佐 藤 佐 太 郎 の 歌 論

平成二十九年九月号   



  純粋短歌抄 ― 内 容(一)



 短歌は抒情詩であり、抒情詩は端的にいへば詩である。短歌の純粋性を追尋するのは、短歌の特殊性を強調するのではなくて、短歌の詩への純粋還帰を志向する。
 詩は言葉によつて詠嘆し告白する表現活動であるが、言葉以前のものについて原形的な詩を考へることも出来る。その場合、詩は感動、情緒であるといはれる。併し単に感動、情緒ではない。詩は、その感動、情緒に意味を感じてゐなければならない。感情があつて、更にその感情の意味を感ずるといふことは、感情の中枢を見ることであり、感情の本体である原像を見ることである。この働きは二つの段階としていま考へられたが、実際は瞬間的に継起する閃光として心を過ぎるもの、直感とも感情ともつかない生命の律動である。このやうな生の律動を、私は詩として規定しようと思ふ。



平成二十九年十月号   



  純粋短歌抄 ― 内 容



  詩は火に於ける炎、空に於ける風の如きものである。生命の律動であるが捉へ難いもの、永遠として感ぜられるが過ぎてしまへば跡方もないもの、さういふものの象徴として、私はかつてそのやうに言つた。
 『人間の捉へがたい「気」を言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す』(高村光太郎)
 『詩は、節調ある言語によつて、叫び、涙、愛撫、接吻、嘆息等が暗々裡に表明しようとし、また物体がその外見上の生命或ひは仮想された意志によつて表明したいと思つてゐるらしい、それ等のもの、或ひはそのものを表現しまたは再現しようとする試みである』(ヴアレリイ)
 ここに挙げた二つの言葉も、詩が捉へ難い生の律動であることを云つてゐる点で一致する。このやうな世界を自分の眼で見、自分の心で感ずるのが、私たちの第一義的な為事である。概念的な意味を以て説明し得ない、言葉を持たない生命の色調が私たちにとつて第一義的な詩である。私は先づこの詩の原形を一首の歌の傾城として要求する。




平成二十九年十一月号   



  純粋短歌抄 ― 内 容(二)



 一首の歌の形が短く、内容が単純だといふのは、短歌の弱点であるかのやうに批評家が云ひ、短歌作者自身でもさう思つてゐるものがある。併しこれは決して短歌の欠点弱所ではない。純粋の詩はさうであるべきものであり、単純といふ事は「やせた簡単」ではない。古人が『古の短歌は単心なるものなり』といつたのは、論理の過程を略してゐるが力強い言葉である。ホフマンスタールが「詩についての対話」を書いた時ゲオルゲに送つた手紙の中で、『私は抒情詩と呼ばれてゐる短詩の本質と享受とを論じた対話を書き始め、それに貴下の詩を二三引用しました』云々と言つてゐるが、ここで『抒情詩と呼ばれてゐる短詩』といふのは甚だ暗指的である。それからヴアレリイは、詩には純粋に詩でない部分が交つてゐるといふ意味のことを云つてゐるのも暗指的である。ヴアレリイを援用するまでなく、詩が純粋に詩として形成されるといふのは理想的な場合であり、短歌はもともとさういふ恵まれた位置にあるのである。それにも関らず、この純粋抒情詩を持つ民族が、自らの財宝ともいふべきものを否定しようとするなら、それは聡明ではないだらう。




平成二十九年十二月号   



  純粋短歌抄 ― 内 容



 抒情詩とか抒情とかいふ以外のところに詩の分野を求めようとする詩人のある事は差し当りさしつかへないが、「詠歎」と「告白」とから離れたものは厳密な意味でそれは「詩」ではない。短歌を「歌ふもの」として、その素朴な抒情性を否定しようとするものは短歌を知るものではないだらう。短歌が「衝迫」に対して最も直接な最も短距離を走る言葉の詠歎であり、祈のやうな告白であるのは、詩の純粋と崇高との印である。私たちはさう覚悟して強く立たねばならない。短歌が現代の複雑な思想・感情を盛り得ないやうにいふのは完全な見方ではない。現代の複雑な思想・感情を盛り難いといふ事はいへるけれども、不可能なことではない。現代の秀れた歌人はそれを実行してゐる。それが不可能事のやうにいふのは「詩」を胸で受取る事の出来ない批評家か非力で怠惰な作家である。



平成三十年一月号   



  
純粋短歌 ― 内容(ニ)



 併し、既に云つたやうに、詩の直観像である「衝迫」には、過去に集積し現在保有する作家の一切が懸つてをり、それが一語に万有を暗指するやうな詠歎として現はれるのが詩である。それであるから「詩」は現はれる形、追求し得る形としてはどこまでも単純であつてよいので、さうなければならぬものである。若しさう行かずに、長々とくどくどしたものとしてしか考へられず、現はし得ないとしたら、それは詩人としてのエネルギーがないのである。赤熱された鉄から焔が立つやうに、私たちの生活が一度は火を潜つて鍛へられなければそれは「詩」といふものではない。
 先進は既に幾度も教へてゐる。短歌は単純で充ちてゐなければならぬものである。それを若し今日の私たちが忘れるやうな事があつては逆行退歩である。真実の詩は「詠歎」として「告白」として単純に行かなければならない。これを言葉以前の問題に即して言へば、「無くて叶はぬもの」を見据ゑた自己の「衝迫」として、単純にして強い、或ひは単純にして深い声を内部に聞かなければならない。



