年十一月号)
 文学作品の味わいは「表現」をきちんと読むことに尽きる。その点では樫井氏の主張にまったく異存はない。
 氏がその論述のために取り上げたのは、佐太郎の次の一首である。
  夕映のおごそかなりしわが部屋の襖をあけ
  て妻がのぞきぬ(帰潮)
 この一首に「生活の隙間にある憂愁をイメージしたロマン」を感じるという樫井氏。みごとなとらえ方で、私も共感を覚える。ところが歌の背景をよく知る尾崎左永子氏の鑑賞を読んで「千年の恋が覚めたように落胆してしまった」と樫井氏は嘆く。その尾崎氏の読みというのは、「お二人の三十代を実際に知っている筆者にとっては、内容以上の実感があって、思わず笑いがこみあげてしまう。」(尾崎左永子『佐太郎秀歌私見』)とある一節のことだ。
 私はこれを樫井氏のようには受け取らない。「内容以上の」と断っているし、歌そのものが「笑いがこみあげ」るような作品だと言っているわけではないからだ。身近に接した佐太郎夫妻の日常に触発されての軽い感想だろう。
 短歌は一人称の文学である。「われ」を作者自身とする大前提が崩れつつある歌壇の現状だが、「写生」を旨とする私たちは、表現を通してもっと作者に目を向けてもいいのではないか。
 先の歌のこんな鑑賞例がある。
 「夕日の光が照り輝く神々しい世界は、妻の顔の唐突な出現によって破られる。その一瞬、妻の顔は、ユーモラスな雰囲気を漂わせつつも、それまで見たことのない魔物の顔となって、世界を圧するのである。」(中西亮太『文章・文体・表現辞典』)
 樫井氏ならずとも千年の恋が覚めてしまいそうだ。作者の日常に思いをはせればまず考えられない読みである。





  平成三十年十二月号    


   歌を磨くポイント(自戒)   秋葉 四郎



 長年短歌にかかわっていてもなかなか思うように歌が出来ないものだとしみじみ実感している。改めてこの根本となるところ顧みておきたい。
 一、この詩形短歌によって物を見、考えるということを日常化する必要がある。五七五七七という型があってものを見たり考えたりすることは、人の見方考え方を「型」にはめることではなく、一つの手段・方法を身につけることで、徹すれば他に自由に応用の効くことである。このことを先ずしっかり自覚して、自信をもってこの詩形で思考し、感動し、人に伝えることが必要だ。
 二、この詩形短歌によって語り、伝え、讃え、嘆き、批判し、悲しむ。あるいは遊び楽しむ。そういうことが自在にできるようになることは、人間性を高め、この世に生きて日々を送るよろこびを会得することである。今日及びこれからの高齢社会に、長い人生を送る人にとって、かけがえのない文化であり、短歌のある日本に生まれ得た喜びであり、幸運である。
 三、短歌的な感覚を磨くということは抒情詩として短歌を作るという覚悟を持つことに外ならない。「詩」を自覚するということが、その根本にある。「通俗」に陥らないということである。多くの場合、われわれの体験がわれわれの歌の素材になる。それを生かせるかどうかは、この「感覚」を磨くことにある。そのためにはよい歌を読み、一流の芸術作品に親しむということが求められる。
 四、自身の作歌を裏付ける理論も必要である。実作と作歌論とは自転車の両輪である。大の大人として、どんな歌を生涯目指すのか、覚悟を決めておかなくては、信念が揺らぐことになり、通俗、平凡から脱しきれない。
 五、確かさを求め、厳格に守るべきは守るのが自らの歌を磨く重要部分である。そして、森鷗外の小説「杯」の主人公の少女のように、小さくても貧しくても自分の杯で、泉の水を汲むという態度・覚悟が必要だ。
 六、自分に表現の手段があれば、どんな現実に立ち、どんな境涯を迎えようが悠々と生きることができる。
 斎藤茂吉や佐藤佐太郎の歌や著作や生き方は、その具体例だから徹底して学ぶ必要がある。





