大震災と私

大震災と私(2) ―詠い残し書きのこす―  




   東日本大震災     村上 時子


 三月十一日午後二時四十六分、私はテレビを見ていて、東京都知事選に出馬する石原氏の記者会見が、これから始まろうとしていた。その時、会場が大きく揺れ始めた。東日本に地震があり、大震災となって、以後その状況が何日もテレビで放映された。
 私は間接体験だがテレビや新聞を見るたび、声を上げて身を震わせた。押し寄せてくる大津波、多くの人の命を奪い、帰る家のなくなった人たち、並べられた白い柩に花が一輪置かれている所など忘れられない。歩道会員の人たちの身の上も思った。原発の制御が失われ、戦場のような恐怖が今も続いている。
 この大震災の悲惨で圧倒的な現実はいつの日に晴れるのだろう。亡くなった人々を思うと、さぞ辛かっただろうと切なく胸がつまる。
 桜の季節になれば、この東北に、盆がくれば故郷へ、せめてもの魂が還ってきて安らいで欲しいと心から思う。
  人々が営々として築きしもの大津波にて流さ
  れてゆく
  迫りくる津波おそろし車にて逃げゐし人よい
  かになりけん
  震災に会ひし人々避難所に帰る家なく幾夜を
  過ごす
  震災に逝きし入らの白き柩花一輪の置かれて
  並ぶ
  いづこにも桜花さくこの四月津波に逝きし人
  還り来よ





