歌壇の窓  【最新版】 【2003(平成15)年~2025(令和7)年一覧】




   二〇二六(令和八)年「歩道」十月号    


     作歌真後語―その二―          大塚秀行



 「何をどのやうに見、どのやうに詠むか、それに必要な手本となる作品、歌論は十分残してくれてゐると思ひます」という佐藤志満の言に従って佐太郎の短歌と「作歌真後語」のいくつかを追ってみる。実際の歌と歌論を結ぶことにより、歌論が自ら作歌をする上で血となり肉となると思うのである。
  午すぎの枯葦むらに限りなき雀の声はねぐら
  するらし            『冬木』
  〇歌は意図ある如く、意図なき如くして成る。
  而して作者の影あるを要す
                「作歌真後語」
 「午すぎの」の一首は、四句までに情景が描写されてここでやや間をおいて「ねぐらするらし」と推量しているのだが、なぜそのように推量するのかが一読わからない。しかし、一句一句を精読すると作者の意図が見えてくるのである。雀は明け方から餌を漁ったり巣作りをして忙しく動く小動物である。午を過ぎると枯葦むらで小雀に餌を与えつつ一日の活動を終えるのだろう。佐太郎は雀の活動の実相を捉えて一首にしたのである。表面的には「何時・どこで•何が・どうした」と描写しているだけに見えるが、雀の生態を確実に捉えつつ詠んでいるのであり、「意図ある如く、意図なきごとく」成ったのである。さらに、「限りなき雀の声」に「ねぐらにするらし」と詠嘆する作者の雀を憐れむ心持ちがうかがえ、確かに「作者の影」を見ることができる一首となっているのだ。
 次の例について考えてみる。
  海猫は雛はぐくみて粥のごと半消化せる魚を
  吐き出す            『形影』
  〇どういふ実際を表現しても人に不快を感じ
  させてはならない     「作歌真後語」
 「海猫は」の一首は、海猫の雛をはぐくむ生態が鮮やかに詠嘆されている一首だが、「粥のごと半消化せる魚」が見事である。「半消化せる魚」も「吐き出す」も海猫だからなまぐさい反吐のようなものだろう。人に不快を感じさせるものである。しかし、これを「粥のごと」と比喩することにより、生きとし生けるものの生命の営みとしての行為として清められているのだ。まさしく「人に不快を感じさせない」表現になっているのだ。佐太郎は、『自註』に「短歌は素材はどうでもあれ、人に不快感を与えない用意が必要である。『粥のごと半消化せる魚』はわりあいうまくいったが、私はただ確かに言うために苦心したのであった」と述べている。
 佐太郎の作品が「作歌真後語」の中のどの語と関連しているのか見てきたが、今後もそのような態度で短歌を鑑賞することを継続したく思う。




   二〇二六(令和八)年「歩道」九月号    


     作歌真後語―その一―          大塚秀行



 令和八年五月の歩道東京歌会に次の一首が出詠された。
  飯綱高原より下るみち春とほく見ゆる小川の
  流れの細し            波克彦
 この歌の中で「春とほく」と詠まれているが、作者がそのように判断する理由は何だろうかと考えてみた。その理由が見えてくればこの一首は説得力をもって読者に迫ってくると思ったからである。そこで下句の「見ゆる小川の流れの細し」に着目した。なぜ流れが細いのだろう。飯綱高原だから冬は雪に覆われている。この地に春が訪れたら雪が解けて小川の水量が増すだろう。「小川が細い」のは「春が遠い」からだ。作者は情景を描写することにより飯綱高原の遅い春を見事に詠嘆したのである。
 ここで、私の脳裏に浮かんだのは佐藤佐太郎の遺した作歌真後語の中の「歌は意図ある如く、意図なき如くにして成る。而して作者の影あるを要す」という言葉である。波の「川の流れの細し」とは、まさしくこの語の好例として捉えられるのではないか。波は「春が遠い」理由を説明するのではなく情景をただ読者に提示しているだけなのだ。正に「意図ある如く、意図なき如く」なのである。
 さて、この「作歌真後語」だが、歌を詠む者に極めて重要な示唆を与えてくれる箴言として、昭和六十二年十二月『歩道•佐藤佐太郎追悼号』に掲載された。この編集後記で佐藤志満はその意義について次の様に述べている。
「『歩道』の今後についてはおひおひ皆さんと相談しながら、しつかりとしたものにしますが、基本的に次の三点を明らかにしておきます。第一には斎藤先生の歌風を引き継ぎ佐藤の築いた新写実、新万葉調の歌風を確立進展させて参ります。第二には作家の本道に立ち、あくまでも質の良い作風を堅持し、その為に佐藤の選歌の手法を守ります。第三には今まで、佐藤の力に頼り過ぎて来たところがありますが、これからは全会員が心を一つにしてその結集した力で歩道を支へていかなければならないと思ひます。何をどのように見、どのように詠むか、それに必要な手本となる作品、歌論は十分残してくれてゐると思ひます。例へば、本号の『作歌真後語』は佐藤が最晩年、画帖に書き残していつたものです。先の『作歌真』と併せ読まれれば相当に参考になる筈です。そして佐藤のやらなかつたこと、命尽きてやれなかつたことを一歩でも半歩でも前進させてゆくことが出来れば、と心熱く思ひます。」
(次号に続く)




