歩道叢書(平成 その1)

    歩道叢書(平成 その一) 

  
濤の音(昭和六十三年)  由谷一郎
うごきゐし奥歯を抜きてかすかなる齟齬口中に残る幾日か
ぎしぎしも(あかざ)もたけく茂りゐて日々歩む岸やうやく暑し
牀上に夜ふけ静座しゐる一人われより壮き人にてあはれ
幾たびも手をあげたまふ常の日もかくしたまへり親しみの手ぞ
島なごみをれども厳し列なれる裂線噴火の(あと)のしづまり


  自解百歌選板宮清治集(昭和六十三年)
わが庭にひと夜積りし雪の厚さ悲劇を超えし心のごとし
少女期の妻たとふれば果物の内にこもれる褐色の(たね)
空暗き吹雪の中に沈む日の蠟燭の火のごとくたゆたふ
雪どけのけふかがやきし木原には(らん)()に似つつ沈む日朱し
さるすべり咲く残暑の日ばうばうと髪(こは)ばりて午睡より覚む


  島 門(平成元年)  桜田安子
瀬戸貝をとりゐし舟ら起き潮の騒ぎそめたる瀬戸を去りゆく
幕の如吹雪の移る向うにて夕日浴びゐる砂採取船
蜜柑の木切りつつをれば幾度も移る吹雪の峡に渦巻く
癒ゆるとも癒えぬともなく茫々と梅雨ふけてゆく日々の寂しさ
庭掃除してゐる嫁を縁に出で見てをり不甲斐なくなりし吾


 
 満 潮(平成元年)  福谷美那子
ありありとわが亡き父を語るひと聞きゐるわれの思ひを知らず
海よりの夕日及べる庭先におしろいの花低く輝く
収穫のあとよりどなき砂畑に立ちゐて清き風に吹かるる
満潮の空低き海夕焼を映して広くさざ波の立つ
乳房の重みにやせて見ゆる牛身じろがず立つ眼やさしく


  
谷地田(平成元年)  山口静雄
代掻く人苗植うる人それぞれに妻を伴ふ農のさみしさ
一斉に雑木々芽ぶく峡深く入りて谷地田の畦を塗り替ふ
田を植うる最中に逝きし父思ひこの一夏の短く終る
山陰の田に代打てば吹く風に散り来る竹の葉数限りなし
雨止みし畑土の上空気すみ冬の夕べのくれなゐわたる


 
 北上川(平成元年)  小野寺富美
過去のこと母いひしゆゑわが心ゆらぎて雪のきしむ道ゆく
幼子と七夕笹を飾りをりよみがへる貧しく紙売りし頃
スコールの過ぎて鮮やけき草むらに島の野生の鶏あるく
硝子戸に映れる老に驚きて姿勢を正しわれ歩みゆく
ふるさとの北上川にわれは来てまぶしく光る濁流を見る


 
 残 寿(平成元年)  片岡文重
議事堂をめぐる雨風のはげしきに示威をつづくる学徒らのこゑ
一病を(かせ)とし無為に老いゆくか志わが断ち難くして
随意なる時を自ら拘束し生くる残寿の日々早くゆく
衰へし師の許を去るこの友をとどむる力われになかりし
ゆくりなく見上ぐる空の流れ雲縁ひかりつつ冬暖かし


 
 彩 霞(平成元年)  和田喜久子
冷えきりし額を
を撫でて哭く汝が待ち待ちし父と母とは
母と子が朝夕窓に見し山かイルムケツプの斑雪かなしも
身につけゐし幾つもの管外されて苦しみ去りし永久の静もり
元日をひと日籠れる老二人寂しさはまた浄きに似たり
風寒き田に舞ひおりし鶴一羽脚高く立ち群に近づく


