歩道叢書(昭和50年代 その1)

    歩道叢書(昭和五十年代 その一) 

  夜の潮(昭和四十九年)  梶井重雄
影深く立ちて崩るる夜の潮わがま近くの砂に勢ふ
夜の潮とどろく暗き沖空に雲あからみてふるふ稲妻
地震ふるふ日の夕べにてせめぎあふ波はあふれて渚をのぼる
風のごと襲ふ不安に耐へゐつつ夜の病棟の暗黒にゐき
ハマニガナ生ふる砂巣にわづかなる子貝を敷きて雛千鳥鳴く


  
起動音(昭和四十九年)  金岡茂
始発する電車起動の音たてば慣ひとなりてわれは目覚むる
昇職の試験受かりておのづからわが生きざまの決るは寂し
午前三時過ぎてやうやく一日の救ひのごときわが眠りあり
ことごとにからだ弱きを負目とし消極に生きて終る一生か
クーンにて吊り上げらるる原木の水を離れんとするさま重し


  
黄 柑(昭和五十年)  窪愛子
代移り夜業に蜜柑の撰果などしつつわが家に嫁なじみゆく
諍ひは些細なれどもしみじみと寂しき初夏の夜となりたり
翅のいろすがしともなき日かげ蝶真昼しづけき部屋をとびかふ
生き延ぶるのぞみなき児の濯ぎもの干しつつまぶし朝の光は
台風のため傾きし蜜柑の木色づきたれどその実小さし


  
野火止(昭和五十年)  池田博
潜掘を終へて流れの早くなりし野火止用水のみづの寒けさ
かの遠き山のはざまを流れ出づる水の行方もかりそめならず
いにしへのことわざにして甘言は蜜のごとくに人惑はしむ
とよもしてすぐる疾風の音きけば思ひはおよぶ病む妻のうへ
あらがひて過ししごときわれと妻ともに老ゆれば淡々とゐる


  
路 上(昭和五十年)  森川久
絶え果てし子を尚惜しみ吾の手に撫でなでて白き頬の細りや
よみがえる過去の貧しさ月ありて公孫樹の白き幹の静けし
利根川の海と交らふとどろきの土を伝ひてひびくひすがら
自らの燃す火に映えて飯をたくかまどの前に母は小さし
夕明りする街眼下に見えながら縞なす白き部分は驟雨


  
浜 草(昭和五十年)  浅井富江
練炭のおこりゆくとき悲しみをよぶごとき淡き匂ひともなふ
朝よりせはしく土を掘りてゐしわが犬暑き日すがら眠る
洪水に流れてきたる蛙らがわが家をめぐり夜々になきたつ
日のありど見えがたきまで梅雨曇る道に自転車の影ひきてゆく
夕冷ゆる家に帰りてはかなきに湿りもどりし干しものたたむ


  
雪 境(昭和五十年)  長澤一作
ものごとの是非きめがたくなりしことわが中年のにぶき悲しみ
憂ひなき少年の日の匂ひにてたうもろこしの黄ばむ畑あり
酒のみて帰り来る夜いきいきと散りつづけゐる公孫樹の一木
ふかぶかと雪おほへれば段畑の境まどかになりてかがやく
波暗くうごき雲うごくあひだにて雪の岬はしづかに白し


  
街 樹(昭和五十年)  秋葉四郎
酒を飲む人群のなか老人の眼ちひさき容貌さびし
鋼球(もんけん)のビル崩すとき顕つ火あり夕街空を統べてかがやく
玄関にわが頽廃の匂あり妻より早く帰り来しかば
シヨウペンハウエルの如くに辛き存在か腕に時計の重き夕暮
おのおのに黄葉して葉の明るさを保ちつつ立つ銀杏の街樹


  
青 潮(昭和五十年)  高瀬雅美
父が成しし家除かれて一代の終へたる思ひ身に迫るなり
添臥して一夜寝しかば末の子も少年の肌になりゆくあはれ
外泊のわれを迎へて明るさのもどる妻子に悔かぎりなし
雲たれて境の暗くとざされし沖より降り来朝の霙は
世渡りの拙きわれが世を狭く生きゆくこともいさぎよきかも


  
層 灯(昭和五十年)  川島喜代詩
あるときは泪のごとき想ひわく子のなきわれら十五年の世界
苦しみに充ちにし冬もはや過ぎん麦のはたけが夜半に明るく
現実の裏側にゐる感じにて雨ふる休日の午睡より覚む
プールより少女あがりてゆらゆらとしをりし身体しなやかに立つ
おもむろにうつろふ夜のむら雲の月のおもてをゆくとき疾し


  
点 滅(昭和五十年)  赤城猪太郎
豊頬(ほうけふ)に小さき鼻をしづませて声たてて笑ふ百日の孫
摘みとりて壜に挿したる仏桑華夜は花弁を貞淑に閉づ
種牛は擬似の機構にみちびかれ精子放つときくがかなしさ
産室に生れたる児は娑婆の風にまなこおもむろに開きては閉づ
雷のやや遠のくと思ふとき半天割れて稲妻はしる


  
餘 燼(昭和五十一年紹介)  鈴木冬吉
枯畑もつづく刈田もいとなみのなき安けさよ午のくもりに
臨終の妻をかこめば夜の明けし庭に昨夜の雪浄く積む
連れそひて三十五年うつし世のこの夜は終の添寝か妻よ
幾たびも雨来る暗き午後にして奥の仏間にともるひとつ灯
この冬の暗き杉群のうへにして月照るとほき雪山が見ゆ


  
街 音(昭和五十一年)  田中子之吉
電話にて激怒する声きき乍ら距離あるためのゆとりをもてり
福籤の賞金を得て絶対の用途の如く吾は酔ひたり
均衡の愛ならざれば消極に過ぎて別離を待つごとくゐし
声ふるへ妻に怒れば傍に息をひそめてゐたる幼ら
カジノにて得たる不浄の金を持ちマカオの街にとりとめのなし


  
春 潮(昭和五十年)  三江京子
乱れたるこころ癒さんすべもなく庭に出できて草とりはじむ
出張して夫ゐぬ家の明け暮れに娘は伸びやかに明らけくゐる
春潮のよせくる渚丘のうへ風にそよげる麦は青しも
夜半すぎし月の光は葱畑にただよひゐたり靄のごとくに
あたたかき宵に上りし白き月冬木のひまに低く動かず


  
川 筋(昭和五十年)  真下正之
換羽季の肌の見えたる鶏が時雨のあとの庭についばむ
鳴くものも灯に来るものも無き冬の夕静かに机に居たり
畑すでに水漬くと言へば玉未だ若き玉葱皆引きて来ぬ
水漬きの濁水満ちし一村を霧たちまちに白く包みぬ
肺切除して二十年経ちにけり其の医師のこと忘れざらめや


  
黄梅花(昭和五十二年紹介)  清田待
花終へし菊の幾鉢休息のかたちに並ぶ冬あたたかく
長方形の炉よりみるみる台に落つる炎の山はコークスの山
船の位置移りて見れば渦潮のたぎちの末は静かに走る
夜深く目覚めし妻がかすかなる光のなかに合掌しをり
眠るとも覚むるともなき妻の辺にありありて虚しわが老いの日々