佐藤佐太郎の秀歌(秋葉四郎)  ( ○平成25〜   ○平成20〜24年   ○平成15〜19年



   
平成二十四年十二月号    


  昭和四十年以来わが身は長き坂まろび来し如
  くまろび行く如し        (星宿)
 昭和五十四年の「梅雨の日々」一連にある。この時自身をかえりみて、昭和四十年ごろに病が発症、以末長い坂を転んできたように、病が完治するともなく体が衰えてきた。同じように、これからも衰え且つ老いてゆくだろうと詠嘆している歌である。
 作者は、五十七歳の昭和四十一年の暮から、翌年正月にかけて、鼻出血が止まらず入院、加療している。しかし、病状はそう重いわけでもなく、この前年即ち昭和四十年あたりから、脳血栓の症状があらわれていたから、その用心としての加療であったように思われる。その時に
  病院の第五階にてわが窓はおほつごもりの夜
  空にひたる
  出づる血のしばらく止まりたのめなき一月一
  日の夕暮となる
などという作品を残している。
 とにかくそれから十三年、七十歳となり、古稀を迎えての感慨としてしみじみと振り返ったのである。はかばかしくない健康状態を自ら凝視し、歎いて、「長き坂まろび末し如くまろび行く如し」は、言い得ていて読む者の心に突き刺さり、老境の哀れが響く。



   
平成二十四年十一月号


  いたるところ浜大根はまだいこんの白き花渚に波のごとく
  ふかるる            (星宿)
 「四月二十九日夕、渚を歩む」という詞書がある。渚は仮寓のあった千葉県館山市の塩見海岸。この日は天皇誕生日にて休日。連休になるから私は同行して、二日一緒に過ごす。朝は雨が降っていたが、仮寓に着くころには晴れあがっていた。やや早い夕食後、家裏の浜を三人で散策する。初夏で浜辺には浜大根がどこにも繁茂し、ちょうど花盛りであった。浜待宵も砂地近くに黄の花を思い切り開いている。作者佐太郎はいいところだとしばしばつぶやき盛んにメモした。その翌日この歌が出来る。「今までで一番いいくらいの歌」だと自ら言いつつ見せてくれたことが拙著『短歌清話−佐藤佐太郎随聞』に詳しく出ている。
 何しろ「いたるところ浜大根」が咲くところに遭遇しているのだから、現実の意味ある一角で、「渚に波のごとくふかるる」には、情景がその実相をも込め、活写されている。写象鮮明の鮮やかな一首と言える。浜大根の花は日中太陽の下では「むらさき」である。しかし、今薄暮に見ているから、「白き花波の如く」となる。このあたりも的確な見方であり、表現である。詞書にさりげなく「夕」がはいっているのも、このことを意識しているだろう。



   
平成二十四年十月号


  屋根の霜みるみるうちに融けゆくを冬のわか
  れと謂ひて寂しむ        (星宿)
 隣接する家や目の前の家の屋根などに置く霜である。日々見るともなく見ていると、たちまちとけるようになって季節が移ったことを実感させるところ。そこがこの歌の捉えたところである。「屋根の霜」という具体と作者の心境とが、かかわり過ぎず、き過ぎず、悠々とした世界を醸し出している。
 この歌の下の句は、最初「春のわかれ」であった。厳冬のさなかの元日を新春などと言い、厳冬のつづく二月初めに「立春」が来るから、私は「春のわかれ」に、あり得ると考え享受していた。しかし、作者は長くこだわって、歌集の最終稿として、「冬のわかれ」にしたのである。そうして改めて気づくとこの方が「実に即く」ことで、一首がすっきりとする。
 結句の「寂しむ」という主観語も、上の句の具体とバランスよく働いている。作者はもともと「寂しむ」「あはれ」などを必要とするのが短歌だという考えもしていた。なお、言葉に表す意味の「言ふ」ではなく「謂ふ」を使っているのは「謂」にある「思ふ・思へらく」の意を生かして「と・ ・ ・って寂しむ」の気持ちを込めているだろう。



   
平成二十四年九月号


  来日らいじつの多からぬわが惜しむとき春無辺にて梅
  の花散る            (星宿)
 ここから第十二歌集『星宿』になる。『星宿』は昭和五十四年(七十歳)から昭和五十七年(七十三歳)までの四年間の作品を収めてあり、この歌は「春無辺」一連八首のうちにある。
 「来日の多からぬ」とは、来る日(明日・将来)が少ない、即ち年老いて残生が限られていることである。そういう境涯で日々を惜しみつつ過ごす時、春は無辺に満ち、何処にも訪れ、まさに梅の花が咲き終って、目前に散っている。人は限りある生を惜しみ、自然は、大宇宙の摂理に従って同じような軌跡をたどって進んでゆく。そういうはざまに人の生の実存は息づいているのである。そう言えば、いくばく理屈っぽい解釈になるが一首は、境涯の詠嘆として単純にすっきりと表現されている。
 「老い」という残生を現実として受け止め、そこから光のようなものを感じている一首である。「来日」にしても「春無辺」にしても、辞典にある普通の言葉だが、そうした内容と一致して、ことさら新鮮な響を放っている。



   
平成二十四年八月号


  いたるところ皆老ゆべしと割切りて歩みゆく
  蛇崩歳晩の道          (天眼)
 歌集『天眼』の掉尾を飾る「歳晩」十一首中の最終の歌。『天眼』はこの一首にて終わっている。即ち六十九歳までの老境のけじめの作である。この「六十九歳まで」は実はこの作者が尊敬して作歌の手本にしている斎藤茂吉の作品のある老境である。
 ある時、健康のため蛇崩れ歳晩の道を歩みながら、そういう自身をもう一人の歌人たる作者が見つめて思うのである。老いるということは部分ではない、どこもかしこも老いるものだ。そして、そういうものが老境の現実だと割り切り、自ら納得をするところである。
 言われて、多くの読者は人の世の真実、一人の人生の究極の哀れを改めて感じることだろう。そうして抒情詩としての短歌の表現に雄壮なものを感じることだろう。
 こうして、「六十九歳」の「老」がすぎると、茂吉にない七十歳以後が、作者にも来るのである。



   
平成二十四年七月号


  愚夫愚婦のあひだに生れともかくも寿いのちあり昭
  和大平に老ゆ          (天眼)
 歌集『天眼』の掉尾を飾っている一連五首のうちの一首。自身の生涯をある時かえりみてこんな感慨にひたったのである。愚夫愚婦というべき両親の下に生れ育ち、とにかく今、よろこぶべき命があって、活動できている。そうして、戦争もなく昭和大平と言ってよい、繁栄している時代に老いを積んでいる、というのである。
 この年作者は六十九歳であったが、歌人としての仕事には人も認め、自ら満足できるものがあったから、ぎりぎりの抑制の上になっている詠嘆といえるだろう。それにしても「愚夫愚婦」はきわどい用語である。身内の謙遜語としてもちいられているのだが、「昭和大平」以前の日本の親たちはそう言われる要素をもっていたのだったかも知れない。時代意志のなかで、子供の教育も自らのことも、思うにまかせなかったのである。



   
平成二十四年六月号


  旧恨も新愁もなきおいびととして冬庭にひか
  りを浴ぶる           (天眼)
 歌集『天眼』の掉尾を飾る「歳晩」十一首中の一首。到りついた境涯を詠って、「旧恨」も「新愁」もない老人として、冬の庭にのんびりと光を浴びているという内容の歌である。旧恨は辞典にも出てくるように、昔の恨み、内に滞っている怨みごとであり、新愁は新たに内に湧いてくるわびしさで、老境と共に抱く愁いも含まれるであろう。そんなものは一切なく、誠にのどかな心境を抱いて過ごしているという作である。
 「旧恨も新愁も」という漢語の響きが特殊といえば特殊である。しかし、極めて平易な漢語であり、こう言って新たな心境の表現を可能にする言葉でもある。作者は世間一般に広く使われてよい言葉として示したのでもあったろう。語感の響きもよく、歌人佐太郎の感覚の効いている用語である。
 さて、この当時こんなにのどかな境涯を過ごしていたかどうか、事実の詮索に及ぶ読者もいるに違いない。それは疑うこともなく、この日はこうだったからこの一首があるのである。その上で、短歌は強くつかんで強く言うからこういう表現になることも忘れてはならない。つまり願望の強い表現という一面もあると見てよいのである。



