歩道叢書(昭和40年代 その2)

    歩道叢書(昭和四十年代 その二) 

  
白き道(昭和四十七年)  井野場靖
後家相の鼻梁とほりし美しさ行きずりにしてわが見つつゐる
戒律に心とめしが信うすくしてたはやすく狡猾となる
殺さねば殺さるるといふ観念の醸されてゐるごとき静けさ
息絶えし姉のからだに跨りて甥が人工呼吸をしをり
夜勤より帰りくるとき眼の前をゆく犬の尾部血をしたたらす


  
遠 樹(昭和四十五年)  小鹿野富士雄
みんなみに遠く曇の片寄りて西日明るし菜の花の上
諦めののちの眠りの暁にわが家を洗ふ雨の音する
癒ゆるなき病を病める妻のため熟るるぶだうを待てば久しき
なきがらの父のかたへに眠らんと秋冷ゆる夜の蒲団をのぶる
日当れる島の草山に立つ時にわだつみの上雨光り降る


 
 花 紋(昭和四十六年)  後藤田恵以子
夕まけて時雨ふり出づこの家の大き甍を伝ふその音
幸うすき一生とききし祖母の紋りんだうの花紋吾に伝はる
寒いよとくり返し言ひし幼のこゑしばらくにして息は絶えたり
二十四時間つねに亡子を思へりとさりげなくいふわが娘哀し
幾たびも咲くわびすけの花親し照る日くもる日わが冬の庭


  
光 炎(昭和四十六年)  青田伸夫
ビルの間に稲妻照りてゆくりなし吾のめぐりに粗き壁立つ
あるかなし妻の瞳に感傷の光のきざすことありて憂し
胸に沁むかのゴ―ギヤンの言葉にて「色彩もまた振動をもつ」
地下駅を過ぎし車窓は曇り陽の乳色に照る街上となる
鉄骨のうちに成りゆく階見えてまづしき階に電球ともる


  
汗 滴(昭和四十六年)  森山耕平
土の上に遊びしづかなる蟻いくつ松の花粉をみなかむりゐて
しづかなる正午のひかりに拡げたるむしろ蓆の中の小豆かがやく
農家経済の分析がわれの勤めにて朝より日暮れまで計算機鳴らす
決裁を得むと揉手し物言ひしわが立像を覚めて思へる
冬眠のごとしと言ひぬ主義のため(くわく)(しゆ)されたる友と会ひしに


  
長 島(昭和四十七年)  島孝顕
海に向く段々畠の石垣に苺しらじらと咲く夕あかり
麦うるる島の斜面のかぎろひに体光りて黒牛がゆく
亀裂田の水口近くひしめける泥鰌目高を蛇が窺う
やうやくに上層気流にとどきたる鶴らかるがると北へ遠のく
音のなき夕潮めぐる岩礁に寄りあひてゐる鵜らあたたかし


  
水平線(昭和四十九年)  館富江
砂丘のなだりに沿ひて幾重にも風垣ありて遠くは飛沫
唐突に鋭くひかる船の灯は水平線にたちまち消ゆる
馬鈴薯の花は目だたず雲ひくく暮れゆく畑にはつはつ咲きて
近づけば優しき匂ただよひて芥子の畑に春の風吹く
いくむれもつづきて西の空を行く雁の翼の動き柔らかし


  
人 境(昭和四十六年)  河原冬蔵
やがて去るこの世のものと思ひつつ街なかのさま見て歩みゐし
死を怖れ生を怖れてこもるときわが学び来しもの力なし
時をりに曇れる空の明るめばただに砂丘のかへすあかるさ
天平の柱によりて見つつ立つ朱き口あけし神将の像
人はみな(あやふ)きものとやうやくにこころひらけて夕庭に出づ


 
 丘 畑(昭和四十七年)  横尾忠作
三千羽の鶏に病のひろがりて喉しぼりなく夜の声々
水銀剤まくと塗りたる石鹸に顔こはばりて夕光にたつ  
(原作では「鹸」は正字体)
病む父の余命はかりて籾まくと土やはらかき丘畑に来つ
つらなりて田川を夜も流れゐる水泡をりをり月にかがやく
妻と吾と藷植ゑをればいつしかにめぐり日暮れて二人になりぬ


  憩 流(昭和四十七年)  藤原弘男
このごろは耳遠くなりし老い母の声を細めてものいふあはれ
海峡はいま憩流の刻にして潮の音やみさざ波ひかる
波騒ぎをれど風なき海原にただひたすらに潮流はしる
直接に虚無の空来し光にて着陸船も旗もかがやく
人の命生きゆくさまの苦しきを長病みて知るみづから哀れ


