歩道叢書(昭和50年代 その2)

    歩道叢書(昭和五十年代 その二) 

 
 梅 畑(昭和五十一年)  中島ゆう子
めぐり来る春のきざしに心なぐ麦踏む土のやはらかくして
穂に出でし薄に夕光しづかなりこの山峽を去りてかゆかむ
雨後の重なる山に巻く霧を見れば過ぎたる年月恋し
夫あれば争ふこともありなむと思へど恋し一人日向に
衰へを老いと思ひてあきらめむ馬鈴薯畑は花白く咲く


  
紀淡海峡(昭和五十二年)  田村茂子
潮のながれ速くなりたる海峡のはてに煙りて島夕暮るる
雨くらき紀淡海峡の遠きあたり鉱石船のゆるやかにくる
往診にて流感に感染したる夫たあいなく眠る日の暮るるまで
昏睡のままに患者を死なしめて夜明とおもふ月の光は
幾種類の薬わたすとき老いし患者あはれ喜びの表情をする


  
夜の渚(昭和五十二年)  篠田和代
約束の時間すぐれど来ぬ汝に救はるる如く吾は立ち去る
貰ひたる鯖をひらけば腹の中より小鰯いでて幼おどろく
婚礼の荷物積まれし夕庭に風に吹かれて梨の花散る
妻ならぬ吾みづからを思ひつつ汝の背中の汗ふきゐたり
点滴の終りて深くねむりゐる母のかたはらに採点をする


  
朱 果(昭和五十二年)  菅原峻
夕ぐれの豌豆の畑さわがしく雀らをりぬ砂をとばして
砂丘の終るところに水浅き流れをみれば黄の砂しづむ
洪水のとき飼豚のとび越えし柵をのちにもとび越ゆるとぞ
改札の鋏せはしく動かせる帽子より髪あふるる少年
年老いていづくにも安くをりがたき日々よわが母また妻の母


  
榧の実(昭和五十二年)  川村源四郎
初めてのボーナスを得て祖父われに洋傘一本買ひて来りぬ
冬雨のしぐるる木群とほり来て九品の寺の鐘の響ける
ゆく春の海くもりつつ岩山の崖に馬酔木の花白く咲く
潮風の吹く丘の上の温室に月下美人あまた今咲かんとす
吾妻橋渡り来たればなつかしきホツプのにほふ湯気たちこむる


  
幻 塵(昭和五十二年)  太秦由美子
夕さればたんぽぽの群花とざしそこにやさしき風吹きかよふ
めぐまれし少女期失意の青年期ただ一つなる過去となりゆく
日の匂ふ夜着に寝るとき悲しみはなべて忘るる一夜にてあれ
やうやくに得し諦念の乱れざれ茄子の咲きつぐ五月雨の日々
うつしみは涙わくまで仰ぎゐぬ木造十一面千手観音坐像


  
積 日(昭和五十二年)  加藤照
しらじらと石原広きリモン川うねる流に女水を浴ぶ
舟舫ふ海のはるかにバターン岬悲喜のかなたに夕ぐれてゆく
船にして亡き子おもへばまのあたり濤よりいでてコレヒドール島見ゆ
静けさは土に沈むと思ふまで白き空より直ぐに雪降る
風に耐ふるガラスの音の限界とおもひし時にその風変る


  
坂 道(昭和五十三年)  石川栄一郎
印象の残る顔立ち若々し子らある身とは露知らずして
いひ憎きことは他人にいはしめて会場にゐるひとりの策士
散髪を終へきて白髪目立たずと妻笑み云へば鏡をのぞく
這ひ廻るをさな危ぶみ猿のごと腰に紐つけ娘は炊事する
うま酒に倒れて三年たちなほり悔ひなしと友はまた酒を飲む


  
歳 月(昭和五十三年)  斎藤尚子
重圧により沁み出づる水のごと悲しきものを()べてきたりし
実体は闇にしづみてコンビナートの灯夜空に層なしてゐる
時の経過ありといへども相逢ひて距つるものは歳月ならず
わが死なば意味なきものと引揚の古き鞄を今日は捨てたる
四十歳になりて学位を得し娘学位記見せに一家にて来る