平成三十年ニ月号   



  純粋短歌 ― 形式



 一首の短歌は詠歎であり告白であることによつて、本源的に韻律を要求してゐる。生命の顕はれにはいづれリズムはあるものだし、生命を感ずるのはリズムを感じてゐるのである。短歌がもと唱はれたものだといふ、その名残として韻律があるのではない。短歌の韻律といふものは人間に尾骶骨が残つてゐるやうなものではあるまい。声に出して唱ふ唱はないにかかはりなく、詩は韻律を持たねばならないものである。私はこの立場から詩の内在律説を重んじない。
 短歌の韻律は五音七音五音七音七音と連続した五句三十一音の形式にある。作歌者はこの形式に拠るといふことに総てを懸けてゐるものでなければならない。




平成三十年三月号   



  純粋短歌 ― 形式



  短歌は五音七音の五句から成立つといふのは、約束された形式であり、その詩形が自由でないといふのは一面の真実である。併し謂ってみれば形式に拠って作るのが芸術で、どんな種類の芸術でも形式を予想せずに成立つものはないだらう。また、形式の抵抗によって力を呼ぶことが出来るので、始めから拘束のない自由といふものは有り得るかどうかも疑問である。すべて表現は限定しようとする活きであり、結晶しようとする意志を持ってゐる。短歌は私にとって今日といへども不自然な詩形ではない。これは理論ではなく、さう信ずることによって事実であり、そこから一首々々の力が湧くのだと思ふ。
 短歌が僅か三十一音の詩に過ぎないといふ事を悲しい宿命のやうに言ふ人がゐる。併しこれは悲しい宿命といふ筋合のものではあるまい。ただ事実であるに過ぎない。箒には箒の働きがあり、はたきにははたきの働きがある。はたきが箒の用をしないからといって難ずるのはをかしい。短歌は短小な一詩形だが長所も短所もその事実のうちにあるといふまでで、詩が小説の代用をせねばならない理由はない。



平成三十年四月号   



  純粋短歌 ― 形式



 短歌の形式は如何にも小さい。併しこれは私の生命を託し得る形式である。また、人は字数が少いから短歌は軽手工だといつてはならない。詩の言葉はもともと計量を絶したものであるから。火に於ける焔、空に於ける風の如きものを私は詩として追尋する。それが現れるときは詠歎であり告白である。この事実の中に詩は直截に端的に行くのが最も純粋な形であるべき要約がある。
 私の信念を率直に言へば、短歌は五句三十一音によつて成り立つ詩で、この形式を信じこれに従はねばならない。これは消極的態度のやうであるが、実は強い勇猛心がなければ能はぬところであらう。短歌に当然許される字余り字足らずのやうなものさへも無く三十一言で行くべきだといふ風に此の頃私は信ずるやうになつた。整然たる形式といふものは何にしても大したものだといふ気がしてならない。短歌はもつと純粋にならなけらばならないが、その一面として詩形に就いても確固として熱烈な信念を内に呼びたてなければならない。



平成三十年五月号   



  純粋短歌 ― 声 調(一)



 短歌の韻律的声調は、古人が『古の歌は調を専とせり。うたふ物なればなり』(賀茂真淵「にひまなび」)と言った「しらべ」である。併し私たちが声調について顧慮するのは、それが旋律に乗り声を出して「唱ふ」ものであるからではない。梁塵秘抄口伝第十にも『よむ歌には』云々といって唱ふうたと区別してゐるほどであるが、短歌は純粋な抒情詩として規定されるので、「唱ふ」ものではない。それにもかかはらず、「しらべ」「声調」が実に大切な事柄であるといふのは、詩といふものがおのづから声調を要求してゐるのである。
 真淵が「うたふ」といふのも、「唱ふ」といふよりは声を長く引くこと、即ち詠歎の意味に解されるのである。さうすれば、詩は感動の詠歎として韻律を要求してゐるといふ事である。もともと感動といふものは一つの韻律であるが、それを純粋に端的に言葉に現はす、つまり詠歎として表現するのが短歌であると規定するなら、短歌は韻律的に表現されなければならないのは明かである。




平成三十年六月号   



  純粋短歌 ― 声 調(一)




 短歌の声調は、言葉の声音・語感・旋律・諧調・節奏等を要素として考へるので、これはいづれも、言語の音楽的な面である。併し言葉は意味の要素をぬきにして単に音の要素のみを以て考へることは出来ない。声調は常に言語の表象的要素と並行しつつ理解されるのでなければならない。短歌の声調は意味・内容の要素をも龍めて、一首全体として受取られるべきものである。これだけの約束の上に立つて、短歌の韻律的な面に重点を置いて考へるのが声調の問題である。
 詩の韻律的効果は、日本の詩形では音数によって単位を作り、その単位を組み合わせるのが基本的方法であり、短歌なれば五音七音が単位となり、この単位の組み合せによって、短歌特有の韻律といふものが構成されるのである。短歌の声調は五音七音を単位とした五句形態にある。
 しかし、短歌が短い詩であるといふことから、その声調は一首連続の波動として受取られるものである。たとひ中間に休止が在るものでも、意味が前後するものでも、それは感情の波動としてそのまま連続の声調を持ってゐる。一首の短歌を読む場合は、途中で息を切らずに一息に読むのが良く、そして全体としての声調を感ずるのが良いと先進も云つてゐる。 