  平成三十年十一月号    


   讃『佐藤佐太郎の作歌手帳』  菊澤 研一



 昭和五十六年作「ふたつなきわれの宝はうすき手帳たまたま膝のほとりに見ゆる」は歌集『星宿』に入っていない。福岡市の片山摂三氏が佐藤先生を三度撮影していて、二度目の「自昭に題す」の歌である。喫茶店ナイル。古代エジプトの女性二人のレリーフを背に、先生が膝上の手帳を見ているセピアの写真で、この店には随伴して幾度もいったので懐かしく親しい。
 片山氏からいただいた写真に同年五月二日、先生が世田谷区太子堂のスナック・ラビットで書いて下さった。佐保田芳訓著『佐藤佐太郎私見』の「先生の書画展を見て」には、〈昭和五十六年三月十九日片山摂三氏撮影 自照に言く〉としてこの歌が載っている。こちらは第三句が「手帳ひとつ」である。「憩ひつつ膝上に短詩成ることもあり蛇崩の道をあゆめば」、蛇崩坂もナイルも先生には必然の場であった。
 先生の逝日八月八日を発行日とする佐保田新著『佐藤佐太郎の作歌手帳』を毎日のぞいている。主題の手帳は昭和三十九年十月、ヨーロッパ旅行時の記録で、三冊の手帳のうち一、二は焼却、三は佐保田に与えたので世に残り、この著作をなす根源となった。
 前半が手帳をもとにした『冬木』の「西洋羈旅歌」「痕跡」についての小論後半に一一七頁にわたる手帳の原文を写真版に復刻して収載してある。先生の『童馬山房先生来書』とともに価値稀少であろう。
 いまのぞいているのがこの原文である。「われの宝」を凝視すると記録のみならず文字、筆跡が私の心を攻め、胸に迫って言葉に窮する。新たに感慨が湧き、無量の感傷を覚えるのはなぜか。旅の記録と作品に脈絡をつける前に、私を強く打つ情念は、手帳そのものからくる直接の感動である。著者が私的手帳を広く開示しようと決意するには、内部の葛藤があったであろう。半年の入院中に自問し自答した末、公開を思い立ったのである。先生に対する生死不変の畏敬と作品に対する敬虔な態度、懐抱、共鳴、交響を私せず、手帳を通じて人間と芸術を歩道会員に分かとうというのである。やむにやまれぬ挙措を私は支持し感動に浸るのである。芭蕉は「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちに言ひとむべし」と言った。手帳の皓示、示唆は限りない。




  平成三十年十月号    


   縁              長田邦雄



 私の倅が世話になっている寺は、日光街道に面して東京の南千住にある。その近く、北側に隅田川が流れ、千住大橋がかかっている。「千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがり」(おくの細道)。こうして芭蕉は曽良と共に出立する。千住は奥州街道第一番目の宿場であり、第二番目の宿場が草加である。現在、ここの日光街道に六百本を越える松が並木となっている。「草加松原」といって国の名勝に指定されている。「其日漸早加(草加)と云宿にたどり着にけり」(同書)。芭蕉はこの日粕壁(春日部)まで歩いて宿泊する。「カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。」(曽良随行日記)。私はこの草加に住んでいる。
 芭蕉がこの「おくの細道」を歩いたのは元禄二年のことであり、芭蕉生涯最大の旅である。芭蕉には奥州の歌枕を訪ねる計画があったが、同時に各地にいる多くの弟子を訪ねて俳諧の会を開く目的もあった。曽良随行日記の「俳諧書留」に詳しい。また、その土地をめぐって句を成すことにも重点はあったろう。その折々の句にはその土地への「あいさつ」の意味もあったという。それは芭蕉にとってもその土地との「縁」を結ぶことであったと私は理解している。
 俳句にしても短歌においても一人称の詩では、作者は対象と醸し出す香気も火花も雰囲気も全人格をかけて表現する。
 「縁」には能動的縁と受動的縁がある。受動的縁は論外である。能動的縁とは、例えば芭蕉の「おくの細道」である。みずから進んで「縁」を求めて一冊を成した。単に「縁」と私が呼ぶのは、この能動的縁である。
 つづまり、「縁」によってのみ発想し、言葉をつらね、推敲して作品を成す。対象が何であるかは一義的なことではない。根本にあるのは対象との「縁」である。何ら「縁」を結んでいない対象を見て、聞き、触れたとしても単なる報告にすぎない。「輝と響」「酸鹹の外の味ひ」を能動的に身体の内部に取り入れて、醗酵して醸造することが「縁」である。その「縁」を大切にして作歌する。そのことに集中したい。