  
黄 塵(昭和五十三年)  四元仰
萱負ひて海に傾く道くだる波しろじろと輝く午後を
紙屑を庭に燃やせばきほひつつ焔みじかし冬日のなかに
思春期は貧しく過ぎて母の煮るところてんぐさ雨夜に匂ふ
結婚を待つわがこころ言ひがたく闇充ちてゐる沼に沿ひ来つ
新妻として伴へばこゑ細し落葉松林のなかにわれを呼ぶ


  
百日紅(昭和五十三年)  得津紀美子
舞鶴市溝尻町の片隅に夫のまにまに幸ありし日よ
かくの如過ぎゆく日々か青く透くX線写真を水よりあぐる
しづかなる冬日とどきて滝壺のめぐりに白き氷かがやく
三人のはらからあれば三軒より蜜柑もらひて老母かへる
母逝きて寂しき父があるときは吾に向ひて母の名を呼ぶ


  
工場音(昭和五十三年)  上田耕司
赤き灯のともるを見ればかすかなる音して操行クレーン動く
自動装置の前に佇む人のありプレス工場のとどろきの中
朝早くわが来てめぐる工場にこころさびしき鉄の香こもる
やすらぎに似し思ひあり長期スト終りて朝より電車くる音
しづかなる音して動く旋盤のかたへ背高き少年工たつ


  
青 響(昭和五十三年)  八重嶋勲
北上の川面をくだる鴨の群あるとき水の流れより速し
春の雨ビニールハウスをひと日打つ音の中にて種籾おろす
棟上げの酒宴果つれば残りたる家族ら寄りて互みに祝ふ
伊豆沼の蓮のしげりの合間にはあたたかき波たてて鯉ゐる
山なかの貯水池みたす結氷のすがしきうへに樹の影ながし


  
濤 煙(昭和五十三年)  田野陽
廃船に人ゐてゆふべの靄のなか鉄切断の火花を落す
勤めより遅く帰りし妹が霧の香のする服を脱ぎをり
濤のけむり空にあげつつ夕づきてこの絶えまなき海の潮鳴り
歳月に老ゆることなき日のひかり差しをり冬の草々のうへ
吾が前の木々吹き過ぐる一片の風とおもへば全山ひびく


  
風 紋(昭和五十三年)  福士修二
わが鳴らす汽笛はいかに響きゐん夕霧ふかきなかをゆきつつ
雪のうへに渦巻く風紋のありありと残りて庭は夕暮れにけり
窓外の雪道通ふ人見えて吾よりもみな高きを歩む
無法地帯の如き職場を逃れんと出で来し道に雪乱れ降る
みづからの光持つ如き春の雨杉の木立に直接に降る


  
黄水仙(昭和五十三年)  森松千枝子
わが植ゑし水仙は黄にふくらみぬ忌明むかへし夫の墓辺に
手術の日待つ病室に聞こえくるラジオの歌唱遠世のごとし
滋徳院千室歌仙大姉はわが戒名にて目のあたり彼岸の見ゆるがごとし
腫瘍にて食道つひに塞がれしわが日々如何になりゆくならん
子無きゆゑ永代供養して置けと姉のよこしし手紙見て泣く


  
笛吹川(昭和五十三年)  長坂梗
かの光る水も昏れんと玻璃窓に頬を押しつくるごとくしてをり
朴の木とならん未来を持てるもの朴の朱実を三つぶ貰ひぬ
あるはずみの身ぬちたゆたふ思ひより続く写象に泰山木の花
いたく心萎えて臥すものか西に日が廻れば西の雨戸を閉づる
かかる象を安息として冬の蠅あそぶ日向に膝抱きてゐる


  
鉄 路(昭和五十四年)  半沢裕
鉄骨の上に人ゐて溶接の()を立つ刹那刹那のひびき
唐突に鉄の扉が揺れながら夜の地震に貨車が鳴り合ふ
杭打機が杭を打つたび土深く衝撃の音沈めて響く
日に灼けし土余熱あるかかる夜を桃の実青くふくらみぬべし
ラツセル車に見つつ過ぎゆくあかあかと火葬の炎ゆらぎゐる森


  
赤 雲(昭和五十四年)  平林登代
あかき雲ひろがるひととき種牡蠣を貨車よりおろす人らもあかし
蓮の葉に灯を乗せ流す数十のあかりに入海ひととき明し
急に来し強風なれば海に出て夫助けんと呼ぶ声ふるふ
父が手に作りし軸をかけし居間広くあきゐて人はかへらず
荒海の潮風うけし竹むらは葉が落ちはてて竹軽くたつ


