猿田彦太郎歌集『氷花』 八重嶋勲
猿田彦太郎氏の「東海」「村松」に続く、第三歌集「氷花」であり、昭和五十一年より平成四年までの作品六百五十九首が収められている。氏は、菓子製造・販売業が生業であり、次の作品が如実に物語っており、仕事に掛ける意気込みと誇りを感じさせる。練る餡の湯気が咽をすぎる香りや熱さによって濃度加減を覚るというプロの感覚。注文四千個の饅頭を作り終えた安堵のうたたね。菓子業を継ぐことをためらわず手伝う娘の成人式に安堵しているようすが現れている。
練る餡の湯気わが咽をすぎるとき濃度の加減
おのづから知る (昭和六十年)
四千個の饅頭作り終へし朝納品の前うたたね
しをり (昭和六十一年)
菓子業の跡継ぐことをためらはず手伝ふ娘成
人となる (平成三年)
村松山虚空蔵尊は、日本三大虚空蔵尊の一。佐藤佐太郎先生の歌碑が、氏等の努力によって平成十九年六月建立されている。その虚空蔵堂に日本原子力発電東海原発の施設が迫るように建ったということは、驚きであり、恐怖である。「ここに迫り来て」にその心響が内在している。
原子炉の施設はここに迫り来て虚空蔵堂の山の
手に建つ (昭和五十五年)
氏は、日本全国津々浦々をご夫婦で訪ねており、この一巻も殆どその旅行詠で占められている。なぜこのように旅行が多いのか。その一つの理由は、佐藤佐太郎先生の足跡を訪ね、実地に立って先生の作品の成立ちを確め、自ら同じ環境で詠嘆しているのである。「岩手金色堂」「恐山」「竜飛岬」「金華山」「那智の滝」「十和田湖」「湯殿山」「八幡平・後生掛温泉」等が見える。数を惜しんで次に抄出する。
摩周湖をへだてて遠く斜里岳の雪の光が澄む
空に見ゆ (昭和五十八年)
流氷が海にくまなくつづくなか氷の隆起青帯
びて見ゆ (昭和六十三年)
断崖のあひだの滝の凍て付きて厚き氷はおの
づと青し (昭和六十三年)
この沼に泥の塔立ち孔中に噴く泥の音ゆるく
きこゆる(八幡平) (平成三年)
本当に旅行を楽しむご夫婦である。十年ほど前、突然の電話があった。なんとご夫妻は岩手のわが家の近くにおられたのであった。その時は、遠野や早池峰山を巡ってこられた、とのこと。近くのホテルで懇談した。多分その時の作品は、次の第四歌集に収められるのではないか、と期待し、楽しみにしている。
写生に徹した優れた旅行詠を列挙しよう。
古りし代の熔鉱の跡のさだかにて鉄の混じれ
る土の重しも (昭和五十三年)
湖底より噴火のありて石礫に打ち削がれたる
林のつづく (昭和五十六年)
三日間流れ止まざる溶岩に四百軒がふかく埋
まる (昭和五十六年)
四千の海軍兵士自害せし地下壕のなか血の跡
残る (昭和五十九年)
黒部ダムの堰堤の下に噴き出づる水にあらは
に虹の立つ見ゆ (昭和六十年)
川岸を一気に氷花の動くとき軋み合ふ音のか
すかにきこゆ (昭和六十二年)
雷の轟く峡の坂道に俄かに降る雹かちあひて
とぶ (昭和六十四年・平成元年)
熱帯の睡蓮の咲く公園に幾万の鯉かさなりて
寄る (平成二年)