歩道叢書(平成 その4)

    歩道叢書(平成 その四) 

  
清 夏(平成五年)  黒田淑子
反照に北窓明るくなりたれば置かるる壷の声聞く如し
朴の葉の若き緑は怖れなき未来をもちて風にそよげり
降誕日の祈りのために乗り継ぎて来し盲人の四人を送る  
(「祈」は原作では旧字体)
湖に沿ひつつくれば夕闇にあかりともさぬ家々多し
大杉の間ひよりもるる日の光厚き苔の上蝶とぶごとし


  
寒 椿(平成五年)  松木光
わが母のかたみの着物よそほひて母のせしごと虔しくをり
卒業後五十年を祝ふクラス会出席わづか三名となる
風強き岬に建ちしいしぶみに夏の光はためらひもなし
医師なればみづからの患部知り給ふこの当然をわびしと思ふ
百日紅の色あせゆきて晩秋の空澄みわたる寂しきまでに


  
凍 河(平成六年)  片上弥重子
白系露人らこぞりて祈る声きこゆ青くかがやく凍てし河面に
引揚者押し合ひ乗れる無蓋車に曠野の月照り幼児眠る
切りたばね抱へゆく青葉香る時ひしひしと亡き夫が恋し
鰯雲に茜移ろひ暮れて行く月あはあはと光りそめつつ
日すがらに風吹きあれて石蕗の花は落葉の中にしづまる


  
身 辺(平成五年)  佐藤志満
この空の下いづこにも夫なしはかなくをれば雪落つる音
亡き人のうとみし葉牡丹植ゑ込みて遊歩道最も寂しき時ぞ
爽やけくひたすら生きし君逝きて夫世にあらばいかに嘆かん
年変りふる雨多き寒の日々突然の雪また雨となる
小鳥にても思ひ出ありや枝伐りし泰山木にあらはに止る


  
浜 道(平成六年)  川上あきこ
時化となり寄港する船多ければ聞きなれぬ言葉けふ町に聞く
装備せるもの悉く外されて漁礁とならん船暗く泊つ
退職の日の近づきて身辺の整理に暮るるあけくれむなし
長江の水をひきたるクリークの流るる岸べ桐の花咲く
母の負ふ確執即ちわが上に及びて日々に越えねばならず


  
遠き花火(平成六年)  黒岩ユウ
卒寿なる母と隣りて眠る夜幾度かその寝息うかがふ
玄関に置きたる夫の桐の下駄折々履きて庭を歩めり
残しゆく汝が気がかりと逝きし夫ともし火の如く心にいだく
本二冊ラジオを手もとに並べ置きひとりの長き夜を迎ふる
暖かき野菜室より取りいだす馬鈴薯の芽ほのかに赤し


  
高 島(平成五年)  水津正夫
ここよりはなぎし三里の海へだて高島は見ゆ夕光の中
火のごとく櫨もみぢせるこの峡に迫りし冬の気配の動く
さながらに土に紙片を置くごとくむくげの花が朝庭に散る
宵早くのぼりし月は梅雨空のくもりに乱れ炎のごとし
冬深む安蔵寺山はおごそかにもみぢせる山の果に見えをり


  
砂漠の月(平成五年)  荒木千春子
楔形の文字彫る煉瓦神殿のあとかたのなき丘に拾へり
水澄みて底の荒石あきらけき死海にわが身たはやすく浮く
送水を今も続くるセゴビアの水道橋ロ―マの築きたるもの


  
阿仁川(平成六年)  高嶋昭二
阿仁川のゆたかなる水静かにて月の光のふりそそぎゐる
丸太つむ高きところより雪とけて水滴となり光おちくる
日ごとわが娘の足腰痛むことその母いかに悲しみゐんか
娘より果物などを頼まれて妻の喜び受話器に響く
人体に医の限りあり意識なき四時間つひに娘逝くなり


  
冬 濤(平成六年)  巻口省三
あらはなる幹ことごとく片側に吹雪はりつく砂丘の松は
児童らの常と思へど配慮なく言ふことば時に残酷となる
障害をみな持つ子らをわが連れて野の道歩く訓練のため
うす紅き靄たつごとく砂丘に桃咲く一年の最良の日々
海越えて多くは佐渡へ渡るらし残る海猫寂しらに飛ぶ


  
たかむら(平成七年)  鎌田昌子
誘へるものあるごとく対岸の槻の黄葉は午後散りやまず
雪のうへに雪積む音のしづかさや午後城跡の水のへをゆく
高原の橅の林の木下闇まぼろしのごと蝶の飛びゐる