  
一人旅(昭和六十四年)  上鶴かつよ
表札に遠く住む子の名も記し独り暮らしの十年が過ぐ
日除幕はづせば空の夕焼けを映して店の硝子かがやく
部屋の灯をつけず臥しをり病室に夕ぐれのいろ柔らかきとき
みいのちの過ぎて百日先生を偲ぶ蛇崩冬ばらの咲く
看護婦が点滴受けて半睡のわれの意識ををりをりのぞく


  
曠 日(平成元年)  室積純夫
わが生のつたなき常を革むる帰依すべきもの躰をめぐれ
わが生の理路なりがたく行為なくあぎとふ浮魚の如き悲しみ
満天星の葉群の天に冬の日の微粒子けぶるあたたかき午
彼の森に子のまぼろしの顕つまでにこころ浄く且つ弱し病むとき
空駆ける流星群の星のごとまぎれてかたちなきわれの生


 
 前宵祭(昭和六十三年)  黒田淑子
眠るなき夫夜すがら看取りつつ切れ切れの夢わが父となる
深淵に立ちたる如き日の多き一年思ひ冬至を送る
幕をひく予告の如き風出でて青き空消え雪降り来たる
この川の向うになりし道の上歳月のなき鴉が歩む
わがゆきて会ひゐる女囚の一人に姓変りしに気づきてあはれ


  
浅 峡(平成元年)  小鹿野富士雄
石に置く冬木の影よ真実は常に避け難き悲しみをもつ
掃きて焚く庭の落葉もなくなりて清く寂しく冬ふけわたる
ふと思ふ大き宇宙の中にして手術待つわが一つの命
世事に遠く老いて籠れば峡の家に冬遅々として枇杷の花咲く
濡るるほど降らず過ぎたる時雨にて白良の浜の白の虚しさ


 
 堆 紅(昭和六十三年)  杉山太郎
灯の下に彫刻刃を持つ幾日過去をおもはず未来をいはず
舞ふ塵を怖れつつ塗る朱うるしの朱あざやけき夕ぐれのとき
眠れねばやむなく座る午前三時塗部屋の床冷えて塵なし
わが膚に午後の日ざしのおよぶころ梅のかすけき蕊を彩る
堆紅(ついこう)のうるしを研ぎて老いし目の眼底おもくひるすぎねむる


 
 燃 焼(平成元年)  山上次郎
自覚なく見えざる病つきとめし医学を神のごとくおそるる
音もなく落つる点滴を見つつをりいかなる運命の待つにかあらん
雪しろき稜線はるか石鎚の見ゆる病牀六尺の天
遠くにて呼ぶと思ひしは麻酔にて眠れるわれを呼ぶ妻の声
心臓の動きが目の前のモニターに写るを見つつ安らぎてゆく


 
 火星蝕(昭和六十二年)  佐保田芳訓
「本当だ」と台詞一言いふのみのわが子学芸会の練習しゐる
六万の人に見しむるカーテンを一週間かけ縫ふ日々楽し
共働の妻とわれとのある時は疲労寄せ合ふごとき晩餐
火星蝕の月ひえびえと雪晴の空に小さくなりて輝く
高架路の閉鎖されしを迂回して雪の帰路うつつに寂し


 
 夏 椿(昭和六十二年)  伊藤幸子
かの日より年距つれば互みなる立場替りしとわが姑の言ふ
病院の庭にいくつも猫をりて姉の病篤き夜半に争ふ
一航海に三月かかりし夫の船潮錆しるく見えて寂しも
自ら集めし写楽の資料も手につかず胆病む父が日すがら眠る


 
 芹の花(平成元年)  松山益枝
谷埋め樹海のつづく彼方にて光れる小さき湖ふたつ
夏の日のかたぶきし池睡蓮のいまだ閉ぢざる花の明るさ
癒ゆるなき夫を看とる娘にて日々すがすがと装ふあはれ
夫病みて獲るものもなきわが畑アスパラガスの黄の花の散る
亡き父にひたすら服しし過去(すぎゆき)をなつかしみ言ふ夫の老いて