  
峽 影(昭和五十四年)  大原良夫
おのづから崖に滲める水あるらし氷壁光る峽の夕道
峽山の一つ小さき石山の石切る音は菜の花の上
泥の持つ重き音にて畦叩く音絶えまなく谷に谺す
反省といふには淡き思惟の一つ流さるる如く生きてきたりき
夕焼けの烈しく滲む雪原の炎のごとき中の鴉ら


  
白 夜(昭和五十四年)  佐藤志満
道のべによすがなく立つ老いし驢馬用なくなりて捨てられしもの
夜もすがら白き岬は北極の霧に吹かれて苔の花さく
眼鏡かけることを忘れて一日をり眼も老いゆきてどうでもよきか
散る花のうへにまた散る山茶花のいまだ暮れざる夕ぐれの時
貧しさにしひたげられし人の顔母に抱かるる幼児さへもつ


  
荒 磯(昭和五十四年)  今方康吉
潮騒の近く聞こゆる磯の山石蕗群れて黄の花匂ふ
病み病みて永き年月経し妻の言ひがたかりし心を思ふ
筵旗かかげ迫りし内灘の試射場跡に千鳥はあそぶ
降る雪に寒さを怖れ穴ごもる獣のごとく春待つ吾か
漁師等の鰹網起す掛声は能登の宇出津の海わたりくる


  
梨の花(昭和五十四年)  片山新一郎
水死せる人の腕より秒針のまだ動きゐる時計をはづす
溺死せる子の摘みし花濠の面に浮きてみづから弔ふごとし
人逝くをなげく家族といくばくか異る悔を医師われもてり
人癒えて退院しゆく門先に患者ら寄りて名残を惜しむ
くれなゐの花満ちみつる梅ひと木おのづから日に酔ふごとく咲く


  
氷 海(昭和五十四年)  松生一哲
流氷のとざせる海にをりをりにたつ地吹雪の音をさびしむ
日のいづるさきがけとして青き靄はれし氷海の上の明るさ
重症の患者死なしめ悲しとも安しともなくしばらく眠る
常まとふわれの寂しさ自らが病みて手術をやめし時より
その子らに患者が告げる臨終の言葉を吾もつつしみて聞く


  
沼のほとり(昭和五十四年)  根岸重之
霜下りて俄にいたみゆく桑の葉が風のなき昼散りやまず
吾が生れし村は寂しく幼き日の如く枯草が道に舞ひゐる
暇あれば沼を見に来てこの村に老いゆかん吾が生も儚し
沼浅きところ濁りて風荒るる一日の果ての寒き夕日よ
ひつそりと妻に寄り添ふ如くにて生きゐる吾も思へばあはれ


  
天 眼(昭和五十四年)  佐藤佐太郎
収めたる冬野をみつつ行くゆふべひろき曇に天眼移る
衰へしわが聞くゆゑに寂しきか葦の林にかよふ川音
わが顔に夜空の星のごときもの老人斑を悲しまず見よ
みづからの顔を幻に見ることもありて臥床に眠をぞ待つ
島あれば島にむかひて寄る波の常わたなかに見ゆる寂しさ


  
榛の花(昭和五十四年)  新居田夫左武
病む鯉に薬溶きやるこの宵の池明るみて遠き稲妻
夜のフエリー着きて次々に出づる車連携のなき灯は街に去る
榛の花咲く岬山に潮流の光さむざむと及ぶゆふぐれ
庭池に夜半にとどける月光に寒く影たち鯉は眠れる
灯を暗くしたる五階の窓ひとつ死と闘ひて君は居るべし


  
白 光(昭和五十四年)  牛窪又一
庭ひろく干せる陸稲の籾の上に欅の落葉屋根を越え来る
縁先に雨戸を囲ひ餅搗けば淡雪かろく臼に舞ひ込む
昨夜焼けし隣家の庭の植込に色美しく桃の花咲く
四十二年の勤めの疲れ癒ゆるごと初夏の眠りの目ざめ安けし
病む吾の眼に薬さす妻の手のあたたかさ吾の心支ふる


