歩道叢書(平成 その3)

    歩道叢書(平成 その三) 

 
 旗 雲(平成五年)  吉田和気子
父に夫にしたがふ転任二十七回数へて寂しわが半生涯
わが支ふる(はし)()に兄が無花果をもぎをり五十年以前のごとく
目を凝らし見る海峡のくらやみに潮濃厚に流れつつをり
いのち絶えひと夜を経たるわが母の髪にうつしみのにほひ残れる
死を以て休したまへる先生か衝撃ののち閃きおもふ


 
 朱 雲(平成五年)  井上栄子
いさりしてゐる船ならん夜の海に映りて赤きその灯のうごく
やうやくに島のはたての海暮れて空おごそかに朱雲のこる
作りたる野菜をさげてわが家を訪ひたまふ義母九十を過ぐ
コロツセオの石古りし壁に生ふる草冬の夕日に見ゆるひそけさ
わが母の植ゑて逝きたるそら豆を夫ともぎをり山の畑に


 
 硯 滴(平成五年)  大越美代
田の原のすでに穂はたつ道をゆく病む父母に待たるるわれは
韮の花韮の香をもつ当然を雨降る庭に摘みて寂びしむ
夢の中に聞きしと思ふ雨のおと風吹く朝のうつつに続く
茫々と視界昏みて降る雪の中にきこゆる海猫のこゑ
離れ住む夫は如何にゐるならん硯滴(けんてき)凍りプリムラ凍る


 
 旗のある風景(平成五年)  菰田康彦
清潔にあり経し交遊を過去として蓬髪の吾と指白き汝
桑を摘む提灯が夜霧に見え居りて故郷に来し安息のさま
冬海に対ひて朝の襁褓干す小さき村を汽車は過ぎつつ
安逸をむさぼることを最大の目標として吾は働く
六月の空にはためく赤き旗強者となりし集団の旗


 
 喜 寿(平成五年)  開原翠
取り込みし洗濯物に雪虫のいくつとまりて静かに動く
心電図一直線になりしとき医師はカルテに時刻を記す
思ほえず涙出で来ぬこの道は亡き夫好みて歩みしところ
道しるべふいに消えたるおもひして夏空寒し雲の流るる  
(佐藤佐太郎先生)
老い一人住むにはきびしき雪の町かこちつつまた冬を迎ふる


 
 湾 橋(平成三年)  青田伸夫
対岸の油槽も赤き湾橋も潮に煙りて夕ぐれとなる
雨空を鳴きつつ降りくる雲雀つち近くして声のみだるる
さかりゆきし娘の椅子が食卓に余剰の如くあるぬあけくれ
母の柩出でしこの家引揚のリユツク背中にわが出でし家
(はし)る北の海辺に荒し男が火を燃やしつつ船底を焼く


  
池 畔(平成四年)  長坂梗
子をつれし四十雀鳴くやはらかき声を今年も生きてわが聞く
かかる日に亡き人近く思ほえてわが仮の世の庭に雪つむ
おのづから口閉ぢしとき息絶えて静かなりけり母との別れ
蜘蛛の巣に吹かるる蟬の羽みれば短く生きてかかる死もあり
この窓に見えぬ月より来る光真珠やしなふ入海にさす


 
 豊 坂(平成四年)  磯崎良誉
妻と娘と老いゆく吾とのあやふくも保つ平安守りたまはな
かすかなる喜びそこにあるごとしシユークリーム売るケース明るく
わが庭に朝々鶯が鳴くといふその声きかず老いしわが耳
凍みとほる夜半の厨に手を洗ひいふべくもなく心なぎたる
悲しみは悦びに似る悲しみを一生負ふ妻のかたへに生きて


 
 青き笹(平成四年)  北舘迪子
山畑の桐を覆ひてをやみなく昨日も今日も雪降りつもる
冬の日の淡きテラスに割きながら芯うつくしき白菜を干す
梨畑に雉子啼きをりて夕暮の晴れたる空に水色の雲
雷のかすかに鳴るを聞きながら明日の着替の単衣とり出す
やはらかに牡丹とぢたり夕光に沈む葉群のかげりしたしも


 
 花 穂(平成四年)  岩沢時子
幼らにまじりて夫の声聞こゆもらひ受けたる仔犬のめぐり
大きなる楓よりくる木洩日もただなつかしき父母の家
あわただしく九月の来れば雑草の花穂ぬき立ち風に戦げり
降り注ぐ五月のひかり椎の木の夏の落葉は今盛んなり
なつかしき音とおもへば八月の黍の畑に夕風わたる


 
 海 峡(平成四年)  柿沼高雄
夕曇る海峡にして鬱々と潮せめぐ音ここに聞こゆる
火葬場に浄めの酒を飲みてよりにはかに熱き涙あふるる
地下室に一日働き日中の暑さを知らぬこともさびしき
かく耐へて何につながる歳晩の夜あたたかく庭に降る雨
海岸に沿ふ家あひに墓ありていづこもさびし人のいとなみ