   
平成二十四年五月号


  山茶花の咲くべくなりてなつかしむ今年の花
  は去年を知らず         (天眼)
 花と言ってもさまざまで、朝に限って咲く花もあれば夜を待って開く花もある。冬が過ぎて春咲く花は華やかであり、真夏の暑さを好む花はたくましい。秋の花は何がなし感傷を誘うようなところがある。寒くなると咲き出すこの山茶花や枇杷の花は詩情をそそって止まない花でもあろう。歌人佐太郎は好んでこの花を凝視しつづけ、点景にして多く詠嘆している。山茶花が咲くべくなる、晩秋から初冬になって、ことし又改めてこのさわやかな花を見る。いろいろな感慨がわいて懐かしいのだが、よくよく考えるとこの花は去年を知らない。私が年々心惹かれ、讃えているこの山茶花の花々、「今年の花は去年を知らず」なのだ。発見とも、観入ともつかない思いを抱いているところである。意識的な「われ」が存在しなければ見えない。
 劉廷芝の七言古詩に「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」というのがある(来る年ごとに咲く花の姿は常に同じようだが、それを眺める人々の姿はそのたびに変っている)。劉廷芝は花と比べて人の存在は哀れだと言い、歌人佐太郎は、むしろ去年を知らない花を憐れみ、人の存在のたくましさを言っている。老齢の叡智である。



   
平成二十四年四月号


  目に見ゆる変化なけれどてんおほひ寒気かんき来るこ
  ろわが足弱し          (天眼)
 「晩秋」という一連にある作。他に
  足弱きことを歎くは病みながら痛まぬさちをと
  きに忘るる
  人を畏れ黙坐しをれば夕暮のたちまち至る秋
  の日の午後
などという作があって、身をいたわりながら生きる境涯が、天象などを添景に詠嘆され、嘆息さながらの響きが深い。それぞれの歌から溜息のようなものを感じるのは私だけではあるまい。
 この一首は、眼に見えるようなはっきりした変化ではないが、寒気団が空を覆う、即ち冬に近づくとあらわに足が弱くなっているのに気づく、というのである。微細な変化だと断っているところも切実である。微細ながら、本人には厳しい現実で、放っておくことのできないことなのである。もともと天象の変化と人の生命現象は密接で、人の生死が潮の干満にかかわったり、雨の前兆として古傷が痛むなどという話はよく聞かれる。大自然、大宇宙の摂理の中で人が生きていることをしみじみと思わせられるところである。
 抒情詩短歌の作者として佐太郎には自然に対してことさら敬虔であることによって、こういう感受、発見が少なくない。



   
平成二十四年三月号


  いただける笠雲光り夕雲にまぎれず遠き富士
  山は見ゆ            (天眼)
 昭和五十三年の夏の作、「渚」一連七首の中の一首で、千葉県館山市の仮寓、聴濤居での作である。海を隔てて、折しも頂上にかがやく笠雲をいただいて、富士山がありありと見える。富士山が明らかに見えるだけでも、ありがたい出会いだが、極めて珍しい現象の笠雲がかかって、夕光を返しているのである。作者はこの遭遇に感謝して堂々と謳い上げている。今遠景として見えるから作者の視野には当然夕雲などもある。その夕雲にもまぎれずに鮮やかに見えるという限定がこの光景を鮮明にする。「見ゆ」も臨場感を強めている。ところで、万葉集の山部赤人の有名な作
  田児の浦ゆうち出て見れば真白にぞ不二の高
  嶺に雪は降りける
は、房総での作だという説がある。江畑耕作氏の論考は、「たごだい」という地名まで発見していて説得力があるが、私は佐藤佐太郎のこの笠雲富士の歌を見るとき、同じ角度だと思わずにいられない。赤人は市川真間の手児名の作もある歌人だから、房総とは縁が深く、万葉の歌人赤人と昭和の歌人佐太郎とは同じ角度で富士山を見て、その遭遇に感謝しているのかも知れない。



   
平成二十四年二月号


  門いづるをとめの姿二階より見ゆ死後かくの
  如き日を積む          (天眼)
 「夏日常(二)」一連の先頭の一首。「をとめ」は三女として佐藤家の後継者ともし、愛しんだ孫の佳子さんである。高校一年生くらいになっていたであろうか、日々学習にも忙しくなって、門を出でてゆくことも多くなっていたのである。作者はそれをしみじみと見送る。老境を迎えているから自ずから思いは自らの死後に及び、「をとめ」はこれから長く同じような日を積んで現世の試練を超えてゆく、そんな感慨にゆくりなく浸っているところである。
 誰でも同じで、幼い者が頼もしく成長してゆけば、その一方で、自身の亡き後を思わなければならないのが老境である。喜びと共にくる宿命と言えば宿命である。それを言ってこの一首は余分な感傷を排し、真実を客観して、人の普遍的な姿を思わせている。斎藤茂吉の経験していない七十歳以後の詩の世界にこだわって、詠嘆し得ている一首と言えるだろう。
 なお、作者が「乙女」の語感を嫌って、「をとめ」として、品格を高めていることにも改めて注意すべきことである。



  
 平成二十四年一月号


  断崖の山堅固にて高きより落つる滝見えぬ谷
  にとどろく           (天眼)
 昭和五十三年「雪山・氷河」一連の中の一首。この年の六月末に門人らと共にカナダに短歌の旅をし、こうした光景を見たのである。
  遠からぬ山並見えて岩石の摂理のまにま残雪
  ひかる
  あざやかに雪をたもてる山ありて音なき天を
  われは寂しむ
など自然の厳粛に肉薄する一連として五首がありその中にこの一首がある。断崖として見える山が堅固に見えるのはこの険しい山の創生を思わせるもので、樹木などを寄せ付けない厳しさをあらわにしているのである。その高いところから谷に向かって落ちる滝の音がする。上端は見えるのかも知れないが、見えない谷にとどろく音がするのである。その轟が相当に高いことは、「山堅固にて」という上の句が伏線となって、暗示されている。そうしてあたりの緊張した空気、透明で鋭い光も感じさせている。この一首は滝の音が「見えぬ谷にとどろく」と捉えたところが特殊であり、余情を豊かにしている。この歌を出した歌会の席上で、旅の同行者が朝早く起きこの滝の落下地まで見に行ったことを羨望して話された。しかし、私はむしろ「見えぬ谷」の「滝」だからこの一首はより豊かで特殊な一首になったのだと思う。



   
平成二十三年十二月号


  わが死後の記念のために意識して幼子のかうべ
  づることあり(天眼)
 昭和五十三年のこの歌のある「蛇崩往反」一連は、歌集『天眼』の特色を思わせる作がいくつもある。
  窮達の到らぬところ知らずして日々さだまれ
  る坂往反す
  もてあそぶ余齢のためにわが歩み憂へず待た
  ず蛇崩をゆく
などである。いわば「老而厳」という境地でありながら、どこかにゆとり(遊び)を感じさせ、悠々と言うべき歌境をうかがわせる。そうした一首にこの掲出歌もある。
 作者は幼い孫を愛しく思い、日々の成長をつぶさに見守っている。そうしたある時、この孫は自分の死後に生きる存在だということを強く意識する。そうして自分がこの世にない時、祖父たる作者はこの幼い孫にとってどんな存在になるのか、どのように思い出すのか、かすかな願望も込めて、頭をなでるのである。
 一読その意外性にハッとさせられるとともに、読者は老境の現実に改めて思いをはせることになるだろう。



   
平成二十三年十一月号


  くさぐさの花晩春の日々過ぎてむらさき光あ
  る藤のさく           (天眼)
 「くさぐさ」は「種々」でたくさんの種類のこと、さまざまな花が咲く晩春の日々が過ぎて、むらさきの光をさながら放ち藤が咲く初夏が来たと強く詠嘆している。上の句の「くさぐさの花晩春の日々過ぎて」が快調な言葉の響きで、一気に春となって花々が咲き乱れ楽しい春であった余韻のようなものが伴う。しかし、作者は下の句の、「むらさき光ある藤のさく」に強い思いを込めている。初夏のあらゆる良さを暗示して藤の花がむらさきの光を放つのである。作者はこの初夏の季節を好み、この季節を心待ちにしていたのである。だから藤のむらさきが心に沁みるのでもある。この歌に続く一首
  わが好むときは来たりといふごとき晴れし晩春
  の午後坂をゆく
という作がそのあたりの作者の思いをよく伝えている。
これらの作は「膝上作歌」と題する一連の中にある。膝の上で短歌を作るということだが、日々の散歩の折り返し点に、なじみの喫茶店があってそこに憩いつつ作歌をしたから、その記念でもある。愛読している漢詩に膝上詩なるという表現があってその応用である。



   
平成二十三年十月号


  道のべの日々花多き山吹もつつじも旧知わが
  こゑを待つ           (天眼)
 やはり「桜の頃」一連の中にある一首。「蛇崩遊歩道」を中心として、周辺を日々散歩し、そこでめぐり合うさまざまな光景、矚目は作者の鋭敏な心と熱い交流をする。そしてその作品の点景となって光を放ち、鳴動もしてきた。日課の散歩も四年目を迎えて、そうした対象はすべて、単に向うに見える風景ではなくなる。この道のべの「山吹も」も「つつじ」も四年相まみえる旧知になっているのである。
 思い切って擬人的に「旧知」と言ったところに、四年の歳月を暗示し、一首の詠嘆に必然性を添えている。古いなじみのような存在の、花多き山吹であり、花多きつつじだからまた、その沢山が「わが声を待つ」という感慨・連想を導いたのでもある。歌境は赴くままに赴いて、こんな世界をも短歌写生の内としているのである。
  いづこともなき花の香を感じつつゆふべ蛇崩
  の道かへり来る
  ゆききする道にわが知る山吹のしげみ草藪に
  似てあたたかし
などという作があって、自ずからこの歌があるのである。