  平成三十年九月号    


   地以上即天          佐保田芳訓



 私はネットで佐太郎先生の色紙や短冊あるいは、歌集等々を購入している事を歩道誌に書いた。先生の直筆の色紙等々は歩道の会員に比して多く持っていると思うので、本来はこれ以上いらないと思うのだが、格安で出ていると、つい欲しくなるのである。先日も「地以上即天」の短冊が出ていたので、購入した。佐太郎先生の作歌の原点はいまさら言うまでもなく、写生を希求し、短歌を詩として昇華し、永遠性を具現する事にあるが、「地以上即天」 佐太郎先生の信念の一端でもある。即ち、すべての世界を敬虔な態度に立ち見ることなのである。先日も佐太郎先生の短冊が出ていたので購入した。
  さき程より見つつ行くなるひくくして水の遠
  くに日あたる山を
 二本購入した、一方の短冊である。佐太郎先生、三十代の字で貴重なものである。歌集『軽風』の昭和七年、香取行の一首である。この一首など短冊で示さなければ見過してしまう歌かも知れないが、若き日の佐太郎先生の歌には角度があると改めて感心した。
  田澤湖にひびきて風の渡るとき橡の若葉もひ
  るがへるなり
 この一首、以前に購入した短冊である。昭和二十四年、佐太郎先生田澤湖における一首であるが、この一首は歌集に入っていない。しかしこれほど単純化された歌はないと思うまで簡明な歌であると思う。
  むらさきの藤の花ちる峡のみち女良谷川にそ
  ひてわが行く
 昭和三十年、歌集『地表』にある、石見鴨山での一首で、私は先輩の形見に頂いたのであった。難しい事を言わず、女良谷川に沿って行ったと言った事と藤の花が散るという事で成り立つのである。
  北上の山塊に無数の襞見ゆる地表ひとしきり
  沈痛にして
 今度、名古屋のいつもの古書店から色紙が格安で出ているので購入した。
佐太郎先生の直筆の歌を見ていると、自身の歌に希望が湧いて来る。
 佐太郎先生は『茂吉秀歌』のなかで「良寛でも茂吉でも『あはれ』なみずからの生活をいっているが、ただひたすら悲しんでいるのでもない。その生活をみずから味わっているのが語調に出ている。『写生』は見ることだ―」という言葉がいい。




  平成三十年八月号    


   『帰潮』の「われ」など    黒田 淑子



 よその結社誌をあまり読んだことがないので、はっきりしたことはいえないが、「歩道」には男性歌人が多いように思われる。これがいいとか悪いとかではなくて、私にはありがたく思われる。歌は「われ」を詠むことが基本だから、読む側としては、「われ」が拡がって知ることのできるのが嬉しい。
 この男性歌人が多いことは、「歩道」の書き手がほとんど、男性に占められていることにもあらわれている。佐藤佐太郎先生は、文章を書くことをよくすすめられた。なぜなのかはわからなかったが、書くことが、作歌によい影響を及ぼすのかもしれない。だったら女性ももっと文章を書いたらいいと思う。文章は理論的でなくてはと、思っているかもしれないが、私事ではあるが理論の苦手な私は、感想のような文章を書く。それでも先生は、採って下さった。
 もどって「われ」を考える時、「歩道」には、名前が付してなければ、作者が同じように見える「われ」を、見ることがある。これは短歌だからであって、表現方法によるものと思われる。どうしたら自分の「われ」が歌えるか、歌を始めた時から、誰もが抱えている課題でもあろうが、同じような「われ」ではいけないだろうか。先生の作品から「われ」のある歌を少し引く。
  われひとり部屋をとざして両の手を虚しく置
  けり夜の机に          (帰潮)
  道の上にあゆみとどめし吾がからだ火の如き
  悔に堪へんとしたり        (〃)
  雲間よりかりそめに光来るごとくためらひな
  がら生きてゐる吾         (〃)
  うつしみの人皆さむき冬の夜の霧うごかして
  吾があゆみ居る          (〃)
  わくらばに吾に来るときそのすがたやさしく
  あらん夜の白雲          (〃)
  われのゆく鋪道のうへに冬空の青がうつりて
  ゐたる昼すぎ          (地表)
  むらさきの藤の花ちる峡のみち女良谷川にそ
  ひてわが行く           (〃)
  わが一生に解決のつかぬ思ひあり民族とかか
  はりのなき神のこと       (冬木)
 こうして引きながら、『帰潮』に断然多いことに気づく。歌に「われ」があるから、読む者は自分のことのように思うこともできる。『帰潮』の魅力の一つは、個のわれでありながら、普遍性があることであろう。『帰潮』のすぐれた価値は、歌人だけでなく多くの人に読まれ、今も読まれている。
 『帰潮』は昭和二十六年に出た。ほとんどの人の「歩道」入会前のことである。




