歩道叢書(平成 その5)

    歩道叢書(平成 その五) 

  
沙羅の花(平成八年)  浅沼恵子
娘らの住むマンション訪へばいささかの緑地のありて沙羅の花咲く
わが手にて人工呼吸せしこともつひのむなしさ子の息の絶ゆ
いくたびの地震に陸となれる寺舟を繋ぎし石残りをり
しあはせの象に若きら乳母車押しをりみどり児春日にねむる
支払ひの長きことなど聞きしかど吾ら老づく嘆きは言はず


  
樹 韻(平成八年)  藤原チカ子
摘花作業しつつさびしもとめどなく流るる汗に膏薬匂ふ
収穫の後の撰別に追はれつつさながら蜜柑のために働く
足癒えて来し山畑は沁む如き蜜柑の花の香にしづもれる
涙脆くなりて話題を変ふるなど逝きたる兄の事にこだはる
村を去る老婆送りし桟橋に今日は若者の遺骨を迎ふ


  
立 冬(平成八年)  伊藤いく子
思ひまうけぬこと世にありて犬猫の月賦販売の広告哀れ
化石のごとをりたる蟹のおもむろに長き脚たてて岩を離るる
病棟の廊下を運ばれゆく媼ゆあみの後の顔かがやきて
人工動脈に恙なく血は巡りゐん夫の命運おもふしばしば
午後五時を待たず雨戸を閉ざすなど立冬すぎしころの寂しさ


  
春 雷(平成八年)  石井伊三郎
在りし日のみ声をテープに独り聞く春雷の長く轟く夜半に
数百の自転車置かれある広場日を反すひかり幾すぢも立つ
照りつくる日の陰りきてゴビの涯黒き竜巻天に連なる
運命といふ語を思ひ生と死を分ちし浜に夕光を浴む
友ら果てしオレンジビーチといふ浜に光る珊瑚の破片を拾ふ


  
杏 花(平成八年)  木村とし子
梅すぎし庭にたちまち杏咲き季ゆく早しわが病める間に
中年の主婦の職場にかよふもの諦めに似し心優しさ
積む雪が街音を吸ひてゐるごとき夕べ静けき巷過ぎ来つ
最北の大学にして永結凍土研究所ありリラの花咲く
菜園につちかふ野菜持ちて来る息子とならん青年を待つ


 
 聴 濤(平成七年発行)  由谷一郎
春一番あれし後にてさやかなる濤音きこゆ断崖の下
高波を見んと来し丘(しほはゆ)き風になだりの青萱なびく
ほとぼりのなかりし遺骨のことをいふ悲しみ日々に深からん妻
鍛へんとする足ならず道のべに憩ふ石あればそこに安らふ
血糖値計りゐる妻よ二人にて過ぎん斯くのごと閑かなる日々


  
黄 髪(平成七年発行)  杉山太郎
孤独なる日々を守らん老いし身のめぐり朱に染め弁柄を刷く
老年の一日一日をつつしまん感恩のためみづからのため
戦傷のなごり病のなごりなどとどめてわれのからだ老いゆく
沈黙を要約としてうつしみの自浄作用を日々待つごとし
いましばし世にありたしといふ願ひ持ちて或時不意に終らん


  
落 慶(平成八年)  下原太
白砂の清き底ひにとめどなくゆらぐ網の目のごとき波影
浅き瀬をしきりに踏みて海猫ら水に小海老など浮かしめて喰ふ
職ひきて心まづしく日を経つつ妻に負ふのみの年暮れてゆく
峡とぢし霧うつろひて現ともなき竹群の霧氷しづもる
改築にかかはりて三年本堂の棟木上りゆく涙ぐましも


  
家 居(平成八年)  伊藤妙子
国の利益負ひて日本を批判する生徒らの鋭き声にたぢろぐ
人群るる市場の魚のにほひにも夕べ思ほえぬ安らぎのあり
日の入りて冷えたる庭に輝きのかたちさながら石蕗の咲く
梅畑に朝の雨の降りそそぎ厳かに今日の一日始まる
南天のかすけき花がつゆ曇に咲きゐて稀の家居のどけし


  
備後表(平成八年)  田丸英敏
人葬る家の表に飾られし白木蓮は夕べに開く
墓石も戒名すらも生前に自ら用意し父は死にたり
仕事場に冬至の日ざしとどききて畳に吹ける霧の光れる
かつぎたる畳を途中置くまでに指先乾く冬ふかまりて
朝日背に畳縫ひゐるわが影が備後表に黒く映れる