   二〇二六(令和八)年「歩道」八月号    


     佐太郎と破調 ②            星野 彰



  海空をわたる雁のむれ見送りて青葦のうへに
  低くなりたり
は二句と四句がハ音で一音の字余りである。しかしこの歌は字余りを感じさせず、声調は非常になめらかである。二句の一音字余りの重みを、三句「見送りて」と下句へ軽く送り、四句のー音字余りが上句の重みを受け止めてー首に滞りがない。「青葦のうへに」の助詞「に」より一音の字余りとなるが、この「に」はかかせない。字余りになっても言うべきことは言う佐太郎である。短歌は言うべきところは字余りを恐れずに言い、その上で尚声調を大切にすることが重要なのであろう。
  大寒のうちのあたたかき午後のいとま青樫に
  黄いろき光を置きて
この歌は四句が九音で二音の字余りであるにも関わらず一首弛んだ所がないのは二句、三句の一音の字余りを四句九音で受けて一首据わっているからである。一句だけ字余りの歌をみてみると
  石組みて泉たたふる池あれば青き鯉ひかりを
  もちてしづまる
この歌は四句のみが二音の字余りである。「青き鯉」「ひかりを」と句割れ的運びの中に調子が充満していて字余りなど問題にせずという気迫がある。結句の字余りは腰定まらず、避けるようにと指導されるところだが、「帰潮」においても結句の字余りの歌は僅か十八首であり、うち上句にも字余りがあるものが六首、四句に字余りがあるものが四首である。結句だけが字余りの歌は体言止めの歌が多い。
  おごそかに昼ふけわたる夏の日にそよぐもの
  あり銀杏無尽葉
  冬晴のひかりのなかに電燈の塵はらひゐる電
  車駅歩廊
この二首は結句が八音の一音字余りであるが、どちらも体言止めとすることにより余韻を曳いて破調であることを感じさせない。漢字五字の声調が非常に滑らかであり視覚的にも漢字五字の連なりが凛として清々しい。しかし何と言っても声調の良さは定形の歌にはかなわない。次の二首は定形である。
  苦しみて生きつつをれば枇杷の花終りて冬の
  後半となる
  あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの
  夜あかねさす昼
これらの歌は佐大郎の言葉、「きちんと定形でゆくのが一番よい。整然とした定形であるとき、短歌はもっとも森厳で、もっとも美しく、もっとも深い」の表出の最たるものであろう。定形による緊張感が貫かれて、短歌における定形の大切さを感じさせられる。
 佐大郎の作歌に於ける姿勢は、言うべきことは破調となることを恐れずに言い且つ声調を重んじるということである。



