歩道叢書(昭和40年代 その1)

    歩道叢書(昭和四十年代 その一) 

  砂 漠(昭和四十年)  井野場靖
聞き耳を立てゐし如くだしぬけに物言ひ挾む母を哀しむ
さざなみの模様の砂漠克明に見えをり朝の日射の中に
ほしいままの姿態にてわが寝る時この微かなる一つの自由
際立ちて赭きは水の流れにて灰白の砂幾ところ見ゆ
邂逅の時のありやうを予め空想しけりいきいきとして


  
梨 花(昭和四十年)   徳田美栄子
この一台待たむときめし夜のふけの電車より夫が降立ちて来ぬ
大方は夫の意見のままに住み書籍のあひに吾らは眠る
一めんの蓮華畑の夕かげに白き牛ひとつうづくまりたり
硫気立つ賽の河原といふところ巌の上に小石つまれて
梨の花盛りすぎたるあたたかき夕の風に羽虫とび来る


  
藍 畑(昭和四十年)  後藤田恵以子
倚りて安けく過ぎにし日々を思ふときたはやすくわが涙わき出づ
日もすがら雨にこもれる幼子が部屋から部屋に積木を運ぶ
たのめなきものを恃みて来し吾の一生かおほかた過ぎて思へば
藍の藏ありたるあとに麦熟れてかぎろひの立つわれのふるさと
成すことに心急くなどこの日頃身の衰へと思へばさびし


  
篁(昭和四十年)  片山平四郎
ふたたび病みて起ちたる事も沁みて思ふ庭の竹群に朝露繁く
電灯のコードにつきし微塵さへ朝は美しき光を放つ
静臥終へ窓によるときはつかなる丸みをなして消え残る虹
手術せし担架の上の妻の呼吸たしかむと毛布の動きを見つむ
変りたる姓にて便りよこしたる嫁ぎてゆきし娘はるけし


  
千曲川(昭和四十年)  松山茂助
千曲川の流れの末に雲うごくわがふるさとはその峡の町
何処より湧き迫りくる悲しみぞルオー描ける夜のキリスト
萩の花うつろひ散りて実となりぬその実も落ちて秋更けにけり
子の戦死の広報持ちて麦畑の中ゆく径を一人あゆめる
西空の雲に残れる黄のひかり春逝く庭に茱萸の花散る


  
静 野(昭和四十年)  土橋東洋麿
袋のかたちに固りはてしセメントの道辺にありて青き麦畑
娘等が舞の扇をいく本も部屋にひろげて居る夜ありたり
石垣をぬけて落ちたる石ふたつ落ちたるままに道の辺にあり
この広き畑より低く思はれて春野のはてに山の見えゐる
囲炉裏火に焼きたる餅飯掌に灰たたく時もちひの匂


  
冬 木(昭和四十一年)  佐藤佐太郎
憂なくわが日々はあれ紅梅の花すぎてよりふたたび冬木
年を経ておもひいづれば湖塩粒々すなはち鈍きこころのかなしみ
地下道を出で来つるとき所有者のなき小豆色の空のしづまり
氷塊のせめぐ隆起は限りなしそこはかとなき青のたつまで
みるかぎり起伏をもちて善悪の彼方の砂漠ゆふぐれてゆく


 
石 浜(昭和四十一年)  杉山太郎
洪水の日より幾日悲しみのただよふ如く黄に濁る海
あやまりて針をのみたる嬰子が一年七日の命終へたり
親鯨にしたがひ游ぐ仔鯨も追はれ来しかば入江をめぐる
島山の頂ひろき砂原に降り立ちてゐる鳶ものものし
この磯の潮の底ひに貝立てて游ぐ鮑の群みゆるとぞ


  
昼 夜(昭和四十一年)  河原冬蔵
曇り日に翳を持ちつつ飛べる鷺若葉せる木に降り来て白し
冷やかに吾は見てをり風呂に入る母が這ひつつ茶の間を通る
折ふしにひとりごと云ふひとりごとにても孤独の紛るるごとく
隣り家をこはし終りて音もなき寒きゆふべに降りいでし雨
わが死後の街のさまなど思ひしがこころ惜しまむ何一つなし
 