 
 基地の音(平成元年)  額賀幹文
あけくれの基地の音にも馴れゆきて風暖き田に畦を塗る
ジエツト機の響きの下に黙しつつ施肥を続くる独り畑に
午後五時の町のチヤイムの流れくる妻と葉煙草かく山畑に
平穏の祈りにも似てみづうみも村落もいまながき夕映
葉たばこの収穫終へて幹のみの整然と立ち並ぶ丘畑


 
 石 蕗(平成二年)  空喜志子
われと過ごす幼の一日長からん病む母の名を呼ぶこともなく
幼子を二人残して逝きし娘の安らぐ体柩にをさむ
降る雨にところ変へつつ山崩の倒木を焼く夕暮るるまで
務め終へ車庫に入りたる葬儀車を洗ひ清むる人の静けし
何時の日か子の住む街に行くわれと思ひつつ柚子の苗木を植うる


  
暁の森(平成二年)  谷分道長
(しやく)にふきいづる脂みがきつつ新しき年のみまつりを待つ
ひえびえと霧のなづさふ(いみ)火屋(びや)の屋根より朝の煙直ぐたつ
現身に憂ひのありて(うま)()えず今朝開けゐる御門の重し
両の足けだるく思ひ今朝われは潔斎(けつさい)の部屋に青竹を踏む
かすかなる風にさへしきり樫の実の落つる音のす暁の森に


 
 あしはら(平成二年)  氷上待子
帰り来て葦の葉ずれを背戸に聞くわが喜びのかくささやけし
高窓に入り日あかるき一時やわが影淡く厨にうごく
旅を来て朝の散歩に従へば父の影ながし海の渚に  
(父 南原繁)
焚口の燠の消えゆく如くにもまな先くらみ逝きしとおもふ
一夏を暁起きにはげみたる夫はツアラトウストラを訳し終りぬ


 
 冬 潮(平成二年)  早川政子
あらためて互に言はず病む時は子のなきことの安けさに居る
屋上に夜の街みれば鮮らしき明りを持ちて列車入りくる
埋葬にわれら乱しし墓原の砂に音なく竹の葉がちる
購ひし家を閉ざして移りゆく転任なれば抗ひがたく
風吹きて水仙の咲く墓原は冬潮の音空にきこゆる


 
 木枯ののち(平成二年)  板宮清治
息づまるまで寒ければ雪明りのなか目前の冬木々ひびく
月光に路上の雪の凍る夜帰り来て刺立つごときわが髪
比較優位なき日本稲作農民が首振りて葦の間を帰る
あふむけにゐる物体はこの部屋にひと夜雷雨を聞きしわが顔
歯科医師にのぞかれてゐる雪の日の口腔五十一歳の生


 
 浜 空(平成元年)  武田房子
傾きし日の白き空残年をおもふなど梅雨の一日長し
哀歓の表情淡くなりし兄うつしみ次第に衰ふるらし
癒えそめし風邪の体の溶くるごと眠りもよほす秋の日向に
畳職に六人の子を育てたる義兄はみじかく病みて逝きたり
温かきものに包まるる感じにて朝霧ふかくわが家をおほふ


  
朴の花(平成元年)  八重嶋勲
近山も遠山並もやはらかに見ゆるは若葉育ちゐるため
満蒙のはてに入りゆく日を送る父も浴みたる赤き光よ
しづまれる槻の大樹と思ひしが葉群の中にあそぶ風あり
洪水の水にひとたびしづみたる稲穂分けつつ畦草を刈る
夏草のたけしを刈れば水はやき北上川がきらめきて見ゆ


 
 滝 桜(平成元年)  大方一義
老いづきてやうやく鈍きわが前に踊るフラダンサー四肢の豊けし
苦しめる死前呼吸を診てをれど神を頼まん心ともなし
夜の空に雲のごとくに浮きをらん桜いまだに行きてわが見ず
午すぎの往診の道うちつけに稲架押しわけて人の出でくる
月蝕の光静まる夜の更けの桜は白し咲き定まりて


