刊歌集  平成13年(9月)〜20年【作品】 【歌集一覧】 平成21〜現在【作品】 【歌集一覧】


横尾邦光歌集『分去れ』


  ―人生の岐路を越えて詠う―



               仲田 紘基



  横尾邦光さんの第一歌集『分去れ』は、実直で純朴な生き方のなかから生まれた人生の讃歌である。
 「分去れ」は「わかされ」と読む。方言だから普通の辞書にはない。若いころ、私は軽井沢で「分去れの碑」を見た時にこの言葉を知った。中山道と北国街道との分岐点にある道標だ。なんとなく旅心を誘われる言葉でもある。
  分去れを幾つ越え来て今あるとみづから思ふ七十二となる
 私にとって共感を禁じ得ない一首。横尾さんとは四十年来のつきあいがある。歌集の「あとがき」で横尾さんは「生涯国語人」を目指して生きてきたと述べているが、国語教師として教育界で切磋琢磨してきた仲間の一人だ。
 こんな一首もある。
  ビル街の地下レストランの賑はふを知らず働き来し半生か
 横尾さんの愚直なまでに真摯な教職人生が歌と重なる。
 横尾さんの生き方は、この歌集の構成にもよく表れている。歌歴により第一期(昭和五十九年〜昭和六十二年)と第二期(平成二十年〜平成三十年)に作歌が分かれており、間のほぼ二十年はまったく短歌から離れた生活を送ることになる。「仕事中心の生活に埋没してしまいました。」と、横尾さんは「あとがき」で述懐している。
 収録された歌の大半は第二期、すなわち定年退職後の作品である。喜寿を一つの節目と考えてまとめられたこの歌集は、何事も手抜きせずに人生を生きてきた横尾さんの歩みそのものだ。だから、歌に作者の思いがこもる。作者の影が寄り添う。
  さるすべりの大きなる幹に木枯の渡る音する寂しその音
 これは歌集の巻頭を飾る歌。さるすべりの「大きなる幹」のかたわらに立ち、梢を渡る「木枯」の音を全身で感じとるように聞いている作者の姿が浮かぶ。なんと豊かな感受性あふれる一首であることか。
 一冊の歌集を手にして最後のページまで読み切らない人がいても、一首めの歌だけはだれでも読むだろう。歌集の最初の一首は人の顔のようなものだと私は常々思っている。顔をみればその人の全体像も想像できる。
 歌集『分去れ』は編年体で編集されているから、横尾さんは作歌の初期から優れた能力と感覚を発揮されていたことがわかる。そして、この第一歌集が読みごたえのある充実した一冊であることをも暗示する。
  春嵐吹き来る夜に巣立ち行く子らを思ひて一夜眠れず
  冬の蠅の暖き羽音の途絶えたる後静まりて時の過ぎ行く
 卒業してゆく教え子に対する教師の心情。身近な日常生活のなかでとらえた時間の感覚。読者の期待を裏切ることなく、これらの秀歌がすでに第一期の作品のなかに見られる。
 第二期にはいると、さらに感覚のみがかれた歌が続く。
  病院に妻を送りし家居にて稀に金魚の跳ねる音する。
  隣り家のピアノ弾く子の顔知らず巧みとなりてこの頃楽し
  葦原に散りたる入らの足元に炎あがりて野焼き始まる。
  晴天に人のこゑして鉄塔に作業するらし正月三日
 平坦な日々のようにも見えるこうした日常詠にまじって、身近な人との別れなど心を揺さぶられる歌もある。
  父の亡き後なる母の四十年寂しみ二人の位牌をぬぐふ
  弟のなきがらにふれひとしきり姪の嘆きをわれは受け止む
 横尾さんの歌の特色に触れて、歌集の帯で秋葉四郎氏が次のように言う。「事件的な真実を超越し、一見些細に見える身辺・境涯の輝き、響きを意味ある現実として詠嘆している。遠くに素材を求めないのもいい。」
 佐太郎の「純粋短歌」の精神をふまえたこの指摘は、歌集『分去れ』の作品世界を言い当てた言葉であるばかりでなく、これを読む私たちにも求められる大事な作歌の方向だろう。
 「わかされ」という方言の響きには、先にも書いたように旅心を誘われるような懐かしさがある。そう言えば、この歌集には旅の歌がほとんどない。
  読み聞かせ始めていつしか十五年記念の集ひの今日梅雨あがる
 子どもたちのため今も精力的に読み聞かせボランティアを続ける横尾さんに、私はあえて言いたい。たまには温泉地にでも出かけて、ゆっくり体を休めたらどうか。身近な所に素材を求めるのもいいが、旅に出れば、横尾短歌の新しい世界がまた開けることもあるのではないか、と。