 
 葛の花(平成五年)  石川雅子
疾風にひと日揉まれし篁にたゆたふごとく残る夕光
わが生れし家と嫁ぎて四十年経し家が見ゆここの丘より
幾万の蚕の眠りゐる部屋は眩暈するまで桑の香の満つ
とりわけてふかきかなしみなく過ぎしわが過去善を積みしともなく
目に見ゆるものみな清き峡の道咲くえごの花匂ふ卯の花


 
 笹 舟(平成五年)  草葉玲子
ひとときに七千の鶴飛び立てば影暗き田にわが身はゆらぐ
なきがらと帰りゆく野は一面の金鳳花の花風にそよげる
激ち降る雨を集めし水無川岩もろともに濁流下る
噴き上る煙は煙を噴きながらたちまち暗し島原の空
さし交はす枝に新芽の輝きて退院今日の丘あたたかし


 
 旅 空(平成五年)  堀内泉
検診のフイルム読影終りたり短かき夜の明けそむる頃
かにかくに命たもちて日をふれば痺れし手足癒えゆくらしも
濃霧まく嶺のあたりにとどろくは斜面をすべる雪崩の音ぞ
アドリアの海風あらく折々にサンマルコ広場波しぶきとぶ
貧しさに国の力のとどかざる辺地の人らただに病み臥す


 
 野 川(平成五年)  池田俊彦
われと共に銃とりし彼のつはものら今いかにして老いつつあらむ
をろがめどつひに心はやすらがずいくたびここに涙せりけん  
(賢崇寺)
昇りゆく日に煌けるガンジスの大き流れに人ら入りゆく
カンナ咲く坂の道にも灰積り昼うすぐらき鹿児島の街
風邪の熱やうやく引きし昼下り冬日しづかに部屋を照らせり


 
 風 紋(平成五年)  近藤清子
村一番長生きの人の葬列が冬日あたたかき畑の道ゆく
時間帯の同じき夜の潅水に尾根上る灯が畑より見ゆ
夫病む部屋に新年の日のさして黄の点滴の雫おちつぐ
或る時は逝きし夫と共にゐる如く思ひて蜜柑を運ぶ
予後の身に食ひ入るごとき百俵の石灰撒きていよいよ痩せぬ


 
 桐 花(平成五年)  安原松枝
次々に梢をゆらしうつりゆく朝風のなか芙蓉花咲く
この年に菊作り得し健康を感謝して七十歳の秋暮れんとす
ながらへて今年見上ぐる桐の花その紫は心をいやす
霊安室にはこばるる前わがふれし夫の腕のやはらかかりき
雪虫のわが目の前を飛ぶ見つつすこやかにしてこの冬越えん


 
 晩 花(平成四年)  安嶋彌
権勢なき吾に()びたる年賀状豈かりそめのものと思へや
芦生ひて面静かなるみづうみは夜ふけてなほ水明かりせり
秋ふけし十三夜の月に雲かかる病むすめらぎも見給ひしとふ
とことはに言問はずなり給ひたり御霊はすでに天がけります
あすの日に手術をひかへ夜ふけし湯舟に浸り身を浄めをり


  残 心(平成五年)  森田貞子
みづからはうつしみゆゑに罪ふかし二十年夫のみ思ふにあらず
亡き人にめぐりあふごと懐かしく前夫の著書の背文字見て立つ
汗ばみしダンス習ひし帰路のつかれすがしく夫と歩む
花穂出でしグラジオラスに副木する吾を濡らしてけぢめなき梅雨
声荒くもの言ふことのなき夫ただそれのみにわれは安けし


  薄 明(平成五年)  十時マツヨ
見え難くして薄明のなかにゐる日々たのめなきわれの余生か
虹彩を切りしと医師のいふこゑの聞こえたるのち深く睡りぬ
皆既食となりし四月の南空病むわが眼にも星光の増す
思ひ来し蔵王の山の茂吉歌碑梅雨晴まぶしく病む眼に読めず
梅雨曇眼の安らげば畑隈に白く満ち咲くどくだみを刈る


  
時 順(平成五年)  中村リツ子
二週間抵抗つづけし子は今朝も他人のごとく顔洗ひをり
つつましく歳累ねたる母なれば土に返りて安らかにゐん
思ほえず子の電話あり夜半すぎにことゆゑもなくわが声弾む
食欲の落ちたる夫点滴によりて一日の命をつなぐ
三十年共にくらしし夫なれば三十年の悲しみ消えず


 
 樹海の螢(平成五年)  村上時子
ただならぬ病か夫は絶え間なき腹痛に身を反りて苦しむ
廃止する日の近づきし塩田の枝条架に今日も潮したたる
わづかなる財ありし故とげとげとして諍へり姑と吾とは
故もなく心に充つる暖かさ青年となりしわが子とをれば
心暗くさまよふ樹海まぼろしに螢は境なくみだれ飛ぶ


  
潮 流(平成五年)  山下泰彦
朝光の今さしそめし砂なぎさ餌をあさる鳶拙く歩む
憂ひなき渡り日和かひよどりの群広がりて島の空ゆく
この島に棲める狸の足跡が砂あたらしき汀につづく
つね酒に酔ひゐし老の葬送に祭のごとく銭を撒きゆく
徒歩獲りの若布背負ひて崖道を島の媼ら這ひのぼりくる