   
平成二十三年九月号


  蛇崩の道の桜はさきそめてけふ往路より帰路
  花多し             (天眼)
 昭和五十三年「桜の頃」という一連十首の中にある。三年前銚子入院以後の作者の生活は、健康のための摂生、運動(散歩)を中心として、充実していた。毎日周辺を「ただ歩くため」歩み、その周辺の景観をつぶさに見、思いを積み、ある時は思いもかけない発見をして詠嘆する。
 この歌は、その散歩コ―スの一つ、蛇崩川を暗渠にしてできた「蛇崩遊歩道」(佐太郎の用語、公式には蛇崩川縁道)を桜の咲くころ歩いたときの邂逅である。
 この遊歩道を作者の家より一キロ半ほど歩いて日比谷線中目黒駅に近づいたところに五、六本の桜が古木となって道を覆っている。その下を往き、駅の近くの喫茶店でゆっくり憩い、膝上詩をなして、また帰ってくる。咲き初めていたさくらが、帰路の方が花は多くなっている。この発見は作者の心をふるわせたであろう。咲き始めた桜の勢いを捉えたのである。この具象は春が動くこのころのあらゆることを暗示する。何しろ「往路より帰路花多し」という観入が鮮やかであると同時に、シンプルに言い得て、辞達している。歌人佐太郎の傑作の一首である。    



   
平成二十三年八月号


  春ちかきころ年々のあくがれかゆふべ梢に空
  の香のあり           (天眼)
 立春のころ、厳しい冬が過ぎて生物の活動が活発になり始める。草木も、例えば桜の冬木の枝に力の張る感じが見えたり、幹に艶が増したりする。春が動くのである。
 作者はそうした季節の移りを肌で感じつつ、木々の梢と空とのかもしだす気配を凝視している。黄昏の清透な空と葉の芽花の芽がすでに膨らむ木々の梢、そこに心惹かれて空の美を感ずるというのである。「空の香」は古語の「にほふ」と同じ感じ方で、「たかむらに一木にほへる」(茂吉)や「にほへる妹」(万葉集)と似た美しさの感覚的な感受である。「あくがれ」は魅了されることだから、老境とも関係してこのころの空の香、空のうつくしさに感動するところである。感覚的に対象を捉えるのはこの作者の特色で、その特色の出ている一首でもある。この歌の初案が私の『短歌清話』昭和五十三年四月二日の記事に出てくる。
  春ちかきころ年々の心にてゆふべ梢の空の香を持つ
  春ちかきころ年々にあくがるる夕べ梢に空の香のあり
などの過程を経てこの一首がある。



   
平成二十三年七月号


  冬の日のあはれのひとつ瞳球に掻痒感の走る
  ことあり            (天眼)
 昭和五十三年「及辰園大寒」の中の一首。この年作者は六十九歳を迎えている。高齢になれば人には等しく、さまざまな老の具体が思いがけない形で現れてくる。その一つが「眼がかゆくなる」ことであり、その現れ方が「走る」感じだという。更に、冬になると出てくる症状でもあることもさりげなく出ている。こう言って、年を取ってみないとわからない境涯の哀れが詠嘆されている歌である。
 歌は言い方、表現に妙味、味わいがあるから「瞳球に掻痒感の走る」という簡潔な言葉運びが読む者をひきつける。普通なら「瞳球」という漢語と「掻痒感」という漢語がつづけば一首の嘆声はぎこちなくなったりする。ところがこの一首ではそういうことは一切なく、むしろ声調が引き締まって響いている。作者佐太郎はしばしば漢詩などの安易な影響を受けた短歌作品が俗でぎこちのない声調をもたらすと指摘していたが、そういうことがこの作品には一切ないのである。「瞳球」にしろ「掻痒感」にしろ、長く作者の心中に温められて、完全に作者の血脈の通じた言葉になっているからである。



   
平成二十三年六月号


  左ききなりしことなど懐かしくしてたらちね
  の母しおもほゆ         (天眼)
 歌会始の選者として、献詠した一首。お題が「母」であったから、懐旧したのである。母親が左ききだったことが、今改めて懐かしいと言っているだけの、シンプルな内容である。しかし、一人の母親像が生き生きと表現されている。
 左ききでどんな仕事も手際よくこなし、料理なども器用に為したであろう。利発でもあったに違いない。明治大正時代の女性であれば、特訓を受けて、若いころは右利きのように振る舞っていたかもしれない。
 作者は、歌会始の選者詠に拘って随分苦心するのが常であった。近くにあってそういう例を少なくなく私は見ているが、この歌については、早くから出来て筺中にしていた。会心の作のひとつであったのであったろう。
 この歌を知ってから、ある時気付くと、料理がプロ級の腕前である次女洋子さんが左利きで見事な包丁さばきをされていた。



   
平成二十三年五月号


  冬枯れの陸地は遠く風のふく海をへだてて西
  日にけぶる           (天眼)
 「十二月二十八日、晴れ。午後なぎさを歩む」という詞書がある。即ちその年の暮に千葉県館山市の塩見海岸にある仮寓「聴濤居」に滞在して出来たのがこの歌を含む「塩見詠」(一)十首で、二十八日二首、二十九日三首、三十日四首、三十一日一首の日録となっている。日録はさらに正月三日まで続き、「塩見詠」(二)三首がある。
 塩見海岸は東京湾の内の極端な内海だから、同じ房総半島の陸地がせり出て見え、三浦半島の陸地も見え、遠く丹沢の山々さえ見える。ここでは「冬枯れの陸地」が露に見えるのだから、房総の陸地太房岬あたりである。風波のたつ海を隔て遠い陸地のように見えるというのを感覚的に捉えて居る。はっきり冬枯れの状態が見えるのである。「冬枯れの陸地」が捉えたところでもあり、単簡に言い得ている表現でもある。「風のふく海」も一首をもり立てている。
 この時私は同行していて、歌のなる前後を書き残している(『短歌清話−佐藤佐太郎随聞』)。



   
平成二十三年四月号


  晩秋の蛇崩坂のうへの空しづけさはその青空
  にあり             (天眼)
 蛇崩坂を中心に散策が日課となって秋の好季節を迎えている頃の作である。いよいよ晩秋となったある日、毎日歩んでいる蛇崩坂の上空の、晴れ透る空に妙な静寂を感じる。毎日歩いていて今日気付いたことである。それはどうしてであるか「見て考え、考えて見た」結果、その「しづけさは」青天がもたらしているのだと発見する。この捉えたところ、見えたところが一種の感動となっている歌である。
 抜けるような青空ゆえに全天が静かだと感じることは解ってみれば平凡に近い。しかし、作者は、銚子入院以後、ほぼ一年半日々外を歩くようになって、天象を全身で受けとめるようになっているから、見え感じ得た世界で、歌人佐太郎の特色のよく出ている一首であることを忘れてはならない。後の『星宿』の天象を詠った絶唱
  きはまれる青天はうれひよぶならん出で
  て歩めば冬の日寂し (昭和五十四年)
につながる一首である。秀歌は突然生れてくるのではない。見ること、感じることの蓄積、継続によって、必然性をもって詠嘆となるのである。そのことをとりわけ思わせる一首である。



   
平成二十三年三月号


  いくばくか夜の明けおそくなるころの善
  悪もなき生の寂しさ     (天眼)
 昭和五十二年「晴雨」一連の中の一首。太陽暦六月二十一日ごろに二十四節気の一つ「夏至」が来る。この日北半球では、昼が最も長く、夜が最も短い。すなわちこの日を境に夜の明けが遅くなってくるのである。
 作者は当然ながらそういう知識もあるが、体感として確かに「夜の明けおそくなる」のを感じ、老境の現身の声として「生の寂しさ」を詠嘆する。それは通俗理論を越えた感覚的な人の世界だから、「善悪もなき」と言っている。
 上の句「いくばくか夜の明けおそくなるころ」は一人の人間(作者)を取り巻く実際である。それを添景にして下の句「善悪もなき生の寂しさ」という作者の境涯の声がある。上の句だけで一首になっても淡泊になるし、下の句だけでは味がない。人を取り巻く、天象と切っても切れない境涯の影とがひとつとなって、そこから醸されて、一首の世界は大きく且つ強く響く。
 こういう短歌の文体は、この作者によってより自在に駆使され、より洗練された。