移り来し青き畳のしらむまで月光あらき夜半に荷を解く
さきがけて世を見し人のはかなさや高野長英獄中日記


  
花明り(平成六年)  佐藤和子
花明りわが乗る電車におよぶまで入日に桃の花咲き盛る
消灯後音の絶えたる病室に空ゆく雁のかすけき声す
みだれ降る雪に紛れてゆふぐれの病棟の空白鳥のとぶ
暑き日のなごりは靄にこもりゐて青田にみつる稲の花の香
水疱瘡癒えし幼子湯浴みして眩しきまでに灯にひかる髪


  
百合の咲く庭(平成六年)  大橋美恵子
苦しみも悲しみも死に帰するべき当然を思ひ墓にわがゐき
母のなき日々に家族ら慣れてゆく我亡き後もかく過ごすべし
降るごとき星の光が限りなくつづく林檎の畑にしづむ
涙して眠り涙して覚むるなり眠りは唯一のわが救ひにて
なつかしく黄の石蕗の咲きそむる夫の逝きてかへらざる庭


  
はるあきのこと(平成六年)  長澤郁子
軟膏に薬を入れて練り直す暑き昼故手ごたへもなし
雨降りて空気うるほふ薬室に薬包紙吾の手にやはらかく
休日の昼のしづけさ何もなき郵便受に陽が遊びゐる
山上のまばゆき光ともなひて重き鎖の如く滝落つ
遠くまで信号は青夕ぐれの鋪道息づくひとときがあり


  
河のほとり(平成六年)  内藤春子
日のぬくみ残れる空に淡々と光を持たぬ月の見え居る
昨夜より吹き出でし風夜を通しわが窓を打ちわが心をも打つ
若き日に学ばざること学ばんと街に出で来て古書を購ふ
限りある命と思ひ何気なくふるまひ居れど言に出づるも
土鈴など小さき物を商ひて老いし二人が店に座れる


  
しやがの花(平成七年)  田口克子
短日のはや傾けば鋤き起す土くれなべて小さき影曳く
屋敷木に日すがら風のすさぶ日は姑と物縫ふ縁に並びて
手を取りて爪切りやれば幼子のごとく素直に姑は居給ふ
薬飲みて寝にゆきし夫の咳がきこえずなりぬ眠りたるらし
晴れし日は屋敷掃除に日をくらすわが歳晩の慣例として


  
舞羅戸(平成七年)  伊与田愛味子
舞羅戸を開くればほこりたつ厨辺に火吹竹あり吾が生れし家
おごそかに晩夏のひかり庭にみち百日紅はいまだ咲きつぐ
午後三時すぎし光を浴びながら蓮枯れて立つ水は輝く
さくら散る夕べいかづちに伴ひて屋根うつ雹のはげしき音す
曇日の秋吉台に野火燃えて笹はぜる音天にみちみつ


  
漁 火(平成七年)  中村忠司
貧困に若き日過ぎて故里を出でし日思ふ雪降る今宵
峠路を見下す海の漁火は父なき幼のこと思はしむ
無人駅のホームに暫し憩ひをり時の止まりし如き故里
山峡の荒畑に残る柿の実の朱く凍りて朝の日に照る
亡骸を楯とし積みて戦ひしバターン岬に今しわが立つ


  
伊勢の国(平成七年)  松本一郎
警邏する衛士とわかれし池の岸明滅青く螢とびをり
朝の御饌をへしみ苑の霧のなか三光鳥のひととき鳴けり
火鑚具にきりし忌火の熾りつつ蒸籠より湯気の上るあけぼの
冷気緊る夜半の垣間に献饌の楽滔々と流れ出でたり
三献の御酒そなふれば千歳の雅楽のしらべ遠世のごとし


  
川 風(平成七年)  樫井礼子
夕日さすこの高原にふりむけばわが歩み来し草光あり
利根川に夕風ふけば葦の葉のすれ合ふ寂しき音高くなる
一人居のわが住まひにてガラスなど姿の写るもの安からず
わがうちにすでに命の果てし子を超音波映像写して示す
寄りてくるをさな抱けば伝ひ来る胸の鼓動は平安の音


  
小 風(平成七年)  飯塚和子
丘の上のひろき宵空あるとしもなく雲あれば月の入りゆく
宵の地震つよくすぎしが時たちて空にすさまじき満月光る
老人を負ふこと終へし境遇をわが思ふとき心つつまし
家出づる用なき今日の秋の空かなしきまでに晴れてかがやく
道の辺の夏蜜柑の木に冬を越すあまたの黄の実日々変化なし