平成三十年七月号   



  純粋短歌 ― 声 調(一)




 更にしかし、その場合一首の連続した声調の中に矢張り五音七音の単位を感じてゐなければならない。五音七音の単位があつて、しかも全体として五句三十一音に連続した声調があるのが短歌である。もし句単位といふものを無視して、単に連続の声調のみを考へるとしたら、そこには短歌特有の韻律といふものは無いだらう。極端な破調の歌、自由律の歌はこの意味から物足らない。さういふ作品の多くは、短歌の形式に馴れた一種の不感症状態から出て来る錯覚的新しさだと私は言ひたい。現在の短歌を美しく楽しくするためには、私達は短歌の純粋性に徹底しなければならない。そのためには短歌の形態から来る特質についての覚悟が徹底しなければならないのである。




平成三十年八月号   



  純粋短歌 ― 声 調(一)
 



 それから短歌には短歌特有の格調がある。同じ五句三十一音の形態でも、狂歌とか道歌とか御詠歌とかいふものと短歌とは声調に相異がある。それは内容・用語・語気・語句の連続などいろいろの要素について相異を考へることが出来るが、さういふ事から、漠然とではあるが、短歌には短歌特有の格調のあることを否定する事が出来ない。この短歌の格調といふものは定義づけて限りを立てる事はもとより不可能であるけれども、格調に対する感覚を私たちは常に持つてゐなければならない。
 ついでだが、私は口語歌の主張には同情するが、実際の作品には同感し得ない場合が多い。それは、口語歌には私の要求する格調がないからである。五句三十一音の形式が短歌的格調によつて充たされない場合、この形式は機械的で滑稽で悲惨である。その実例を狂歌・口語歌等に多く見ることが出来る。



平成三十年九月号   



  純粋短歌 ― 声 調(一)




 私は短歌の声調を、句を単位としながら五句全体に貫く語気・声音として感ずる。その場合、漢詩や西洋詩にある押韻の法は殆ど役割を果し得ないやうに思ふ。それから五音七音を更に二音三音等に分解して考察しようといふのも意味がないやうに思ふ。それから発声の高低抑揚といふのも本質的部分にはならないと思ふ。
 そこで一首の響きである語気・声調といふものは、機械的な音韻上の配置などからもたらされるのではなくて、もつと直接な操作、つまり内部の声を聞いて直接に詠歎しようとする努力の中に自然に具備されるものだと思ふ。一首の歌から感ぜられる響きは私の立場からいへば、言葉から立つ炎のやうなものだといつてもよいので、それは発声の音と同一のものではない。短歌は声に出してよむ場合でも、眼だけでよむ場合でも、常に言葉の響きが内部に聞えてゐるが、併しその響きは肉声のひびきではない。詩の言葉は、「話す言葉」と「書く言葉」とのいづれともつかない純粋な場所に位置してゐる。その言葉から感ぜられる響きは聞こえるやうな見えるやうな触れるやうなものである。さういふものの合奏として感動そのままの調子として伝つて来るものである。伊藤左千夫の言ふ「言語の声化」を、私はこのやうなものとして受取つてゐる。



平成三十年十月号   



  純粋短歌 ― 声 調(二)




 短歌の声調は生の律動そのままの響きでなければならないが、それは前に考へたやうに五句を単位とした一首連続の声調であり、短歌特有の格調を持たなければならない。さういふものの規範として万葉集の作品が私達の前に在る。作者の立場からすれば自分の向ふべき方向が予定されてゐなければならぬが、その具体的なものとして私達は万葉を眼前に置くのである。
 私は先進から学ぶところに従つて、一口に「万葉調」といふことを云ひ、それを方向としてゐる。併し私達は純粋な詩としての短歌がどういふ声調を具備しなければならぬかといふ自身の問題を追求して「万葉調」に落着くのである。万葉の作品は四千余首それぞれ個有の声調を持つてゐて一首一首は他と全く同じ声調ではない。けれども全体として共通な特徴を要約する事が出来る。強い波動を持つて、一首が緊張してをり、健康で生き生きした語気を待つたものが、万葉の調べである。



平成三十年十一月号   



  純粋短歌 ― 声 調(二)