   二〇二六(令和八)年「歩道」七月号    


     佐太郎と破調 ①            星野 彰



 短歌は五七五七七の五句三十一音からなる抒情詩である。この各句の音数に従ったものを定形と言うが、私達が短歌を学んで最初に言われることは定形を心掛けよということである。何故定形を心掛けるかと言えば歌としての声調が良いからである。言い換えれば韻律性を保つということである。歌の根本は韻律性にある。勿論、短歌の声調・韻律には、句切れ、言葉の斡旋、使用する語句等の様々な要素が関連するが、定形を守ることと声調の固守ということは離し難いと思うのである。では声調の向上を目指す理由は何かと言えば、自分の感動を読者に共有して貰いたいがためである。声調の良し悪しは読者の胸に突き刺さる感銘を大きく左右する。より深く、より多くの人に感動を共有して貰いたいとの気持ちがあるからこそ我々は短歌を外部に発表するのであり、この気持ちが短歌においては非常に重要なのである。この気持ちがなければ日記にでも書いて一人楽しんでいれば良いのである。従って多くの歌人が声調を重んじてきた。佐藤佐太郎も例外ではない。定形について佐太郎は次のように言っている。「私は本当は短歌においては字余とか字不足ということさえもなく、きちんと定形でゆくのが一番よい。整然とした定形であるとき、短歌はもっとも森厳で、もっとも美しく、もっとも深いとさえ思っています」(短歌指導)。その佐太郎の代表的歌集と言われる「帰潮」における定形と破調の割合を調べてみた。「帰潮」収載五百八十首(佐藤佐太郎全歌集 現代短歌社)の内定形の歌は約65%であり、約35%が破調字余りの歌である。定形を重んじる佐太郎であるが、破調の歌の意外に多いことに驚く。しかし破調の歌が声調を悪くしているかと言えばそのようなことはないのである。ここには様々な技巧があり工夫がなされている。しかしそれは技巧、工夫というよりも歌人佐太郎に意識せずともおのずから生ずる声調への拘りであろう。詳しく見てみると約二百二十首の字余りの歌の内約四十首が二つの句に字余りを持つ。上句と下句との両方に字余りがあることについて、定形にことに厳しかったといわれる北原白秋は次のように言っている。「上に字あまりがある時は大概は下にも字あまりがなくては腰が据わらぬのである」(鑕)。白秋は添削に於いて字余りのある場合には上下句ともに字余りがあるように直している場合が多い。佐太郎の
  海空をわたる雁のむれ見送りて青葦のうへに
  低くなりたり
という一首を通して次号で述べてみたい。 (次号に続く)



   二〇二六(令和八)年「歩道」六月号    


     大伯皇女の歌              上野千里



 万葉集に天武天皇と大田皇女の子供である大伯皇女の歌が六首収録されている。そのすべては非業の死を遂げた同腹の弟である大津皇子を想って詠んでいる。大津皇子に謀反の疑いがかかり身辺が危うくなった時、伊勢の斎宮であった大伯皇女を訪ね、再び大和に帰る弟を見送る歌は切実である。
  わが背子を大和に遺るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし
                    (巻二 一〇五)
  ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
                    (巻二 一〇六)
「さ夜更け」は十二時から午前一時頃。真夜中に伊勢をたち一人で行く秋山を今頃どのようにして越えて行くのだろうか。暁の露にぬれながら私は見送っている。(万葉集•新潮日本古典集成注釈からの概括。以下同じ)
 大津皇子が処刑された後に、斎宮の任を解かれ大和に戻る途中の歌。
  神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
                    (巻二 一六三)
  見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
                    (巻二 一六四)
 弟のいない大和に帰るくらいなら、伊勢の斎宮として孤独な生活をしていた方がましだ。逢いたいと思う弟はいないのにどうして大和に帰って来たのだろう。馬が疲れるだけなのに。
 大津皇子の屍を二上山に移し葬る時の歌がつづく。
  うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我れ見む
                    (巻二 一六五)
  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
                    (巻二 一六六)
現世の人である私は、明日からは二上山を弟と思って見続けよう。岩に生えている馬酔木を手折ろうとしているが、これを見せる弟はこの世にはいないと誰も言ってはくれない。
 大津皇子の処刑は密告、嫉妬などさまざまで漠然としている。しかし、政争によって命を奪われた弟への歌は事実であり真実である。佐大郎は『短歌を作るこころ』に「写生と万葉調」と題し”
写生というのは、実際を見て、見たまま、感じたままを歌にすることである。(略)歌には調子がなければならないが、その調子は万葉調でなければならない。(略)強く生きいきとして健康なのが万葉調である”と記す。千三百年以上たって言葉の変化は否めないが、大伯皇女の歌からは無力感、喪失感、絶望感が鮮明に伝わる。佐太郎の述べている「写生と万葉調」の短歌は、千年の後にも繫がるものと確信する。