  
青 峡(昭和四十六年)  山県幸子
朝あさに掃きてすがしき竹林に土が匂へり秋の日照りて
街川をへだてて昼の事務室にたまたまきこゆる鶏の声
ふるさとに家なくなりて法事には吾が縁者らの寺により合ふ
足傷めわがこもりゐる窓遠く沼はゆふべのかがやき終る
夫逝きしときに六歳のわが娘はればれとして結婚をまつ


  飛 天(昭和四十六年)  長谷川進一
月かげに明るく見ゆる氷原の亀裂つづきて涯なかりけり
五十二の飛天の供養うけながら金色(くろ)きみほとけの像
日本海と太平洋とひとときに見ゆる本州の北端を飛ぶ
わが嫁は心おほらに気を安くうからと睦む京言葉にて
(さう)(せう)の咎めによりて囚はれし学生の顔の幼きあはれ


  旅 愁(昭和四十六年)  深山隆
北海の逆巻く波に日は沈み旅の愁はきはまりにけり
ライン川の岸迫りつつもりあがる葡萄もみぢのながき夕映
梅雨くもる蓮華王院うちつけに門扉をとざす音のきこゆる
風絶えし斑鳩のみち秋暑く格子戸の前に胡麻を乾したり
あたたかき二月の雨に鉄板を敷きつめし道濡れて続けり


  
黒文字(昭和四十七年)  小田裕侯
交々に燕ふたつが入りて来る夕べは障子を開けておきたり
息絶えし父の足より直足袋をわが脱がしをり涙たりつつ
轟きて修羅をはなれし木材の音なく暫し空間を落つ
杉森に月落ちしときみづからの光のごとき雲ひとつゐる
春疾風しづまるときに倒しゆく楢も櫟も幹あたたかし


  少女像(昭和四十七年)  藤森輝子

巡りゆくどの部屋も団扇を使ふ音暑さに少女ら眠れぬらしき
わが膝を枕に病む身休めゐるこの少女かつて吾を襲ひき
作業する少女らをわが見守りて少女歩けば吾も移動す
山上に生ひたる松の小さければ音なく昼の風は吹きをり
わが勤きびしきことを知りながら帰り遅しと怒りゐる夫


  
雪 谷(昭和四十七年)  津金一蓮
風絶えて湿れる雪の降る日暮れ寂しきまでに山の静けき
倉かげに久しく残る雪消えて今日は卵を老鶏生めり
客の求むる刻み煙草の品切れを今朝も交々妻とわびたり
発言せず会議のたびに居眠れる村議の度胸ときに羨む
歌会より帰る夜の町汽車時間迫り時雨に濡れつつ走る


  林 響(昭和四十七年)  堀山庄次
たどりつきし家に呼べどもこゑなくて貼紙ひとつ妻の死を告ぐ
単純に処したらむかと苦しみぬ吾子は離れて父母をもつ
夕立の過ぎて潤ふ森中にあはれ幼き鳶のこゑあり
火事の火の木群に乱れ入りしかばどよめきわたる火の中の木々
ひとたびは消えし山の火夜に入りてひそかに風に光る地中火


  黄 花(昭和四十七年)  黒田淑子
朝の陽は桃の木にあり輝きにふるふが如き桃の花々
われにある午前の光噴水の向う今待つ人があらはる
帰り来て家なかに干す洗濯の雫も今日のひとりの音ぞ
独りにて暮しゐること罪の如降れば昼より雨戸をしめる
平穏の一日の間に地震すぎ具体とならぬ思ひを持てり


  
沢 音(昭和四十七年)  宮沢淳
新しく位牌をつくり来し父が裸のままで経あげてをり
酔ひ来ては母と諍かふ父のさま老いて変らぬことと思へり
やがて死ぬ如く動かぬ鶏がひかりなき方に頭向けゐる
泣かされてゐる故幼は吾よりも兄の言葉をよく守るなり
通知簿を貰ひて来たる吾子らがはればれとして炬燵に居りつ


  
還 往(昭和四十八年)  浅井喜多治
河口の水と潮の打ち合へば水のなかにて砂もりあがる
風の吹く工場の床かたまりし黄の鋸屑のうへの風紋
製材音のなかにて出づるみづからのはげしき声をときに寂しむ
雨の降る午後工場にともす燈にかすかに冬の虫いでて飛ぶ
消極になりたる吾は妻子らをあはれに思ひ一日をりたり