 万葉調で行くといふ事は、万葉そのままの引き写し、模倣といふ事ではない。私は私の内部を詠歎し、生命を表白しようとする場合、自分の体内を通過した言葉で表現しなければならない。しかし具体的な方向として万葉集を忘れないといふことである。芸術の為事にはどんな人でも実質的な目当てを持つてゐる。全然の独創といふものは有り得るのかあり得ないのか、とも角私のやうな非力者は目前に規範を置く事によつて、わづかづつ自分を引きあげて行く事が出来るやうに自覚してゐる。
 真淵が「万葉こそあれ」といつた熱意を私は限りなく尊敬してゐる。かういへば結局は模倣と同じ事のやうに響くが、大きくいへば模倣といふ事に落着いてよいので、芸術といふものは何かの形で模倣である。併し模倣しながら、しかも幾分は独創を出すことが出来るのも芸術である。その寸厘の独創といふものが次の制作の基盤になつて行くものであるに違ひない。



平成三十年十二月号     



  純粋短歌 ― 声 調(二)



 もう一度いへば、具体的な形あるものを尊敬し、自身の力量を顧慮する立場から「萬葉調」といふ事をいふが、要するに生の律動そのまま感動そのままの声調を追求するのである。その実行が徹底すれば一首一首はみな新しい声調を具備し、個性を持つて生きて来る筈である。
 短歌のやうな形式の文学では、時代により個人により、或る幾つかの声調の型といふものが出来る。しかしこれは何も短歌に限つたことではないので、どういふ分野の芸術にも型といふものがある。ただその型があつても、その中で一つ一つの作品が生きてゐればよいのであるし、又力量ある作者は型を打破しようとする努力を常に継続して行くものである。型を抜出たところに又一つの型が出来、更にそれを打破して進むといふ事を永久に繰り返すのであらう。



二〇一九(平成三十一)年一月号   



  純粋短歌 ― 声 調(二)



 守部が「短歌撰格」で整理した歌格でも、あれは一応の規範であるけれども、現在の作家はさういふものだけに捉はれずにどんどん新しい声調を生んでゐる。短歌の形式は短簡ではあるが、内部に入つて見れば声調の個々相も豊富で変化がある。格調も萬葉以外に出たのがいくらもある。しかし大きくいへばそれらはやはり「萬葉調」といふ概念で理解されるものである。萬葉的な格調として理解されるものである。
 現在の口語歌のやうなものが短歌の将来の相だとは私には考へられない。やはり短歌的格調がなければ満足出来ない。短歌といふものはもつと厳しいもので詠歎の語気がゆらいでゐて、しかも安定した秩序を保たなければならないものだと私は思ふ。
 そこで短歌の格調といふものは一定不変ではないが、どう変つても短歌的格調といふ感覚が納得するものでなければならず、それを判断する根拠が萬葉にあるのだと思つてゐる。私たちの歌が常に新しい声調を持つて、しかも短歌的格調を維持するといふには、どうしたらよいか、寸厘の独創を積み重ねて一歩一歩確実に進むより他に方法がない。



二〇一九(平成三十一)年二月号   



  純粋短歌 ― 言 葉(一)



 短歌は言葉によつて詠歎されるものであるといふことから、短歌の言葉はどういふものでなければならぬかといふ結論が導かれてゐる。詩は言葉として表白されてはじめて個有の詩であり、詩を声あらしめるものとしての言葉が要求されてゐる。
 端的にいへば歌の言葉は感情の言葉でなければならない。科学の言葉、数学の言葉は冷いまでに正確でなければならぬが、詩の言葉は血の脈動の感ぜられ、それでゐて的確なものでなければならない。この確かさは科学的な確かさではない。或る場合一致することもあるが、詩では感情に対していつはらない確かさといふものが要求されるので、言葉は、感情に直接なものでなければならない。
 言葉は万人に共通な符号としてあるので、一種の道具であり、物質的なものである。そしてこれは皆吾々が学んで所有するものである。併し、その言葉が個人の声として発せられる時には、言葉は生きてゐる。語られるのが言葉であるなら言葉はもともと生きてゐるものである。一つの民族の言葉は少くもその民族の間に生きてゐるものである。



二〇一九(平成三十一)年三月号   



  純粋短歌 ― 言 葉(一)



 しかし言葉がそれ自身の生命を持ち、感情を持つてゐるといふのは、言葉の一般的性質がさういふものなのである。實用面に於ては言葉は人から人の手に渡つて垢と汗にまみれてゐる。言葉は多かれ少なかれ手擦れがしてゐる。さういふ言葉を通用の符號のままで受取つて使ふのが詩ではない。言語學では實用的言語と暗指的言語とを別けて考へてゐるが、實用の言葉と詩の言葉とはもともと違ふものではない。唯言葉は實用的には汚れたまま通用してゐるか或はますます汚れて行くものである。さういふ實用面に對して詩の言葉は極北に立ち、垢と汗とを洗ひ去つて、言葉が本来持つてゐる隠れた感情を受取るのである。詩の言葉は言葉の中の言葉として原型的純粋性を持つてゐなければならない。



二〇一九(平成三十一)年四月号   



 純粋短歌 ― 言葉(一)