   二〇二六(令和八)年「歩道」五月号    


     純粋抒情詩の短歌            上野千里



 佐太郎は昭和十五年八月(31歳)に次兄と共に大河原町福田の生家跡を訪ね十首の歌を残している。
  みちのくの低群山の入野にて家居が見ゆるわれのふるさと
  かなしみに思ふとなかれ家址は記憶より低しけふ来てみれば
                    (しろたへ)
 また、昭和四十八年五月(64歳)仙台の歩道宮城支部歌会に臨み、生家跡を訪ねて四首の歌を残す。
  わが生れしところかなしく昼の田の蛙の声をききつつあゆむ
  生れしより六十年か低山のうへに蔵王の残雪ひかる
                      (開冬)
 「生れしより六十年か」は、昭和五十七年(73歳)大河原町の甲子公園に歌碑が建立され、(歌碑除幕のためゆく途中)の詞書と共に次の歌が残された。
  ふるさとに逢ふ人もなき稲田道秋香の昼半日ながし
                      (星宿)
 平成六年に秋葉四郎氏が、歌集『来往』に「佐藤佐太郎生家跡」と題して十四首の歌を載せている。
  先生の生れし家跡赤松の木々丈高くひぐらしの鳴く
  亡き人のこころとどめし柿の木が古りて残ればわれら近づく
                (本家佐藤栄一氏宅)
 秋葉氏は佐太郎の命日である八月八日に生家跡を訪ねており、意味深さを感じる。
 秋葉氏は『秋葉四郎歌集』の後記に「今日の短歌は俗化、軽薄化しつつあって、短歌に「詩」を取り戻すために、今再び写生を必要であるとするのが私の意見である。「写生」と言っても人によりさまざまだが、純粋抒情詩としての短歌は歌人めいめいが「写生」を創造的に受けとめることによって活性化する。(略)無限の現実諸相に現れている生命の実態から、詩的発光あるいは鳴動を捉えて、自身の経験の声として詠嘆するのが現代写生短歌である。」と記している。
 私は昨年の五月と十一月に大河原町福田を訪ねる機会を得た。次男の嫁の父がこの町の出身であり、その友人が佐太郎の本家を継いでいる方の知り合いと言う偶然もかさなり、本家に案内される幸運に恵まれた。実際に生家跡にたつと、両先生の歌は前記を含むすベてが風景や心情を的確に捉え、多くを言わないことで想像や暗示を示し詠嘆している。何十年経っても新鮮で明確に伝わるのは、秋葉氏が述べていることに基づくからである。純粋抒情詩の短歌は、これからもすたれることなく未来を担うものと確信する。



   二〇二六(令和八)年「歩道」四月号    


     無態度の態度            香川哲三



 先日必要があって、昭和四十年代の雑誌「郵政」を捲っていたところ、次のような小文が目に入った。


 
森鷗外は晩年に「渋江抽齎」のような史伝を書いたが、みずから「無態度の態度」で執筆したといっている。そして「水到り渠成る」という中国のことばを引用している。
 私の選歌もいわば無態度の態度で、はじめから今日まできている。ただ良い歌を採って、出来のよくない歌を採らないだけである。良い歌というなかにもいろいろあるが、題材は人事であっても、自然であっても、日常身辺であっても、自分の眼でものを見たという内容のある歌がいい。表現においては自分の語気のこもっているものがいい。これからもそういう歌をたくさん作っていただきたい。
 

 
筆者は佐藤佐太郎である。
 短歌に親しんでいる私達は、様々な場面で選歌・選評、書評、或いは賞の選考結果などに接するが、その際の評価する側の心構え・基本姿勢が明快に述べられていて、胸が透くような思いがしたのである。こうした姿勢は、主体(選者・選考委員等)のみならず、客体側としても大切な意味を持っているだろう。
 終始作品本位で評価するということ、その根底には短歌に対する佐太郎の確たる信念があり、それが「自分の眼でものを見る」「自分の語気」ということになる。
 更に重要なことは、このような姿勢が佐藤佐太郎自身にも厳しく向けられていたことである。斎藤茂吉が佐藤佐太郎を評して、「佐藤はな、自分の歌の良い悪いが自分でわかる男だ」という言葉を残しているのと通じている。
 翻って、今の歌界はどうであるか。 作歌の意味、短歌の本質を正しく理解し、無態度の態度で自他の作品に対う、そうしたことが、やがては現代短歌の発展と深化に繋がってゆくと思うのだが、実際はさほど楽観出来る状況にはないだろう。
 「無態度の態度」は、昭和二十年に創刊された「歩道」の、取分け昭和の時代に発行された紙面に如実に現れていて、その一端は「歩道」のアーカイブ(「歩道」ホームページの「歩道の姿」欄)でも見ることが出来る。私は折に触れて「歩道の姿」を自ら開き、師佐藤佐太郎の純粋な精神、それに応えた諸先輩の絶えざる努力と足跡に深く頭を垂れるのである。
 そして、改めてわが来し方を振り返り、短歌という詩型に接する際の「無態度の態度」の重要性を深く思ったのである。