  
稲あかり(平成八年)  五嶋恵子
出でし穂の空穂となれる寒き田に空暗くしてなほつづく雨
けふひと日稲刈りしかば暮れ残る稲のあかりに酔ふごと帰る
それぞれの思ひのありて針運び炬燵に声なく姑と向き居つ
さへぎれるものなき冬田地吹雪は白き炎となりて過ぎゆく
死にし牛山に葬りて来し人ら冷えしビールを飲みて声なし


  
花の山稜(平成八年)  有賀信夫
深田久弥終焉之地と書かれたる古き木柱単純に立つ
山へ向ふわが前うしろ人のゐてあかとき闇に声の聞こゆる
雪解の水音立てて流れをり白山子桜の群れ咲く平
盛り過ぎし深山霧島うら寂し雨に降られて久住を下る
妻も勤め持つ故けふも店やもの取りてわびしき夕食終る


  
雪輝く(平成八年)  福士修二
戦の最中も破れし後の世も機関士として吾は勤めき
四十年の勤果してわが帰る雪の輝く如月の朝
運転する吾も電車ももろともに傾きし日に照らされてゐる
雪のため速度落ちゆく気動車をはげまして吹雪く野を運転す
吾に来るさだめの如くこの年に友ひとり逝きまた一人逝く


  
花の香(平成八年)  菅原雨耳(ゆに)
一唱に八十億劫の罪消ゆと杖ひくあしたかすみ明るし
修正会につつしみ供ふる仏飯ははじめて炊きし凶作の米
月のなき夜半歩み来て家々の門に自動車の眠れるごとし
現とも夢ともつかず眩暈する病のなかにわが命あり
手の数珠にあまねき光集りてわが手に仏生まるるごとし


  
知 命(平成八年)  後藤健治
七十二歳になりたる母は籠の中に魚を入れて行商に行く
わが病と妻の病とこもごもに十年子なく耐へて来りし
ひとり住む部屋寒くして雨の降る今宵ひしひし人の恋ほしき
春寒に痛む項を揉みくれし母なりその身に癌ひそみゐし
早春の息吹に触るる旅したく頸の痛みよしばしだに和げ


  
夏野菜(平成九年)  平野里子
朝早く卵を産みぬあはれみて潰さんとせし眼を病む鶏が
子に関はり苦しむ時に九州に離り住む夫いよいよ遠し
大根を間引きて廻り夕づけば蟋蟀の声さだかになりぬ
稲穂刈りし石鎌見つつ吉野ケ里の遺跡親しもいね作るわれ
われ癌の疑ひ晴れしを記念して飯豊山荘に熊汁を食ふ


  
夏の空(平成八年発行)  杉原敏子
物忘れ激しきなどといふまじき務ある身のつつしみとして
どくだみの白き小花に薄明りたちてしづけし梅雨の夕ぐれ
病気とは即ち痛み耐ふることベツドに正座しひたすらに耐ふ
湖に向き御厨子開かるる浮御堂秋さはやけき風の通はん
夜のテレビ六千百余の死者を告ぐ寒の昴は天に光りて


  
彗星痕(平成八年発行)  箕輪敏行
木星に衝突痕が黒々とわれはいふべき言葉を知らず
百三十年軌道めぐりて彗星が今宵はわれの視野にまたたく
五十年気象計りて来しわれか百葉箱の前に満ち足る
雨を乗せ台風刻々と迫るとき整備おこたりなしわが雨量計
漸くに土持上げて豆芽吹き畑は立夏の光あまねし


  
浜 砂(平成八年発行)  丸山信子
ふるさとを思ふよすがに雪どけの水おと樋に耳よせて聞く
わが店にしばらく来ざりし少年が声太くなり菓子買ひに来つ
仕入する菓子代金など思ひゐつ掌かわき覚めしあかつき
きりぎしに傾く松がやむを得ぬ形に長き根を谷に垂る
山吹の返り花咲く道をきて黄の色めでし先生を恋ふ


  
山べに向ひて(平成九年)  石田俊子
礼拝のしじまのうちに聞こゆるなりきれぎれになく昼の蟋蟀
開けたる平に並ぶ養蜂箱嵐のあとのいまだ静けし
退職ののちの暮しを考ふる暇なきままその日近づく
定年になりたる姉が留守居して明るく点るわが家の窓
眞夜さめてひとり激しく咳するにただ静まりて向ふ人なし