  平成三十年七月号    


   大辻隆弘氏の講演       波 克彦



 現代短歌社の第四回佐藤佐太郎賞は『佐藤佐太郎 純粋短歌の世界』により香川哲三氏が受賞した。ここに改めて香川氏の受賞を心よりお祝いしたい。昨年十一月二十八日に東京の山の上ホテルで授賞式があり、一昨年『近代短歌の範型』により第三回佐藤佐太郎短歌賞を受賞した大辻隆弘氏が、「佐太郎短歌の秘密 あてどなさの構造―『帰潮』における視点の問題」と題して特別講演を行った。
 佐太郎短歌の中には助詞の使い方に違和感を覚える歌があるといった大辻氏の話し振りから、私は当初、大辻氏は佐太郎短歌を揶揄しているように受け取り、彼の講演を腹立たしい思いで聞いていた。文法を振り回して歌に違和感を覚えるとは、自分の解釈、鑑賞手法の至らなさに気づかない本末転倒の短歌鑑賞である。佐藤佐太郎先生は三十一字の一宇たりともおろそかにはされていない。短歌は不要な言葉、用語を省き、より重要な言葉、用語のみから三十一字を構成する。声調、リズムが優先された結果、例えば省略があるのである、そこが文章と短詩の重要な違いである。省略の存在を認識できず、助詞などの言葉の使い方がおかしいというのは、短歌を理解し味わう力量に欠けると言わざるを得ない、と大辻氏の講演内容に否定的であった。
 その後、現代短歌新聞平成三十年一月五日号に掲載された講演ファイルを改めて読んだ。講演内容の一部を抜き出すと次の通りである。
 ○佐太郎は変則的な助詞を敢えて使って文脈を不安定にしている。何故こんなことをするのか、それは、歌を読んだ時の、ふわふわとした感じ、ゆらぎのようなものを重視しているのである、そういう「ゆらぎ」こそが佐太郎の表現したかった当のものなのだ。
 ○佐太郎は助詞のアクロバットや視点の多元化によって、人間の心のあてどない動きやゆらぎを表現しようとした。佐藤佐太郎は近代短歌の枠組みを、ほんの少し超えてしまっていた歌人だと言える。
 大辻氏は、結局は佐太郎先生の特異的な助詞の使い方や複数の時間的視点の設定などから、佐太郎先生の非凡さを認めて讃えているのだと理解したい。





  平成三十年六月号    


   「台湾歌壇」について     青田 伸夫



 ニュースとしては少し古くなったが、昨年の十月、日本の外務大臣が「台湾歌壇」に表彰状を贈ったという毎日新聞の記事は忘れることができない。台湾には日本の短歌を作る人達がいることは以前から知っていたが、現在まだ続いているとは思わなかった。それが表彰されたと言うのはやはり驚きである。相手の「台湾歌壇」副代表の曽昭烈氏(八十七歳)は表彰に感激して「日本の貴重な文化を台湾で守り続けたいとの熱い思いがますます強くなります」と言っているが、この言葉も重要である。ここの会員の年齢範囲は、戦前に日本語教育を受けた世代から二十代まで約百二十人という。決して多くなく、年齢幅も大きい。会は月一回例会を開催し、年二回も歌集を発行しているという。曽氏は戦前に学んだ和歌の美しさを思いだし「台湾語、中国語も話せますが、短歌を続けてみて、日本語が最も表現豊かだと実感した」と日本語を称賛している。
 私が台湾歌壇の存在を知ったのは、平成九年のことだが、呉建堂という人から突然歌集と手紙を貰った。曽氏と呉さんとの関係はよく知らないが、多分先輩後輩の間柄と考えてよいだろう。
 呉さんは医師で、剣道は八段の腕前、日本の犬養孝先生について「万葉集」を学び、「台北歌壇」の創設等歌人として活躍し「菊地寛賞」の受賞もしている人である。
 戴いた手紙は、歌誌『短歌現代』に掲載した私の「古典を畏れよ」という一文にかかわるものだった。
 「青田さんは私たちとあんまり違わない年代ですから、考え方も似たところがあると思います。私たちの短歌はわかりすぎると云って嫌う人があるが、台湾には前衛の傾向が入ってきてないので、自然に私が主宰する短歌はそうなります。外国文学としてやって居るのだから、それでいいと思いますが、大いに批判して下さい」とあり、結びに「お元気でお逢いする事もありましょう」とあったが、氏はその翌年に亡くなられた。
 「台湾歌壇」という語を聞くと直ぐ呉さんを思い出すのだが、その後身の「歌壇」が日本から表形状を貰ったと知ると私は声援を送りたくなる。