   
平成二十三年二月号


  白雲にまぎれて遠き雪山のマツキンレ―
  展望台に立ち見つ      (天眼)
 更に、夏だからツンドラの表面がゆるんでいる高原をバスによって進み、目的地の「マツキンレ―展望台」に立った時の歌である。早朝からほぼ一日がかりで近づいた筈のマッキンレ―山は、まだまだはるか彼方であった。しかも朝のころはその全容が小さく見えていたのに、展望台に着く頃には、白雲にまぎれていた。そのままを直写してこの歌がある。
 「白雲にまぎれて遠き雪山」にしろ、「マツキンレ―展望台に立つ」にしろ、経験したから言える表現である。だから言外に広大さ、溢れる光、雪山マッキンレ―がもたらす空気即ち冷気等が感じられる。
 この歌一連が発表になった時、佐太郎短歌で繰り返されている平凡な歌だと批判をする者があった。批判者は、夏でも「雪山マツキンレ―」である実際を想像できないから、そんな読み取りしかできなかったのである。まさに広大無辺で、つかみどころのないところから、このように一首に焦点化できたのは、この作者の力量に他ならない。自然らしい自然に対して、単純平易に詠い得て、堂々とした佐太郎秀歌の一つである。



   
平成二十三年一月号


  雪山をいでて清き川水河よりいでて濁る
  川高原のなか        (天眼)
 昭和五十二年六月、初夏のアラスカに旅をして二十首の歌を残している。この作品は「マツキンレ―山」一連十首の中にある。ム―ス、熊、トナカイ、山羊等がそれぞれテリトリ―を守りつつ棲んでいる高原、マッキンレ―ナショナルパ―クを一日かかって横断して、マッキンレ―ステイションホテルに着き、翌早朝宿を出てマッキンレ―山に向う途中の光景である。段々高地になって、雪山も近くに見え、氷河も間ぢかに見える。その高原には川が幾すじも見えている。それがさながら飛行機などから俯瞰するように広大に続いている。
 作者は機敏にその川の、特色を捉えて、雪山を源流とする川は清く、氷河を源流とする川は濁っているという。氷河は絶えず氷塊が崩れ落ち、その水が濁っていたポ―テ―ジ湖を先に見た経験がこの観入をみちびいているのである。比べて雪山を源流とする川は濁る理由がない。清い道理である。
 大きい景観を大きく詠い、鋭い発見が内容となっている秀歌である。



   
平成二十二年十二月号


  桜さく浅山の間はみな水田いこふところ
  なき島いさぎよし(天眼)
 「游金華山」と題するなかの一首で、「五月二日、帰路宮戸島に遊ぶ」という詞書のある通りで、宮城県中部松島湾東端の島である。同行の片山氏と菊澤氏は先生と共に二十年前にここに来ている。
  傾きてまだ暑き日に照らさるる海ぎしの
  青田ひとつ合歓の木(地表)
がその時の歌である。三人が盛んに懐かしがったのを思い出す。
 折から桜が咲く頃である。田植えの準備が進み、多くが水田(代田)で、ところどころ既に植えた田も混じっている。
最も高い大高森(百六メ―トル)という浅山は全山桜が咲き満ちている。いわば名所のようなものだから、臨時の茶店が出てもよさそうなものだがそういうものは一切ない。休憩に適する草原のようなところもない。そういう自然の一角に浸りつつ作者は「島いさぎよし」と受け止めているのである。
 その時の作に
  良き友にめぐまれ生きて花ちらふ宮戸の
  島に遊びけるかも
という作もある。「けるかも」という詠嘆を誘った島である。



   
平成二十二年十一月号


  島あれば島に向ひて寄る波の常わたなか
  に見ゆる寂しさ       (天眼)
 「游金華山」と題がついている通り、昭和五十二年五月、片山新一郎氏の招きで金華山周辺の小旅行から成った一首である。日本列島の周囲には大小の島がいくつもある。そのひとつの島に向っていて作者は発見をする。どんな島でも、その島に向って波は、四方八方から、寄せる。列島に向って寄せている波が一方からのみ押し寄せるのではない。そんな自然の不思議を陸から近い金華山に居て、「直観」したのである。
 この「閃き」は形にならないまま、半年が過ぎ、翌昭和五十三年の一月、千葉県館山市の海辺の仮寓に滞在して居る時、沖に小島が見えて、同じ現象を再び見て一気にこの歌がなったのである。その創作過程はたまたま同行していた私が、つぶさに記録し、『短歌清話―佐藤佐太郎随聞』に書きとどめてある。私が記憶した作例だけでも十首になる。
 歌人佐藤佐太郎の自然への対峙の仕方、観入の精深さ、表現への執念等々、さまざまな力量を思わせてやまない一首である。



   
平成二十二年十月号


  雨の日につぐ逝く春の風の日をこころ衰
  へてわれはわびしむ     (天眼)
 「空はれし一日辛夷の明るさははなびらゆれて風をよろこぶ」等という作と共に「晩春」という一連のなかにある一首である。
 雨の日があって、それに続いて風の日がある。晩春で季節の変わり目だから、天気晴朗というべき穏やかな日がない。若いころは当然のこととして気にもかけないことだが、老い且つこころ衰えたとき、わびしくてならないというのである。
 佐太郎短歌に親しむ人でも、あるいはそう注目しない一首かも知れない。しかし、歌人佐太郎がこうした天象と個々の人とのかかわりを生涯追及していたことを思えば、この一首も軽視できない。後に『星宿』昭和五十四年の作に
  悪のなきわが生ながら天象てんしゃうに支配されを
  り日々肉体は
  きはまれる青天はうれひよぶならん出で
  て歩めば冬の日さびし
という、いわば人と天象との摂理を捉えて前人未踏の歌が出てくるが、それは突然出現するのではなく、掲出歌のような把握をつねにして来て、つまりそういうところに「詩」を感ずる感覚が充実して、ある時捉え得、言い得るのである。



   
平成二十二年九月号


  道に逢ふ杖もつ人は健康者よりも運命に
  振幅あらん         (天眼)
 歌集『天眼』昭和五十二年早春のころの作である。「懐抱」という一連にあって、
  門いでて杖をたづさへ歩めども懐抱は日
  々同じにあらず
  杖をもつ人の多きに気のつくは神社等来
  るところによらん
などという作と共にある。
 作者は杖が必要になって、日々の散歩に必ず携えるようになって二年がたっている。そうして出逢う人が杖を持っているとさまざまな感慨がわくのである。意外に若い人でもついていたり、相当に重傷で杖を使っている人もいる。即ち健康者には理解が及ばない、運命の振幅があり得る。自身もそうであるからその反映として、そういう思いを抱くのである。結局は自身の境涯を自照し、詠嘆している。
 このころ作者が盛んに杖に拘るのは、銚子入院以後の摂生と運動などにより、体力を回復してきていたことも関係するように思える。
  辛夷さく門をかへりみたちいづる及辰園
  先生は今年足つよし



   
平成二十二年八月号


  朝寒くかたちかすけき白魚に魚の香のあ
  ることを寂しむ       (天眼)
 歌集『天眼』昭和五十二年作、折々の作を集めて「大寒日々」という小題にて括られているなかの一首。
  ふとはぎのしきりにかゆき冬の日のわたくしご
  とも三年みとせを経たり
などという作と共にある。
 ある寒い朝、白魚が食膳に乗ったのであったろう。新鮮な白魚でありながら、魚は魚だから微かな匂いを放つ。敏感にその香を捉えて作者の詩情は一気に膨らむのである。朝の寒さともかかわるのかどうか、やがて作者は、その香に生活の影を感じ、人の生の現実を思う。考えてみれば、生ける物が臭いを持つのは生の実存であり、生の影でもある。そうして「魚の香」を寂しむのは、境涯の声として、人の生を寂しむのである。
 この歌を着想してから完成するまでのメモが残っている。その断片に下の句に苦心し、「人の善悪とかかはりの無し」あるいは「善悪を言ひ難き境涯」などという言葉があって、
作者の作歌意図がのぞいている。



   
平成二十二年七月号


  洞窟のくらきところに輝ける音なくまたた
  のなき土蛍つちぼたる(天眼)
 昭和五十一年の大晦日に出発して、正月八日に帰った「オ―ストラリアニュ―ジ―ランド」の旅での作。ニュ―ジ―ランド、ワイトモ錘乳洞の土蛍で、ひかりは正に蛍の色だが、鍾乳洞内の暗黒に、点滅がない。そうして無数に光っているのである。歌は実際を余すなく描いているが、「音なく瞬きのなき」などと見るべきところを見、捉えるべきところを捉えているのが特色である。その場に臨み、自身の感受性によってものを見ているから、この初めての経験が歌に生きている。 この旅では、実質八日問の旅でありながら、五首しか歌集には残していない。
  眼がなれて星空のごと洞くつの奥にかが
  やくもの限りなし
などである。
 拙著『短歌清話―佐藤佐太郎随聞』にはこの旅のことを詳しく書き残してある。即詠歌会をして、作者の初案が
  洞窟の中の暗がりに光る虫あまた音なし
  夜空のごとく
であったことがわかる。「土蛍」という用語をためらったのであったろう。因みに今の広辞苑に出てくる「地蛍」(つちぼたる)とは種類が違うものである。