  
雑 踏(昭和四十一年)  宮本クニ
さかしげに幼語りをり「その人」といふは隣の犬のことにて
わが舟が無限に走る錯覚に風強き海にはぜを釣りをり
高空をよぎりて帰る白鷺は一つづつゆく時をへだてて
学生のデモ隊のなか幾人の中学生ゐて声かん高し
行動の中断したる形にて子鰐それぞれの姿勢をたもつ


  
玄 冬(昭和四十一年)  西川敏男
たはやすく人を許さぬ鋭さもこころ貧しき具体のひとつ
雪やみてひくく曇れる入海にはつかにわたりゐる夕茜
蒼曇ひすがら寒くとざしゐるかの山あひを雨谷といふ
ひとたびは水に沈みし雪塊がまどかに融けて流れゆきたり
明方にやうやく眠りたる母の眼窩に汗の塩光るあはれ


  
西田愛子歌集(昭和四十一年)  西田愛子
憎しみを常に持ちしが野良猫の日を浴ぶる時罪はなからむ
麦の青菜種の黄色斑にて続くはたては曇におぼろ
身近かなるもの皆吾を遠のくと思ほえて秋の日向にゐたり
昏れ残る光より月の光へと移りゆく薄明の下の海波
海峡の潮の流れに行く船を見ればスクリユウ止めて従ふ


  
山 霧(昭和四十一年)  新倉和子
霧動く落葉松林黒々と見ゆるかぎりの幹ぬれて立つ
三十四年吾を愛しし老母を病む床におきて嫁がんとする
長病めば負目あるごとうから等に物言ふ母を哀れに思ふ
みまかりし母が折々夢に立つ夢に立つ母も病み居てかなし
部屋に居る吾を折々たしかめて幼が門の外にて遊ぶ


  
冬の虹(昭和四十一年)  松生富喜子
水仙の花に風吹く夕べにて深き藍色に鰯かわける
雪の降る道を籠にて運ばるる鶏のとさかのくれなゐ深し
こまかなる石かたまりて光りゐるひとつの中州冬の真昼に
朝焼の雲蚊帳越しに見えてをり明けの手術終へまどろみゐしに
わが心傷つきて故郷を出でし日の蘇り来る麦青き道


  
風と土(昭和四十二年)  菅原峻
雪の積む渚あゆめば落ちたまる木の実はかたし雪の上にて
藁燃しし刈田がありて母に負ふ悲しみのごと黒き冬土
風あつき埋立地にて堆積のあひだに広く暮れてゆく土
昼くらく水をたたふる沼岸に水にしづみて厚らなる雪
血を吐きて命はてけん君のことすべのなかりし貧をわがにくむ


  
北 空(昭和四十二年)  松本武
妻の居ぬ雨夜の家は寂しくて隣りの部屋の燈をともしおく
山路に蕗束を置きて休むとき蕗が香に立つ吹く風の中
山の上に離れ離れに立ちてゐる松の木末を風渡りゆく
沢の田の水面は鈍く光りをり蕨手折りて丘に立つとき
家風呂に吾と妻とが相継ぎて湯浴み済ませば入るものもなし


  
条 雲(昭和四十三年)  長澤一作
轟々として夜の海荒れゐたり貧も希ひも思へばかすか
暑き一日終らんとしてうら悲しき竹群のうへの赤き条雲
まどろみて夢さわがしと思ひしとき乗れる電車は終点に着く
横ざまに暗き空より流れつつ雪は木立に入るとき光る
歩みきてあたたかきかな咲きみちし辛夷の花のうへの夕星


  
冬 麦(昭和四十二年)  塙千里
刈りあとの田におのづから夕暮れはつつましくして落穂を拾ふ
鶏に餌を忘れしが止り木に常の如くにねむりをるべし
入りがたの月照りながら夜の更けの冬麦の畑たひらに暗し
暑き日の照りゐる真昼みづからのいぶきに広き青田はかすむ
おほよそに青おとろへし秋稲田声ひそまりし如き日の照り


  
中浜新三郎歌集(昭和四十二年)  中浜新三郎
ぼろ切れの如く貧しきこころ湧く十年病みつつここに残れば
還るべきことにあらねば嘆くなよ暑き土埃の中に蝉落つ
昼床に血を喀くわれを脅すごとく飼鳥は止木たたく
骨なしになりたる我か食膳に向ひつつ食ふ頭が重し
労働の激しさわれに聴けとかや眼細めてわれ聞かむとす