  平成三十年五月号    


   短歌と句読点         秋葉 四郎



 佐藤佐太郎歌集『形影』に
  花ささぬ(かめ)のごとしと人のいふとも、老いづ
  きて独りゐる時のこころ安けさ
という一首がある。この読点をどう考えたらよいか、質問があったので書いておく。
 自身のある時の姿を、花を挿していない瓶のようだと人が暗示的に言う、それを受けて、老境になって孤高にいるのがかえって心安らかだ、という。暗示をどうイメージするか、瓶の役目をはたしてもっと華やかにゆくべきだ、ととってもいいし、花などをささなくても瓶だけでも存在感があると讃えたとみてもいい。いずれにしても老境のせいか、一人居る時は心安らかだ、という自照の一首だ。
 この一首は途中に「、」(読点)がある。これをどう考えればよいか。字余り、字足らずも良しとしない定型遵守の「純粋短歌論」の作者にしては珍しい形である。しかし、この歌は、
  「花ささぬ」(5音)(かめ)のごとしと(7音)人のいふとも(7音)、
  老いづきて(5音)独りゐる時の(8音)こころ安けさ(7音)
となっていて、典型的な旋頭歌である。五七七、五七七(片歌のくり返し)がその形だから分かり易く、間に読点「、」が入ったのである。
 旋頭歌と言えば、われわれは『歩道』の
  一月(いちぐわつ)のなま暖かき夜に乱りふる雨まづしくて
  ときどき持ちし吾が悦楽(えつらく)
という一首を思い出す。「茂吉随聞」昭和十二年一月二〇日の記事「歌をみていだく。なかに旋頭歌が一首まじっていたのを、新しいこころみだから採っておこうといわれた」。それがこの歌であり、更に「旋頭歌と註して置いたのを消して、『〈旋頭歌〉はとって、黙って出しておくのがいい』といわれた」を思い出す。また、「しろたへ」に
  白雲のかがやく海の二つ島タラワ、マキンは
  とはにかなしも
という歌も佐太郎作品にある。タラワ、マキンが別々の島だから誤解を避けて読点がある例である。短歌はもともと五句からなっているから、原則句読点を必要としない。






  平成三十年四月号    


  佐藤佐太郎先生の生家跡を訪ねて     八重嶋 勲



 先生は、明治四十二年に宮城県大河原町大字福田字米倉(高い石垣の上の住居。今は他の人が居住)に、農業源左衛門・うらの三男として生まれ、三歳のころ父母に従ってこの地を離れた。理由は、秋葉氏の『短歌清話』に、養蚕業で蚕が病気で死に、借金がかさみ、夜逃げ同然に土地を離れたとある。宮城県鹿島台外一か所に移転した後、茨城県の平潟町に落ち着いたという。大正一五年、先生一七歳「赤松の十四五本もありぬべし故里しぬび我は来にしか」「生あたたかき桑の実はむと桑畑に幼き頃はよく遊びけり」。昭和一五年、三一歳、次兄と生家跡を訪い「みちのくの低群山の入野にて家居が見ゆるわれのふるさと」「かなしみに思ふとなけれ家址は記憶より低しけふ来てみれば」と詠んだ。
 私は、平成二八年五月二九日、大河原町の先生のご本家を訪ねた。JR大河原駅からタクシーで十五分位の里山に囲まれた静かな田園の松山の端。佐藤栄一氏宅(先生の甥で元歩道会員、元町議会議員)。栄一氏は高齢で施設におられるとのこと。奥様と娘さんにお会いして、先生の写真アルバム等を見せていただきお話しを伺った。奥様も歌を作っておられ、大河原短歌会に所属し、町中央公民館での歌会に毎月出席しているとのこと。この公民館に佐藤佐太郎先生顕彰のコーナーがあり、先生の多くの短歌・書・絵・写真・資料等が展示されている。一時期、大河原町役場で、佐藤佐太郎記念館建設の動きがあったが、経済情勢の悪化で、残念ながらこの計画は頓挫した。白石川畔の甲子公園に、昭和五七年に先生の歌碑「生れしより六十年か低山のうへに蔵王の残雪ひかる」が、町役場によって建立除幕された。先生(七三歳)ご夫妻が出席された。この歌は、昭和四八年に六四歳の時、ふるさとを訪ねた時の作。他に「わが生れしところかなしく昼の田の蛙の声をききつつあゆむ」他があり、私が訪ねた時もこの歌と変わらぬ風景であって蛙も鳴いていた。白石川畔から蔵王連峰がそびえて見えるが、蔵王連峰を挟んだ真西が斎藤茂吉生誕の地上山市金瓶である。奇しき縁を感じて大河原町を後にした。






