大震災と私

大震災と私(4) ―詠い残し書きのこす―  




    大津波       中村 とき
            
 平成二十三年三月十一日、世の人々はみな千年に一度ともいわれる未曾有の震災に遭うとは露知らず朝を迎えた。
 私の生きて来た九十一年の中で三度目の津波である。十三歳の時の昭和八年の三陸大津波、二度目は地震もない昭和三十五年五月のチリ津波であった。そして三度目の今度の津波は言語に絶する惨状極りないものである。
 この津波に遭うまで私は何度警報に逃げたことであろうか。海から百メートルの所に住んでいれば、津波は常に念頭にあり、地震の度、今度は来るか、この程度なら大丈夫かなどと思うようにもなり、注意報の時は待機しているけれど、警報の時はいち早く避難する。それを長年の習性として海近く住んできた。
 明治の大津波に遭った母は、夜寝る時は着る物を揃えて置くように、時分時には食事を済ましておくように、履く物は長靴と平生の時から心がけを言っていた。
 あの日、私は郵便局で貯金をおろし、「歩道」六月号への歌稿を投函し家に入った。その時だった。あまりにも大きい地震に「これは津波がくる」と咄嗟に思った。リュックにおろしたばかりのお金と通帳、補聴器の電池、ラジオなどを入れ孫の車で高台に向った。
 高台にはいつも避難場所にしている古い家が二棟ある。長いこと空家にしているが、このような時に備えて解体せず電気はひいてある。間もなくMちゃん夫婦も避難して来た。消防の屯所近くの家なので、サイレンの音、防災無線が大きく響き大勢の人々がいて物々しい態勢だった。緊張感と不安に怯えているうち「大きい津波が来る……上へあがれ」逃げろ逃げろと懸命の声がする。皆一斉に近くの山に登った。登っていると「水が来たー」の声もした。足の悪い私は杖をつき転ばないように一歩、一歩、山へつづく丘畑の道を歩いた。歩行が大変な私を限界と見たのかKさんが背負ってくれた。
 そのうち日が暮れて寒くなってきた。見ると園児達を送って山田から来た幼稚園のバスが帰れず山道に居た。私も乗せて貰ったがそとには大勢の人が居た。中には全身ずぶ濡れの人も何人かいた。濡れなくてさえ寒いのにどんなに冷たく寒いだろうと、津波も見ず登った私は、身も心もふるえる思いで見守った。
 後日、話を聞くと高台まで避難したがご主人が居ないのに気付き、高台の端まで探しに来た時津波に襲われ流されたという。夢中で泳いでいるうち、車が三台身にせまり、危いと手で押すとたわやすく動いたという。私にも力があるんだとその時思ったそうだけれど、それはおそるべき津波の浮力だったのだろう。高台の奥まで泳ぎ救出されたけれど、残念ながらご主人は未だ不明である。またある主婦は高台真下の家からすぐ上の家の玄関に波に押されて入り、流れてきた瓦礫に身動きもできず足を骨折したという。
 この高台は、昭和八年の大津波後造成されたものでチリ津波でも浸水しなかったから安全と思われていた。その場所でさえ天井まで今回は浸水したから、避難してきて泳いだ人も沢山あり、高台で遺体となった人もある。私と親しい八十九歳のS子さんもこの高台で危い目にあった中の一人である。津波の水に全身漬かり避難した家の屋外で「ああ私はいま津波で死ぬんだ」と思ったそうである。何かにつかまっているうち幸いにも波が引き命は助った。この方ばかりでなく私の姉にしろ甥にしろ津波で亡くなった幾多の人々は皆その時、「津波で今死ぬ!」という思いをして逝ったであろう。思えば涙が滴りやまない。
 山道に止めたバスに暖をとっていると木の間越に赤い炎が見えてきた。火災発生である。バスは何度も移動した。高台の家も四十軒近く焼け、山火事も処々に広がった。バスから降り私は避難先の家に帰ったが、その夜は夕食もたべたかどうかも記憶にない。男性達は中に、私と娘、Mちゃんは入口に腰をかけたまま身を横たうることもなく一夜をすごした。
 度々の強い余震に古家がつぶれるかと外に飛び出した。その度に流れた浜を見たが真暗な闇の中で燃える火事の炎は夜空に赤く、さながら東京空襲を思わせた。時々ドーンと音がするのはプロパンガスの爆発であろうか。消防の屯所では赤い灯がともり、沢山の人々の動きがあり、山火事への消化と慌しい中に粉雪も降っている。私達は着られるだけ着て逃げたけどそれでも寒い。姉の住んだ家から綿入などを出して着た。山火事はあちこちに飛火し流れた浜の火事は勢を増し、この世の地獄とも思われる風景の中でひたすら夜明を待った。夜がしらじらと明けていく頃心に浮かんだ一首、「大津波の一夜明け初む生けるわれ如何なる無惨この目で見るや」。