   二〇二六(令和八)年「歩道」三月号    


     系譜と本質             香川哲三



 五音・七音からなる我が国固有の詩型は、現代では短歌と俳句に凡そ収斂しているが、各々の内容・用語・表現技法等は今も変遷しており、記録・伝達手段などでは、電子媒体も加わって実に多彩だ。そうした中、私は折に触れて短歌の歴史を振り返り、未来を想うことがある。正岡子規・斎藤茂吉・佐藤佐太郎の歌論と実作を高く評価し学んで、既に六十年近くになる私の場合を例に取ってみれば、短歌史に沿った類型化で言う「アララギ系」ということになるのであろう。
 「アララギ系」、この言葉が用いられるのは様々な場面があるから、単純には言い切れないが、私は屢々、ある種の違和感をもってこの一語に接してきた。
 子規の精神を継承し、「アララギ」に集った左千夫・節・赤彦・茂吉・文明等、更にその門下によって興された結社で研鑽を積んだ人など、子規を源流とする歌人群像は多彩で、論・実作もそれぞれ特色がある。
 系譜という視点から捉えた場合の現代における「アララギ系」雑誌は更に変化に富んでおり、一結社内の歌風も様々な例がある。だから単に「アララギ系」とか「アララギ派」と言われても、私は明確なイメージを持ち得ない。
 何をもって「アララギ系」或いは「アララギ派」というのか、当の論者が確たる思いをもって語ってくれれば、先に述べた私の「違和感」も氷解するだろうと思うことがある。
 翻って、子規も茂吉も佐太郎も、論と実作双方に於て、短歌の本質を追及していた。旺盛な論と実作を残したこれら先進の営為を、背後から支えていたのは、我が国固有の定型詩が持つ文学的意味と、その力に覚醒した人の充実感、平たく言えば遣り甲斐・生き甲斐そのものだったろう。古きを脱し新を開く・後の世に名を残す、そうしたことが自己目的化してはいなかった筈だ。だから私は、子規や茂吉や佐太郎の論と実作に長く学んで来た。しかもこれら先進の論の基本を成しているのは原論であって、実作はその誠実な反映であったから、時代を超えて人の心に届くのである。こうした世界に古いも新しいもないだろう。今の歌界は、論も実作も発散状態に向かっているのではないかと時に思うことがある。作歌することの意味をじっくりと考え、自身にも読者にも心の奥深くに届く作品の在るべき姿を求めるには、求心的、収束的ベクトルもまた求められるのではなかろうか。先に述べた違和感は、十把一絡げの論、発散状態に向かっているような歌界の風潮に対する私の、ささやかな拒否反応かも知れない。