  平成三十年三月号    


  正岡子規晩年の歌            秋葉 四郎



 子規の晩年、明治三十四年、亡くなる一年前の作品「しひて筆を取りて」一連は今顧みられるべき歌である。先ず詞書が「()(ほん)()(まう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乗りくるがうれしくて」というもので、「()(ほん)()(まう)」は「()(ほん)→荒くて雑」「()(まう)→粗忽」という意味で、歌論などにとらわれずに、自由奔放に、こころから思いのわくままに、内容も表現も粗雑のまま詠うということになる。そして以下のような作品が並んでいる。数首を引いてみる。

  佐保(さほ)(がみ)の別れかなしも()ん春にふたたび逢は
  んわれならなくに
  いつはつの花咲きいでて我が目には今年(ことし)ばか
  りの春行かんとす
  病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹(ぼたん)の花を
  見れば悲しも
  世の中は常なきものと我が()づる山吹の花散
  りにけるかも
  夕顔の(たな)つくらんと思へども秋待ちがてぬ我
  がいのちかも
  若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱い
  でにけり

 これらを読んで私は粗笨鹵莽どころではなく、正岡子規の「写生」の極致、行き着いた作品と思う。第一首、春の別れを悲しむのは来春を確実に迎えられる保証のない病だという自照。実際体験を重んずる作歌のみにこもる実感が溢れているではないか。第二首、春、いち早く咲く「鳶尾(いちはつ)」、その花をしみじみと見て、この花をみるのもことしばかりだと、うち深く詠嘆が湧き上がるところ。第三首、牡丹がいのちあふれて咲き、病む自分を慰めているように感じ改めてその花を見ている。そうすると言い知れない悲哀が湧くのだ。身につまされる。以下山吹も夕顔も若松の目立ちも、この世から去らねばならぬ人の痛切な感傷を呼ぶ。
 子規はこう詠いながら、懸命に生きた。どんな境遇でも平気で生きることだと悟って、短歌は子規の「詩の必要」を満たすものだった。
 今日の高齢社会に生きるわれわれに示唆するところ甚大ではあるまいか。





  平成三十年ニ月号    


  作者を読む               仲田 紘基



 かつて「『星宿』合評」で取り上げられ、評者によって解釈の分かれた歌に、次のような一首がある。
  日々人に向ひてふかき春光の席に移るをかう
  むりにけり
 深くさす春の光をこうむる喜びが詠まれているのだが、ここでいう「席」とはどこなのか。最初に取り上げられたのは平成二年の「歩道」三月号。ここで秋葉四郎氏は、作者が散歩で「ひととき路傍の椅子に休んで」いるところと解釈し、浅井喜多治氏は「散歩の途次いつも立寄られる喫茶店」ではないかと言う。もう一人の評者由谷一郎氏は浅井氏の説に賛同する。
 この時の合評には、秋葉氏がその後志満夫人から得た情報によって「註」が添えられている。「わが席に光移る午後家出でてただ歩くため坂をゆくわれ」という別案のあったことなどから、「この席は先生の書斎の席であるらしい」と。平成二十八年の「歩道」十二月号で、『星宿』の二度目の合評にもこの歌が取り上げられた。私も評者の一人だったが、そこでは「書斎の席」に差す光という受け取り方をベースに合評がなされた。そしてこの「席」について、これはやはり「蛇崩遊歩道にある休憩用の椅子」だとする秋葉氏の懇切な「註」が添えられた。
 作者の手を離れた作品が鑑賞者によってさまざまに解釈されるのはよくあることだし、それがまた短歌のような短詩形文学の味わいでもあるだろう。
 一首を「作品として読む」限りにおいては、どの読み方もあり得る。そこで私が思うのは、より深い鑑賞のためには「作者を読む」という姿勢が必要ではないかということだ。
 昨年の『短歌』(角川)八月号での尾崎左永子氏による佐太郎短歌の解釈をめぐり、香川哲三氏が直後に「歌壇の窓」(「歩道」十月号)で述べていたことは興味深い。「佳き歌と佳からぬ歌を言ふきけば疑似毫髪と歎かざらめや」について、歌会の場で「つまらない表現技術の議論に熱中しているのを、佐太郎先生は嘆息と憤りをこめて歌った」と尾崎氏は言うが、佐太郎が「指導者として見下ろしたり、歌会での発言を「下らない議論」だなどと威を張った態度で述べたことは終ぞ無かった」と香川氏が鋭く指摘する。
 秋葉氏や香川氏は身近に接した経験を生かして佐藤佐太郎という「作者」を読んでいる。尾崎氏の読みは「作品として読む」段階にとどまっていて、「作者を読む」姿勢に欠けているのではないか。