   三月十一日     大方 澄子


 私の住む田村市は福島第一原発より四十粁圏内にあり一部緊急時避難準備区域に入っている。三月十一日、午後二時四十六分に地震のあった時福島県内でも一番被害の大きかったと云われる須賀川市にいた。マグユチュード九、震度七という始めての経験である地震の揺れに私のいた店のテレビや植木鉢がとぶ様に落下し、積まれていた本などが次々に散乱し、揺れやまぬ地震にテーブルの下にうずくまりおさまるのを待ったが長かった。
 店の客の中には通じなくなった携帯電話にしがみつき家族の安否を確めるすべもなく号泣している人もいてパニック状態だった。
 店の前の道路が地割れしていくさまも始めてみた。家を案じ とるものもとりあえず心急いだが道路はいくところも陥没し、道々の家の屋根瓦は軒並みくずれ落ち、民家の人達が呆然と立ちつくしているさまを見つつようやくの思いで帰宅した。私の住む船引(田村地方)は昔からの岩盤で地盤が堅く地震保険の掛金も安いと云われている地で家の倒壊はほとんどなかった。
 すぐにテレビを見たが岩手、宮城、福島の地震と津波の被害の甚大さに息をのんだ。
 しかし福島は次元が違っていた。東京電力発電所の想像を絶する崩壊のさまに恐怖をおぼえた。早急に遠くに避難しなければと一瞬思った。後日報道特集の番組で十一日の深夜、常磐交通、福島交通の他茨城交通にまでバス四十台を要請して原発近隣の地域の人達に警報を出し着のみ着のままで避難させたと云う。パニックにならないためにその時点では公表しなかったと云う。
 記録によると十一日の翌日、午前九時十五分に一号機で格納容器の蒸気放出の作業を開始したが十五時三十六分に一号機が水素爆発をした。十三日に二号機、三号機でベンド作業を開始したが十四日午前十一時○一分に三号機で水素爆発、建屋内の放射線量が高く作業が出来ず、十五日午後六時四号機原子炉建屋で水素爆発とみられる爆発、其の後出火、二号機の圧力抑制プール付近で水素爆発とみられる爆発音がしたと云う。幾度もの水素爆発によりかなりの放射能を排出、それが飛散したと思うが崩壊した原子炉建屋からも日々放射能がでているのではないだろうか。
 日々放射線量を無線にて放送しているが安定している様子に思われる。しかし、いつ何があるかわからないと云う不安はぬぐえない。
 国の事情聴取に東電社員が「原子炉建屋の水素爆発は予想出来なかった」と話しているがこうした証言を事故や被害拡大防止に向けた東電の甘さを示す証拠として注目している。四十年前住民の不安を安全神話につつみこみ誘致した東電の管理のずさんさが今国の根幹を揺るがしている。結末のあわれは筆舌につくしがたい。炉心の冷却作業は試行錯誤のうちに行われたが成功できず炉心溶融(メルトダウン)ののちメルトスルーと云う事態になり作業員も被曝しつつ懸命に努力していると思う。今はあまり報道しなくなったこともあって、疑心暗鬼の日々に疲れは諦念に変ってきている。消防庁の八月十日時点のまとめでは三県の災害による人命救助の時に消防隊員の二百十七人が犠牲になり三十五人が行方不明のままだという。
 どれだけの家族が犠牲になり苦しみを味わっているかはかり知れない。「がんばれ東北」「がんばれ福島」といろいろイベントを催しはげましてくれる情は身に沁みるがこれもひとときの安らぎではないだろうか。
 わが町にも八千三百人の人達が避難してきた。体育館、公民館、福祉センター、廃校になった小学校等々あらゆる公共施設に分散されたが、雪の降る寒い日々、板の間、コンクリートの床の寒い場所での生活に体調をくずす人が多かった。町民がこぞって布団を始め、毛布、衣類などを届け食事はボランティアの人達が炊出しをやり協力を惜しまなかった。
 この五箇月のうちに他県に移る人、親せきに身をよせた人、貸家をかりた人等身のふり方を考えた人もいた様だが現在船引町にも三百六十戸の仮設住宅が完成し八月中には入居した。原発からの同心円の地域以外の場所の線量が高くホットスポットと呼ばれるところが多く、飯館村、川俣町、伊達市等で酪農、農業、果物等々は絶望的である。風評被害に出荷できぬことを悲観し、自ら命を絶った人もおり、初めての経験で知識もなくこの惨事を如何に生きぬいていくか大きな課題が山積している。
 わが町はあぶくま山系が楯となり幸いに線量が低い。原発から距離のある福島市、郡山市などもホットスポットと云われ高濃度の放射能の汚染にさらされ除去作業に苦慮し、通学路の除染、側溝の汚泥の処理に必死であるが子供達を他県に転校させる家庭が続出しているという。子供の被曝を如何にして守れるか将来を案じ、未知の体験にふりまわされる日々の不安に苛立つ親もふえて心のケアなども始められ、ストレステストなどが実施され八月から個人カウンセリングなども行われている。被害の大きさを今更ながら痛感し、その根深さははかり知れない。その根深さがかげをおとしている。さまざまな問題の解決はまだまだ遠いと思う。三月十一日より五箇月のあいだに微震、余震もふくめて地震は五百五十回あったと云うが、相次ぐ台風、地震、雨も風も原発に被害のない事を祈るばかりの日々である。力強く鳴く?の声に癒やされている。
  マグェチュード九にて震度七といふ立ち得ぬ
  揺れにただただ耐ふる
  想定外の原発破壊にをののきて二週間たち終
  息はなし
  百五十回の余震の体感身にしみて臥床にゐて
  も錯覚やまず
  連日の余震におびえ放射能汚染を憂ひひと月
  が過ぐ
  錯綜する日々の報道見通しのつかぬ事態に心
  萎えゆく
  最悪の事態も危惧をされる日々わが生きゐる
  はほとほとつらし
  ペースメーカーの力及ばず病院にゐてこの惨
  状を知らず友逝く
  拒みたる入らも安全神話にて東電誘致をせし
  四十年前
  年内の収束絶望と云ふ記事にいよいよ心萎え
  てゆくなり
  四十粁圏内に住み放射能汚染の数値気にしつ
  つ生く
  計画的避難区域の二次避難三次避難は人ごと
  ならず
  かくまでに過酷なる悲劇過去となる日のある
  らんかわが生のうち
  高濃度の汚染水処理に苦悩する日々の報道見
  るにしのびず
  風評被害に命を絶ちし人の畑キヤベツブロツ
  コリーの花咲き満つる
  鳥は嗚き花々咲けど放射線量心離れず早や五
  箇月か
  憂ふるは数限りなし目に見えぬ放射能汚染の
  山に蝉鳴く
  事故の収拾工程通りに進まざる現実にわが諦
  念は増す
  震源地浜通りにて相つづく地震をおそれ原発
  憂ふ
  圏内に残されし犬飼主を信じておらん生きの
  際まで