  
冬 庭(昭和四十二年)  原口はる
年老いて盲ひし犬が霜荒れの庭をぶつかりながら歩めり
はればれと葱の太れる庭畑に出づれば黒き土に立つもや
暗渠より出でし流はとどこほることなく暗渠に流れ入りをり
静かなる憩に入りし庭の木々やがて昇らん月の出のまへ
死に近き夫が握りし手のひらに汗たまりゐて冷たかりけり


  
杉 群(昭和四十二年)  砂子彦三郎
いささかの時も惜しみて働きし妻ゆゑ得たり田をいくばくか
山際にのびし日光の残りゐるうちに一日の仕事を仕舞ふ
気にとめしこともなかりし木下径音異なれる沢水二つ
川霧をへだてて遠く盛りあがる黒き杉群の上の薄明
春疾風日すがらこもる松山に吾荒々と枝打ちをする


  
往 反(昭和四十三年)  大塚栄一
境内の人混みのなかに背のびして芝居見てゐる父に会ひたり
一握りづつ灰を撒くまく灰の中心は直に青田に沈む
町なかを歩む子を見つ家にては見せぬ寂しき顔にて歩む
雪原に浮びくるごと家の灯のふえつつ雪の消えゆく早し
よろこびて来し食堂に時ながく待たされて言葉減りし妻と子


  
紫 雲(昭和四十五年)  松木光
受容瓶に濾過せし液の透明に並びて今日も夕昏となる
おのづから涙いで来て老父の入院準備の衣類をつつむ
年老いし父と住みしに別るるといふ覚悟なく過ぎて来にしを
悲しみに明け暮れてをりかかること亡き父は常いとひ給ひし
ひび入りし茶碗にて湯を飲む如き想ひもちつつ幾とせ生きむ


  
樹 海(昭和四十三年)  向山忠三
スキ―場日暮れんとして雪山を人の香のなきリフトが登る
山頂より吹き下す風に落葉松の青き芽がとぶ残雪の上
樹木なき山の夕べのしづけさや沢に落石の音しきりにて
さまざまの鳥なきゐしがいつしかに樹海は風の響となりぬ
聴力と視力と共に失ひて団樂の中孤独なる母


  
人 音(昭和四十三年)  伊藤いく子
その夫に甘ゆる産後の娘みつつさびしき心の兆す何ゆゑ
妹と母との長き確執をこころ疲れてわが目守りきつ
髪濡れて帰り来しかばあたたかき夜の雨の香をまとふわが子は
水の上かすかに風の渡るときおもむろに位置うつる浮草
梔子の花にかすかの土埃見えつつひと日の疾風なぎたり


  
低 丘(昭和四十三年)  加藤正明
伝導ベルトに触れたる蝶が花びらの如くに白く床に落ちたり
外したる義歯と眼鏡と置く位置もきまりて夜の睡りはかなし
嫁ぎたる子に幾何の金渡す何の償ひともいひがたけれど
子と二人昼餐の膳に対ふときやさしき声のわが咽喉を出づ
五年のち十年のちを想ふなど静かになりぬわが身辺も


  
累日(昭和四十四年)  東山子
積みあげし草さやさやと牛車ゆく従ひゆけば日の匂ひして
父逝きて朝あしたのしはぶきの音なき長きこの目覚めどき
黄に照らふ芝生まぶしきかなたにてとろとろと冬の噴水あがる
速度あるゆゑに活きいきと見えながら木原に春の雪降りしきる
千体の仏いませば満ちわたるくがねのひかり肌寒きまで


  
渚 花(昭和四十四年)  佐藤志満
老いさらぼひし父がしきりに足洗ふ記憶うすれて潔癖のこる
子に与ふるは慈悲に非ずといひたりき寂しかりけん母の晩年
わが夫いかりやすきはひとつの悪あらため難く馴れ難く老ゆ
掌にもてる豆腐よりしづくしたたりて空さわがしき夕街かへる
蕗といふ寂しき村にかくのごと古りしみ仏いますかなしさ


 
 遠 望(昭和四十四年)  赤城猪太郎
素裸のマネキン人形に対面し一瞬われはおだやかならず
徹宵の作業に働く行員等見廻りにつつわが涙垂る
空かぎる水平の海海かぎる砂丘のなだり一望にして
読経の座のひとつある山の寺冬あたたかき光の中に
滝壺を出でたる水は河幅を結ぶ氷の下に入りたり