  平成三十年一月号    


  写生不易                菊澤 研一



  十月二十六日、近隣の人々に加わって平泉に行き、毛越寺から中尊寺をまわった。毛越寺では広い庭園を歩く気力がなく、池のほとりに幡踞(ばんきょ)して一行の動きを遠望しながら、往時に思いをめぐらして時をついやした。
 ここは昭和二十八年十月二十九日、佐藤佐太郎先生に随伴(ずいはん)して来たところである。先生は盛岡の歌会・十和田湖・花巻の旅程を経て平泉に参られ、私は平泉は二度目だった。駅前から観光馬車に乗り、すぐ中尊寺へ向かうというのを、私が案を出し先生が賛成されて毛越寺に寄ったのだった。一行森山耕平、青山佳生、佐々木(菅原)照子の五名である。
 平泉とその前十月二十六日の盛岡の記録もあるが長いから省略して、ここは佐藤先生の二通のはがきを挙げる。
 ①今回はいろいろ御心遣いただき感謝いたします。中尊寺の一日は殊に貴重で長く記念になります。三十日大石田着、昨日帰宅しました。リンゴは子供達大いに喜びました。棚に並べて少しづつ頂いて居ります。帰つて見ると又為事山積あくせくと働かねばなりません。今朝御ハガキ拝見しました。十一月二日
 ②写真恭く拝受しました。御手紙も拝見。森山氏の事で不満に思ふ人もあつたらしいが、こだはらずにやつて行くのがよいし、誰も悪意があるのではあるまいから仲良くやつて行きたいものです。併し要は自分の歌を大切に考へて勉強する事です。「純粋短歌」と「茂吉記念号」と早速別便で御送りします。毛越寺の歌五首東京新聞に出します。歩道に転載したら御一読願ふ。「うらがるるものの明るさ毛越寺の池のみぎはに荻黄葉せり」といふやうなもの也。十一月十三日 佐藤佐太郎
 私の生れた村は林檎の産地だから十三種類の林檎を持参したのだった。「森山氏の事」とは、花巻の関登久也氏の(尾山篤二郎門、歌と随筆のち風林主宰が歩道に転じたい意向で森山氏が仲介中、前夜花巻の大沢温泉の招宴で話が出たと思う。先生は(がえん)んじなかった。
 数日して届いた『純粋短歌』は若い私には難しかった。それでも「短歌の詩への純粋還帰を志向」「周囲の作品の中にある第二義的第三義的な素因を排除」「日常的俗情と常識的論理と虚礼的姿態との氾濫を見よ」には全く同感を禁じ得なかった。六十五年後の現在の歌壇の作品を見ても当時と変りないと思う。
 歩道入会の直前に読んだ『短歌入門ノオト』中の〈短歌と萬葉集〉では、短歌の二つの流れー明星派とアララギ派の代表歌人を挙げた後、「その他佐佐木信綱・尾上柴舟・金子薫園の流れがあり、やや遅れて窪田空穂・太田水穂等の流れがありますが、これはいづれも大観していへば傍流であります」と書いている。
 これはその後の私の勉強方向を決定づけた。即ち傍流の作品は読まずともよし、傍流に追随する人々の作品も無視すべしと覚悟したのである。以来長い星霜を閲した。写生を容れない現代の風潮に同調する要は微塵もない。先生は百年後を見通しておられた。