 文字に書かれた言葉は、話される言葉よりも言葉として純粋である。それは凡ゆる偶然的な効果を除去して、言葉がその言葉だけの働きをしてゐるからである。文字を使用するやうになつてからの言葉は文字と共同して推移してゐる。言葉の感情も文字と共にある。言葉が文字に書かれる場合に「文語」が生れた。「文語」は単に古典的な言葉といふ意味にのみ取つてはならないものであらう。文章として口語から独立した時に言葉が口語にない純粋性を得たので、「文語」は遠い古にあつても特殊な棲息をしてゐたのである事を見免してはならない。萬葉の歌でもそれは当時の口語そのままではない。歌が文章の一種であるなら、「文語」は本来歌にとつて単に遠い過去の言葉ではない筈である。



二〇一九(令和元)年五月号   



 純粋短歌 ― 言葉(一)



 しかし感情を現はす歌の言葉が、作者に直接なものでなければならぬといふ事の中に、時代的な近親性の語感が働いてゐる。現代の私達には現代の言葉が親しいのは当然である。併し現代語は直ちに口語ではない。現代語の中に所謂古語もあり、口語もあり、文語さへ生きてゐる。詩の言葉が日常口語と同一の線にゐなければならぬと思つてはならない。さう信ずる人もあつてよいが、詩の言葉は実はもつと豊富で純粋なものである。詩人はもともと言葉を選択する者であり、或る時には日常用語に対してブレーキの役割を果すものである。



二〇一九(令和元)年六月号   



 純粋短歌 ― 言葉(一)



 私達の前には文語も口語もない。現在の言葉だけがある。そしてこの意味に於ける現代語には古代語が対立してゐるのではない。殆ど無限の可能性を持つて現在の言葉は感じられてゐる。左千夫がいふやうに、あらゆる言葉が、文語も口語も洋語も漢語も打つて一丸となつて歌の中に生きてゐてよいのだと考へられる。その場合、新聞記事とか小説とかいふものよりも、短歌が口語に対して距離を持つてゐるのは当然のことである。抒情詩といふものは一種の生残りだといはれるが、さういふ意味の非実用性を詩はもともと持つてゐる。詩の言葉は或る時は強調され変形されるものであつて、日常通語にない話し方がある。これは純粋な形としては作者自らに話す言葉であり、?りの言葉である。詩の言葉は物語り、証明し、説得する言葉でないといふところに、感情の言葉としての新古を絶した純粋が要求せられてゐるのである。



二〇一九(令和元)年七月号   



 純粋短歌 ― 言葉(一)



 純粋な言葉は、それだから単に日常語を離れてあるものでもなければ、雅語、文語を離れてあるのでもない。雅語、新古の関与しない純粋境にある。ここに純粋といふのは、それが文字に書かれる言葉でもなければ話される言葉でもない、いづれともつかない所の言葉だといふ意味である。例へば詩の言葉から感ぜられるリズムとアクセントは文字の言葉にないものであるが、発声の言葉そのままのものでもない。リズムとアクセントは作家の感情にある。併しながらこれは又言葉を離れてあるのではない。やはり特有な純粋な話し方のうちにあるのである。多産と浸透のための詩の言葉は、文字の言葉の沈静を持ちながら而も声の言葉の混沌を持ってゐる。



二〇一九(令和元)年八月号     



 純粋短歌 ― 言葉(二)



 語感は生得の面もあるが、一面は養ひ育てられるものである。一首々々の作歌過程は殆ど瞬間的な発光だといつてもよいが、その場合でも不断に磨かれた語感が参与するものであることを忘れてはなるまい。
 語感の尺度は感覚であるから一見あいまいで不確なものである。又不断に成長するものであるから、一所不動のものでもない。しかし語感の根底は決して不安定なものでもない。いはば既往の自他の作品がすべて尺度であって、その上に自身の語感が形成されるのである。語感が先人の業績の上に築かれるところに一つの客観性がある。もともと言葉によつて随分あいまいな不明瞭なものもあるが、それは差当り不明瞭な混沌としたところに生命があるのである。人間の世界がすべて割切れるものでないなら、言葉がまたさうであるのは当然なことである。そのやうに語感にしてもいつも割切れるといふものではない。しかし偉大な先人の語感は私達の規範である。そこから流れる泉を汲んで私たちは育たねばならない。 



二〇一九(令和元)年九月号    



 純粋短歌 ― 言葉(二)



 それから、徹した語感には一種の潔癖がある。言葉の美醜に対する潔癖が鋭く働くのはいふまでもないが、それ以外自他の所有に関する潔癖が働いてゐる。言葉により個人色の強いものは、古にいふ「主ある言葉」であるが、本歌取りの盛に行はれた時代にあつても「主ある言葉」に対する虔みが要求されてゐた。私達は自身の辛苦によつて稔つた稲だけを刈り取らなければならない。
 言葉の美醜については、美しい言葉といふのは生きた言葉である。例へば新たに鋳型を出た銭のやうに、水のしたたる海草のやうに瑞々しく新鮮に輝いてゐるのは美しい言葉であるが、それとても生きてゐる美しさである。雅語が必ずしも美しくないのは言葉が磨滅して生気がないからである。雅語であつても生きた感情を持つに至れば美しいのである。




二〇一九(令和元)年十月号



  二〇一八(平成三十)年十月号に同じ




二〇一九(令和元)年十一月号     



 純粋短歌 ― 言葉(二)



