刊歌集  平成13年(9月)〜20年【作品】 【歌集一覧】 平成21〜現在【作品】 【歌集一覧】




  静謐な詩情―歌集『記憶』   香川哲三



 加古敬子さんの第四歌集『記憶』には、平成十五年から二十五年までの作品四百三十四首が収められている。歩道に入会して既に五十年余、昭和五十一年の歩道賞受賞作「貝殻草」によって一躍注目を集めた瑞々しい感性は、爾来今日に至るまでの日月を重ねて、愈々境涯の影を色濃く投影した、味わい尽きない作品群を生んでいる。
  わが雑煮うましうましと食む少女未来の幸を
  うたがはずあれ
  小寒の公園落葉ふかきなか家無き人ら木々の
  間に住む
  傘さしてくれば降る雪かぎりなし静かにふり
  て視界を満たす
  暮れやすき山の集落夕靄のおりて恋ほしく灯
  のともりそむ
 家居における慎ましい一こまを捉えた一首目には深い慈愛の思いが滲んでいる。屋外での生活を余儀なくされた人々を対象とした二首目にも又加古さんの温かな眼差がある。雪の降る日の静かな空気を表した三首目には澄んだ詩情があり、旅中作の四首目にも人の心を鎮めて止まない懐かしい写象がある。どれも抒情詩としての品位に満ちていて優しい。こうした静謐な作品群に続いて、平成二十年以降、切々たる内容の作が柱を成してくる。
  病棟に見おろす街はやはらかき晩夏のひかり
  驟雨のすぎて
  病める子のこの世に残る日々を神よしづかに
  あらしめ給へ
  さよならと言ふ自らのこゑに泣く死して静け
  き子のかたはらに
  うすれゆく亡き子の記憶たぐり寄せたぐり寄
  せわが春浅き日日
  夢にこし亡き子の姿やはらかきひかりの中に
  佇みてゐし
 平成二十一年に四十七歳の若さで永眠された御次男を詠じたものである。一度は退院して明日への希望を持ちながらも、やがて永訣の日をむかえざるを得なかった加古さんの、母親としての思いはいかばかりであっただろうか。この時の苦悩や深い悲しみを、敬虔な信仰心と作歌が鎮めてくれたのだろう。どの作品も限りなく哀しいが暗澹とはしていない。澄んだ心の声が一首一首に満ちて居り、読者の心までをも癒やしてくれる詩の力がある。
  朝刊の訃報さびしく歳月のかなたの人のよみ
  がへるなり
 歩道を去った人の訃報に接した際の作品で、私は深く心を打たれた。第三句以降の純粋な感性は、好悪や善悪を遙かに超えている。
  雪やみて何事もなき昼の庭ひなげしに触れ風
  吹きすぎし
  入浴ののちの静けき夜のとき明日の平和をう
  たがはずをり
 本歌集の作品の多くは、こうした日常の心の機微を軸として成されているが、それは旅先の矚目にも裾野を広げている。誰もが経験したことのあるだろう光景や心象が、何とも言いがたい詩情豊かな作品として昇華されており深い感動を呼ぶ。短歌の主は対象に在るのでは無く、作者自身の内に在ると言うことを改めて感じさせてくれた。こうした作品に接していると心が浄化され、しきりに作歌意欲が湧いてくる。加古さんが長年にわたって求めて来られた短歌の世界がどのようなものであったか、本歌集はそのことを端的に示している。既に容易ならざる境地に入り立っているのだ。永眠された御次男の昇さん撮影の甲武信ケ岳(こぶしがたけ)麓のカバー写真がとても印象深い。