  
白 花(平成九年)  岩岡恵美子
はびこりし道のすべりひゆに思ひ出づこの草食ひし戦の日々
蝉の声今日まれまれに聞きしかどすでに夕べの風は秋風
降る如く落ちくる熟れ実拾ひつつ杏のジヤムを作るあけくれ
薄き日ににほふ杏の花の下君の柩の今出でてゆく
胸薄くベツドに臥しつつ差し出だす姉の細き手わが掌に包む


  
さちくさ(平成九年)  斎藤縫子
小舟より揚ぐる若布は暑き日の砂にあらたなる潮の香はなつ
階段を人手を借りず降りしことけふの変化と思ひ灯を消す
寝ねがたく杖きしませて非常灯火の光とぼしき範囲を歩む
子の家に来て山茶花の咲く庭にひかる幼の髪を梳きをり
三昼夜時化つづきたる海丘の雪けばだちて鋭くひかる


  
春 灯(平成七年発行)  斎間万
安らげに目を閉ざされて苦しまぬ妻の生と死(さかひ)なく逝く
静かなるいまはと思ふみとりして日に夜に居れば涙こぼれず
おふたりが神酒拝受の頃かとも賢所のながく静けし
祝ぎくるる卒寿といへど永遠の命のなかのひとときと見ん
昼食の箸とる今は水星が太陽面を通過してゐん


  
海 霧(平成八年発行)  大和田葉子
たも網に量感重く運ばるるわらさ見て立つ市場の岸に
産卵の為に寄り来て梅雨の日の磯にもみあふ草河豚の群
耳遠くなりたる母にねんごろに告げゐる幼の声のやさしさ
肩の腫れ眼のかすむ歎きなど受けとめくるる母ありがたし
やはらかに茅を銜へし鳶一羽巣づくりするか崖下をすぐ


  
機の音(平成九年)  夏目冨美子
作業衣につきし綿埃匂ひつつ一人夕餉の支度を始む
朝暗き午前六時の工場に織機二十二台動きはじむる
現状のままに残るは難しとふわれ長らへて布を織りたし
従業員みな断りて夫とわれ二人に守らん広き工場
三十余年機織ることを誇り来て五度目の危機に今立ち向ふ


  
磯ぎく(平成九年)  栗原くに
海光をゆたかに受けし岩磯のひまに咲き満つる磯菊の花
久々に売場に立てば洋服の匂親しくこころのはずむ
耕せば旱の畑に舞ふ黄砂耕作機も人も見えずなりたり
台風にみのらぬ畑のもろこしを焼く香ばしき野の道をゆく
枕辺に鉄道唱歌の歌詞をおき九十二歳のわが母が臥す


  
み翼のもとに(平成九年発行)  小林慶子
覚悟せし永別ながら天かけりゆきたる夫になほすがりたし
言に出でて言ふべきことをためらひて独りの心底ごもりゐつ
わが好むしだれ桜のみちみつる花を待ちゐつ老のこのごろ
結婚をまぢかにひかふる孫の声ある時はづみある時しづむ
復活祭もま近くなりて主のみ名をとなへ祈らん朝に夕べに


  
積 日(平成九年)  古賀雅
一斉に辛夷(こぶし)の花のゆらぐとき夕日みだれて大樹音なし
幾百の蛍の等しき点滅に谷に一瞬の暗闇のあり
(さち)薄く若く逝きにし兄のこと心落ちつけばさらにさびしき
歳晩の病棟には人まばらにて身内わづかになきがらに添ふ
つきつめて思ひしことも時を経て樹の間をもるる冬日のごとし


  
雪あかり(平成九年)  水津正夫
竹むらの中より見ゆる藁ぶきの家しづまりて障子が白し
雨となる空重々し裏畑の花つけし胡頽子(ぐみ)が風にゆれゐて
山ひとつ越えたる駅をいづる汽車しづかになりし夜にきこゆる
歩みゆく砂丘のおもて明るくて浜晝顔のつつましき花
歩み来しここの川原に消えのこる雪をさびしむ月の夜にして


  
生 家(平成九年)  安田恭子
温もりのいまだ残れる亡骸はわれの命を給ひし母ぞ
その未来に負担とならんわれと思ひ離りゆく子を肯はんとす
遥かなる大地の続くひとところ砂漠は緑地を厳しく分かつ
半月の砂漠の旅より帰り来てわが眼次第にうるほふごとし
廃屋となりて日を経るわが生家ふたつの井戸に水涸れず湧く


  
菜花爛漫(平成十年)  田辺誓司
わが心和ぐとし思ふ一つにて時計をはづしたる腕かるし
流暢なる言葉が現代を反映す多量伝達のためのみの言葉
わがうちに重く流るる粘体のごときがありてこの風邪癒えず
幼子にある決断をせしめたるわれの非力にこころの疼く
何するとなくふるさとに帰りつつ去るものを追ふ心にぞ似る