 翌朝、高台に見た光景は驚くべきものであった。海に向いた方、二列の家は津波で天井まで水に漬かり壊れた家も多かった。道の中央まで下の浜から押上げられた家々の屋根や瓦礫が重なり合って打ち寄せ、ここまでもと言葉も出なかった。危いから近寄るなと言われ遠くから見るだけ、まして流れた浜などのぞき見もできない程の瓦礫の山だった。
 今まで住んでいた浜、「田ノ浜」に二夜を過ごし三日目、軽トラックの荷台に乗せられヘリコプターに乗るべく岬山の原に向った。途中、山火事はまだ燃えていて通る時身に熱さを感じた。プロペラの激しく回転するヘリコプターに何人か乗り、山田高校格技館に着いた。自分の意志というものも持たず、ただ人の言うまま動き気力も何もなかった。ヘリコプターからの私を見つけ、宮古の職場から山伝いの道を来たと孫娘がかけ寄り、家族の無事を喜びあった。
 避難所は沢山の人々でいっぱいだった。この大きな災害の中で皆心を寄せあい、労わりあい、嘆きを分かち合った。朝夕二回のわずかな食事でも私は作った人に感謝して食べた。三日目の朝、スープに入っていたわかめには思わず涙が出た。誰かが差人を持ってくると皆で少しずつでも分けて食べた。その中で昼夜を分たず、自分の家が流れながらも活動を続ける保健師さん達には頭が下る思いがした。津波で母親を亡くしたよちよち歩きの女児を見ては心が傷み見守っていた。
 津波から五日目、やっと道が通ったと釜石から孫夫婦が駆けつけて来た。大勢の人込みの向うから背の高い孫の夫が見えた時は涙が溢れた。ここも停電でトイレも遠く何かと娘や孫に世話をかけるので、私だけ釜石に行くことにした。国道と新しくできた三陸縦貫道路を廻っての道々、車から見る各地の惨状はいずれもむごく、悲しくただ驚きの声をあげながら災害の大きさを思った。孫の夫は徒歩の人を見ると声をかけ、釜石までという人を四人乗せた。聞くと私を迎えに来る時も山田まで歩くという人達を乗せたそうである。私のふる里大槌町も通った。この町の役場で停年まであと半月の甥が不明でいる。釜石も駅を境として明暗を分けどこを見ても息をのむ思いだった。釜石にいるうち田ノ浜に何度か連れられて来たが、初めて我が家を見せられた時の衝撃はあまりにも強く、軽トラックから降りるのも待てず、車の中から声をあげて泣いた。私の部屋のあった建増の木造部分は跡形もなく流出し、私は一切を失った。瓦礫の中に残った家は屋上に物が揚り、バルコニーの手摺は折れ、二階の破れた窓に破れたカーテン、テラスに向いた大きい窓は枠が曲りガラスは割れている。空洞化した家から向うの瓦礫が見える。何という無残、言葉にもならず周囲を眺めた。一浜すべて壊滅である。
 我が家には道をへだてて漁業用の大きい倉庫が海側にあり、作業用の建物などが連なっていたがすべて流出、倉庫のすぐそばに八・三五メートルの防潮堤がある。これはチリ津波後に造られたものであるが、殆んど決壊して津波の猛威を著しく示している。津波警報の時閉める水門のあの頑丈な扉はどこへ行ったであろうか。見渡す限り一面の瓦礫にさながら廃墟の如く化した浜を見ていると心の中にさむざむとした風が吹き抜けるような思いがした。その中で交通整理をする警察官、瓦礫撤去その他に身心惜しむなく励む自衛官の姿が見える。東北の三月は未だ寒く、流れ残った衣服などから津波の水をしぼる時はかじかむ程手が冷い。そんな中、雪の日、風の日、私達の為に働いて下さるその人達に心から尊敬の念、感謝の心が湧く。各県の名を記した日本中の県警の車、自衛隊、支援の方々の車に行き交う度、有難く頭を下げながら感謝の涙を流した。
 孫の夫も実家が天井まで浸水し、それを手伝う合間にわが家のがれきや畳など出してくれた。中二と小五にあがる女児を連れて。私はこの災害が子供達の目にどのようにうつるであろうと思ったが、ひ孫達は元気に動き大きい瓦礫を取去ったあとから、目覚とく大事な物など見つけてくれた。
 釜石から何度も通ううち雪の降る日もあった。海岸特有の春雪である。この雪が降ると浜に春がくるというドカ雪であるが、瓦礫の山を埋めるように視界なく降る雪は心もとざすように思われた。帰り路、釜石の街通りに紅梅が咲いていた。降る雪をすかして見る紅梅は美しく心を和ませたが、現実はきびしくガソリンを買う車が列をなし延々と続いていた。
 四月三日、前日電気がついたというのでわが家に帰った。古い家二棟のうち広い方に親類の兄妹二世帯が住むことにし私達は一番古い方に住んだ。水道はまだで近くの沢水をためている所から男達は運び風呂をたてた。給水車からの水は大事にふた付のバケツに、使い水は沢の水と不便な生活だったから四月十四日、水道が通った時の嬉しさは格別だった。電気がつかないうちは浜のお寺さんから太い蝋燭を頂いて灯した。ご住職は被災者を労わり、物資の支給にも尽力され、自衛隊の演奏会もお寺でなさるなど人々に力を与えられた。