   
平成二十二年六月号


  海のべの木草かがやき晴れながら雨ふる
  ことのあり熊野路は     (天眼)
 昭和五十二年「海」応制歌。作者は歌会始の撰者として、何よりも応制歌に拘った。前年の晩秋に、この一首を得るため熊野路、江須崎、枯木灘、南紀大島などに取材している。
歌集『天眼』中の「熊野路」六首はその時の成果である。
 熊野は降雨量の多いところで知られる。いわばその特色を機敏に捉え、「海のべの木草」の輝きを見、「晴れながら雨ふる」現実に自然の滋味、世の面白さを感じているところである。そばえ、日照り雨、日照り雪などの既成の言葉で現象を見ず、実際に即して、いきいきと写生し、新鮮な光景を現前せしめている。「木草かがやく」にしても「晴れながら雨ふる」にしても言葉に力が満ち溢れている。
 この歌の制作過程については、拙著『短歌清話−佐藤佐太郎随聞』上巻の昭和五十一年十一月三十日の記事に詳しい。私が書きとどめた推敲途中の作でも八首があり、その上にこの作がある。言葉に力が満ち溢れる道理である。そして作者はこの歌について言っている。「どう考へても満足できなかつたのは、大切なものが言へてゐないのだが、それが何であるか、わからなかつた。見ることは作歌の時にもつづく」。



  
 平成二十二年五月号


  海光を呼吸したりし山茶花の老木花さく
  大島に来つ         (天眼)
 昭和五十一年「熊野路」と題する一連の中にある一首。南紀の当たりを取材して、南紀大島に古木となって咲く山茶花に邂逅し、感動してなった作である。
 海の光を十分浴び、温暖な空気を豊かに吸って、殊更に艶やかに咲く山茶花が読む者の目前に浮かぶ。数百年を経た「老木」であろうか、とにかく老境の作者の心に響く「老木の山茶花」を中心に、南紀州の海の光、空の青、木草の緑、透明な空気が一首に漂っている。大胆に「海光を呼吸」したというつよい表現が何とも親しい。
 この時、作者は歌会始の選者で、お題が「海」であったから、その選者詠を作るためにこの熊野行きがあったのである。翌昭和五十二年の巻頭に「海」応制歌の大作
  海のべの木草かがやき晴れながら雨ふる
  ことのあり熊野路は
がある。同時の作である。



   
平成二十二年四月号


  病みながら痛むところの身に無きを相対
  的によろこびとせん     (天眼)
 「昭和四十年以来わが身は長き坂まろび来し如くまろび行く如し」(星宿)という作があるように、歌人佐藤佐太郎は長い間脳血栓に悩まされた。症状は軽い方だったが持病の糖尿病から来るもので、節制と治療を余儀なくされ、晩年の日々を過ごしたのである。そうした自身を歌人であるもう一人の自身が凝視して秀歌を多く生んだのでもあった。
 あるとき、成果のはかばかしくない治療、節制を顧みて作者は気がつく。世の中には激痛疼痛に苦しみながら闘病している者も少なくない。自分の病はそんな痛みを伴わない病気ではないか。相対的に考えれぱ、喜びとしなければならない。いくばく自嘲して詠嘆している歌である。
 後に『星宿』後記で、「先師斎藤茂吉先生には七十歳以後の作はない。私は未踏の境地をのぞきみる気持で作歌しようとしたのであつた」(昭和五十八年)と言ったが、この歌などはその先駆をなすもので、将に自身を覗き込むようにしてなったものである。この発見は特殊だから
 「病みながら身に痛み無くうつしみの」(星宿)とか、「病みながら疼痛のなきさいはひを」(〃)などの作にもなっている。



   
平成二十二年三月号


  台風の余波ふく街のいづこにもおしろい
  が咲く下馬あたり      (天眼)
 下馬は作者が住む近くの町名で、いわば散歩などで足を運ぶ生活圏である。あるいはこの頃は東京歌会の会場が、この町の近くだったから、この下馬を必ず通って行っていた。
 台風が多くなって夏が過ぎ、秋を迎える。猛暑に耐えていた街樹の類も再び勢いづく。百日紅も木橦も花を盛り返す。そういう中に作者は何時もなじんでいる道のどこにも、おしろいが咲いていることをあり触れていない光景として再発見するのである。おしろいは街路樹の根元の土の部分にしっかりと陣取り、たくましく繁殖をする。よく見ると意外に美しく、心に響く花である。意外な親しさは境涯の反映であるし、生存競争を耐え抜いた身近な植物の持つ輝きである。
  花ひらきあるいは閉ぢていたるところお
  しろいの咲く蛇崩れの道   (星宿)
  おしろいの白き小花はさきそめて今年ま
  た霜までの長き後半      (〃)
など、作者の境涯詠の重要なパ―トナ―となっている。
 一見軽く見えて軽からず、十分境涯を反映し、しみじみと響く。こういう歌を作者は求めていて、この辺りから盛んにつくるようになっている。



   
平成二十二年二月号


  青天となりし午すぎ無花果をくひて残暑
  の香をなつかしむ      (天眼)
 一首の「青天となりし午すぎ」という条件と「無花果をくひて残暑の香をなつかしむ」という、人の行為と感慨とが、なんだか不思議な雰囲気を醸し出している一首である。残暑のころの乾燥した空気と落ち着いた光を感じさせ、一首の前にしみじみとした気持で佇むことになる。
 無花果は夏の後半に最も熟し、一番おいしい旬を迎える。
当然好ましい香りを放ち、作者にとって残暑を象徴する香りとなっている。過去に身にしみる経験があったから、「なつかしむ」のでもあろう。
 「青天」「無花果」「残暑の香」には、研ぎ澄まされた言語感覚の捉え、響かせている世界がある。



   
平成二十二年一月号


  わが顔に夜空の星のごときもの老人斑を
  悲しまず見よ        (天眼)
 詞書に「片山摂三氏撮影の自照に題す」とある通り、自らの写真を改めて見て、その感慨を詠っている歌である。写真家の片山摂三氏は当時小説家、歌人などの作家たちの肖像をテ―マに貴重な写真を撮っていた。佐藤佐太郎を対象としては、都合三度ほど、取材し本格的な肖像写真を残してくれている。この歌はその二度目の撮影に当るはずである。
 客観的に撮影された自らの写真の顔に、普段意識しない肝斑が目立つ。それを老人斑として、思いもよらないところに境涯の影を感じ、詠嘆して居るのである。
 単純に詠嘆したのではありふれて平凡になるところだが、いわば「夜空の星」のようなものではないかと詩的に遊んだところが、意外性も出、悠々とした境地も暗示する。新しく拓けた世界を思わせもする。



   
平成二十一年十二月号


  午睡よりさめし老びといま坂をゆく一日
  のまぼろしいづれ   (天眼)
 「老いびと」(作者)は昼少しの時問睡眠をとる。やがてその眠りから覚めて散歩に出る。さうして蛇崩坂を歩んでゐる。そんな時ふと我に返つて、自分はまだ眠つてゐて、こんな夢を見てゐるのではないか。意識が判然としないで、夢幻かうつつか、一日の幻は一体どちらか、などと思つてゐるところである。やがて覚醒するまでのしばしの朦朧は老境の現実の一つである。それを覗き込むやうにして、人の生の意味を感じ取り、歌にしてゐるのである。
 「一日の幻いづれ」は詩の表現だからやや強調されてゐる。作者は経験したそんな瞬時の幻覚をまたとない詩のひらめきとして、思ひ切りそこに詩心を遊ばせたのである。
 海南島に流された蘇東坡が、許されて海南島を去る時に作つた詩に、「平生生死夢、三者無劣優」といふ言葉のあることに作者はひどく感心してゐる。即ち生も死も夢も同一で、優劣がない、みな同じだといふ。この蘇東坡の優悠たる心境を偲んで、「一日の幻いづれ」があるだらう。さういふ意味では作者会心の作の一つである。



   
平成二十一年十一月号


  神島かみしま女坂をんなさかより雲と涛かすけき伊良湖水
  道は見ゆ  「坂」応制歌   (天眼)
 昭和五十一年一月、歌会始の選者として臨み、応制した作である。神島の傾斜のゆるやかな参道、即ち女坂より伊良湖水道が見え、そこに微かに雲に連なつて波涛が立つてゐる。雲と波涛とがあやしくも接する広大で大した景色だと感動を禁じ得ないところである。
 その背景には愛読する蘇東坡が「黄泥阪詞」の中で詠つてゐる光景への共感がある。「黄泥くわうでい長阪ちやうはん大江たいかうきようとして以て左にめぐり、べうたる雲涛うんとう舒巻じよけんする」(黄泥の長いさかをたどりゆく。大江は洶湧きようようして左にめぐり、渺然として雲に連なる大波は打ちつ返しつして居るし、―国訳漢文大系による)は、まさにこれだ、と思はず出たであらう声がこの一首から響く。何しろ堂々として、小詩であることを思はせない。作者は応制歌の出来に拘つてゐたが、先づ会心の作であつたに違ひない。自註で「かすけき」はもし漢字を当てるなら「幽」の字をあてるつもりだつた(自歌備忘)、と言つてゐることに留意が必要である。「かすけき」を「微けき」と考へれば平凡になつてしまふ。「雲と涛」の接する景観は特殊で、当り前ではないからだ。この歌は神島に歌碑となつて今でも人々に愛されてゐる。



