新刊歌集  平成13年(9月)〜20年【作品】 【歌集一覧】 平成21〜現在【作品】 【歌集一覧】




短歌とエッセイでつづる稀有な自分史
 中村とき著『大震災・前後』
  
               仲田 紘基




  津波などなかりし如く晴れし日の海の青さにわが涙出づ
 胸に迫る秀歌が並ぶ中村ときさんの第三歌集『大震災・前後』から、あえて一首を選べと言われれば、私はこの歌をあげるだろう。八年前の東日本大震災により、三陸海岸の山田町に住む中村さんは、生涯で三度目の津波に遭遇した。その中村さんの深い思いが集約されたような一首である。
 遠洋漁業と定置網を営む漁家に嫁いだ中村さんは、いつも海の音を聞いて暮らした。
  わが船に乗組みて長き人々を家族のごとく思ひつつ老ゆ
 これは船主であった夫の七回忌の年、昭和五十九年に刊行の第一歌集『海の音』に収められている歌。そして平成二十一年には、第二歌集『船の音』を上梓している。
  夫逝き十八年か船送り船迎へつつ古稀半ば過ぐ
 この第二歌集のあとがきで、中村さんはこれらの一連の歌を顧みて「自分史」のようなものだと述懐する。まさに中村さんの人生そのものとも言える作品の数々。その『海の音』『船の音』に続く自分史が、『大震災・前後』という歌集名で書き加えられることになろうとは、いったいだれが予想し得ただろうか。
 書名からもわかるように、この歌集の前半には、大震災以前の中村さんの日常が詠われている。
  施設にてわれを待ちゐん九十五の姉思ひをり眠れぬ夜半に
  妹を詠みたる頁の開かれてわが歌集あり柩のなかに
 そうして迎えた平成二十三年三月十一日。中村さんは未曾有の大震災に遭遇することになる。歌集の中核となるのは、中村さんの苦渋の被災体験から生まれた悲しみの歌である。
  逃げよ逃げよただ只管に登りたり津波来しとふ声に押されて
  わが思考持たざるままに導かれヘリに乗らんと運ばれてゆく
  窓破れ屋上に物の上りたるわが家の無惨こゑあげて泣く
  再びはここに住むことなからんと流れし家の跡にわが立つ
 これらの作品で平成二十三年度の歩道賞も受賞されている。大震災をテーマとして多くの人が歌を詠んだ。私も震災一年後に三陸海岸を訪れて作歌を試みたが、中村さんの切実な歌の前では、所詮は第三者的でしかなかったと今にして思う。
 仮設住宅での生活や震災後の思いを詠んだ歌にも心をひかれる。中村さんの中ではなお大震災は終わっていないのだ。
  わが死なば柩に入れん亡き夫の買ひくれし着物津波にて無し
  津波にて不明の姉の置時計わが枕辺に時を刻めり
  夫逝き三十七年津波後の仮の住まひに仏具を磨く
 待ちわびた新居が完成し、新しい生活を送りはじめた中村さん。先日いただいたお手紙に、しっかりした文字でこう書かれていた。「津波からもう八年も過ぎ、命長らえて再建の家に三年目となりました。」
 そういえば、津波によって家とともに書物もみな流されてしまったという。『海の音』も『船の音』も。しかし、中村さんによって生み出された歌は今も多くの人の心に残されている。大震災の記憶が今後も絶えることなく受けつがれていくように、この歌集『大震災・前後』はこれからも更に多くの人たちに読みつがれていくに違いない。
  丈低き書棚を買ひて新しき家に余生を思ひてゐたり
 『大震災・前後』には、短歌作品とともに珠玉のエッセーも収められている。かつて「歩道」誌にも載せられた「大津波」は、とりわけ貴重な体験の記録である。
 「思いがけず長生きを致しまして九十九歳になりました。」−お手紙にはこうも書かれていた。「歩道」のためにも作歌に親しむ後輩のためにも、もっともっとがんばってください、と思わず声をかけたいような気持ちになった。