  
氷 湖(平成十年)  鎌田和子
陰影の定かならざる地下街に人の往来ただよふごとし
起伏して海につづける枯れ葦の営み終へしものの明るさ
舞ひあがる八瓩のからだ軽々と見ゆるは鶴の脚長きゆゑ
湿原のむかうに釧路の街かすみその果あはく冬海ひかる
遠く来し思ひにひたりわが居れば乾坤(けんこん)雪に暮れゆかんとす


  
藍の香(平成十年)  山口さよ
風凪ぎし一日夫と田に出でて濡れて重たき藁塚を解く
端末機の誘導ランプに指示されて意志なきままに動くわが指
唐突に逝きたる姉の培ひしハウス苺の熟れて香にたつ
三十五年共に住みきて嫁姑の意識はすでに何時よりかなし
生葉にて染めたる布を広げゆく晩夏の庭に藍の香たちて


  
回送電車(平成十年)  中村達
広き池のひとかたに寄る水草は水面よりも白く輝く
ふらふらになれど媼は満ち足りて月読の山詣でくだり来
「飢餓の子を狙ふ禿鷲」を報じたる写真家若き命絶ちたり
妻をらぬ午後幼子は部屋に来てわが肩にふれ出でてゆきたり
水槽にねむらぬ鯉が夜のふけに含みては吐く石の音する


  
韮の花(平成十年)  磯岡澄
憩ふ場のなき街を飛ぶ白鳥がわが上めぐり利根川に帰る
職退きて虚しく過ぐる秋の日に庭に蒔きたるパンジー芽吹く
汗たりて夫と打ちたる裏畑の土塊今日の雨にうるほふ
裏畑に白際立ちて咲く韮の花きりをれば強き香のたつ
母の字にて大切なものと書きてある兄の戦死の公報出で来


  
蔦紅葉(平成十年)  水越とし子
わが義母の享年きざむ墓碑あはれ現身われの齢にひとし
憂もつわが日々なればみづからを励ましゐつつ口紅をさす
春浅き千石河岸の海晴れて半島二つのびやかに見ゆ
山に入る大山参道暮れゆきて遠世のままに道しるべ立つ
ひかり澄む秋日となりて家のめぐり塀いちめんの蔦紅葉照る


  
片曽根山(平成十年発行)  渡邉貞男
したたかに降りたる雨を境とし紅葉深まる片曽根山は
出穂のたくる稲田はむし暑き一日の名残とどめて暮るる
強かにあがる地熱に照り続く畑打ちをれば眩暈もよほす
冴え渡る月の光に照らされて歩む舗道の反照まぶし
棟梁となりて采配振ひゐる孫ひたすらにして涙ぐましも


  
潮いぶき(平成十年発行)  松井千代
千里浜を雨雲ひくくおほへりと思ふいとまに通り雨過ぐ
覚めをれば昼夜なく顕つ不快なる幻影はわが病む眼よりくる
衰へし眼もて培ふ花々や朝々会ひて心をのぶる
帰省せる息子が篩ひくれし砂たちまち乾く夏の夕ぐれ
柳蘭の群生赤くそよぎつつアンカレツジ空港に夏の雨降る


  
飛行船(平成十年発行)  駒沢信子
昼過の日のした進路をかへてゐる飛行船孤独にたまゆら光る
洞内に潮のうねりの入りてより轟くまでの静寂深し
十一階のわが部屋のうち水平に光をのべて冬の日沈む
からまつの林にとほる春蟬のこゑはこれより年々の音
みづからのため学びつつ十余年経て心理士の資格授かる


  
海 螢(平成十年)  鈴木千代
釣られ来し烏賊は幾度も色を変へ光る命の忽ち凍る
年老いて好みの違ふ子とわれら夕べの食事もそれぞれに食ふ
冬の日の信号灯にいくばくのぬくもりありや雀らのよる
街中にさくら落葉の吹かれをり還る土なき舗装路の上
ゆくりなく夫と釣舟に海をゆく老の一日の営みのため


  
五郎沼(平成十年)  菊池順子
をとめごはわれに体を押しあてて若き日のことひたすらに問ふ
嫁ぎたるのちの運命おもひをり二十四歳の子の肖像画
弟の持ち来し新米頬に当つ父母ありし日のよみがへるまで
わが家より飛びて生えたる紫蘇の実が秋の空地に丈高く立つ
午睡より覚めつつさびし切実にわれの待つものなき歳となる