   
平成二十一年十月号


  灯の暗き昼のホテルに憩ひゐる一時あづ
  けの荷物のごとく      (天眼)
 「島にて」と題して昭和五十一年の初めに載せてある作。
  逢ふはずのなき斑白の人を見るわが全容
  が鏡にありて
  ひもすがら鳥とばぬ空くるるころ更紗を
  買ひて妻ら帰り来
など五首のうちの一首である。島はバリ島。前年暮れに行つた気の置けない門人二人と作者夫妻の四人の旅での作。
 夫人らは自由行動の一日を買物などで街に行く。作者はホテルに残りのんびり過ごしてゐるところである。銚子入院後でもあり、体調が万全ではないこともあらうし、元気な夫人らに多少の遠慮もあつたかも知れない。とにかくホテルに無為に過ごす自身をもう一人の作歌者たる自身が凝視して、その現実を「一時あづけの荷物のごとく」だと自嘲したのが特殊であり且つ斬新である。言はれてのつぴきならない境涯の声であることに気づく。
 作者は銚子入院のひと月を旅と位置付け、日常と旅とは近接なものになつた。日常の続きが旅であり、旅の続きが日常になつたのである。それを自覚して詠嘆した一連であり、一首である。この五首は、発表を惜しんで一年問、筐中にあつた。






   
9月号は、お休みです。






   
平成二十一年八月号


  いささかの時雨にぬれてわが庭の楓はあけ
  のよみがへるらし      (天眼)
 この年の五月十九日に、ひと月ほどの銚子入院生活を終へて、摂生を主とする日常となる。日課表をきちんと作り、散歩を中心とした適度な運動も欠かさず、極めて健全な生活をするやうになつた。殊に散歩が本格的になつて、居住地周辺の景物が作者の生活と密接になつてくる。いはば生活を共にする景観となつて作品にも多く登場してくるのである。この歌のある一連六首は主に庭の風物を点景にしてゐる。
 転居して来て以来、三年ほどが過ぎてゐる庭、今までは漠然と視野にあつたかも知れないその木々が作者のうちに存在感を増してゐる。ひと月の入院、私に言はせれば旅が作者の心境をそのやうに変へたのだ。そんな木のひとつ楓である。若葉の頃の鮮明な朱からいくばく重厚な色に変りかけてゐる。しかし、いささかの時雨によつて、その「朱」はよみがへつて鮮やかに見えるのである。身に沁みる美しさであつたに違ひない。
 庭前のかすかと言へばかすかな変化だが、作者の新境地が捉へてゐる世界である。とにかく今まで以上につよくひびく対象であるのである。



   
平成二十一年七月号


  ただ広き水見しのみに河口まで来て帰路
  となるわれの歩みは     (天眼)
 「銚子詠草」のうち(五月十六日)。退院四日前の作。入院生活の日々を見つめ、さういふ日常が旅と変はらないことを悟入して日録の作品がつづく。入院先の恵天堂病院から一キロほど歩めば、河口に近く川幅の広い利根川である。この一連にも
  利根川のまぶしき水を行き来する渡船を
  みれば人多からず
  はればれと大漁旗なびく船いくつ遠く北
  洋に出でゆくところ
などがここでの作に当たる。
 掲出歌は、広い河口まで歩んで来てその水に向つて何か不思議な感慨に浸つて帰る。おそらく何日か同じ思ひを抱いたのだらう。その不思議な感慨がある時、向うに見える広い水にあるのではなく、河口まで来て帰路となる自身の現実、境涯に発してゐることを発見しこの詠嘆となる。広い河口のもたらす経験と自身の内の摂理が不即不離であるとき「詩」となつて響く。自註に「のびのびとした語気などといふものは修辞上の技巧と思ひがちだが、それは単なる技巧ではない。深く思ふから可能なのである」と言つてゐる。



   
平成二十一年六月号


  みづからの顔を幻にみることもありて臥
  床に眠をぞ待つ       (天眼)
 「銚子詠草」のうち(五月七日、晴)。「銚子詠草」は日録で、この日はこの一首だけがある。入院生活も長くなつて来て、孤独感も増してゐたことが想像される。
 夜の病院は静まり返つてゐる。眠らうとしてもなかなか眠れない。さういふとき自身の顔が幻となつてありありと見えるのである。恐怖のやうなものが思はず走つたかも知れない。しかし、すぐ平静に戻つて眠りを待つ。作者は、軽度の脳血栓と糖尿病の治療が主の入院だから、緊迫する状況ではない。それだけにすべてに忍耐のゐる生活でもある。そんな心象の反映として、自身の顔の幻が、現れたのだらうか。入院生活のもろもろを暗示してやまなく、意外で切実な体験を一首にして極めて特殊な一首と言へる。
 ある時、談話で、毎日洗面などの時自分の顔を凝視したから、さうした平常と違ふ行為が背景にあるのかも知れないと言つてゐる。何しろ非凡な歌である。



   
平成二十一年五月号


  ふる雨に明るくつづく桑畑ここの台地は
  古代にか似ん        (天眼)
 「銚子詠草」のうち(五月三日)。「曇後雨、出游」といふ詞書もある。この日は祝日で主治医の江畑院長も休みだから、短歌の師である作者を伴つて、周辺の特色ある地をいくつか案内した。いはば作歌の材料となるところを選んで、入院中の師の徒然を慰めたのである。その一つが屏風ケ浦で、年々太平洋の波に浸食されてゐる断崖である。歌人佐太郎が歌にするに違ひないと江畑氏は思つたのであつたらう。その屏風ケ浦に行くための途路がこの歌の舞台である。
 桑畑のつづく台地には折しも晩春の雨が降つてゐるといふのである。人工物のなく、続く畑に純朴な古代を感じてゐる。さう感じたからさう言つてゐるといふ歌で「古代にか似ん」が非凡である。
 この歌がなつて問もなく、この台地から古代人の遺跡が見つかつた。この歌を知るわれわれはひどく驚いた。同時に佐藤佐太郎といふ歌人の詩的直観力に改めて畏敬したのである。殊にこの日同行した門人の江畑氏は古代の研究家でもあつたから格別の思ひを抱いたことは想像に難くない。
 江畑氏によつてこの歌は、この台地の一隅に歌碑となつて伝へられてゐる。(屏風ケ浦の「屏」は原作では正字体)



   
平成二十一年四月号


  霧の日にさいれんの鳴る銚子にてその音
  聞こえ午睡したりき     (天眼)
 「銚子詠草」のうち(四月三十日)。入院し十数日が過ぎこの日は曇りのち雨であつた。入院地の銚子は、思ひきり太平洋に突き出た港の街で、船が常に出入りしてゐる。そのために雨のもたらす霧の日には、サイレンが鳴る。入院患者として病室にその音を聞き、その音の意味を感じてゐるところである。この街の在住者は日々当たり前の音として心を向けない音であらう。しかし、作者はいま東京を遠く離れて、旅にあるやうなものだから、漁港の街のこの特色が哀れな漂泊者であることを思はせて響いたのである。その音を聞きながら病者として午睡するといふ事実が限りない哀調をもたらす。
 この歌の初案は「サイレンがしきりに鳴りて霧ふかき午後となりたる銚子のまちは」であつた(佐藤佐太郎研究資料室所蔵資料)。この機敏な発見のみで充分一首となる世界である。しかし作者は病む旅人として聞いたから、身に沁みてゐることに気づき推敲する。境涯の影がこもつて一首の響は強くなつた。
 「さいれん」と平仮名表記になるのは、茂吉にもこの作者にも前例の多くあることで、安易な語感を避けてゐる。



   
平成二十一年三月号


  おどろにて道の花壇に葉牡丹の黄の花寒
  し逝く春の風        (天眼)
 「銚子詠草」のうち(四月二十二日)。「おどろ」は草木が乱れ茂ること、入院先が駅近くの中心街だから、道の花壇はどこにもあり、冬の間、そこに植ゑられた観葉植物たる葉牡丹は引き締まつた緑を保ち、人々の心を癒したのである。ところが葉牡丹は少し暖かくなると、葉が一気に育ち、芯が伸び、薹がたつて黄の花をつける。つまり「おどろ」となる。作者はありふれてゐない晩春の光景として、身に沁みて見てゐるところである。「銚子詠草」は、家を一箇月空けるといふ一種の旅だから、この矚目に激しい旅情のやうなものを感じたのでもあつたらう。
 「葉牡丹の黄の花」に作者は、ここで初めて出合つたやうに思へる。作者の生活圏の東京では、葉牡丹はどこでも見られるが、おどろになつて花が咲くまでは置かない。さつさと片付けて次の春の花が植ゑられる。格別温暖な銚子に入院したから、見得た対象であり、入院生活を背景とするから身に沁みたのでもあつた。その気息が一首に響いてゐる。「道の花壇」といふ言ひ方も、新鮮な語感を放つ。