  
渚 火(昭和五十四年)  大田いき子
諍ひし夫と夜市に出できしが心すなほになりつつ歩む
手際よくコンタクトレンズ入るる娘いつよりか大きくなりし掌
病みつぎて髪を短く切りし姑みじかきままに逝きたるあはれ
百枚に余る離職表書きつぎぬ夏の休漁期に入りし幾日か
隠すほどにあらねど夫に云はざりき靄こめて合歓の紅花おぼろ


  
晨 花(昭和五十四年)  大方一義
診療室の灯火をめぐり飛ぶやんま吾も患者も共に見上ぐる
夜半深く着きたる家にみまかりし祖母の注射の痕痛々し
燃えさかる火事をすべなみ見る吾等妻は素足に雪踏みて立つ
噴水のしぶき落ち散る池の面のゆらぐ下にて魚等もゆらぐ
曇深き春のひすがら吹き荒るる風に揺れゐる木々の芽親し


  
平 潟(昭和五十五年)  上原照男
胎嚢に幾匹もゐる魚の子の黒き目が見ゆ透きとほりつつ
溶岩は一つの丘を覆ひつつ海になだれてひたすら赤し
昼すぎて降り来し雪は浅谷に集まるごとく暗くなりたり
仕切場は床ひろくして弾力のなく氷りたる魚がならぶ
数珠玉の実は陶のごと灰白になりつつ水辺寒くなりたり


  
沖 雲(昭和五十四年発行)  由谷一郎
五六羽の単位にて島に帰りゆく鵜がみゆ晴れし冬海のうへ
幾日か花展のために励みゐし妻はかなさをまとひて眠る
思ひゐてつひに寂しき父のなきのち父のこと言ひ出でぬ母
深谿に見えゐてさびし傾きてかがやく氷河末端の青
茫々と過ぎし百日暑き日に顔を(をか)せる麻痺癒えがたく


  
磯 岡(昭和五十五年)  藤井寅太郎
年々のわがならひにてひそやかにミシン踏みつつ年改まる
ミシン針に勘にて糸を通すまでわが縫ひ慣れて老いつつぞゐる
海の水汲みて米とぐふなばたの少年もあかき夕光のなか
ほのあかく背骨の透きて見ゆるまで浜の辺に干す(かれひ)が乾く
海わたりくる夕風に磯岡は冷えてつはぶきの花ひかりあり


  
芝沼美重歌集(昭和五十五年)  芝沼美重
雪解けに赤く濡れたる芝生あり一日曇りし園昏れんとす
押されつつ電車にゐたり日すがらの雨にほとびし靴たのめなく
卒然と人は来りて蝦のごと屈まる吾を褥上に見ん
音絶えて机に項垂れたるは働きていとまなき妻の眠れる
友の肩につかまりて涙とどまらぬ夢なりしかど自らあはれ


  
冬 篁(昭和五十五年)  小林林之助
一羽とべば従ふ如くとびたちて鴨の群一つ位置を移せり
老いて医に頼れる人をみにくしと思ひ思ひつつ吾も老いゆく
使用人つぎつぎやめて残年のわが生きざまの定まる如し
吾が父の母をみとるはやうやくにいたりし平安の姿の如し
衰へてちさくなりたる口中に飯の溶くるを母は待つらし


  
岩木川(昭和五十五年)  成田連治
十三潟を訪はんとわたる乾橋師の賞で給ふ秋岩木川
雪のため折れし林檎木流れゆく春の川面を浮き沈みして
夜仕事を終へ来し雪路に月照りて馬橇ゆきし跡光りてつづく
なりはひを継ぐ子ある故満ち足りて冷たき水に写真洗ひをり
幹廻り四米の最古の樹今年も四千のりんごが実る


  
風 樹(昭和五十五年)  加藤貞子
二十分歩めば秋の海ありと仕事の合ひ間合ひ間に思ふ
悲しみを背に負ふ如く母の亡きみどり児をわが老の背に負ふ
体温と電気毛布と折り合はぬ如く眠れぬ夜更けてゆく
吹かれつつ曲りて凍る垂氷などつづく寒気も悲しみのうち
あり余る程実のなるを当然として無花果の木をいたはらず