 しかし作者の側に立つていへば、言葉の美醜は第一義的関心事ではない。ヴアレリイは『二つの言葉の中、つまらない方を選ぶこと』を教へてゐるが、これは逆説ではない。私達は的確への追及を第一義として、フローベルが『一つのことをあらはすにはただ一語だけ』といつた。その抜き差しのならない不動の一語を得ようとするのである。
 直接な言葉を混沌とした衝迫の中心から発するとき、必然に詠嘆の語気がまつはつてゐる。言葉から伝はる響き、言葉から立つ炎が語気であるといつてもよい。呂氏童蒙訓に『予ひそかにおもへらく字々当さに活すべし、活すれば則ち字々自ら響く』といふやうに、生きた言葉、感情の言葉といふものは響きと炎の語気を持つてゐる。




二〇一九(令和元)年十二月号    



 純粋短歌 ― 言葉(二)



 語気は一実語一虚語にも感ぜられるが、それよりも言葉の結合と連続とに鮮明に感ぜられる。単に一語を抽出して見れば何といふ事もない平凡な一語一語であつても、その連続の具合に微妙の語気の感ぜられる場合が実は多い。語気は言葉の個性であり、詩の言葉は語感を単位として語気に総和されてゐるものである。語気を籠めるのが詩の作家であり、語気を感ずるのが詩の享受である。

 斎藤茂吉先生は『紅血流通の言語』をいひ、『体内を潜つた言葉』といふことを云はれた。言葉が作者の血を承けて生きるといふのは一旦作者の体内を通過することである。ここに言語創造の原理がある。共通の符号でありながら言葉が個人の生を承け得るには産の陣痛を経なければならぬ。



二〇二〇(令和二)年一月号   



 純粋短歌 ― 言葉(ニ)



 感情の言葉、生きた言葉、あらゆる直接な言葉は体内からしぼり出すやうにして生まれた言葉でなければならない。言葉は天使の羽をつけて降りて来るのでもなければ、かくしに蔵つてある銭のやうなものでもない。鷗外の抄訳した「バアブの戯曲論」に『言ひたい事は混沌の状態にあるのが次第に意識の表面に現はれて来て、其の混沌の滓を帯びてゐる儘に出て来る』のが言語産出作用だと言つてゐるが、『混沌の滓』は差当り言葉の個性である語気だといつてよい。そこで作者として自らの体内を巡つて『混沌の滓を帯びた』言葉を産出するにはどうしたらよいか。それにはそれぞれ独自の工夫と辛苦とを経なければならぬのは云ふまでもないが、ここに態度を統べる原理が確定してゐることを幸として営々と勉め励まなければならない。



二〇二〇(令和二)年二月号    



 純粋短歌 ― 態度



 短歌が直観的な衝迫(内容)に従つて、直観的に表出されるものだといふのは、それを統べる態度が直観的であらねばならないといふことである。直観的な態度は即ち直接端的の態度である。
 詩の原像である衝迫は、主観が客観に交渉して胚胎するものであるが、現実に対する真の関係は直接端的の態度にある。私たちが現実を観るといふのは、自身の眼(広義の)を以てありのままに純粋に見ることである。併し私たちの眼は過去の陰影によつてかなり濁つてゐる場合が多い。私たちの眼光は、慣習的日常性に馴れ、常識的になり、類型的になり、固定し、安易に、虚偽に陥りやすい。また第二義的な理論や批判などをも交へがちである。これらはすべて直接性の欠除した徴候である。直接性がないといふのは、詩に於ては唾棄すべき醜悪であり、不健康であり、無力であり虚偽である。私たちは対象との間に一切の間接的第二義的なレンズを挟んではならない。



二〇二〇(令和二)年三月号   



 純粋短歌 ― 態度



 詩は「批評」であるといふ人もあるが、批評を交へるのが深い見方であり新しい解釈であると思つてはなるまい。それは時に新しさを伴ふ場合もあるが、結局は芸術の進展にとつては一消極面に過ぎない。私は詩に「批評」があつてはならないといふのではないが、ただ観入には作者の保有する一切の精神力を一丸とした直観だけが必要なので、批評も直観の中に一要素として潜んでゐなければならぬものである。
 私たちは間接な総てのはからひを去つて直接の態度に立つて、健康に、真剣に、堂々と現実に対はなければならない。併しその実行は決して容易ではないから、常に直接端的の態度に帰るための努力精進を怠つてはならない。




二〇二〇(令和二)年四月号    



 純粋短歌 ― 態度




 短歌の表現は「詠嘆」であり「告白」であるといふのも、既に直接端的の声を予想してゐる。私たちはここでも念々に直かの言葉を求めなければならない。一首の歌の声調、その要素である言葉は、どこまでも衝迫に対して直接なものでなければならない。私たちの言葉はともすれば慣習的類型に堕しやすく、或は虚偽の修飾に走りやすい。言葉は共通の符号として意味を正しく伝達するものでなければならず、どこまでも独善的独断に陥ってはならないものである。しかし歌の言葉はその上に更に自身の言葉としての閃きが添はなければならない。所謂『作者の体内をくぐった言葉』とならなければならぬが、それは衝迫に即して直接の言葉を追及する態度の如何にかかつてゐる。
 短歌の声調について、私たちが一口に万葉調といふのは、衝迫に対して直接な声が万葉にあるからであり、直接性を尊重する立場から声調の規範を万葉に見る事を意味してゐる。現在の私にとつて万葉調は外から与へられたものではない。直接端的の態度があつて初めて万葉調に限りない同感と共鳴とを感じ得るのである。