 
 遠 雲(昭和四十三年)  榛原駿吉
幼子の頭髪撫でて吾がをれば幼子はしづけき表情をする
ある夜のアバンチユールを期待せる声ありしかど家に戻りぬ
四十近くなりて嫁ぎし妹をいかにかゐんとをりをり思ふ
ながき勤め経て来し故にさまざまの人に仕へて人を憎まず
眼鏡越に見る態を醜しといふ妻よかかることにも馴れて老いづく


 
 峡の門(昭和四十四年)  梅田敏男
大雪に飢えて死にたる頬白も鶲もをらぬこの峡のみち
日もすがら椎茸採りて林間にをれば枯葉の匂ひする妻
霧深き谿間を来れば鉾杉の木の間を昼もかうもりが飛ぶ
身の垢を洗ひ落せし感じにて銭なくなれば心落ちつく
山峡に人居らぬ家幾軒も板戸閉しつつ雪降りつもる


 
 高 槻(昭和四十四年)  薩摩慶治
北極の上をとびつつおほよそに暗黒ならぬ永き薄明
公害は人体のみにとどまらず星淡き夜月淡き夜
とがり波さかんに立ちて川の洲の葦はもみ合ひながら輝く
洪水ののち人住まず生活のもの音絶えて部落しづまる
生のおごり淡くしあれば睡眠のほしいままなら吾が夢はこよ


  
彩 雲(昭和四十四年)  大野紅花
洟つ垂れと木曽人のよぶさみどりの花の親しさ幹より芽吹く
いづこともなく鶯のなく朝け峡広ければこだまはるけし
海潮に触りて垂りたる雪雲のなかより白き波がしら顕つ
さやさやと一日の起居すがしきはわが身につけし絹が鳴るなり
わたくしのよろこびごとを人に告ぐる語りて悔のあらぬ友ゆゑ


  樹 影(昭和四十五年)  川端トミ子
白子もつ魚に刃先の触れたれば心あやふき夕暮となる
文楽の給料にては生きがたしゆゆしきことと思ひさびしむ
知恵熱にくちびる乾く幼子の言ふ寝ごとなど昼の寂しさ
落伍者の数知れぬなか文楽に夫は五十年三味線をひく
慎しくして残したる金のこと知らざる夫に病みて書き置く


  
川(昭和四十四年)  松山茂助
ふるさとの町をながるる千曲川たちまちにして峡に入りゆく
ことごとく葉を落したる白樺の森に籠らふ淡き冬の日
ふるさとの群山脈にこだまして朝な夕なにひびけこの鐘
望むこと少なき故に日々を是好日として冬すぎにけり
きぞの夜まどかなる月を仰ぎしが天ぎらし降る明け方の雪


  
草木集(昭和四十五年)  松原加代子・多仁
さりげなく居る日になれど生きて来し種々のこと胸に去来す(母 加代子)
帰省せし娘の少しやせ学ぶこと勤めのことのきびしさを言ふ(々)
心重くわがゐる時も常のごと食のすすむを疎ましく思ふ(娘 多仁子)
学期ごとに母に離れて発つ時のこの悲しみに馴るる日あらむ(々)
夜汽車にてわが発つ時に故郷の母は神棚の水を飲ましむ(々)


 
 形 影(昭和四十五年)  佐藤佐太郎
塵累の軽き境界とおもはねど宗教の香なき塔の形態
寺庭に消のこる雪をぬきいでて紅梅一木さく偈頌のごとくに
海の湧く音よもすがら草木と異なるものは静かに眠れ
何もせず居ればときのまみづからの影のごとくに寂しさきざす
やや遠き光となりて見ゆる湖六十年のこころを照らせ


  
古樫(昭和四十六年)  柿沼かつ
小さなる手あぶり膝の上に置きよりどなき今日の吾を支へぬ
病人がをりをりにする嘆息をわが吐きしごと錯覚をする
大方は好まず過ぎし商ひも身にかかり来て懸命となる
朝光に孔雀は立てり風に鳴る鋼の如き羽をひろげて
かけがへのなき一生を思ひ違ひしてをりしごと悔しみをもつ