   
平成二十一年二月号


  衰へしわが聞くゆゑに寂しきか葦の林に
  かよふ川音         (天眼)
 昭和五十年四月、体調の異変があつて、門人江畑耕作氏院長の千葉県銚子市の恵天堂病院に一か月ほど入院加療した。糖尿病と脳血栓の治療が主で、病状は軽く、夕食にはコツプ一杯の飲酒が許された。作者は当然、この機会を逃さず、日々作歌し、「恵天堂日録」(後の「銚子詠草」)が生まれる。
 この歌はその入院二日目、銚子から利根川に沿つて遡り、斎藤茂吉との曾遊の地、川幅が広くなる豊里あたりの葦の原を散策した折の歌である。見る限り一面の葦で、利根川の川渚を埋めてゐる。その中を川は流れる。この川音を境涯ゆゑの寂しさとして詠嘆してゐる歌である。「葦の林」といふ表現が、堂々と繁茂してゐる葦を言ひ表し、その中を通ふ川音だから作者の心に強く響いたのでもある。
 それにしても、葦のやうな草を「林」と言ふのは、用意の必要な表現である。作者には蘇東坡の「皇親の画扇に書す」といふ詩にある「夢はめぐる江南の黄葦林」があつたから、目前の葦の原を見つつ、「葦の林」と自然に言ひ得たのである。私はこの時同道して、承知してゐるが、この年は台風などがなく、葦原は特別健やかに林をなして居た。作者にとつては好運な邂逅であつたのである。



   
平成二十一年一月号


  くれなゐの花たをやかに光ある海棠を惜
  しむゆふべをとめと     (天眼)
 海棠の花はまさに「たをやかに光ある」花である。枕草子に「萩、いと色ふかう、枝たをやかにさきたるが」とあつたり、源氏物語に「この人のたをやかならましかばと見ゆかし(箒木)とある如く「しなやか、しとやか」な感じに咲いてゐる。さういふ花を成長して「をとめ」となつた娘と共に夕ベひと時惜しむところである。海棠の花の美しさは、作者が老境を迎へて改めて心に響くやうになつた花の一つであり、蘇東坡など中国の詩人たちが愛した花でもあるから、共感したのであらう。「をとめ」はかつて
  ともなへる幼子をとめおのづから声円美
  にて三日親しむ       (開冬)
と詠つてゐる後継者の三女であり、海棠は
  わが孫の渡辺かがり生れしところ三宿病
  院に海棠が咲く       (開冬)
などとあつて、すでに注目して居た花である。
 娘への思ひと海棠の花の感じとが即かず離れずさはやかに出てゐる、おのづから周囲の澄んだ空気、澄んだ光を漂はせてゐる一首である。



 
平成二十年十二月号


  ペチユニアは秋庭に雲のゐるごとし花ゆ
  ゑ色の軟らかにして     (開冬)
 他に
  湯に入ればをりをりに躰あたたかし秋づ
  く庭に雨ふる一日
  百日草稚女のごといまだ庭に咲き白髪わ
  れは何にか似たる
  一夜のみ咲きて終らん花を見つ憐れは大
  き花ゆゑにあり
の三首と共に「秋庭」と題した一連の中にある。いづれもいわき市湯本温泉に在つた仮寓「山沙草房」での作。ペチユニアと百日草は、その庭に夫人が培つたものであり、「一夜のみ咲きて終らん花」(月下美人)は、知人の育てたもので滞在中に誘はれて見に行つたのであつたらう。
 ペチユニアの花の感じを「雲のゐる」やうだと言ふのが、いかにもその雰囲気を伝へる。それは一種の独断だから下の句で「花ゆゑ色の軟らかにして」と説得してゐる。このあたりの用意も見事である。月下美人の花の憐れや百日草の花の感じを「稚女」の愛くるしさに喩へてゐるのも含めて、このあたりには「詩的な遊び」を意識した悠々とした世界が開けて来てゐる。
 かうした花も偶然の出会ひではなく、作者の縁の深い人々の栽培になつたものだから、作者の心を刺激するのでもある。



   
平成二十年十一月号


  かがやきて天に横たふ雪山のひとつわが
  立つユングフラウは     (開冬)
 講師として臨んだ「ヨ―ロツパ短歌の旅」は、北極上空とユングフラウに狙ひを絞つて作歌をして、結果的にも「北極の天」十二首と「ユングフラウ行」九首の合計二十一首のみが残された。寡作といへば寡作だが、作者には、丁度十年前に当たる昭和三十九年、「西洋覇旅雑歌」(歌集『冬木』所収)百九十一首の大作があるから、ここでは抑へて作歌したのであつたらう。かういふところにも歌人佐太郎の作歌姿勢が窺へる。「遠ざかるごとく近づくごとくにてスイスアルプの雪山いくつ」といふ作も在るから、雪山がいくつも見えるところを時には雨に降られたりして作者らは進んだのである。やがて、ユングフラウに到るころその雨は雪になる。
 この一首はそのユングフラウを大きく捉へ大きく詠つてゐるところ。「わが立つ」山、ここユングフラウは「かがやきて天に横たふ雪山」が沢山ある中のひとつに過ぎないといふのが、スケ―ルの大きな把握だ。一読胸の空くやうな快さを私は感ずる。このやうな自然に出会へるといふこともさうしばしば出来ない。好運にも見得た時、その意味を感じ、詩に位置づけ、このやうに詠ひ得る歌人はごく少数である。



   
平成二十年十月号


  老鈍の心ゆらぎて北磁極いま過ぎたりと
  いふ声をきく        (開冬)
 前作同様「ヨ―ロツパ短歌の旅」の北極上空での作。作者はこの旅に当つては、この北極上空とユングフラウに狙ひを絞つて作歌し、結果的に印象深い一連としてゐる。
 地球上で磁針の伏角が九十度になるところが磁極であり、北と南で同じ現象があるといふ。今その北磁極を通過してゐるといふ経験、事実に作者は感動してこの一首がなつてゐる。「老鈍」といふ境涯にあるから、かういふ人生の一角が一層身に沁むのでもある。「老鈍の心ゆらぎて」が言ひ得て強い。旅に在つて旅らしくない作であるのもこの歌の魅力である。
 北磁極について作者が自註してゐる。「北極を過ぎると磁石の働かないところがある。しかし、極北と北磁極とは同点ではない。北磁極はカナダのある小島にある。そのあたりを飛行機が通過したのか、どうかわからないが、とにかく磁力のはたらかない処というのに一つの感動があった。『老鈍の心ゆらぎて』によって、そのおどろきを表現し得ているだろう」。自註でこの「声」の主が門人和歌森玉枝であることも分かつて親しい。和歌森玉枝は歌人佐太郎の近くにあつた歌人で、磁石などをよく携帯し、意外な経験を作者に提供することがあつた。



   
平成二十年九月号


  北極の半天を限る氷雪は日にかがやきて
  白古今なし         (開冬)
 昭和四十九年六月「ヨ―ロツパ短歌の旅」の講師として渡欧、当時ソビエトロシアの上は飛べなかつたから、北極の上空を越えてヨ―ロツパに行く。そのために却つて激しい自然を凝視することが出来たのでもある。
 人跡未踏の荒涼限りない氷雪の原は、光源としての太陽があまねく照らし、輝き渡つてゐる。そしてどこまでも雪が凍つて続き白いのである。その白はまた静寂に満ち満ちてゐる。蘇東坡が「青天無古今」といつてゐる静寂は、このやうな時空を超えたものに違ひない、と思ひつつ作者は自然の荘厳にいよいよ浸つてゐるのである。これだけ自然に肉薄した短歌は過去にはない。
 同年九月号「歩道通信」に「『北極の天』七首は七月二十八日の新聞に載つたが、まづ会心の作と言つていいだらう。疲れて体力がないし、頭が鈍くなつてゐるにしてはよく出来た。やはりここといふときには意力をふるひたてて作歌するからだらう」とある。また自註増補(短歌を作るこころ)では、自ら「その氷雪を『白古今なし』と言つたのは蘇東坡に学んだのである」。「これも私の工夫の無い歌である」と言つてゐる。増補の言は謙遜である。



   
平成二十年八月号


  みづからの幹をめぐりて枝あそぶ柳ひと
  木はふく風のなか      (開冬)
 昭和四十九年、「晩春」と題する一連五首の中の一首である。
  いちはやく若葉となれる桜より風の日花
  の二三片とぶ
といふ作もこの一連にあり、一見「軽み」と言つてもいいやうな境地が見え、歌集『開冬』の歌風の変化の一つである。ごく身近な素材をつぶさに見て、余分なものはすべて切り捨ててシンプルに且つ鮮やかに描き切る。さうしてそこには対象の柳と作者とが全く同化して、同輩のごとく佇んでゐる感じを醸す。一緒に遊んでゐる感じとでも言つたら良いか、弾んだ響きもあるやうに思ふ。芭蕉が俳句で目指した「軽み」とは全くことなり、抒情詩としての短歌の爽やかで快い響きをもたらしてゐる。いはばこのあたりから作者が目指し、意識した「煙霞の気」がこもつてゐるやうに私は思ふ。
 自註して「風にふかれるとしだれ柳はいかにも『枝あそぶ』という感じがするのだが、あるときその感じを一歩進めて『幹をめぐりて』と見ることができた」云々(及辰園百首)と言つてゐる。