 三家族、一緒に食事を作り食べていたがそのうち、孫夫婦が遠野から炊飯器や、生活必要品を買ってきてくれたので我が家は我が家だけの食事となった。けれど三家族一緒に食事もし同じ風呂に入るなど、兄妹の絆は深まり頂き物など分けあい津波は悲しいことであったが、和ましく心の通いあう日日であった。
 友人知人からの手紙も届いた。避難所宛に旧番地を記したり、封筒にも私の年齢を書いたり「どうか届けて下さい」という添書もあったり、皆さんそれぞれに私を思って下さる心、切々たる見舞の文言にこめられた真情に感涙に咽んだ。そしてこの混乱の中で間違いなく届けてくれる、郵便関係の方々にも感謝した。
 給水車や物資の支給、医療関係、炊き出しなど心温まる支援に感謝の毎日であった。漁村センターが被災したのでこの浜の寄り所は私の住む家の近くの消防屯所になった。そこで炊き出しが行われる。炊き出しにしても天気のよい日ばかりもなかった。ある大雨の日はうどんの炊き出しだったし、強風の日は何であったか。こんな日に遠くから私達のために足を運び、屯所に差しかけたテントを濡らす大雨の日、また強風にテントも飛ばされそうな風の日にも炊き出しはあった。娘のもらってくる炊き出しに人の心のあたたかさを思い、心の中で手を合せながら涙と共に食べた。原爆の広島から来た炊き出しはハンバーグ、焼ソバ、御飯、いずれもおいしく空襲の跡にも似たこの浜を帰って行く車を娘と共に見送った。おでんの炊き出しもありお弁当など北海道からのホッケ隊は??を配った。ラーメンの出前には家の中で私もNHKのカメラにうつされた。ダニエルカールさんも大きい車で何度も物資を運んで来た。山形弁で私と握手をしひ孫達と写真もとった。
 長い年、空き家にしていた家なので電話もつき難く、六月二十四日にやっとついた。テレビが映ったのは津波後二ヶ月半経ってからだった。その時はじめて津波の映像を見た。「こんなだったのか、」と初めて津波の恐しい形相を見、そのすさまじさ、家を車を船を玩具のように浮かべ奔流の如く遡るさまに、ひたすら逃げて振向いて見ることもなかった津波のむごさを家族、声もなく息をつめて見入つた。
 数多の人々の命を呑み、財を奪い、住む家をなくした巨大津波、あれから半年が過ぎた。あの人も、この人もと津波で逝った人を思い、何を思っても思いの尽きない日夜である。それにしても何であのような大地震に逃げなかったのか、今までここまでは津波が来なかったからとか、発表は何メートルだからとか、又地震だけで終ると思ったなどテレビで人々は語っているけれど、海のある所では大地震即津波と思って避難することが肝要である。
 昨年の二月二十八日、前日のチリ地震による津波警報があった。チリからは二度目である。この時の津波警報は津波の上に「大」の字がついた。今までにない「大津波警報」にどんなに大きな津波がくるだろうと、サイレンの音のけたたましい中をいつものように避難した。昼のうちから高台の家にいたけれど、夜になっても大津波の気配もなかった。それ故人々は津波といってもこの程度かと思ったのではなかろうか。津波の時は高い所に逃げるのがよく、平地は海から遠くても津波に追いつかれる。チリ津波の波の速さを見ている私の実感である。
 三陸沖を震源として十四時四十六分発生した、マグェチュード九・〇の地震による大津波は沿岸各県に甚大な被害を与え、その惨状は筆舌に尽くしがたい。私の住んでいた浜は船越半島の船越湾に面しているが、半島の付根の部分であるから津波の時は、片側の山田湾からも波が寄せせめぎ合う。八・三五メートルの防潮堤は決壊し道辺の老杉は折れ船が幾隻も路上に流れ海がすぐ見える。防潮堤が壊れたため道の一本は不通になっている。私の浜の津波の高さは十八メートルという。
 この津波で私は姉と甥を失った。姉は海近い老健施設で不明となった。この施設では利用者七十四名、死者行方不明と新聞は報じた。久しく会わない知人に会ったことを喜び、満面に笑を浮かべて私に語ったのは二月、姉との最後であった。甥とは停年後ゆっくり語ろうと思っていたが、不明のまま二人共葬儀も終えた。
 避難して五か月住んだ家から九月十一日、浦の浜の仮設住宅に移った。沈下した岸壁に夕潮の満つる道を、田ノ浜を後にした時、なぜか悲しく車の中で涙を流した。
 この半年を顧りみてどの位の人々の温情を受けたであろうか、日本中から海外から支援を受けた。物資に添えられた人の心も有難く感謝である。