   二〇二六(令和八)年「歩道」二月号    


     写実の縁              佐々木比佐子



 洋画家高島野十郎についての書籍『野十郎の炎』(多田茂治著 弦書房二〇〇六年)に掲載された一枚の写真に目が留まった。「博多大丸の個展」と記されたその写真は昭和三十二年、六十七歳のダンディな野十郎を写した一枚で、「片山摂三氏撮影」とクレジットされていた。片山摂三は、佐藤佐太郎の肖像写真を撮影した写真家である。
 佐太郎の歌集『天眼』の、昭和五十一年、五十三年の作品に、また『星宿』の、昭和五十五年、五十六年、五十七年の作品に、片山摂三と佐太郎の交流が偲ばれる短歌が見られる。これら十七首ほどの作品の中から、次に数首を挙げてみよう。
  わが顔に夜空の星のごときもの老人斑を悲しまず見よ
     (『天眼』「夏より秋」昭和五十一年)
右の一首には「片山摂三氏撮影の自照に題す」の詞書が添えられている。
  七十年生きて来しかばわが顔のさびて当然に愁ただよふ
     (『天眼』「膝上作歌」昭和五十三年)
そして『星宿』には、佐太郎の告白の如き七首が収められている。その中から三首を記す。
  家にゐるわれは安けく眼鏡せず物を見ずして時をゆかしむ
  灯の暗き部屋の隅にて顔錆びし老人黙すままに時逝く
  眼の悪き老人ひとり用のなき眼鏡をかけてここに写れる
     (『星宿』「再び自照に題す 示片山摂三氏」
      昭和五十七年)
佐太郎の、片山摂三に対する信頼あっての、これらの歌なのだろうと思われる。自身の視力の衰退を、悲しいほどありのままに表現した短歌を片山摂三に示すことにより、五歳年長の佐太郎は老いの現状を凄みある言語表現で伝えている。
 佐太郎の心を開いた片山摂三は、どのような人なのであろうか。『芸術家の肖像 片山摂三写真展』(三鷹市美術ギャラリー一九九六年)掲載の、裾分一弘の文章に少し驚いた。片山摂三のアトリエには伊藤左千夫の拓本が掛けられていたという。それは伊藤左千夫詠、島木赤彦書の「寂志左乃極爾堪弖天地丹寄寸留命乎都久都九止思布」(さびしさのきはみにたへてあめつちによするいのちをつくづくとおもふ)であったという。
 つづいて、『片山撮三写真展』(福岡県立美術館一九八九年)の年譜を見て、何か納得するところがあった。片山摂三は、御母堂から陶淵明の話を聞き、また短歌の指導を受け、写真における詩の重要性を知ったというのである。片山摂三が佐太郎を撮影に訪ねた日、それは大いなる邂逅であった。



   二〇二六(令和八)年「歩道」一月号    


     高島野十郎の短歌           佐々木比佐子



 高島野十郎は画家である。高嶋野壽という本名で、久留米の人。一八九〇年(明治二十三年)に生まれ、一九七五年(昭和五十年)八十五歳で野田市において逝去した。生涯写実に徹し、どの団体にも所属せず、数回開催した個展を発表の機会とした洋画家である。
 没後十余年に東京の目黒区美術館で展覧会が開催され反響を呼び、一九九三年十二月放送のNHK「日曜美術館」にて、その存在が全国的に知られるようになったという。
 そして今年二〇二五年夏は、没後五十年という事で大規模な展覧会が千葉県立美術館で開催された。しかしながら「高島野十郎展」のことは日々念頭に置きつつも、この夏の酷暑に負けて私はとうとう千葉市には行けないでしまった。作品そのものを直接見る展覧会という貴重な機会を逃してしまった。
 そういうわけで、この秋は『高島野十郎画集作品と遺稿』(求龍堂二〇〇八年)を捲っていたのだが、遺稿「ノー卜」に記された短歌が興味深かった。数首を抄出してみよう。
  二月堂その地茶屋にかけ居れば屋根の大空しみじみとあり
  山一つ彼方のかげにわびしくも櫻と共にひそむ岡寺
  月うかぶ空のまことのむなしくも我が身のほどの思ひ知らるる
  羽黒山登るによろしたヾ一人息つき居れば山鳩のなく
  三山の峰をも越えで帰り来し我れ老い知るや知らず老いしか
 野十郎が奈良を歩いたのは一九七一年と一九七二年で、八十一、八十二歳の時。山形を巡ったのは一九六五年七十五歳の時である。遺稿「ノー卜」はA5版二十頁の薄いもので、短歌の他に詩、芸術観が綴られている。晩年の折々に書き継がれたものらしい。短歌作品は老いの境涯を偲ばせながらもナイーヴでこころに沁みる。写実表現に命を懸けた画家の確かなる眼差しが、これらの短歌には息づいている。
 千葉県立美術館での「没後五十年高島野十郎展」を見逃してしまい、悄悄と悔やんでいたところ、この展覧会は数か所を巡回して開催されると知った。福岡県立美術館で十二月十四日まで、年が明けて二〇二六年豊田市美術館で一月六日から三月十五日まで。大阪中之島美術館で三月二十五日から六月二十一日まで。その後の夏の期間に、東京の渋谷区立松濤美術館で開催が予定されているらしい。宇都宮美術館での開催は九月二十日から十二月六日までの予定ということで、これら展覧会会場の近隣の方々には是非とも鑑賞をお勧めしたい。