大震災と私

大震災と私(1) ―詠い残し書きのこす―  




   堅固なる壁     角田三苗


 三月十一日、その日は横浜市立大学付属病院にいた。癌の放射線治療もあと一日と迫っていた。
  跳び出して振返り見る病院の堅固なる壁地震
  にたわむ
 放射線照射を終えて病院を出ようとしたその時である。十階建てのビルがぐらっと来たかと思うと大きく揺れた。あとは建物全体が揺れ、みしみし、キーキーと悲鳴を上げ始めた。とっさにニュージーランド地震が脳裡をかすめた。コンクリートのがれきの下で死んではたまらない。直ぐに外へ跳び出した。振り返ると何とコンクリートの壁が撓んでいるではないか。そのとき「堅固なる壁」の一首ができたのであった。樹木は台風にいたぶられているように激しく揺れていた。
 全てのバス、電車は止ったらしい。テレビで放映された地震の模擬訓練の帰宅難民の言葉が浮んだ。病院は八景島シーパラダイスから徒歩五分の距離にあり、ここは金沢地先埋立地の中だ。とも角、一端金沢文庫駅まで出てみよう。あとのことはそれからだ。
  わが体ゆらぐと思へば余震にて埋立地の広き
  路面波打つ
  埋立地の路面まのあたり泥噴きて液状化のさ
  ま見つつ恐し
 もう道路の信号は消え、私服警官、ボランティアが出て交通整理をしている。歩いている間にも余震に遭遇した。幅広くできた埋立地の道路は波打っている。病院に来るときは何でもなかった道路には亀裂が入り、泥が噴き出している。液状化の始りである。その現場を恐る恐る通って文庫駅に着いた。駅舎は停電し真っ暗である。電車は動かず、人が集りうろうろ、おろおろしている。中を掻き分けるようにして駅の西口に出た。ここもバス乗り場などに人が集り騒然としている。ここまで来ると幾分心も落着いたようである。
 妻は一人で家にいてどんなに恐ろしく、心細かったであろう。そう思うと一刻も早く家に帰りたい。そのとき肩をたたく人がいた。振返ると妻であった。妻は夕食の買い物に駅周辺のスーパーに来たらしい。妻も私も安堵した。安堵するまもなく妻が言い出した。高三の今年卒業の孫みずきが今日シーパラに友達と遊びに来ているのよ、あの子らどうなったかしら。そう言えば前に妻から聞いた気がする。妻に言われて気がついたが、携帯電話もつながらない。結局、子供じゃないから警備員に誘導されて島で一番高いところのバラ園あたりに避難しているだろうということに道々話しながら帰って来た。途中の公園などには余震を恐れて屯している人が溢れている。わが家が心配になって来た。家の中は目茶苦茶ではないか。買い換えたデジタルテレビは本箱が倒れ双方壊れていないか。……家は大丈夫で、やがて夜の九時半ごろ孫は暗闇のなか友達をつれてわが家にたどり着いた。
  停電の暗闇のなか幾たびの余震におびえ一夜
  を明かす
 その夜は停電で余震のなか恐怖におののきながらまんじりともせず一夜を明かし、孫も友達も帰って行った。





   放射能汚染の恐怖     町田のり子


  チェルノブイリ原発事故に似たるもの祖国に
  起こるこの悲しみは
 私はもし暦が三月十日で止まってくれていたら、どんなに良かっただろうと、最近しきりに考える。地震の被害は、いずれ時が来れば収まるであろうが、放射能の汚染だけはそうはいかない。震災後間もなくして、福島原発の建屋が壊れている映像を見た時のショックといったらなかった。そして今も続く放射能汚染のニュースは悲しみ以外の何ものでもない。
  原発と余震に不安つのる朝祈りし後は平安に
  ゐる
  放射能の雨降る恐怖あればあれ春の日の中畑
  の上掘る
 私に出来る事は祈るだけであった。悲しみの中に又春が巡って来たのは嬉しく、放射能の恐怖はあっても一生懸命畑の上を掘り返していた。これ以上原発事故は起こってもらいたくないと願っていた時、故障の多かった浜岡原発を一時止める決定がなされた事は、何より嬉しかった。
  浜岡の原発止める決定に胸の辿への一つ除か
  る
 日本は戦時下の二回の原爆投下と今回の福島原発で三回もの放射能汚染を強いられた。
 何故に日本ばかりこんな悲劇に見舞れるのかと天を恨みたくもなるが、私達日本人には何かの使命が与えられているのではないか、最近そう思うようになった。安価であるにしても、危険極りない核エネルギーに変わる平和エネルギーを作り出す役割りを、日本人は担わされているのかもしれない。ここまで考えた時やっと心の中に希望が芽生えたような気がした。
  絶望の中に隠るる希望なり神を信じて探れと
  示すか





  故郷平潟の被害     渡邊一宇


 三月十一日(金)午後二時四十六分ころ、宮城県三陸沖を震源とする地震と津波は、佐藤佐太郎の幼時住んでいた平潟町をも襲いました。津波の高さは八・ニメートル、地震は震度六弱。
 チリ地震(一九六〇年)五月の二〜四倍であったとの事。平潟の東の浜の主に漁師の人達が住む所は、殊に被害がひどく波にのまれた人、流されながらもかろうじて助かった人、行方不明の人達が居ます。
 一  いり海を
    かこむ緑の
    山と山
    しずかに清い水のこと
    いつの日もいつの日も
    心にもって
    われらは学ぶ(二、三略)
 佐藤佐太郎が故郷の平潟をどんなに愛されていたかは、佐太郎作詞の平潟小学校の校歌からよくわかります。
 なお、秋葉四郎編集長から平潟小学校に贈っていただいた、『佐藤佐太郎全歌集』(先生の書き込み有り)、『佐藤佐太郎百首』、『星宿』、『佐藤佐太郎書画名品集』、『歌人佐藤佐太郎』、「佐藤佐太郎等の写真」は、この地震にも支障なく平潟小学校に保存されている筈です。
 現在平潟の住民は、M9の大地震時に発生した、福島の原発爆発事故の被曝中でもあります。