二〇二〇(令和二)年五月号    



 純粋短歌 ― 態度




 作歌に於ける単純化といふことも、推敲といふことも、みな、直接性につながる要求の現れである。単純化は現実の中心を追ふ直接性の脱皮であり、推敲は直接と間接との比較計量である。
  この体古くなりしばかりに靴はき行けばつま
  づくものを         (斎藤茂吉)
 この一首には形式について声調について其他短歌の凡ゆる問題を含んでゐるが、今その一面について言へば、一首に滲透してゐる無限の真実感と瞠目すべき新しさとは何処から来るか、それは他でもない、飽くまで徹底した直接性の現れにあるのである。老体を『この体古くなりし』といつた部分のみを見ても、この真実とか深刻とかいはるべき一句は唯恐るべき直接の眼であり声であるに過ぎない。短歌に於いて真実とか深刻とか全力的とかいはるべき要素はみな直接性の徹底したものである。



二〇二〇(令和二)年六月号    



 純粋短歌 ― 態度




 非力な実作者である私が自身の覚悟をいふ時、「真実」とか全力的とかいふ言葉を用ゐるのはやや面映ゆい事である。そこで私は直接性を第一義的態度として保持しようとするのであるが、直接の態度は斎藤先生の云はれる「直路」「直行道」であり、真淵の「直くひたぶる」の態度である。私が自身に於てやや辛苦して得たところのものも、このやうに別に事新しいものではなかつた。併し私が、この事を自身の信念として保持し得るといふのには、かすかな満足がないわけでもない。
 古人は坦々として平然としてこの直路を進んだが、末世の私などは常に自ら策励してこの路を歩まなければならない。私は現実の根源に立ち帰るために、現実の根底から言葉を発するために、常に直接端的の態度に立たうと努力しなければならない。



二〇二〇(令和二)年七月号   



 純粋短歌 ― 写生(一)



 作歌に際して直接の態度を徹底せしめようとするのが「写生」の立場である。私が直接の態度を唯一の態度として考へるのは、私が写生といふことを常に念願してゐるからである。
 「写生」とは、生を写すこと即ち生命の表現といふことである。詩に於いては生命のリズムである内部の衝迫をそのままさながらに表現するのが写生である。その表現は純粋抒情詩である短歌に於いては、生命は「詠嘆」として表白されるものである事は既に云つた。
 写生が生命の表現であるといふのは、短歌の真髄であるばかりでなく、広く芸術といふものがさうでなければならぬものである。それだから、これは芸術の一般概論として受取るなら受取つてもよいものである。併し、生の表現は如何にして可能であるかといふ事になれば最早概論ではない。芸術に於いて、生の表現は論理を超えた強い信念によつて遂行される。写生の主張は原理方法の綜合である実修を経た信念であるといつてもよい。生の表現を最も直接の態度を以て徹底せしめようとするのが写生の主張である。単に「生命主義」とか「現実主義」とかいつて覆つてしまはれない特性が「写生」の主張の中にはある。



二〇二〇(令和二)年八月号   



 純粋短歌 ― 写生(一)



 その一は、斎藤茂吉先生が写生を規定して『実相に観入して自然・自己一元の生を写す』といつた「実相観入」にある。生命のリズムである衝迫に従つて詠歎するのが、短歌の写生であるが、それには「実相観入」によらなければならない。「実相」は自然の相、現実の象で、広く対象の世界である。写生は第一条件として実相に即く。これが先づ強い徹底した覚悟だと私は思ふ。詩は専ら感情の所産であるが、併しほしいままに主観に遊ぶことを抑へて実相に即き、「虚構」とか「構成」とかいふ事に浮きたたないで、実際を言ふのが写生の根源である。そしてこれは「写生」の主張が正岡子規に淵源してゐることの伝統として当然さうなのであるが、子規が晩年に『草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が分つて来るやうな気がする』といつたやうに、たとひ如何に小さな微かな対象であつても軽視する事なく、自然に対して敬虔に立つ事を意味し、斎藤茂吉先生が『自然はもともと厳しく美しいものだ』といつた、さういふところまで行き着くのが本当である。



二〇二〇(令和二)年九月号   



 純粋短歌 ― 写生(一)



 芸術は如何なる芸術でも芸術である限り何かしら具体的なものである。対象(現実)とは芸術の立場からいへば形あるもの、実体的なものである。この具体的にものに先づ興味を持ち、更に傾倒して行くのが芸術家の資質である筈だが、この実体的なもの、形あるものを信用してかかるといふ点に写生の立場がある。
 詩は感動の表現であるといつても、感動はもともと感動そのままとしては形のないもの、名のないものである。喜怒哀楽といふやうな分類もそれは内容のない分類に過ぎない。併し感動は必ず実相に機縁して起るものである。生きた感動・感情の個性は必ず実相に即して動くものである。それゆゑ感動の個性・具体性といふものは実相に即く事によつてのみ表現する事が可能なので、ここに写生が立脚する。