 
 渚ある庭(昭和四十四年)  蕨比良夫
空浜の乾ける小石に冬陽さし光のままにあるがやさしき
百日紅の花ゆれてゐる上の空夕焼の色やうやく暗し
烟の如き細き雨ふる昼の庭あまねくぬれる樹は静かなり
茎太き葦の芽立をひたしつつ夕潮みつるいさぎよきまで
遠々に波の起伏の静まりて潮みちはてし広き荒川


  
波 動(昭和四十四年)  川島喜代詩
雨そそぐキヤベツ畑に近づきて弾力のある音さわがしき
前方にゆれやまぬ桧葉見えゐしがゆれやまぬ影のなかとほりゆく
地下鉄の押し来しひびき抑圧を解かれしさまに駅にひろがる
過去のなかより顕ちてくるゆゑに悲しみもかく単純となる
命終をみとりしもののなしといへば寒き疊にわが涙落つ


  
堤 防(昭和四十四年)  藤田久仁夫(久阪運平)
ひもすがら冬田を耡きて疲れけん洗はれてゐる馬は動かず
商人の友が死床に離さざりし古銭のたぐひつやつやとして
風やみし日ぐれの刈田孤独なる心となりて稲架(はさ)を解きをり
せんだんは未だ芽ぶかず槻若葉柿若葉なびく園に孤独ぞ
隠居所に老いたる母と住む我ら夜は一つづつ行火(あんくわ)抱きて


  
石 階(昭和四十五年)  片山新一郎
白葡萄に日照ればくろき種見ゆるまでつぶら実の中は明るし
(ほほ)樹下を吹く夜の風に音たてて落葉のうへを落葉が移る
往診せし男やもめの昼床(ひるどこ)に女の櫛の落ちゐるを見き
風音のなき沼岸をあゆむ午後牡丹雪みづに沈みつつ降る
夜の闇のなか遠ざかる機関車の余響はながく空にとどまる


 
 冬 靄(昭和四十六年)  宮本美津子
アスフアルトに夕光長く射す時に影持つものはなべて優しも
憂ひなき予感に対ふ心して鳶居る今日の寒き街空
雪光る鋪道の上に居りし犬耳ひらひらとさせて立ちゆく
わが歩むめぐりの空気あらたまり暗き空より雪降りはじむ
言ふべくもなき夜の風擬宝珠の広葉たまたまひるがへりたる


  
蕪の花(昭和四十五年)  藤田紫水
春疾風吹く河口にかぎりなく浮く海猫の流るるはやし
蕪の花咲きて明るき浜原にあまた巣ごもる海猫の声
我がみがく石は乾きてしらじらしたづきなき日々の生きの如くに
三時間燃えつづけをる三沢市の喉からき風吹くなか歩む
自動車の事故死の検視を終へたれば土をまろめて線香立つる


  
峡 空(昭和四十五年)  務台貞義
雨走り荒風とほる音のして障子の棧に蠅は動かず
落葉たく煙村なかになびきゐる日暮れを子らと麦踏みて居り
松生ふる一つの山を二またに分けて沈下し地滑りつづく
遠くより見ゆる流土地はなだらなる起伏をもちて村に迫りぬ
救ひなき音ぞと思ふ川越えていづくともなくおこる地響


  
泉 水(昭和四十五年)  岡田松之助
勤続の年を重ねて教へ子のその子供らを又教へをり
一週の考査終れば校舎より常と異なる生徒の声す
校長の我を見つけて走り来る聾児の手を取り校舎を歩く
梅雨荒れし池中の石をめぐりつつ鯉行く見れば背を晒しをり
研究の発表終へてゆくりなく空しき思ひうちに湧きゐる


  
風 濤(昭和四十五年)  香川美人
くらやみに高白波の迫る見ゆ砂風いたみ浜行き難く
血管の浮きたるわが手見つつゐて想は母の追憶となる
父が植ゑし蜜柑の木下のしづかさよここに帰るもわが一代のみ
かすかなる眩暈のごとき感じにて八階の部屋に地震搖りたり
しろたへの砂のうへに置く石いくつ石の距離より静かさは来る


 
 笠 雲(昭和四十五年)  渡辺良平
冬空に立つ富士がねを仰ぐ時大雪壁の光るきびしさ
春嵐晴れたる朝は裾野まで大雪降れる富士のやさしさ
仰ぎ見る雪の富士がね月夜にて光る斜面に尾根のかげあり
富士がねにかかる笠雲の外縁は白く輝き中心暗し
冬富士の大き氷壁にま昼日が照りゐてさざなみ光るに似たり