  
邂 逅(昭和五十五年)  丸山信子
難聴のわがかなしみはここに尽く臨終の母の言葉は何ぞ
くるしみて病みけん君に逢はざればあはれさやけきおもかげのたつ
ひつそりと身じまひをする感じにて老いそめしわれ保険に入る
幼木はをさなきままにもみぢして路傍にあつき日を浴みてゐつ
傷つけず負はず生ききて累積の日日ののち互みに我等老いそむ


  
三 椏(昭和五十五年)  十時マツヨ
夕つ日に蕾かがやく三椏に正月三日の雪乱れ降る
千七百年たちたる種子に咲きしといふつゆくさのはな藍淡々し
黒之瀬戸にきこゆる音は夕潮の退きはじめしか風のごと寂し
二日一夜命終の母を看とり得しわがかすかなる慰めとせん
朝の日に光る泥の香も親しくて峡の代田に黄の籾沈む


  
青野山(昭和五十五年)  竹内静雄
はればれと青野の山の立つあした米配るわれの心ははずむ
高血圧の吾と低血圧を病む妻とかたみに飲みぬ食後のくすり
ひそかなる吾が家に寄りて病む妻に声かけ米の配達にゆく
空高く晴れたるあした杉森に音さはやかに人枝をうつ
柚子の花咲く山畑のしづかさや遠ざかる汽車の汽笛がひびく


  
飛 砂(昭和五十五年)  市田渡
砂闇となりし砂丘は限りなき飛砂のするどき音の連続
赤々と篝火たきて暁暗の鰤場へ向ふ船のつらなり
雪風にかがりの焔あふられて火の粉はなびく暗き海の上
五十日の雪晴れしかばビルヂング日ざしを弾き街よみがへる
若竹の皮剥離して竹群の空気かすかに動くときの間


 
 残 照(昭和五十五年)  山内悠記子
告ぐるなきこの哀しみの遙けくを耐へつつありて時にたかまる
アパートの葬儀にあれば亡き人の居間に敷かれし荒ござを踏む
向ひなる狭きアパートに生れし児は立つ程になりて常窓に倚る
恃めなきいのちを倶に生きし故清しくもあり戦ひの日は
四階の窓より見れば暗がりに沈むごと行く夜半の自転車


  
層 雪(昭和五十五年)  菅原照子
電灯の光のとどく夜の庭に籾積まれゆく埃たちつつ
山頂にちかき道路の両側は層なせる雪うるほひもたず
端木(はぎ)燃し暖とる雪の朝市をめぐりめぐりて苺あがなふ
てらてらと雪の凍てつく葡萄畑剪定する人ら夕日にうごく
様々のことありし半生と思ひつつ雪より出づる墓原をゆく


 
 叢 島(昭和五十五年)  香川末光
さしあたり貧困のとき過ぎたりと消化する日々憂に似たり
火焔負ふ仏像の前に近づきてわれのさびしき心はゆらぐ
枝しなふばかりに花の咲き満ちて今年また蜜柑の憂はじまる
苦を負へる象徴のごとわが老いし眉のあひだにある疣老いず
ひとときに遠く見おろす叢島の明暗は空の冬雲にあり


  
樟 森(昭和五十五年発行)  平井寛
自らの家なく移りつつ住めばいそいそと老いし母もしたがふ
樟若葉すがしみ見ればあはれあはれ繖形花序の無数の微粒
飛行機に見れば雪谷に隣りつつ雪なき谷のありて人棲む
いつよりかわが得たる知慧解決を意識の奥にゆだねて眠る
そのひと生不幸に耐へて我儘をわづかに言ひき昏睡の前


  
天 球(昭和五十五年)  箕輪敏行
茫々と風は星座を過ぎゆける観測四十年の日々は過ぎたり
黄道につぎつぎ昇り惑星は位置定めつつ直列に並ぶ
変光星極大となりて輝けりやがて宇宙の果に消えなん
氷海に落つる白夜の反照が雲にうつりて虹色となる
積雲の雲の底より日のさして遮断機まてるバスの輝く


  
椎の花(昭和五十五年)  宮川勝子
値切る客怒る客などわが店に次々に来て一日短かし
月蝕の始まらんとする朱き月椎の梢にありて店閉づ
わが店に吊す玩具が一せいに揺れて短き地震の終る
鎖にてつながれし象つらなりて丘の獣舎にいま帰りゆく
おぼろなる浄土変相図仰ぎ見る(かや)の実辛く匂ふ夕ぐれ