二〇二〇(令和二)年十月号   



 純粋短歌 ― 写生(一)



 しかし対象の世界には時に全く形のない実体のないものがある。私たちの心を過ぎる影のやうな波のやうな、一見拠りどころのない情調も亦対象の一つである。併しこれもつきつめればやはり何か具体的なものに機縁してゐる。聯関のない情調が若しあつても厳密に追及して考へれば覚官的なものに連がる淵源を必ず持つてゐる。それゆゑ、さういふ対象もまた実相の延長として受取れるものである。のみならず、さういふ一見拠りどころのない空想情調といふものも亦対象である限り、実体的なものを信用する眼によつてのみよく見る事が出来る。



二〇二〇(令和二)年十一月号   



 純粋短歌 ― 写生(一)



 私たちは多くの場合、感動を感動として意識しない。普通「感動」といふ場合、それは内部に動くリズムを抽象した言葉でリズムそのものではない。しかも多くの場合喜怒哀楽といふやうな分類では割り切れない情緒が私たちの中にある。斎藤先生が『僕は観入を念とするから「感動」をばおのづからなるあらはれと看做してしまふ。そこで「感動」をば強調して意識にのぼすことをしないのである』と云つて、ここに感動を表立つて意識しないといふのは、実相をどこまでも信用する立場である。感動といふものは実相即ち実体的なもの形あるものに機縁して動くものであるから、感動の母体である実相を徹頭徹尾目標にして、ひたすらに実相に即くのが写生である。つまり実際を詠ずるのが写生である。しかし詩の表現はすべて実相に即かなければならぬといふものではないだらう。さういふ僅かの除外例があつても、それにも関らず実相に即くのが詩の表現であると信ずるのが写生の立場である。



二〇二〇(令和二)年十二月号   



 純粋短歌 ― 写生(二)



 芸術で「観る」といふのは、単に視覚だけでなく、すべて覚官を通して対象を受入れ対象に働きかける作用を指すが、覚官のあづからない直観もまた広く「観る」といふ働きの中にある。煩瑣にならずに直観として理解されるのが観る働きである。その直観が徹底して対象の真実とか本質とかいふものを把握するのが「観入」である。
 現実・実相といふものは空間的な展開と時間的な連鎖との交錯するところにあるので、混沌と秩序とを二つながら蔵してゐるやうに思はれる。「観入」即ち真に観るといふのは、混沌の中にある秩序、瞬間の中にある永遠を観る事だといつてもよい。
 主観と客観との間の関係を、主観の側からいふのが「観る」働きであるが、併しこれは主観が客観に働きかけると同時に客観が主観に働きかけるのである。更にまた、主観は客観に無いものを感ずる事が出来ないと同時に主観の感ずるものには客観そのままのものでもない。このやうな関係に立つ主観と客観とは、何れを主としいづれを従とし難い関係である。この場合主観を主とするのが浪漫的傾向であり、客観を主とするのが写実的傾向であるが、その中央にもつと純粋な立場があるので、主客対等の均衡の上に立つのが真の「観入」でなければならぬ。 




二〇二一(令和三)年一月号   



 純粋短歌 ― 写生(二)



 主客均衡の観入は観る事の極致だが、それはただ有るがままに観る事だといつてもよい。自身の眼によつて有りのままを観ようとすれば、そこに主観とも客観ともつかない純粋本体とも名づくべきものが見える。かうして得た純粋感情は即ち詩の真実・本質であるが、言葉を換へていへば『自然・自己一元の生』がここに見られたのであり、「写生の説」にいふ自然自己一元の境地を私は主客均衡の観入として理解する。
 私は短歌の本質を考へて、あらゆる夾雑物を除去した純粋に徹底しようとするが、対象との関係についても主観的とか客観的とかいふ事はいまだ徹底が足りないと思ふし、浪漫的とか写実的とかいふ事もいまだ徹底が足りないと思ふ。さういふ傾斜を持たない態度が真の態度であるだらう。それは主客均衡の観入である。




二〇二一(令和三)年二月号    



 純粋短歌 ― 写生(二)




 しかし主観と客観とが対等の比重を保つためには、予め客観の比重が重く考へられなければならないだらう。主観は本来自身の所有であるから実際としてはさうしなければ均衡が成立たない。主観を一旦せき止めるやうにしてはじめて真の融合に導かれるのであるだらう。真に観られたもの即ち純粋感情は主客未分の「創造」であるが、併し作者自身はそれを客観のうちに本来あつたものとして観てゐるのである。このやうにして有るがままに観るためには、客観の前に敬虔に立つことを前提としなければならぬ。
 有るがままに観るといふ事は、覚官を通して来るものをゆがめずに受取ること、対象の有つ意味に応じておのづからに反応する事である。殊に純粋抒情詩としての短歌に於いてはこれが徹底して端的に行かねばならない。瞬間の発光、断片の重量を把握するのが短歌の観入である。