  
暁 光(昭和四十七年)  柿沼高雄
ときながくかかりて得たる決断も人に対へば崩れむとする
暁の光はきたる麦畑のつづくなだりの土にあかるく
杉群のいただき風に吹かれつつ声満ちてゐる如き夕映
何か言はれたやうな気がして居るときに底ごもり鳴る冬の(いかづち)
雪はれし庭にするどく軍鶏たてり一切のもの近寄り難く


 村の道(昭和四十八年)  竹中理一郎

となり家に母娘争ふ似し声のあはれと思ふにまだしづまらず
山裾の村の青田は黒ずむまでひかり照るとき人ら昼寝す
峡の駅に貨車がとまれば暫ししてその中の牛みな鳴きはじむ
西日照るみのり田のみち葬列の中にわが持つ紙の旗軽し
通りゆく道のべ高き茶の畑は雨晴れて花のあたたかに照る


  庭 霜(昭和四十七年)  石井きく
堪へられぬこの思ひをば堪へるのが我身のための幸ならん
青空にきびしき丹沢の山見ゆる尾根明らかに日に照りながら
西海に残る夕日を見つつをりこの一時にわが心足る
亡き夫より習ひおぼえし生業(なりはひ)の諦めがたくわれは病み居る
とめどなく出づる涙は何ゆゑか若さいとほしかへりみすれば


  
轍(昭和四十八年)  大澤たか
その兄の訃も知らずして殊のほか今宵の父の寝顔しづけし
苺二つしぼりし汁に飲みし薬が最後となりてみまかりし父
父の柩はこばれしわだちふみて行く三月三日はだれ雪みち
竹とひに水の通ひて石を打つ音苔寺のひとところより
霧雨にぬるるともなく石浜はさわがしからぬしろき静もり


  
薄 明(昭和四十八年)  園節子
足もとの砂をえぐりて引く波に兆す不安は何につながる
地に下りて落葉の上を歩む音ひそかなるひとつ黄びたきの音
はらからの犠牲の上に病むわれのいのち生きつつ鳥の声きく
盲わが自ら林檎の皮むけばみづみづしさの指に伝はる
長き夜の明くるにあらず束の間の月光なりき闇たちかへる


  
栗の実(昭和四十八年)  甲斐典夫
母からの便り届きしこの夕べ孤りの部屋に母居る思ひ
春季闘争の拠点となりて管理者と職場にあれど会話とほのく
遠空に形ととのふ茜雲見つつ孤独のこころ極まる
クレ―ンに巻き揚げられて行く鉄は常に落ちんとしてゐる重み
残照の街にともれる街灯はいまだ光の範囲をもたず


  
風 塵(昭和四十八年)  板宮清治
晴天の日々にて牛のために置く塩乾きつつきらめくものを
地にひびく時雨の音を聞きゐたりひと日のなげきひと夜に過ぎよ
風雪のひびきに心抒べんとす青年遠く壮年近し
貯水池の水のむかうにくれなゐの桃の花照りわが心照る
過ぎゆかんものは過ぎゆけ新しき芙蓉の花は残夜にひらく


  
水 楢(昭和四十八年)  清水輝行
人生は偶然のみのつらなりて吾が安定も戦争のゆゑ
水楢の黄葉明るき下にして養ふ鱒のくろきむらがり   
(原作では「楢」は正字体)
黙しゐる妻と吾とが口をきく転機となりぬ小雨降る音
犇きてビール壜緩慢に流れ居り低音殺菌のシヤワーの下を
生ビール詰めたるタンクローリーが鎖を曳きて門を出でゆく


  
芥子の花(昭和四十八年)  岡野千佳代
庭の面華かにしてひとときに芥子咲ける昼つねひとりにて
母の留守に弟の嫁は安らふかわれに優しきもの言ひをする
送泥菅より流れて滑かに光りつつ泥皺襞となりゐるところ
耳遠き母と黙して掃きよせし落葉を父の墓前に燃やす
子と吾のなからひ寂し離り住む日々の続きのごとく嫁がす


  
歸 路(昭和四十八年)  和歌森玉枝
米粒ほどの精嚢あはれ鶏の骨を厨に荒ひてをれば
砂防堤に憩ひて濤のとどろきも光も遠し九十九里浜
殉教の跡の浅き池蜷あまた底ひに這ひて冬の陽を浴む
弾力のある一群として海鳥がためらはずとぶビル街の上
自らの噴きし墨にて汚れたる烏賊やはらかく重なりてをり