  極 光(平成元年)  秋葉四郎
さまざまの人の思惑を嫌ひつつわれさへ未来単純ならず
病む人の
に流れてゐる泪獅子のこころとなりてわが拭く
先生を悼みこもれば終戦の日に似てまぶし庭の木草ら
湧き上りあるいは沈みオーロラの赤光緑光闇に音なし
鎮まりてゐたるオーロラあるときは爆発に似て天頂にみつ


  海 霧(平成二年)  藤原敬二
北流のときとなりゐて鼻栗の潮せめぐ海いたく傾く
いえがたき病と知れば涙もろくなりて今年のつくしを食ぶる
眠るとも覚むるともなく病み伏して潮騒の音のきこゆる月夜
風強く晴天脈搏七十五通信一つ終日臥床
山火事の焰の色を帯びし雨かがやきにつつわが村暮るる


  余 光(平成2年)  牛窪又一
わが命ありて明けたる今日の日の幸さながらに街に日の照る
現し世に生くるはあはれ病む身さへときに利潤の対象となる
病棟の屋上に来れば浅き溝に冷房排水せせらぎてゐる
冬に入る秩父の小鹿野山すその清き流れに漬菜を洗ふ
教職に四十八年尽くししを亡き父母も(よみ)したまふや


  草の香(平成二年)  時国和子
葦群をへだてて見ゆる水路にてひとところ水の光騒がし
病める日もわが生きて居し喜びと思ひて眠る雨の降る夜
十五年病みて漸く従順に病によりて生くるを思ふ
落日の光およびて大根の花しづかなる畑道を行く
庭隅に茂りし草を今朝も抜き草の香まとひ老父の居る


  老 杉(平成二年)  野田秀子
群れたちて空を限れる老杉の幹白きまで沒日に光る
厠よごすは片身萎えたる夫のみと思ひ過しし長年哀れ
桜貝ほどの舌出し眠りをり悉く歯の失せし老い猫
九十五銭の裁縫教科書繙きし大正十四年はるかとなりぬ
わが性の誇り得るもの権力におもねることのなく過ぎし日々


  引揚者のうた(平成二年)  伊野とく
南鮮に向きて歩める両足のくたびれ果てて一日暮れたり
病室にさす月光のひそけくて癒え初めし夫の顔を照らせり
飢に泣くわが子に乳を下されし友は授乳の感触を言ふ
夏風邪にこもる梅雨の日中風の夫も臥しゐて侘しきにほひ
わが夫の命奪ひし裏山の杉の花粉が屋根越えて飛ぶ


  鉄の香(平成二年)  上田耕司
工場の土間にさす日に白々とうごく埃は鉄の香をもつ
商談のいまだ成らねばわだかまる不安の中にひと日過ぎゐつ
樫の実のあまた落ちゐる墓地の道たとへば冬のしづけさを来し
単純化といふ比喩に似て剪定を終へたる木々らさはやかに立つ
義歯入れぬままに過ぎゐてもの忘れせしごと休日の一日楽し


  朧 夜(平成二年)  大野紅花
むらさきの花大根に差す月のかかるひかりを朧夜といふ
雨に咲くくれなゐ深き紅しだれかがよふものは光を待たず
海女のねがひきくとふ小さき潮仏潮にたゆたふ古き代よりぞ
湖の上雪きざしつつ雪靄は網の如くに湖面をはしる
うつし身を憂ふるのみの大寒の日々一善を果たしめたまへ


  銀杏の実(平成二年)  八木文子
今しがた雪ふりて白き庭の上日差しおよべば春の明るさ
わが庭に入り来て銀杏拾ふ人やうやく絶えて秋深みゆく
今果てし姉の亡骸のせてゆく道に晩夏の雨ふりしきる
人に知れず報酬もなく協会に働く一日こころ安けし
わが生の一つの証し二十五年教会のめぐり朝々掃きし