  沼葦群(昭和四十五年)  高安弘
たそがれの矢切渡船場風強し江戸川のみづ黄に濁るころ
咳すれば心寂しくなりて来ぬ蒲団のなかの体ひえつつ
鶏小屋に夕月とどけばならしたる海砂のなかの貝殻光る
ここに住む田螺の殻に青苔のはえてゐるさへ寂しきものぞ
雪ふりしあと単純に陽の照りて吾のまなこのちかちか痛む


  
雙燕集(昭和四十五年)  堤直温・信子
四十年手術の数をかさね来て心落ちゐず執刀の前(直温)
あざやかに紅葉せる道登り来て思ひまうけず雪の頂(々)
砂の飛ぶ寒き疾風にさからひて吾は歩めりたらたら坂を(信子)
ストーブのそばに来りて宵々に同じ位置に居る老いし吾等は(々)
老いづきし吾と夫は常のごとく死後のことなど語ることあり(々)


  
冬 砂(昭和四十五年)  三枝茂
もの言ひて互に離れゆく人ら冬豊かなる青麦の上
きさらぎの茜は展べしごとくにて光を負ひてゆく鴉見ゆ
眠りたきときに眠るを到り得し幸として妻の日々あり
開け放つ部屋に盛りたる春の繭家明るきは繭白きため
水涸れて現はれし泥の渚など匂ふ昼にて黄の雲遠し


  
造 影(昭和四十五年)  熊谷優利枝
冬の沢の清き流は海中にそそぐことなく渚にをはる
はげしかりし雨のしだいに止みてゆく音はやさしも庭の木群に
飯粒のつきゐることを娘に言はれ口ぬぐひつつ診察に立つ
若くして寡婦となりたる母の一代かたくなにしてすぎたる寂し
空覆ふまで高々と見えながらモンブラン連峰に雪の輝く


  
榾 火(昭和四十五年)  永井うつじ
もりあがり溢るる水が用水の土橋の腹を浸しつつゆく
白くなりし繭の中にて糸をはく音をききをり炭火つぎつつ
夕映の終らむとしてしづかなる光の中に刈田は沈む
ほぐしゆく稲塚より出でし野鼠が幾たびとなくその巣に戻る
病ひもつ身は寒からむ納屋ぬちに豆撰る妻の咳がさみしき


  
心 紋(昭和四十五年)  斎間万
陽の白く煙霧に光るものもなしわが住む街はその空の下
苦しみし後眠りたる妻の顔つひの眠りの如く寂けし
葬りのすみて囲める夜の炬燵一日居らざりし猫もかへりぬ
歯をみがく時のさびしき一つにて聞えぬ耳の中に音する
ながかりし耳聾癒えてまことの声まことの音の今ぞきこゆる


  
冬 旱(昭和四十五年)  西村婦美子
わが子等の成績よきをかけがへのなき慰めとして貧に耐へ来し
四五年はまだ苦しみの続くべし灯の下に子の靴下繕ふ
朝夕に顔合せつつ家主と吾等の葛藤もすでに久しき
体重の吾より軽くなりし夫に後幾年を頼りて生きん
砂丘のつづきは低き小松原曇りの下の緑しづけし


  
安村武歌集(昭和四十五年)  安村武
午すぎて強くなりたる雨にぬれ釣りあげし鮎の手にあたたかし
わがめぐり絮飛びながら色づきし芒の原は風にさわだつ
ながき夜を肩のだるさに苦しみて朝明けて来ぬ救ひの如く
眠りゐるその間がともに平安か看りにつかれし妻と病む吾
起きてゐる吾の気配に目覚めたる妻は夜半に肩揉みくるる


  
海 橋(昭和四十六年)  由谷一郎
トラツクより滴る魚の血にぬれし舗装路さむく光る夕暮
亡躯の還らぬ船員の葬りにて空の柩にしたがひてゆく  
(躯は原作では正字体)
なにゆゑのひかりともなく低丘のはたて明るむ梅雨の夜空は
風の吹く砂丘のなだりさながらに細かきひかり地を摺りてとぶ
傾ける日に照らされて風のなか人光りゆく海橋の上