  
濱 砂(昭和四十九年)  高橋妙子
風紋の立つ砂浜に座りをり果つることなき波をながめて
短かかる老の命と思ほへばひたすら急ぐこと多くある
母訪ひて生家の縁にならびつつ母よろこべばわれもよろこぶ
帰り来し夫の声かといそがしく出づれば玄関に息子が立てり
いつ帰るあてなき夫を待ちながら老いゆく吾を甲斐なく思ふ


 
 潟 潮(昭和四十八年)  松岡敏夫・シゲコ
二十年経て戦死せる子の勲章をうけつつをりてわが老あはれ(敏夫)
四十五年共に世を経し夫とゐて吾が晩年の平坦にすぐ(シゲコ)
骨の痛み堪へがたき夜は夫置きて先に死ぬかと思ふときあり(シゲコ)
山火事に焼けて立ちゐる木々の上鴉は石の如く飛びすぐ(敏夫)
パラシユ―トにゆれて下降をする人の空の青きをうけて輝く(敏夫)


  
花八つ手(昭和四十九年)  徳田美栄子
庭の面に八つ手の葉影濃き午前洗濯機の水の音のさやけさ
盛りたる白木蓮も褐色に萎えたり一夜寒さもどりて
男教師よりも背高きをとめをり入学式にすくすくと立つ
バイク共夜の小川に落ちてより吾の短所をさまざま悟る
傷つける指もおのづと治りゆく夜々ありがたき眠りと思ふ


  
たぶの木(昭和四十九年)  清水かつよし
たたかひの後に残りし墓一つ蝉鳴くたぶの木に被はれぬ
岩海苔は絶えず飛沫に濡れながら波の輝き見えて雪降る
海の向ふの山晴れをりて牡蠣を剥く手許は雪の明るさに満つ
立山は海の遥かに夕暮れて音ともなはぬ稲妻しげし
何があるといふにあらねど裏の田の水の濁りに夕べ鴨来る


  
波 音(昭和四十九年)  杉山太郎
遠からぬ別離ののちに来たるべきわれにいかなる残年あらむ
立春の日ざしあたたかき三階に荷をまとめをり別れ行くべく
甦る過去断ちがたし携へてながく苦しき日々なりしかど
希ひたる拘束のなき日々にしてよろこび淡く悲しみ深し
思ひみぬかかる現よたづさへて仰ぐ桜の咲きみつる花


  
橋 畔(昭和四十九年)  武田房子
悲しみに耐へゐるときに哀れみのまなざしもちて子が吾を見る
縁ありて我子と呼ばむ青年をまじへ整へし夕餉始まる
わがおくりし南部風鈴ひとり居の侘しさを増すのみにあらぬか
一年余り孤独にありし弟の未来を思ふ胸ときめきて
食堂にわが働きて日々に食ふ生蕎麦の味にやうやくなじむ


  
開 冬(昭和五十年)  佐藤佐太郎
冬至すぎ(ひと)()しづかにて曇よりときをり火花のごとき日がさす
沼のべの村のしづかさ残汁(ざんじふ)を護る蜆も風に乾けり
地底湖にしたたる滴かすかにて一瞬の音一劫の音
冬の日の眼に満つる海あるときは一つの波に海はかくるる
北極の半天を限る氷雪は日にかがやきて白古今なし


  
葡萄の花(昭和四十九年)  安野綾子
花終へし葡萄畑に種なしの薬を房につけつつめぐる
砂のなかより拾ひし松露てのひらにあたたまりつつ松林越ゆ
わがままに独り生きゆく吾の辺におろおろと老父は守りゐ給ふ
おもひまうけぬ悲しみのごと戸をくれば視野をとざせる暁の霧
ゆく夏の日々をしづかに過しゐて職なきゆゑの平安を得つ


  
山葵田(昭和四十九年)  斎藤伊佐緒
山の田の稲負ふ吾を柿の木にのぼりし猿がながく見てゐる
炭負ひて妻が下りし山の径雪のうへ黒く炭の粉が落つ
春になれば離村をするといふ鍛冶の槌音ひびく朝の雪路に
独活を掘る山ひそかにて雑木々の芽吹の音の聞こゆるごとし
玄関のガラス大戸にこの夜ふけ庭あゆみゆく狐映れり