   
平成二十年七月号


  海いでて山に照る日は椿さく寺の泉のほと
  りにも照る          (開冬)
 同じ「足摺崎」一連にある。海辺に居ると、海から昇つた日は直ちに、且つあらはに陸の山に照る。一切の障害物がないから、殊更強く感じさせる光である。そのいはば海光が椿の咲いてゐる寺の泉に及び、そのほとりにも照つてゐる、といふ、単純といへば単純な歌である。
 しかし、その単純が骨太の描写となり、海浜の強力な光が捉へられ、酸素や、イオンの多い空気も、広く押し黙るやうな静寂も出てゐる。「照る」の重出にも不自然さはなく、対句のやうな働きをし、光の強さが強調されてゐることにも気づくのである。
 この一首は、佐太郎短歌の中では、目立たない方の作だが、私は歌集『開冬』を読み返してゐると必ずこの歌の前で長く停む。そして余り理屈をつけて読んではいけない歌といふのは、かういふ作をいふのだらうと、その度思ふのである。



   
平成二十年六月号


  青々としげりて嘉植なきところ足摺崎に海
  高く見ゆ           (開冬)
 「足摺崎」には、とべら、椿、椨の木など常緑照葉樹が天然の樹海をなしてゐる。背の高い松とか檜(即ち嘉植、めでたい木、良い木)が無く、低木雑木林である。さういふ状況も含めて海が高く見える、といふ直感を詠つて、足摺崎の特色・雰囲気を一気に捉へてゐる歌である。かう言つて青々とした潅木照葉樹の光、荒つぼい空気、あるいはこの邂逅に喜びを感ずる孤高な一人の詩人の影なども感じさせる一首である。何と言つても「嘉植」といふ言葉が鮮やかに働いてゐる。蘇東坡の「海南嘉植無し」から採つて用ひてゐることは自註で明らかだが、蘇東坡の用語の的確さに協賛したのでもあつたらう。
 「足摺崎」、「足摺岬」はどちらも慣用し、今日では「足摺岬」(あしずりみさき)と一般的に呼んでゐる。この歌がなつた頃もすでにさうであつたらうが、作者の言語感覚は「足摺崎」を選んでゐるのである。また、一茶に「夏山や一足ごとに海高し」といふ俳句がある。また小野十三郎の「山頂から」といふ詩には「海は天まであがってくる」といふ一節があるが、どちらも作者は意識してゐない。その場に臨み感じてゐるのである。



   
平成二十年五月号


  暁の海におこりて海を吹く風音寂しさめつ
  つ聞けば           (開冬)
 昭和四十九年、「答志島」六首中の一首。家を遠く離れた宿で、暁早く目覚め、普段経験できない自然の姿を感じたところである。風には昼凪があつたり夕凪がある。つまりいつでも風が起こつたり静まつたりしてゐるわけだ。その風の海での姿に観入してゐるのがこの歌。静まり返つてゐた暁の島の海、そこに風が立つて海を渡つて吹いてゆくのである。それを聞いてゐると、「寂し」以外には言ひやうのない音だつたのだ。「寂し」には、高齢による境涯から兆すこともあらう。直接には前夜体調の異変を感じ、宵早く床に就いたといふ事情に因る。一連の中の
  わがからだかんあたれば宵早く臥して鯛の
  を食ふこともなし
といふ一首がその背景である。「鯛の腴」は、鯛の脂身、すなはち鮪などでいふトロの部分で、作者が漢詩の中で発見し、注目した言葉である。それをも「食ふこともな」く、臥して身を労つたのである。従つて暁に目がさめたのでもある。自ら「少ない言葉で言うのがこころよい」(及辰園百首)と言つてゐるが、一首は単純化の極致と言つてもいい。



   
平成二十年四月号


  夜となりてともなふ雷の震ふとき雪つみを
  れば長くとどろく       (開冬)
 自然はあらゆる芸術の母なる大地であり、詩の宝庫であることをこの一首を詠むと改めて思つたりする。身近な自然現象の中には、それだけで十分に魅力に満ちてゐるものが少なくない。眼に美しい虹(冬虹、二重虹などといふものもある)、タ映などは誰のこころにも「詩」をよみがへらせる。また五感に響く雨、雪、雹、時雨などもさうであり、この「雷」などは聴覚と視覚とを刺激してやまない、象徴的な自然現象の一つである。
 作者は雪の厚く降り積もつた夜しみじみとこの雷の音を聞く。雪とのかかはりで轟が長い。さう発見して、自然はかくのごとく、さまざまな摂理が響きあつて存在してゐる、長く生きて今までは気が付かなかつたが、人間はかうした中の一存在にしか過ぎない、などと思つたかもしれない。
 自註して「一二句はやや難解だがこれも韻文の常である」(及辰園百首)と言つてゐる。夜になつてから雷鳴がする、即ち雪の積つた夜といふ条件が作用して鳴る雷だ、とする観入が背景にあるのである。だから  、 、がともなふ雷」である。



   
平成二十年三月号


  朝夕に逡巡して味ひの長からんわが残年の
  うちの一年          (開冬)
 昭和四十九年、作者が六十九歳を迎へる正月の歌である。蘇東坡に親炙し、蘇東坡を盛んに読んでゐた頃の作で、この一首の背景は随筆『及辰園往来』の「蘇東坡と酒」に詳しい。
 蘇東坡も酒を愛し、「人を喜び酒を飲み、客を見れば挙杯おもむろに引く」といふ生き方をしたし、配流の身ながらその地その地の素材を生かして自ら酒を醸し「洞庭春色」「羅浮春」「真一酒」などと命名し、楽しんでゐる。作者は当然共鳴し、ある時「少飲直ちに酔を得、この秘君伝ふることなかれ」といふ蘇東坡の秘密をも知る。この秘伝は何か。佐太郎は自ら追求し、井戸水の味を讃へたやはり蘇東坡の言葉「衆散じておもむろに酌みて飲む。逡巡味ひもつとも長し」を発見する。この掘つた井戸の水の飲み方を酒に応用してゐるのが、蘇東坡の秘伝ではないか、少しの酒をなめるやうに飲んで、長く味はふ。平凡のやうで今まで気付かなかつた真実だといふのである。
 これを酒の飲み方だけではなく、生き方のすべてに応用する。歌人佐太郎は「逡巡味尤長」といふ生き方を理想とし、心掛けた。私の脳裏には、二合位の酒をゆつくりゆつくり飲まれる先生の姿が焼きついてゐる。



   
平成二十年二月号


  国交が成りて思ひいづる言葉あり「蒼海何
  ぞ曾て地脈を断たん」     (開冬)
 昭和四十八年、当時の首相田中角栄は長年の課題であり、且つ難題であつた日本と中国との国交の回復を成功させた。わが国の文化が有史以来ながく中国からの恩恵を受けてゐることを思へば、国民挙げての喜びが実現したのである。心ある多くのわが国の人々は戦争によつて断たれてゐた不幸な関係を長く憂へてゐた。漢詩を愛し蘇東坡に親炙してゐた一歌人である作者は、当然この喜びを誰よりも強く受け止め、この一首がなつたのである。
 「蒼海何ぞ曾て地脈を断たん」は蘇東坡の詩にある言葉である。海南島に流されてゐた蘇東坡が、大陸に渡海し科挙の受験をする後進を激励して、この島と大陸とは蒼い海が隔てて居るやうだがもともとこの海の底は地続きではないか、心配するに及ばない、小さな島の育ちであることを忘れ存分にがんばれと謳ひ上げたものである。
 今、国交の回復した中国とわが国とは、あなたの国の先進が言つてゐる通り、もともと地続きなんだ、隔たりはないといふ思ひが強い。喜びの表現として、的を射、鮮やかである。



   
平成二十年一月号


  冬ごもる蜂のごとくにある時は一塊の糖に
  すがらんとする        (開冬)
 昭和四十八年「開冬」と題する一連にある歌。軽い脳梗塞と糖尿病を患つてゐた作者は、このあたりから体調の異変を強く感じてゐたらしい。この一連にも
  わが足の弱りゆくべきことわりのありと告
  げ得ず家ごもりけり
  冬日さす一日のいとまこより縒るわが手の
  指もにぶくなりたり
等といふ歌がある。
糖尿病は糖分を控へなくてはならない病気であるのに、低血糖になりすぎると倒れたりもする。さうした低血糖の自身を凝視して、ある時は一塊の糖にすがる思ひだと言つて、的確であると共に哀切である。更にさうした人の姿が「冬ごもる蜂」に養蜂家が砂糖を与へるやうだと自嘲して、一首の哀調は極まる。即ち詩の味はひが深くなつてゐるのである。